第十六章 水平線の向こうへ続く道
あの倉庫街での出来事から、季節はゆっくりと一巡りした。街路樹の葉は色づき、乾いた風がアスファルトを吹き抜ける。杏里の日常は、以前とほとんど変わらないように見えた。深夜の古本屋のカウンターに座り、時折訪れる客と短い言葉を交わし、そして、週に数度は屋上で璃子と過ごす。
ただ、杏里自身の内側には、確かな変化が訪れていた。それは、まるで地殻変動のように、ゆっくりと、しかし確実に、彼女の世界の見え方を変えつつあった。
屋上で、璃子と並んで缶コーヒーを飲む。璃子は、事件の後、しばらくは塞ぎ込むこともあったが、持ち前の明るさと、そして何よりも杏里という存在に支えられ、少しずつ元気を取り戻していった。以前のように、쉴 새 없이おしゃべりをすることもあれば、ただ黙って一緒に夕焼けを眺めているだけの時もある。けれど、二人の間には、言葉にしなくても通じ合える、穏やかで深い信頼感が流れていた。
「ねえ、杏里」
「ん?」
「私たちって、なんだかんだで、最強コンビじゃない?」
璃子が、悪戯っぽく笑いながら言う。杏里は、ふっと息を吐くように微笑んだ。
「どうだろうね」
「えー、そこは『間違いない』って言ってよー」
こんな他愛のないやり取りが、今は何よりも心地よかった。事件のことは、二人の間でタブーになっているわけではない。けれど、あえて話題にすることもなかった。それは、お互いの心に刻まれた傷を労わり合うような、暗黙の了解だったのかもしれない。
和田恵子からは、時折、短いメッセージが届いた。妹の沙耶は、専門家のカウンセリングを受けながら、少しずつ笑顔を取り戻し、新しい学校にも通い始めたという。恵子自身も、妹との関係を再構築し、穏やかな日々を送っているようだった。その報告は、杏里にとって、ささやかな安堵と、そして、あの事件が無駄ではなかったのだという確信を与えてくれた。
街を歩いていると、ふと、事件の影を感じることが今でもあった。路地裏で見かける、どこか虚ろな目をした若者たち。ニュースで流れる、巧妙化する組織犯罪の手口。都市の闇は、決して消え去ることはない。その現実は、杏里の心に重くのしかかることもあった。けれど、以前のように、ただ無力感に苛まれることはなくなった。自分にできることは限られている。それでも、諦めずに何かをしようとすることの尊さを、杏里は知ってしまったから。
古本屋のカウンターで、一人の老婦人に探し物を尋ねられた時、杏里は以前よりも丁寧に、そして親身になって対応している自分に気づいた。それは、ほんの些細な変化だったかもしれない。けれど、杏里にとっては、大きな一歩だった。他人と関わることは、必ずしも自分をすり減らすことだけではないのだと、ようやく理解し始めたのかもしれない。
再び、屋上。夕焼けが、空と街を茜色に染め上げている。璃子は、隣で小さな鼻歌を歌っている。そのメロディは、以前、杏里が屋上で耳にした、あの拙いメロディの断片に似ていた。
「この景色、何度見ても飽きないね」
璃子が、しみじみと言う。
「そうだね」
杏里は、遠くに見える水平線を見つめていた。アスファルトの海が、どこまでも続いている。その向こうには、何があるのだろう。以前の杏里なら、そんな問いに意味はないと切り捨てていただろう。けれど、今は違う。
その先に何があるのかは分からない。けれど、道は続いている。そして、自分はその道を、自分の足で歩いていくのだ。時には誰かと手を取り合い、時には一人で静かに考え込みながら。
具体的な目標や、輝かしい未来図があるわけではない。相変わらず、世界は複雑で、理不尽なことも多い。それでも、杏里の心の中には、以前にはなかった、静かで確かな光が灯っていた。それは、璃子との絆であり、恵子や沙耶との出会いであり、そして何よりも、自分自身の中に眠っていた、ささやかな勇気と優しさだった。
夕闇が迫り、一番星が瞬き始める。璃子が、杏里の肩にこてんと頭を乗せてきた。シャンプーの甘い香りが、ふわりと漂う。
「杏里」
「何?」
「……なんでもない」
璃子はそう言って、くすりと笑った。杏里も、つられて小さく笑う。
アスファルトの水平線の向こうへ続く道。それは、きっと、一つではないのだろう。無数の道が交差し、絡み合いながら、未来へと伸びている。杏里と璃子は、それぞれの道を、時には並んで、時には少し離れて、歩いていくのだろう。
その道の先に、どんな景色が待っているのか。それは、まだ誰にも分からない。
けれど、それでいい。杏里は、そう思った。
(了)
杏里(アンリ)が璃子(リコ)を救い出したりしたヒューマンドラマ kareakarie @kareakarie
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