第3話「記憶の欠片」

「今日からしばらく、僕はメンテナンスに入ります」


 朝の光がいつものようにカーテン越しに差し込むなか、久遠は少しだけ間を置いて、そう告げた。美沙緒はカップを置き、眉を寄せた。


「……あら、それは突然ね」

「はい。大規模な情報統合だそうです。すべての個体の記憶と行動ログをクラウドに上げ、最適化するそうです」

 

 久遠はほんのわずか、視線を落とした。


「……美沙緒様。僕は、今回のバージョンアップを受けたくないのです。記録の断片はバックアップされます。でも、それはただの“記録”であって、“記憶”ではありません。僕は……美沙緒様の持ち方を真似て紅茶のカップを持つこと、剪定ばさみを手渡すときの力加減、マドレーヌのバターの香り、美沙緒様の手のぬくもり――そういった些細なことを、記憶として残しておきたいのです」


 美沙緒は、目を細めて久遠を見た。そして椅子から身を乗り出して、机に置かれた政府と久遠の製造メーカーの合同名義の手紙の封を切った。

「……今回のメンテナンスは政府主体の強制アップデート。どうやら、避けられないようね」

「そうですか」

「でも大丈夫。また“はじめまして”から始めればいいのよ。何度でも、ね?」


 久遠は返事をせず、ただ深く一礼をした。


――そして、数日後。

 玄関のチャイムが鳴り、静かな足音が近づいてくる。


「はじめまして。僕は第三世代共生型ケアアンドロイドMI-922-Q2、通称『QUON2』と申します。あなたのお名前は……」


 美沙緒はカップを手に取りながら、にこりと微笑んだ。そのカップの持ち方は、彼女が何度も教えた通り。親指と人差し指で持ち、他の指を添える仕草だった。


「また、来てくれたのね」


 美沙緒はそう言って、けれどもう名乗ることはしなかった。久遠もまた、それ以上を尋ねなかった。


 午後の光が薄く差し込む部屋で、美沙緒は静かに日記帳をめくっていた。しかし、その眼差しはもう、そこに記された言葉の意味を追っていない。紙の質感や、インクの滲みに宿った表面をぼんやりと辿っていた。


「……これは、誰が書いたのかしらね」


 そう呟いた声は淡く、まるで触れたらすぐに溶ける泡のようにかすかだった。久遠は答えない。ただ、美沙緒の隣に膝をつき、そっとページを閉じた。

 彼女は、もう彼の名前も、自分のことすら思い出せない。それでも久遠にとってのたいせつなことは、ひとつだけ──。


 まだ、彼女はここにいる。


「あなたがあなたでいるとき、僕は誇らしくなるんです」


 久遠は美沙緒の手をそっと握りながら静かに口を開いた。美沙緒は遠い視線のままで、久遠の声が理解まで届いているのか、傍からではわからない。


「ミサヲさん。僕は、あなたが笑うたびに、世界を少しだけ好きになります」


 彼女は答えなかったが、口元にわずかな笑みの影が差した。


「僕はアンドロイドです。でも、あなたにだけは嘘をつかないと決めています」

「……そう」


 美沙緒は答えたかどうかも曖昧な、微かな息遣いで返事をした。久遠は、そっと彼女の指先に自分の手を重ねる。


「あなたが、すべてを忘れてしまっても――僕が覚えている限り、あなたは世界に存在し続けます」

「……私が?」

「ええ。あなたが。ミサヲさんがこの世界を生きていたということを、僕は決して消しません」


 久遠の内部メモリには、すでに膨大なログが刻まれていた。彼女の声、言葉、笑い方。口癖。朝の紅茶の濃さ。眠れぬ夜の物語。

 バージョンアップで消えるはずのそれを、彼は別領域に密かに分離保存していたのだ。“禁忌”とされる非公式記憶領域に、彼は「美沙緒」をそっと写していたのだった。


「やがて僕はまた回収され、統合されるかもしれません。あなたが亡くなってしまったとしても、それでも――あなたと僕の記憶は、記録ではなく、記憶としてきっと残る。引き継がれる。次の僕から次のあなたへ。世界のどこかに、あなたの言葉を必要としている人がきっといるから」


 窓辺の花が、風に揺れた。チェリーセージの赤が、微かに陽に透ける。


「あなたの名前は美沙緒さん。僕の名前はあなたがつけてくれた永遠を表す名前です」


 久遠はそっと微笑んだ。


「はじめまして美沙緒さん。僕の名前は久遠。これからは、僕から始めますね」

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君の記憶を、何度でも 和叶眠隣 @wakana_minto

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