第四部

【断章020:サラとワープの歪み】


曲がるのは空間ではない。


我々の理解の方だ。

西暦2239年、地球恒星間探査機カヴァイエスは、


新設計のトポロジカルワープ航行装置によって、


地球時間で3年先にある、赤橙色を呈するK型恒星「エル=アセリオン」へと転送された。


その原理は、人工ミニブラックホールによる局所時空再貼り合わせ操作。


従来のワームホール理論とは異なり、ローレンツ多様体上の開集合をトーラス的に巻き込むことで、


“非連続な測地線短縮”を実現するという理論だった。


● 理論定式化(抜粋)


与えられたローレンツ多様体 (M, g) 上に開集合 U ⊂ M を取り、


そこに対して連結位相空間の貼り合わせ写像 U → U’ を施す。


この写像によって得られる新時空構造 (M’, g’) における測地線(ジオデシック)は、


通常空間では遠回りとなる2点間に“トポロジカルに縮められた径路”を与える。


この空間では、光速制限は局所的に保たれながらも、


グローバルな位相差によって“近道”が生成される。


サラ・アルヴァ=デル=リフはこの実験航行の副操縦士であり、


航行中の知覚異常を唯一詳細に記録した人物でもあった。


彼女の報告には、物理的な異常は記されていない。


ただ一つだけ、皮膚感覚における“周期的振動パターン”という不可解な語が繰り返された。


「それは何かを伝えてくるのではなく、


  わたしの中で“何かが応えてしまう”ような揺れだった」


医学的検査では、


彼女の聴覚野・視覚野よりも体性感覚皮質の活動が顕著だったことが判明する。


しかも、周期変化に対する神経応答が、数学的漸近関数に類似した構造パターンを描いていた。


つまり、彼女は情報を“知覚”したのではなく、“構造そのものを身体的に反応した”のだった。


「数式が“美しい”と思ったことはあるけれど、


  この時は“数式に皮膚が吸い寄せられる”ような感覚だった」


科学者たちはその感覚を「神経的錯覚」と処理したが、


航行記録の中で、サラの操作ミスが空間位相の安定に貢献した可能性が高いと後に分析された。


その日以降、サラは“数学が話しかけてくるような夢”をたびたび見るようになったという。


彼女はそれを「周期の記憶」と呼んだ。


だがまだこの時点で、「周期」や「共鳴」や「律」といった語は、


人類の語彙には存在していなかった。


この航行の終点にあったのが、


アオラセ惑星系――カラエス族が住む、


“詩が皮膚で読まれる”文明の星であることを、


彼女も、まだ知らない。


【断章021:観測レポート——未知の四性文明】


性とは、生物の構造である。


 だが、構造が四つあるとは、誰も教えてくれなかった。


トポロジカルワープ後、HDX-471系第3惑星「AO-R3」(通称:アオラセ)を周回中の《カヴァイエス》は、


遠距離観測によって表層文明圏に属する有機生命体の行動記録を取得した。


高分解スペクトルスキャン、赤外線マッピング、共鳴形状解析などを総合した映像には、


ヒト型に近い四種の体型を持つ知性体が映っていた。



当初、科学者たちは「4つの種族」と解釈した。


だが、行動解析を進めるうちに、決定的な“違和感”が浮上した。


• 四種類すべてが高度な言語的振る舞いを持つ


• 交互に集まり、定期的に空間内で対称的な構成を取る


• 一定周期で“同性ペア”による生殖行為らしき構造が確認される



「同性間でのみ生殖可能である」――


この仮説が導かれた瞬間、観測チームは一時解散。


倫理委員会が急遽設置され、地球帰還時の報告形式が検討された。


しかしデータは揺るがなかった。


少なくとも5万サイクル(地球時間で約2年分)の観測において、


いかなる異性ペアも生殖行動を起こしていない。



さらに驚愕すべきは、


出生した個体の性別が“親の性別と一致していない”事例の多さだった。


これは従来の遺伝的決定モデルを否定する。


やがて提起された新仮説:


“性は、周期的構造に基づいて転換・変容しうる。”



サラは、観測画像を見ながら


ただ静かに「すごく美しい」と呟いた。


誰かが冗談めかして訊いた。


「どの性が、タイプだった?」


彼女は言った。


「性って……この子たちには、“流れるもの”に見える」



その日の観測記録をもとに、初めて本格的な構造文明報告書の作成が始まった。


“異星文明に関する多性別・非線形生殖構造について”


これが、第一部の報告書断章群の起源である。



【断章022:整数を持たぬ文明?】


整数は人類の神話だったのかもしれない。


 この文明には、“数”がなかった。


 ただ、周期だけがあった。

最初の接触は、言語ではなかった。




《カヴァイエス》から送信された意味論ベースの信号群に対して、


カラエス側から返ってきたのは、振動パターンの干渉波だった。


それは“意味”を持たない波形であり、AIは翻訳不能と判断した。


しかし、サラはその干渉波をモニター越しに見て、「規則的に呼吸している」と呟いた。


地球側はこれを「周期言語構造」と仮定し、数理解析を試みた。


だが問題はそこで始まる。


空間構造:トーラス型都市構造と渦状配置

地図:直線距離ではなく“位相距離”で構成されている

カレンダー:日数や月でなく“干渉位相の回数”

生殖サイクル:性別と周期の関係が四次対称性で記述される

観測データにより確定した仮説:


この文明の性構造は、クラインの四元群(V₄)でモデル化可能である。


A × A → B

B × B → C

C × C → D

D × D → A

A~Dは互いに交配不能であり、同性間でのみ子が生まれる構造。


ただし、周期のズレや共鳴度により、子の性は親の性と必ずしも一致しない。


数学班は混乱した。


整数とは何か?


1とは?2とは?


“数”がこの文明においては必要とされていないという事実に、


それまでの数理的普遍性が崩れていく感覚が漂った。


誰かが言った。


「彼らは数を“数え”ていない。


  数は、ただの“周期の名前”に過ぎない。」


その夜、サラは自室で周期的に呼吸が合わなくなる夢を見た。


彼女の皮膚は、自覚のないまま、


通信の波形に“反応していた”。


「私の身体が先に共鳴していて、


  理解は、その後についてくるのかもしれない。」


【断章023:皮膚が理解した夜】


最初に理解したのは、


 私の皮膚だった。


 意味も、言葉も、まだなかったのに。


通信班が諦めかけた未明、


カラエス側から新たな“信号”が届いた。


それは言語ではなかった。


周期的な振動データ。


精度の高い干渉パターン。


持続時間47秒。


数理的対称性は乏しいが、“息継ぎ”のような間合いがあった。



サラはその信号を後から再生した。


彼女はそのとき、


意味を理解しようとは思わなかった。


ただ、音にすらならない周波数の濁りを、


“静かに聴いた”。



その夜、夢を見た。


音のない夢だった。


ただ、遠くで“空間がひずむような律動”を感じた。


その震えに呼吸を合わせようとするうち、


身体の奥が、わずかに応えた。



翌朝、彼女は報告書にこう記した。


「意味はなかった。


  けれど、“違和感がなかった”。


  それが恐ろしかった。」



脳波データには、


空間認識野と体性感覚皮質の連動パターンが記録されていた。


彼女の脳は、


あの信号を「聞いた」のでも「読んだ」のでもなかった。


皮膚が“反響した”のだった。



数日後、科学班のAI解析システムが、


その信号を「ノイズ」と誤判定し破棄した。


だが、サラだけが知っていた。


「わたしの中の何かが、


  あの震えと同じ“周期”で、夜に揺れていた。」



この夜から、サラの夢には意味のない詩が繰り返し現れるようになる。


それはまだ言葉ではなかった。


けれど、彼女の皮膚は、詩を覚えはじめていた。


【断章024:接触――律を送る者】


語られなかったが、語りかけられた。


 意味はなかったが、返事をしてしまった。




観測第3024セッション、


カラエス側から送られた信号は、


明らかに「無作為な自然周期」ではなかった。


周期性、非対称な繰り返し、再帰構造。


振動パターンは意味論的には無意味だったが、


構造的には「期待」と「応答」のフレーズに分節されていた。


通信解析班は即座に反応した。


AI翻訳機構は「擬似会話構造の可能性」を提示したが、


意味はゼロ。


辞書も照合不能。


論理関係も不成立。


しかし、サラはその波形を見た瞬間、


呼吸を止めた。


「誰かが、呼んでいる」


彼女はそう言った。


誰もそれを真に受けなかった。


だが同時に、


彼女の体表皮膚感覚が周期的に収縮・拡張する異常が、


医学ログに記録された。


夜。


サラは再び夢を見る。


今度の夢には、


空間のひずみがあった。


誰かが、遠くから、


「構造で語りかけてくる」。


そのとき、彼女の中で


周期が“応えた”感覚があった。


翌朝、


彼女は何かを抱えて起きたような感覚を覚える。


明確な知識でもなく、感情でもない。


ただ、自分の中に“外部の構造が入ってきた”ような実感。


「妊娠……というには大袈裟。


  でも、たしかに私は、何かを受け取った。」


その日のデータを見た科学班は、


「接触」と記録した。


だが、“何が接触されたか”は誰にもわからなかった。


サラ以外には。


【断章025:我々は理解していない!】


異文明に遭遇したとき、


 最初に壊れるのは、


 “こちら側の理解”だった。



探査船カヴァイエス内、緊急合同セッション。


生物班は「カラエスには性が四つあるらしい」と報告し、


数理班は「性構造がクラインの四元群になってる」とつぶやき、


政治倫理班は「同性間でしか生殖できない」という一点だけに反応して凍った。



そして、AI班が問題の周期信号を「詩である可能性」と示唆した瞬間、


空気が凍った。


「詩って……ポエムのことですか?」



哲学担当が口火を切る。


「つまりあれは“構造としての詩”なのだと……」


「違う、“詩”じゃなくて“周期言語”……」


「いえ、わたしにはあれ、数学的には無秩序なスパゲティにしか見えませんが……」



誰かが言った。


「これ、もしこのまま地球に持ち帰ったら、


 詩人たちが暴れ出すよね?」



場がざわつく中、ひとりだけ、


サラは椅子にもたれ、静かに呼吸していた。


身体のどこかがまだ揺れていた。



「ねえ……」


誰かがぽつりと。


「我々は……これ、まったく理解していないんじゃないか?」


一同、静かになった。


その瞬間だけ、探査船は周期的に“沈黙した”。



● 帰還決定会議


意味が通じない

社会構造も倫理も異なる

生殖も、政治も、数学もズレている

帰還は決定された。


サラは何も言わなかった。


けれど、彼女の皮膚は、周期的に震えていた。


まるで、自分の内側に何かを育てているように。



「あの夜、私は何も理解していなかった。


  でも、“何かが理解していた”感覚だけが残った。


  それが、わたしの始まりだった。」


【断章026:空位のまま、都市は続く】


都市は動いていた。


 誰も命じていないのに。


 ならば、その“命じなさ”を、


 制度にできないだろうか。




サラの帰還から半年。


カラエス観測報告書群は機密扱いのまま、


少数の思想家、制度工学者、神経倫理学者たちの間で読まれていた。


ある制度理論家は言った。


「これは未発達な部族社会ではない。


  構造的に“秩序が命じられていない”ということが、


  文明の意志になっている。」


別の者は笑った。


「誰も責任を取らないシステムが機能するわけがない」


すると誰かが返した。


「いや、あれは“誰かが責任を取っていない”のではない。


  “誰もが、責任を発生させない仕組み”の中で動いているんだ。」


議会で試案されたのは、


かつてない制度設計だった。


判断権を誰も持たない

命令を一切出さない

ただ、周期的な情報流動と“共鳴度”だけが集計される

その制度の“中心”には、誰も存在しない

「つまり、我々は“空位”を制度にするべきなのか?」


それを最初に「空の宰相」と呼んだのは、


制度論者でも政治家でもなかった。


サラだった。


彼女は言った。


「カラエスでは、誰も“座に就かない”ことで、


  その都市が保たれていた。


  ならば、


  私たちの制度も、


  “誰も座らないための座”から始めてみたら?」


この提案は、最初は冷笑された。


けれど、時が経つにつれ、


あの報告書に記された「共鳴」「周期」「詩」「逸脱の回復」――


そのすべてが、制度を命じないまま動かす論理として再評価されていく。


そしてある文献に、こう記される。


「空の宰相は制度ではない。


   誰も座らず、


   誰も否定されず、


   ただ周期が、その場に“在り続ける”ように支える仕組みだ。」


【補遺:空の宰相】


象徴は、いつか腐る。


 だが、空白は腐らない。


 空のまま、それでも支え続けることができるなら。


人類は、命じすぎて疲弊していた。


命じる者を選ぶための選挙。


命じた者を批判するための言論。


命じる権限をどこに持たせるかを巡る無限の議論。


そして誰もが心の奥で、


「命じたくない」と思っていた。


AIは解を出す。


だが、その解を「選んだ責任者」はどこにもいない。


群衆は動く。


だが、その衝動が「誰の声」だったのか、誰にも分からない。


国際会議では、


誰もが地球の未来について語った。


誰もが「共通の敵はシステムだ」と言った。


けれど、その“敵”が不在であることに、


誰も気づいていないふりをした。


そんな世界に帰還したサラが、


報告書の最後に書いたのは、たった一行だった。


「彼らには、誰も命じていなかった。


  それでも、都市は生きていた。」


この一文が、地球の思想家たちに火をつけた。


提案されたのは、


「象徴の座を空にしたまま動く社会設計」。


トップは存在するが、誰もその座に就かない。


決定は誰かが下すのではなく、周期的な共鳴パターンで集計される。


逸脱があっても、


裁かれず、切り離されず、


“構造が再調整される”ことで応答される。


制度の中心は、空白。


その空白に、誰も座らない。


だが、皆がその座を守るために周期を合わせる。


この社会は、まだ現実には存在しない。


だが、名だけはついた。


トポロジカルソサエティ。


そして、その中心構造は、こう記述された。


空の宰相――


 命じないことで、秩序を保つ構造。


 責任を分散し、権威を空白に託す制度。


 それは、命じないことを命じるための、


 最初で最後の命令である。


サラは今も語らない。


ただ、周期的に夢を見る。


夢の中で、


誰かがまだ詩を歌っている。


「誰も命じていないのに、


  それでも都市は続いていた。」


ECHO――カラエスの詩を聴いた者たち。


彼女はその一人にすぎない。


だが、その共鳴は、


たしかに、この世界にも届いた。


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『ECHO――カラエスの詩を聴いた者たち』 Dr.nobody @redsparrow0314

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