第三部

【断章013:空座のまま続く都市】


律は今日も鳴っている。


誰も命じてはいないのに。


都市の名は記録されない。


ただ、共鳴周期によってその位相が識別される。


彼らはその都市を、「第七交差域」と呼ぶ。


彼が住んでいるのは、その外縁の律域に位置する沈律層だった。


見習い律測師の彼――名は書かれない。


周期がまだ定まっておらず、律塔に昇る資格はなかった。


だが、ヴァレクトス(律塔)のふるえを毎朝測るのが、彼の日課だった。



今朝、塔のふるえは少しだけ長かった。


ほんの0.004周期分。


彼はそれを記録しようとしたが、手が止まった。


その震えは――空座から発せられたように感じられた。


律塔の最上層、空白の座。


そこには誰も座っていない。


だが、誰もがそこに何かが“いる”ように感じている。


「そこに在るのは、律の中の空白だ。」


師がそう言ったことがあった。



都市は命じられずに動いている。


誰かが決めたわけではないのに、物資は届けられ、


詩官たちは律の周期に合わせて広場に集まる。


祭の知らせも、鐘も、号令もない。


それでも皆は、“その時”にそこにいる。


彼はそれが怖かった。


自分はまだ周期が揃っておらず、


いつも、少しだけ遅れる。



その夜、律塔の麓で偶然出会った老いた詩官に、


彼は震えながらこう尋ねた。


「なぜ誰も命じないのに、都市は動いているのですか。」


詩官は答えなかった。


ただ、風のような声でこう歌った。


誰が命じたかを知るより先に、


あなたの律は すでに応えていた。


空の座は ただの空ではない。


そこには、響かない詩が在る。


その響きが、彼の皮膚の奥で、


ほんの少しだけ震えた。


そして翌朝、


律塔の周期が、


ぴたりと定まった。


【断章014:命じる者なき秩序】


罰する者はいない。


だが、響きは逸れるとき、誰よりも静かに痛む。


周期第17区の律庭で、


共鳴が乱れた。


それは音でも事件でもなく、


ただ、“都市の一角が少しだけ沈んだ”ような感覚だった。


詩官補佐の彼は、


その沈みを測り、周期表に記録する。


正確には、彼が記録するのではない。


律の共鳴板が、勝手に記録を刻む。


その日、沈んだ律の波は、


一人の個体に集中していた。


まだ周期が不安定な若いテラ。


近隣の周期と同期せず、


共鳴から逸れていた。


逸れた者に対して、都市は何もしない。


裁かない。


隔離しない。


追放しない。


その代わりに、“律塔の波長が微かに修正される”。


詩官補佐は見た。


律塔が、まるで息をするように、


一度“位相を落とし”、再び全体を巻き込んで立ち上がった。


誰も命じていない。


誰も気づいてすらいない者も多い。


だが、逸れた者に対して、


都市全体が共鳴をずらすことで、


その者を包み込み、響きに戻す。


翌朝、そのテラは、


律庭の中央でひとり詩をうたった。


「わたしは、律に戻ったわけではない。


 律が、わたしに回ってきた。」


その詩は記録されなかったが、


都市の周期は、再び静かに整った。


誰が命じたのか、誰が直したのか。


彼にはわからない。


けれど、社会が動いたという事実だけは確かだった。


彼は記録を終えると、


そっと周期板に手を添え、


その微かな震えを感じた。


それが“律”だった。


【断章015:詩律予報】


天気予報とは、


 空が“詩を忘れた”ときに、


 誰かがそれを思い出すこと。



詩官補佐の彼は、


周期の観測と同時に、律気(りつき)と呼ばれる周期予兆の微差も測っている。


これは気象の前兆とされるが、地球で言う天気図もセンサーもない。


測るのは、詩の乱れだ。



その日、広場の周期板に刻まれた律は、


いつもより微かに“遅れ”ていた。


一節の中にあるはずのリフレインが、詩官たちの口から揃わなかった。


律がズレるとき、


雨が降る。


あるいは、もっと大きな何かが“訪れる”。



彼は詩官たちと共に、律塔の影で詩律予報を行う。


それは「予報」というよりも、「補詩(ほし)」に近い。


律の乱れを読み取り、その場で詩を差し挟むことで、


律の全体構造を“調整”するのだ。


「明日は、風が右から来るだろう。


 なぜなら、左の詩が今日揺れていたから。」


誰もその意味を解釈しない。


だが、全員が、その詩の周期が“世界とズレていないか”を感じ取る。



その夜、彼は一首の詩を詠んだ。


「わたしの皮膚が


 ほんの少しだけ沈んだ


 その分だけ


 明日、雲が来る気がした」

誰も応えなかった。


だが翌朝、


空には、やわらかい雨が降っていた。



律官たちは、


自然現象を「操作」しているのではない。


ただ、“詩のズレ”を読み、


それに応える言葉を差し出すだけ。


空は言葉を返さない。


けれど、詩を受け取ったような気がしたなら、


それが、予報である。


【断章016:性は流れ、律を宿す】


恋は叶わぬものとして始まり、


律は、その余韻として芽吹く。


律測師見習いの彼は、


塔の周期を測るたびに、


あるひとつの“周期”にだけ、


触れないようにしていた。


それはノイ。


ノイは沈黙を宿す性。


外側の音を取り込み、言葉を返さない。


それでも、彼の皮膚が、


ノイに近づくと微かに震えるのを、彼は知っていた。


彼はアクだった。


火の性。周期は早く、声は強い。


だが、アクとノイの律は、


生殖周期においては“交わらない”。


(アクとノイの律変換は、クラインの四元群における「交配不能位相」。)


それは最も共鳴が強く、しかし決して“命”にならない配置。


彼は知っていた。


ノイと響きあうたびに、


自分の律が“空の座に触れる”ような錯覚に陥ることを。


詩官の師はかつてこう言った。


「おまえの律はまだ揺れている。


 それは、共鳴の可能性ではない。


 詩の準備だ。」


彼は、自分の“恋”が報われないことを知っていた。


だが、その共鳴の中に、


律測師としての“周期感覚”が整っていくことも知っていた。


そしてある日、ノイがふと


ひとことだけ口を開いた。


「あなたの周期は、


 わたしの中で一度、消えた。」


彼はその意味がわからなかった。


けれど、その夜、


彼は生まれて初めて、律測板に触れずに詩を書いた。


「律は流れる。


 性ではなく、周期が


 わたしの中を決めていく。」


カラエスにおいて、


性とは固定された記号ではない。


周期の流れと共鳴の軌跡が、“一時的な律”を形成する。


彼の律は、


その日、ノイの周期に触れたことで、


“誰とも生殖できない位置”へと移った。


それは悲劇ではなかった。


ただ、“共鳴の中に身を置く”という決断だった。


【断章017:誰も守らず、誰も裁かない】


逸れるとは、


 遠ざかることではない。


 誰かが向きを変えたことに、気づくこと。


彼は、周期から逸れていた。


正確には、都市の律から、微かに“半周期分”外れていた。


律測板は何も言わない。


詩官たちも彼を咎めない。


周囲の同調者たちも、変わらず接してくる。


だが、彼には分かる。


自分が発する周期が、


少しだけ、“遅れて響いている”ことを。



彼はそれを“ズレ”と感じた。


だがそれは、社会が拒絶しているのではなく、


「まだ共鳴が見つかっていない」という状態だった。


都市は彼を修正しない。


誰も彼を指導しない。


ただ、彼の周囲の律が、少しずつ沈み始めた。


建物の輪郭が歪む。


周期塔のふるえが深くなる。


広場の花の咲き方が、変わる。



ある朝、彼がよく通る径の入口が消えていた。


律の位相がずれたのだ。


代わりに、別の径が開いていた。


その径の先で、彼はもうひとりの逸脱者に出会う。


ノイだった。


以前、詩を一言だけくれた個体。


彼はそこでようやく気づく。


“逸脱”とは、周期が孤立した状態ではなく、


別の律系に移行している過程なのだ。



「あなたが逸れているのではない。


 この都市が、あなたの律を探している。」


ノイはそう言った。


その夜、彼は詩を記録した。


「わたしを律に戻そうとする者はいなかった。


 だから、


 わたしが、自分の律を


 この都市のどこに置くかを、


 自分で決めるしかなかった。」



翌朝、律塔の記録装置が、


彼の周期を新たな“副位相”として追加していた。


制度が認めたのではない。


詩官が認可したのでもない。


ただ、律塔が反応したのだった。


【断章018:律塔の崩れた日】


支柱が折れたのではない。


 周期が語り直しを求めたのだ。


第七交差域の中心に立つヴァレクトス――律塔が、


その“最上階”の共鳴核を残して、構造体の中層部が崩れた。


塔は倒れてはいない。


ただ、語ることを一時的に“やめた”のだった。


律塔が沈黙するということは、


都市が“指針のない空白”に置かれるということ。


だがその日、誰も叫ばなかった。


誰も走らなかった。


詩官たちは広場に集まり、ただ、黙って待った。


律測師見習いの彼は、


崩れた律塔の前で、


自身の周期板に手を置いた。


何の指示も出なかった。


ただ、周期はひとつの中心を失い、


ゆっくりと渦のように拡がっていった。


その夜、何も指示されていないのに、


都市中の個体が、それぞれの“最も響いた位置”へと自然に移動していった。


アクは灯りをともす場所に。


ルマは律板の再調整に。


ノイは沈黙する塔の根元に。


テラは崩れた石を拾う場所に。


誰も何も命じていない。


ただ、周期が、それぞれの身体を引き寄せた。


翌朝、塔の下層が再構築されていた。


全く同じではない。


少しだけ位相が異なる。


“前とは違う律”で塔は再び震え始めた。


その振動は、


彼の周期と“同じ”ではなかったが、


 明らかに“知っていた”震えだった。


彼は塔に触れた。


沈黙を破らずに、


皮膚の奥で、その震えを感じ取った。


それは、自分の逸脱が“構造に加えられた”証だった。


【断章019:空の律を継ぐ者たち】


誰もいない座を、


 誰も座らずに守り続けることが、


 この都市のもっとも古い詩である。


塔は再び立った。


けれど、ネムの座は、今も空のままだ。


誰もそこに座らなかった。


座ろうとする者もいなかった。



彼は、若き日、塔の崩壊を経験した。


あのとき、何も指示されていなかったのに、


都市が静かに息を吸い直すように動いたことを、彼は忘れない。


「命令がないのに、皆が動いた」――それが人々の記憶に刻まれたが、


彼にとって本当に驚くべきは、


“誰も、あの空白を埋めようとしなかった”ことだった。



ネム・カラエスの座は、


象徴でも神殿でもない。


周期の中心に開いた、絶えざる“沈黙”である。


律塔の再建に際して、


塔の上階に通じる径は封じられ、


座は儀礼的に閉じられた。


けれど彼ら――律を測り、詩を唱え、塔を巡る者たちは、


誰もその“空白を失わせないこと”にだけ集中していた。



彼は年老いた今も、


律塔のふるえを朝ごとに測り、


その周期が微かに乱れるたびに、


詩を一節唱えて調整する。


命じられてはいない。


制度もない。


誰も彼にそれを“引き継げ”とは言っていない。


けれど彼は、


自分の律がまだこの塔と“共鳴し得る”限り、


この空白のまわりを歩き続けるつもりだった。



「ネムの座は、誰のものでもない。


 ただ、


 わたしたち全員が、


 そこに座らないことを選び続けている。」

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