サイレント・アリア~君が見つけた私の歌~
くるとん
君が見つけた私の歌
私の世界から歌が消えたのは、もう十年も昔のことだ。
物心ついた頃、私は自分の声が少しだけ「特別」なのだと知った。
きっかけは些細なことだったと思う。幼稚園のお遊戯会だったか、あるいは家族で
出かけたカラオケだったか。
ただ、気持ちよく歌ったら、周りの大人たちが息を呑んで、
そして次の瞬間には大きな拍手と笑顔をくれた。
それが嬉しくて、私は歌が好きになった。
褒められるたびに、私の声はもっと綺麗に、
もっと遠くまで響くようになった気がした。
母は私の歌声を「天使の歌声ね」と愛おしそうに言ってくれたし、
父も「しおりの歌は宝物だ」と目を細めていた。
その噂はどこからか広まって、まだ小学校に上がる前だったけれど、有名なタレント事務所の人がわざわざ家まで「一度お話を」と訪ねてきたこともあった。
もちろん、本格的な話になる前に両親が「まだ幼いですから」とやんわり断ってくれたけれど、子供心に、少しだけくすぐったいような、それでいて誇らしいような気持ちになったのを覚えている。
他にも、住んでいる街の小さなお祭りで開かれた子供向けの歌の大会に出たこともあった。
本当にささやかな、商店街が主催するような大会だったけれど、そこで私が歌ったとき、聴いてくれていたおじさんやおばさん、他の子たちの親御さんたちがみんな、うっとりとした顔をしていたのを、私は今でも覚えてる。
歌い終わると、会場が割れんばかりの拍手で包まれて、審査員だった音楽教室の先生からは「あなたは宝物のような声を持っているわ。大切にしなさいね」とまで言われたのだ。
そう、私の歌声は、ただ家族が褒めてくれるだけじゃなく、確かに周囲の人たちに「特別なもの」として認知されていたのだと思う。
だからこそ、あの悪夢は起こってしまったのかもしれない。
その「宝物」が悪夢に変わったのは、小学校二年生の秋だった。
学校からの帰り道、いつもは友達と賑やかに帰る道なのに、その日に限って私は一人だった。
角を曲がったところで、見知らぬ男の人に声をかけられた。
「君の歌、聴いたよ。すごく上手だね」
そう言って細められた目に、なぜかひやりとしたものを感じたのを覚えている。
男の人は
「もっとたくさんの人に聴かせてあげよう。僕がいいところを知っているんだ」
と私の手を掴んだ。
「その声さえあれば――」
低い声で囁かれたその言葉が、今でも耳の奥にこびりついている。
幸い、大きな声を出す間もなく、近所のおばさんが通りかかり、男は私を置いて逃げていった。
誘拐未遂。
警察の人が来て、両親は真っ青になっていた。私はただ震えることしかできなかった。
それからだ。私が歌うことをやめたのは。
大好きだった歌が、怖いものに変わってしまった。
自分の声が、誰かを不気味に惹きつけるものだと思い知らされた。
あの男の人の目が、私の声を欲しがる目が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
「天使の歌声」は、私の中から固く固く封印された。
◆◆◆◆
そんな私 水瀬しおり(みなせ しおり)が、県内でも有名なお嬢様学校
「聖アリア女学院」の高等部に入学したのは、春のことだった。
両親が「同性だけの環境なら、少しはしおりも安心して過ごせるかもしれない。
新しい場所で、何か変わるきっかけが見つかるかもしれない」と勧めてくれたからだ。
「変わりたい」
その言葉は、私の心の奥底にも確かにあった。
いつまでも過去に縛られて、息を潜めるように生きるのは嫌だ。
でも、どうすれば変われるのか、その方法が全く分からなかった。
聖アリア女学院の校門を初めてくぐった日、私はそのあまりの華やかさに息を詰まらせた。
手入れの行き届いた庭園。歴史を感じさせる美しい校舎。
そして何より、そこにいる生徒たちの自信に満ち溢れた立ち居振る舞い。
髪を綺麗に巻き、ブランド物の小物で身を飾った彼女たちは、
私とはまるで違う生き物のように見えた。
新しい制服に身を包んでも、私の心は古い殻に閉じこもったままだった。
教室では、できるだけ目立たないように、窓際の隅の席が私の定位置になった。
誰かが話しかけてくれても、緊張で声が上ずり、まともな会話も続かない。
そんなことが何度か繰り返されるうちに、誰も私に話しかけてこなくなった。
友達、と呼べる人は一人もできなかった。
休み時間は一人で分厚い文庫本を読んでいるか、
窓の外をぼんやりと眺めているふりをして過ごした。
本当は、楽しそうに談笑するクラスメイトたちの輪が羨ましくてたまらなかったけれど、その輪に入る勇気も、方法も、私にはなかった。
「やっぱり私には無理なんだ」
入学して一ヶ月も経つ頃には、そんな諦めが胸の中に広がり始めていた。
新しい環境も、新しい制服も、私を変えてはくれなかった。
私は相変わらず、あの事件の日に囚われたままの、臆病で、引っ込み思案な
水瀬しおり のままだった。
歌はもちろん、歌っていない。鼻歌すら、無意識のうちに避けていた。
私の声は災いを呼ぶ。
その思い込みは、十年という月日を経ても、
強固な呪いのように私を縛り付けていた。
でも、心の本当に奥の奥の方で、小さな私が叫んでいるような気がすることもあった。
歌いたい。
昔のように、何も考えずに、ただ楽しく歌いたい。
そして、変わりたい。こんな自分から。
矛盾した願いが、私の中で渦巻いていた。
◆◆◆◆
五月も終わりに近づいた、ある日の放課後だった。
その日も私は、教室で一人、時間を持て余していた。ホームルームが終わると、クラスメイトたちは部活動や友達との約束に散っていく。私にはどこにも行くあてもなく、かといってすぐに家に帰る気にもなれなかった。
重い鞄を肩にかけ、とぼとぼと廊下を歩いていると、
どこからか微かに、澄み渡るような清らかなメロディが聴こえてきた。
それは、私も知っている有名な歌――『アメイジング・グレイス』だった。
誰かが練習で使っていたのだろうか、シンプルなピアノ伴奏の音源のようだ。
その美しい旋律に、私は知らず知らずのうちに足を引かれていた。
音の出所は、音楽室のようだった。
普段は吹奏楽部や合唱部が使っていて、
私のような生徒が立ち入ることは滅多にない場所だ。
ドアには小さな窓がついていて、恐る恐る中を覗くと、誰もいないように見えた。
そのピアノ伴奏だけが、静かな部屋いっぱいに響き渡っている。
ふと見ると、グランドピアノの上には『アメイジング・グレイス』と書かれた楽譜が開かれたまま、少し雑に置かれている。
そのそばには、小さなポータブルスピーカー。そこから音楽が流れ続けているということは、きっと誰かがついさっきまで歌の練習に使っていて、そのままうっかり放置してしまったのだろうか。
私は、何かに導かれるように、そっとドアノブに手をかけた。
ギィ、と小さな音を立ててドアが開く。
中は思ったよりも広く、高い天井にはシャンデリアのような照明が吊るされていた。壁際には様々な楽器が並び、部屋の中央には立派なグランドピアノが鎮座している。そして、そのスピーカーから美しい伴奏が流れ続けていた。
本当に誰もいない。その事実に、私は少しだけほっとした。誰かが練習したまま忘れていったのだろう音楽は、まるでこの空間が私だけのためにあるかのように錯覚させてくれる。
スピーカーから流れる伴奏は続いていたけれど、私はそれが気にならなかった。むしろ、その神聖ささえ感じさせる清らかなメロディが、この部屋を現実から切り離された特別な空間のように感じさせてくれた。
ふと、窓の外に目をやると、夕焼けに染まり始めた空が見えた。オレンジ色の光が教室に差し込み、埃がきらきらと舞っている。それはまるで、私だけのために用意された舞台のようだった。
「ここなら……」
誰もいない。誰も、私の声を聞いていない。
心の奥底から、何かがこみ上げてくるのを感じた。それは、十年前に無理やり蓋をした、歌への渇望だったのかもしれない。あるいは、「変わりたい」と叫んでいた、小さな私の声だったのかもしれない。
「今なら……歌えるかもしれない」
誰のためでもない。ただ、自分のために。あの頃のように、純粋に。
新しい私になるために。過去の私と、決別するために。
私はゆっくりと息を吸い込んだ。どんな風に歌を歌おうか。
頭に浮かんだのは、幼い頃、母がよく歌ってくれたやさしい子守唄だった。
優しくて、温かくて、私を安心させてくれた歌。
震える唇を、そっと開く。
十年ぶりに、私は――歌おうとしていた。
最初は、本当に小さな、自分にしか聞こえないような声だった。
けれど、一度流れ始めたメロディは、堰を切ったように私の内側から溢れ出してくる。
それは、幼い頃、母がよく歌ってくれた子守唄のように優しく、温かい旋律。
目を閉じれば、穏やかな母の笑顔が浮かんでくるようだった。
恐怖は、まだ胸の奥底にこびりついている。
けれど、それ以上に「歌いたい」という衝動が、私を突き動かしていた。
音楽室に響く伴奏はいつの間にか止まっていたけれど、
そんなことは気にならなかった。
私自身の声が、十年という時間を超えて、静かな空間に響き渡る。
それは、決して張りのある声ではなかったかもしれない。
ずっと歌っていなかったせいで、少し掠れて、震えていたかもしれない。
それでも、歌っている間、私は確かに自由だった。
心の奥に閉じ込めていた何かが、解き放たれていくような感覚。
忘れていた喜びが、全身を満たしていく。
どれくらいの時間、そうして歌っていただろうか。
歌い終えたとき、私は軽く息を切らしていた。
頬が熱い。
心臓が、早鐘のようにドキドキと鳴っている。
でもそれは、恐怖からくるものではなかった。
――今の歌、すごく綺麗だった。
不意に、背後から声が聞こえた。
凛とした、けれどどこか優しい響きのある声。
びくりと肩が跳ねる。
全身の血が、一瞬で凍りつくような感覚。
だ、誰かいたの……?
嘘。だって、誰もいないはずじゃ……。
ぎこちなく振り返ると、そこには一人の女の子が立っていた。
夕焼けのオレンジ色の光を背に受けて、その表情ははっきりとは見えない。
けれど、すらりとした長身と、肩にかかるくらいの長さで緩やかにウェーブした髪が、シルエットだけで特別な存在感を放っていた。
私と同じ、聖アリア女学院の制服を着ている。
「……あ……」
声が出ない。
頭の中が真っ白になる。
聴かれた。
歌を、聴かれてしまった。
あの事件以来、誰にも聴かせたことのなかった私の歌を。
女の子が、ゆっくりと私の方へ歩み寄ってくる。
一歩、また一歩と近づいてくるその姿に、私は金縛りにあったように動けなかった。
やめて。
来ないで。
心の奥で、何かが叫んでいる。
トラウマが、鮮明な映像となって蘇る。
あの男の、私の声を欲しがった目が――。
◆◆◆◆
「びっくりさせてごめんね。あんまり素敵な歌声だったから、つい聴き入っちゃって」
女の子は私の数歩手前で立ち止まると、穏やかに微笑んだ。
そこで初めて、私は彼女の顔をはっきりと見た。
腰まで届きそうなほど長い、艶やかな黒髪。
透き通るように白い肌に、涼やかでありながらもどこか優しい光を宿した大きな瞳。
控えめに引かれた唇は、上品な桜色をしている。
その佇まいは、まさに大和撫子という言葉がぴたりと当てはまる、息をのむような 美しさだった。
派手な装飾は何もないのに、彼女がいるだけで、その場の空気がふわりと華やぐような、不思議なオーラを放っている。
「私、天野 奏(あまの かなで)。高等部二年の天野奏よ。あなたは?」
鈴を振るような、澄んだ声。少しだけ先輩らしい落ち着きも感じられる。
そう言って、彼女は優雅な仕草で、そっと右手を差し出してきた。
差し出された手を、私はただ見つめることしかできない。
天野……奏先輩。
その名前と顔は、この聖アリア女学院で知らない生徒はいないだろう。
一年生の私でさえ、その噂は嫌でも耳に入ってきていた。
現学園長の一人娘で、お祖父様は国会議員も務めた有名な政治家。まさに名家のお嬢様。
その上、成績優秀、スポーツ万能、そして何より、誰に対しても分け隔てなく接するその人柄と、今目の当たりにしている圧倒的な美貌で、校内一の人気を誇る……まさに雲の上の存在。学園の誰もが憧れる有名人だ。
そんな先輩が、どうして私なんかに……。
「……み、水瀬……しおり、です……。一年です……」
蚊の鳴くような声で、ようやくそれだけを絞り出す。
「水瀬しおりさん、ね。よろしく、しおりさん」
奏先輩は私の返事を待つでもなく、ふわりと微笑んで、
私の手を優しく包み込むように握った。その手は、驚くほど温かかった。
「本当に綺麗な声……! 特に、あの高音の伸びやかさ、心が震えたわ。ねえ、もしよかったら、もう一回歌ってみてくれないかしら? 今度は私が伴奏させていただくから」
キラキラとした期待の眼差し、というよりは、どこまでも優しく、そして真摯な眼差しで、奏先輩が私に語りかける。
伴奏……?
もう一度……?
その言葉に、私はハッと我に返った。
ダメだ。
歌っちゃダメだ。
また、あの時みたいになったら……。
「ご、ごめんなさいっ!」
私は奏先輩の手を振り払い、半ば叫ぶように言った。
そして、鞄をひったくるように掴むと、一目散に音楽室から逃げ出した。
「あ、待って、しおりさん!」
背後から奏先輩の声が追いかけてくるけれど、私は振り返らなかった。
転がるように廊下を走り、昇降口を抜け、校門を出るまで、一度も足を止めなかった。
翌日から、私の平穏な(そして孤独な)日常は、大きく形を変えることになった。
天野 奏先輩が、何かと私に話しかけてくるようになったのだ。
先輩は、一つ上の学年のはずなのに、休み時間になると、わざわざ私のクラスのある一階まで下りてきてくれる。
「ごきげんよう、しおりさん。昨日は驚かせてしまってごめんなさいね」
教室の入り口に奏先輩の姿が見えただけで、クラス中が一瞬にしてざわめく。
そして、その先輩が私の席までまっすぐにやってきて、聖母のような微笑みを向けてくるのだから、クラスメイトたちが遠巻きに、憧れと緊張と、そして何より強い好奇心の入り混じった視線を送ってくるのも無理はなかった。
私はただおどおどと俯いて、「い、いえ……先輩……」と消え入りそうな声で答えるのが精一杯だった。
奏先輩が自分の教室に戻っていくと、すぐに私の席の周りにはクラスメイトたちが集まってきた。
「ねえ、水瀬さん! 今の、天野先輩だよね!?」
「どういうご関係なんですか? 毎日いらっしゃいますけど……」
「もしかして、お知り合いとか……?」
質問の嵐に、私はどう答えていいかわからず、「えっと、あの……」としどろもどろになるばかり。
中には、あからさまに羨ましそうな溜息をつく子もいた。
「いいなあ、水瀬さん。あの天野先輩とあんなに親しげにお話しできるなんて……」
「そうよね、あの子となんて信じられない」
その言葉には、少しだけチクリとした棘が含まれているような気もして、私はますます小さくなるしかなかった。
どうして、あの完璧な奏先輩が、私みたいな地味で臆病な人間に構うのだろう。誰もがそう思っているに違いない。
嬉しいような、申し訳ないような、そして何よりも怖いような……そんな複雑な感情が、私の胸の中で渦巻いていた。
奏先輩は、そんな私の戸惑いや周囲の視線などまるで気にしていないかのように、穏やかな口調で音楽の話をしたり、自分の好きなクラシックの作曲家の話をしたりした。
時には「この曲、しおりさんの声で聴いてみたいわ」と、タブレットでオペラの一節を流してくれたりもした。そのたびに、私の心臓は早鐘のように鳴り、クラスメイトたちの視線が一層強くなるのを感じた。
私は、ほとんどまともな返事もできず、ただ頷いたり、首を横に振ったりするだけだった。
本当は、怖かった。
彼女の完璧さが、眩しすぎた。住む世界が違いすぎると、改めて思い知らされる。
彼女が私の歌を褒めてくれるたびに、心の奥のトラウマが疼いた。
それでも、奏先輩の静かで真摯な瞳と、私の歌声を純粋に「素晴らしい」と言ってくれる言葉には、嘘がないことだけは分かった。
それは、あの誘拐犯のねっとりとした視線とは全く違う、清らかで、どこか神聖なものに感じられたから。
ある日の放課後、私が一人で図書室に向かおうとしていると、後ろから声をかけられた。
「しおりさん、少しお時間よろしいかしら?」
振り返ると、やっぱり奏先輩だった。
彼女は私を手招きすると、人気のない渡り廊下のステンドグラスの前まで連れて行った。
「あの、重ねてお願いするのは心苦しいのだけれど……やはり、もう一度しおりさんの歌が聴きたいの」
真剣な眼差しで、奏先輩が言う。
「もちろん、無理強いするつもりはないわ。でも、もし、ほんの少しでも歌いたいというお気持ちがあるのなら……」
私は何も言えずに俯く。
歌いたい気持ち。
それは、確かにある。
あの音楽室で、十年ぶりに歌った時の高揚感は、まだ胸に残っている。
でも、それと同じくらい、恐怖心も根強く残っているのだ。そして、奏先輩のような人に注目されることへの戸惑いも。
すると、奏先輩はふっと表情を和らげた。
「そうね……では、こうしましょうか。今度、私がピアノを弾くので、それを聴きに
いらっしゃるだけでも構いませんわ。音楽室で待っていますから」
そう言って、彼女は私の肩にそっと触れると、
「では、ごきげんよう」と優雅にお辞儀をして去っていった。
静かで、それでいて抗えない魅力を持つ先輩。
私は、その場にしばらく立ち尽くしていた。
ピアノを聴きに来るだけ……。
それなら、大丈夫かもしれない。
ほんの少しだけ、そう思った。
奏先輩の穏やかな微笑みと、彼女が奏でるであろう音楽への興味が、私の心の壁をほんの少しだけ、揺さぶり始めていた。
◆◆◆◆
奏先輩と「いつか歌を聴かせる」という約束を交わしてから数日。
私はまだ、その「いつか」への一歩を踏み出せずにいた。
それでも、放課後の音楽室で過ごす、先輩との穏やかな時間は続いていた。
先輩が弾いてくれるピアノの音色は、いつも私の心を優しく包んでくれる。
その日も、私たちは夕暮れの音楽室で、二人きりで言葉少なにお茶を飲んでいた。先輩が淹れてくれたハーブティーの香りが、ふわりと漂っている。
不意に、音楽室のドアが乱暴に開けられた。
驚いて入り口を見ると、そこには三人組の女子生徒が立っていた。
私と同じ聖アリア女学院の制服だけれど、胸元には二年生を示す色のリボン、
奏先輩のクラスメイトの方々だろうか。
中心に立つ、髪を高く結い上げた勝ち気そうな生徒が、腕を組んで私たち、特に私を睨みつけている。
「奏様、こんなところにまだいらしたのですか。一体いつまで、このような下級生のお遊びに付き合っていらっしゃるおつもりですの?」
その声は、静かな音楽室に鋭く響いた。
隣にいた奏先輩の表情が、微かに強張るのが分かった。
「……皆さん、どうしてここに……」
奏先輩が困惑したように尋ねる。
「どうして、ではございませんわ。最近の奏様は、休み時間の度に一年の教室に入り浸り、放課後はこうして音楽室にこもりっきり。わたくしたち、心配しているのですわよ?」
もう一人の、眼鏡をかけた生徒が冷静な口調で続ける。
「奏様には、もっとご自身の将来のためになるような、有意義なお時間の使い方があるはずです。このような……はっきり申し上げて、何の得にもならないようなことにうつつを抜かすのは、いかがなものかと」
「まさか……また、学園長から何かお言いつけでもあったのですか?」
学園長……奏先輩のお母様のことだ。
奏先輩は、思い当たることがあるのか、わずかに眉を寄せた。
「あなたたちには……関係ありません。これは、私が決めたことですので」
「でしたら、なおのこと理解に苦しみます!」
三人組は、まるで示し合わせたかのように声を強めた。
「今日で、このようなお遊びは終わりにしていただきます。さあ、参りましょう、奏様」
そう言って、彼女たちは奏先輩に詰め寄り、その腕を掴もうとする。
その瞬間、私に向けて放たれた冷たく鋭い視線に、私は全身が凍りつくのを感じた。
まるで、「あなたが元凶だ」とでも言いたげな、非難の色を隠そうともしない眼差しだった。
「やめてくださいまし! 私はまだ、しおりさんとお話が……」
奏先輩は抵抗しようとするけれど、三人の方が数は多い。
無理やり立たされ、音楽室の出口へと引きずられていく。
その時、奏先輩が苦しげな表情で、私の方を振り返った。
助けを求めるような、そんな悲しい瞳だった。
違う。
きっと、私には何もできないと分かっている先輩が、
最後の別れを告げようとしただけかもしれない。
でも、私には、それが助けを求める悲痛な叫びのように見えたのだ。
怖い。
あの人たちの視線が怖い。
また、私のせいで誰かが不快な思いをしている。
私の声が、私の存在が、誰かに迷惑をかけている。
トラウマが、黒い霧のように心を覆い尽くそうとする。
足が竦んで、声も出ない。
いつもの私なら、ここで何もできずに、ただ先輩が連れて行かれるのを見ているだけだっただろう。
でも――。
今の私には、奏先輩がいた。
私の声を「綺麗だ」と言ってくれた人が。
私の心を、その温かいピアノの音色で包んでくれた人が。
その先輩が、今、私の目の前で、苦しんでいる。
私を庇ってくれたせいで、追い詰められている。
助けたい。
ただ、その一心だった。
何をすればいいのか分からない。でも、何かしなければ。
このまま、先輩を行かせてはいけない。
気づけば、私の唇から、旋律が溢れ出していた。
それは、特定の歌ではなかったかもしれない。
ただ、私の心の奥底から湧き上がってきた、言葉にならない想いそのものだった。
奏先輩を助けたい、行かないでほしい、という切ない願い。
そして、ほんの少しの、私自身の勇気。
最初は、か細く震える、ただの母音の連続だったかもしれない。
けれど、それは次第に確かな音程と響きを持ち、一つの美しいアリアへと形を変えていった。
高く、どこまでも高く澄み渡っていくソプラノ。
悲しみを帯びながらも、一筋の強い光を放つような、祈りにも似た歌声。
それは、幼い頃に「天使の歌声」と称賛された、私の本当の声。
十年という長い間、固く封印してきた、魂の叫びだった。
奏先輩を連れて行こうとしていたクラスメイトたちの動きが、ぴたりと止まった。
彼女たちは、信じられないものを見たかのように、ゆっくりと私の方を振り返る。
その瞳には、先程までの敵意や軽蔑の色はなく、ただ純粋な驚きと、そして……言葉にできないほどの感動が浮かんでいた。
奏先輩もまた、私の方を向いたまま、その場に立ち尽くしている。
その美しい瞳からは、はらはらと涙がこぼれ落ちていた。
音楽室の空気は、一変していた。
夕焼けの光が、まるでスポットライトのように私を照らし、私の歌声だけが、その空間を支配している。
それは、悲しいくらいに美しく、そして聴く者の心を根こそぎ揺さぶるような、圧倒的な歌声だった。
上手いとか下手とか、そんな次元ではない。
声そのものが、一つの奇跡。
そう感じさせる何かが、私の歌にはあった。
どれほどの時間が経ったのだろう。
歌い終えた私は、全身の力が抜けたように、その場にへなへなと座り込みそうになった。
息が苦しい。心臓が激しく鼓動している。
音楽室は、水を打ったような静寂に包まれていた。
クラスメイトたちは、誰もが一言も発せず、ただ呆然と私を見つめている。
そして、奏先輩は――。
静かに涙を拭うと、ゆっくりと私の方へ歩み寄り、震える声で、たった一言、こう言った。
「……しおりさん……」
その声には、万感の想いが込められているようだった。
私の歌が終わった後も、音楽室は長い間、水を打ったような静寂に包まれていた。
ただ、夕焼けの赤い光だけが、まるでこの奇跡的な瞬間を祝福するかのように、私たちを照らし続けている。
息をすることさえ忘れたように立ち尽くす奏先輩のクラスメイトたち。
そして、潤んだ瞳で私をじっと見つめる、奏先輩。
最初に動いたのは、奏先輩だった。
先輩は、まるで大切な宝物に触れるかのように、そっと私の頬に手を伸ばし、流れ落ちた涙の痕を指で優しく拭ってくれた。
「……ありがとう……」
その声は、感動と、そして言葉にならないほどの様々な感情で震えていた。
先輩は私を力強く抱きしめた。
先輩の温かい体温と、優しい香りに包まれて、私は自分がしたことの大きさをまだ理解できないまま、ただ先輩の背中にそっと手を回した。
助けられたのは、私の方なのに。
その時、今まで石像のように固まっていた奏先輩のクラスメイトの一人が、ふらりと一歩前に出た。
最初に私に声をかけた、髪を高く結い上げた生徒だった。
彼女は、先程までの勝ち気な表情はどこへやら、今はただ呆然とした、それでいて何か深い感銘を受けたような顔で、私と奏先輩を交互に見つめている。
「……信じられない……こんな歌声、聴いたことがない……」
絞り出すような声だった。
「私……私たちは……なんてことを……」
彼女は、はっとしたように顔を上げると、深々と頭を下げた。
「天野さん……そして、水瀬さん……本当に、申し訳ありませんでした……! わた
くしたちの、浅はかな行動を……どうか、お許しください……!」
その言葉に続いて、他の二人も慌てたように頭を下げる。
その姿には、もう先程までの敵意や傲慢さは微塵も感じられなかった。
ただ、純粋な後悔と、そして私の歌声に対する畏敬の念のようなものだけが、そこにはあった。
奏先輩は、そっと私から体を離すと、クラスメイトたちに向き直った。
その表情は穏やかだったけれど、瞳の奥には確かな強さが宿っている。
「皆さん……わたくしからも、お願いがあります。今日のことは、どうか他言無用にしていただきたいの。しおりさんは……まだ、ご自身の歌声の持つ力に、戸惑っていらっしゃるから」
「……もちろんです、奏様。決して誰にも……」
クラスメイトたちは、こくこくと頷くと、どこか夢見心地のような、それでいて少し気まずそうな表情で、そそくさと音楽室を後にして行った。
まるで、嵐が過ぎ去った後のような静けさが、再び音楽室に戻ってきた。
二人きりになると、奏先輩は改めて私に向き直り、私の両手を優しく握った。
「本当に、すごかったわ、しおりさん。あなたの勇気と、その歌声に、私は言葉もないくらい感動しているの」
先輩の瞳は、夕陽の光を受けて、宝石のようにきらめいている。
「あなたの歌は、ただ美しいだけじゃない。人の心を動かし、慰め、そして勇気を与える……そんな特別な力を持っている。それは、神様から与えられた、かけがえのない贈り物よ」
神様からの贈り物……。
私なんかに、そんな大それたものが備わっているのだろうか。
でも、奏先輩の真摯な言葉は、私の心の奥深くに、じんわりと温かい光を灯してくれた。
歌ってよかった。
勇気を出して、本当によかった。
奏先輩を助けられたかもしれない、という安堵感と、自分の歌声が誰かの心を動かしたという事実が、私の中で大きな自信へと変わり始めていた。
「あなたの歌声が、私に……ううん、きっと、あの場にいた皆にも、大切な何かを思い出させてくれたのだと思うわ。音楽の持つ本当の力を……」
先輩の言葉の一つ一つが、私の胸に深く刻まれていく。
私の歌が、そんなふうに誰かの心に届いたなんて、まだ信じられないけれど……でも、先輩の真剣な眼差しを見ていると、それは紛れもない事実なのだと、そう思えた。
ふと、奏先輩が私の手をするりと解き、窓辺へと歩み寄った。
夕焼け空を眺めるその美しい横顔に、私は思わず見とれてしまう。
「いつか、その歌声がもっとたくさんの人の心に届いて、たくさんの人を幸せにする日が来ると、私は信じているわ」
それは、具体的な何かを求めるわけではない、ただ純粋な、温かい願い。
その言葉に込められた先輩の深い愛情と、私の才能への揺るぎない信頼が、じわりと胸に広がっていく。
「ありがとうございます、先輩……」
そう答えるのが、今の私には精一杯だった。
その日を境に、放課後の音楽室は、完全に私と奏先輩だけの、秘密の聖域になった。
先輩は、私の歌声の持つ可能性を、さらに引き出そうと、様々な角度からアプローチしてくれた。
基礎的な発声練習や呼吸法はもちろん、歌詞の解釈の仕方、感情の乗せ方まで、先輩が知っている全てのことを、惜しみなく私に教えてくれようとした。
私は、奏先輩の前でだけなら、不思議と心が安らぎ、少しずつではあるが、歌うことへの恐怖よりも、表現する喜びを感じられるようになっていく。
先輩の奏でるピアノの音色に合わせて歌う時間は、私にとって何よりも幸せで、かけがえのないものだった。
そんな日々が数週間続いたある日の練習後。
いつものように二人でお茶を飲みながら、その日の練習の反省点や、新しく挑戦してみたい曲について話していた時だった。
奏先輩が、ふと何かを思い出したように、少し照れたような、それでいて真剣な眼差しで私を見た。
「しおりさん……実は、私、ずっと誰にも言わずに、趣味でオリジナル曲を作っているの」
「え……? 先輩が、ですか?」
思ってもみなかった言葉に、私は目を丸くする。
奏先輩は、ピアノの腕前もプロ顔負けだと思っていたけれど、作曲までしていたなんて。
「ええ……本当に、ただの趣味なのだけれど」
先輩はそう言って、少し恥ずかしそうに鞄から数枚の楽譜を取り出した。
それは、先輩の美しい文字で丁寧に書かれた、手書きの楽譜。まだインクの匂いが残りそうな、温かみのあるものだった。
「でも、なかなか私の頭の中で鳴っている音、伝えたい感情を、そのまま歌声にしてくれる人がいなくて……。この曲たちが、本当に命を吹き込まれる日を、ずっと待っていたの」
その言葉には、どこか切ない響きが込められているように感じた。
先輩は、その中の一曲――繊細な旋律と、まるで詩のような美しい歌詞が添えられた楽譜を、私にそっと差し出した。
「もしよかったら……この曲、歌ってみてもらえないかしら? あなたになら、この曲の心を理解してもらえるような気がするの」
少し潤んだ瞳で、先輩が私を見つめる。
私は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
奏先輩のオリジナル曲……。先輩が、私に歌ってほしいと……?
胸が高鳴る。それは、緊張と、そしてそれ以上の、大きな期待と喜びだった。
私は、震える手でその楽譜を受け取った。
メロディラインは、初めて見るはずなのに、どこか懐かしく、
そして私の心に触れるような、不思議な魅力を持っていた。
それは、奏先輩の純粋で豊かな内面が、そのまま音楽という形になったような、特別な響きを秘めているように思えた。
「……歌って、みます」
私は、先輩から受け取った楽譜を胸に抱きしめるようにして、ゆっくりとピアノの前に立った。
隣には、期待と、ほんの少しの緊張が入り混じった表情で私を見守る奏先輩。
先輩が、小さく頷く。
それを合図に、私は深く息を吸い込み、楽譜に記された最初の音を、そっと声に乗せた。
それは、今まで私が歌ってきたどんな曲とも違う、不思議な感覚だった。
奏先輩の創り出したメロディは、まるで最初から私の声のためにあったかのように、自然に、そして心地よく私の内側から湧き上がってくる。
歌詞の一つ一つが、言葉の一つ一つが、まるで先輩自身の心の囁きのように、私の胸に直接響いてくる。
切なくて、でもどこまでも優しくて、そして僅かな希望の光を感じさせるような、そんな歌。
私は、楽譜を見ているはずなのに、いつの間にか目を閉じて、ただ音楽の流れに身を任せていた。
歌っている間、私は完全にその曲の世界に入り込んでいた。
歌い終えた時、音楽室は静寂に包まれていた。
私は、ゆっくりと目を開ける。
目の前には、息をのんだまま、まるで時間が止まったかのように私を見つめている奏先輩の姿があった。
その大きな瞳は、信じられないものを見たかのように大きく見開かれ、そして、次の瞬間にはみるみるうちに潤んでいく。
「……これだわ……!」
先輩の声は、感動と興奮で震えていた。
「私がずっと、ずっと夢見ていた歌声、表現そのものよ、しおりさん……! この曲が、本当に……本当に命を吹き込まれた……!」
先輩は、感極まったように私の両手を強く握りしめると、その場に崩れ落ちそうになるのを、私が慌てて支えた。
「先輩……!」
「ありがとう……ありがとう、しおりさん……! あなたに出会えて、本当に良かった……!」
先輩は、私の胸に顔をうずめるようにして、嗚咽を漏らした。
その背中をそっと撫でながら、私もまた、目頭が熱くなるのを感じていた。
先輩の作った曲を、私が歌えた。そして、それが先輩にこんなにも喜んでもらえた。
それだけで、私の心は今まで感じたことのないような達成感と、温かい幸福感で満たされていた。
その日から、私たちの秘密の練習は、奏先輩のオリジナル曲が中心となった。
先輩は、まるで泉のように次から次へと新しい曲を生み出し、そのどれもが、私の心を強く揺さぶる素晴らしいものばかりだった。
先輩は、私の声の特性を完璧に理解していて、その魅力を最大限に引き出せるように、メロディラインやアレンジを細かく調整してくれた。
私もまた、先輩の創り出す世界観、歌詞に込められた繊細な想いを、少しでも深く表現しようと、夢中で歌い続けた。
私たちの間には、単なる音楽的な共鳴を超えた、もっと深くて、もっと特別な何かが生まれ始めていた。
それは、お互いの才能への揺るぎない尊敬であり、そして、一人の人間としての魅力に強く惹かれ合う、確かな恋心だったのかもしれない。
そして、練習が終わって、夕焼けに染まる音楽室で、二人並んで窓の外を眺めながら、将来の夢や音楽への熱い想いを語り合う時間。
そんな時、先輩の隣にいるだけで、私は世界で一番幸せな気持ちになれた。
奏先輩の曲を歌うことは、私にとって、トラウマを乗り越えるための大きな力になっていた。
先輩の創り出す音楽の世界に没入している時だけ、私は過去の恐怖から完全に解放され、歌うことの純粋な喜び、そして自分自身を表現することの素晴らしさを、心の底から感じることができた。
この時間が、永遠に続けばいいのに、と私は心から願っていた。
◆◆◆◆
季節は夏へと移り変わり、聖アリア女学院では、秋に開催される学園祭の準備が少しずつ始まっていた。
クラスの出し物を何にするか、という話題がホームルームで持ち上がり、実行委員の生徒たちが各クラスや有志団体に参加を呼びかけて回る姿も目にするようになる。
そんなある日の練習後、奏先輩が少し改まった表情で私に切り出した。
「しおりさん……実は、学園祭のことで相談があるの」
「学園祭、ですか?」
「ええ。今年も、講堂でライブステージが開かれることになっているのだけれど……」
先輩はそこで一度言葉を切り、私の目をじっと見つめた。その瞳の奥には、熱い想いが揺らめいているように見える。
「もしよかったら、しおりさん……私の新しい曲を、そのステージで歌ってみないかしら?」
その言葉は、私の心に大きな波紋を広げた。
奏先輩の新しい曲を、私が歌う……? それも、学園祭のステージで?
先輩の曲を歌いたい。その素晴らしい音楽を、もっとたくさんの人に届けたい。その気持ちは、確かにある。
でも、大勢の人の前で歌うことへの恐怖は、まだ私の心に深く根を張っていた。
あの音楽室での出来事は、あくまで衝動的な、火事場の馬鹿力のようなものだったのかもしれない。
冷静になった今、またあのトラウマが蘇ってきて、手足が震えそうになる。
「……私、に……できるでしょうか……」
ようやく絞り出したのは、そんな弱々しい言葉だった。
すると、先輩は優しく微笑んで、私の手をそっと握ってくれた。
「もちろん、無理強いはしないわ。しおりさんの気持ちが一番大切だから。でもね、
あなたの歌声は、たくさんの人を勇気づけられる力を持っていると、私は信じているの。そして、私の音楽を、あなたの声で届けられたら……それは私にとって、最高の喜びなのよ」
先輩の温かい手の感触と、真摯な言葉。その想いに応えたい気持ちと、踏み出せない恐怖とが、私の中で激しくぶつかり合う。
私は、即答することができず、「少し……考えさせてください」と答えるのが精一杯だった。
それから数日間、私はずっとそのことで悩んでいた。
奏先輩は、私の返事を急かすことなく、いつもと変わらず優しく接してくれたけれど、時折見せる期待の眼差しが、私の心を締め付けた。
そんな中、学園内で、少しずつ不穏な噂が流れ始めていることに、私は気づいていた。
最初は、本当に些細な、どこからともなく聞こえてくる囁きのようなものだった。
『ねえ、知ってる? 学園長先生のことで、最近よくない噂があるらしいわよ』
『奏先輩のお祖父様って、有名な政治家の方でしょう? その関係で、何かあったとか……』
最初は、ただのゴシップだと気にも留めていなかった。
でも、その噂は日を追うごとに具体性を増し、そして明らかに悪意のこもったものへと変わっていった。
『学園の運営資金のことで、不正があったんじゃないかって』
『理事会でも、学園長先生の責任を問う声が上がってるらしいわ』
奏先輩は、学園ではいつもと変わらず気丈に、そして完璧に振る舞っていた。
けれど、音楽室で二人きりになった時、練習中にふとした瞬間に見せる表情には、今までになかった暗い翳りが宿っていることがあった。
家族からの電話に、声を潜めて応対し、その後、深くため息をついている姿も一度だけ見てしまった。
私は心配でたまらなかったけれど、先輩のプライベートな問題に踏み込む勇気もなくて、ただ「何かあったんですか?」と当たり障りのないことしか聞けなかった。
先輩は、そのたびに「大丈夫よ、何でもないわ」と力なく微笑むだけだった。
私たちの、甘くて幸せだった音楽室の時間。
そこに、少しずつ、けれど確実に、不協和音が混じり始めている。
そんな予感が、私の胸を重く覆い始めていた。
◆◆◆◆
あの音楽室での時間は、まるで嵐の前の静けさだったのかもしれない。
奏先輩の家庭にまつわる不穏な噂は、日を追うごとに現実味を帯びていった。
そしてついに、決定的な形で私たちの日常を揺るがすことになる。
学園長である奏先輩のお母様に対して、理事会から正式に解任動議が出されたというニュース。
それが、あっという間に学園中を駆け巡ったのだ。
理由は、表向きには「学園運営におけるリーダーシップの欠如」とされていた。
けれど、その裏では、奏先輩のお祖父様の政敵による圧力や、学園の運営権を狙う勢力の暗躍があるのだと、まことしやかに囁かれていた。
その日から、奏先輩を取り巻く空気は、ガラリと一変した。
これまで「学園長の娘」という立場を、ことさらに意識させることはなかった先輩。
誰に対しても分け隔てなく接し、その優しい人柄は、多くの生徒たちから信頼を寄せられていた。
その大切な信頼さえも、今回の騒動で、心ない色眼鏡で見られ、あっけなく否定されていくのだ。
廊下を歩けば、ひそひそと交わされる陰口。
それが、まるで鋭い棘のように私の耳にも届いてくる。
「ねえ聞いた? 奏先輩、お母様の後ろ盾がなくなったら、結局ただの人だったって話よ」
「今まで周りがチヤホヤしてただけで、本当は中身空っぽだったんじゃないかって、もっぱらの噂よね」
「『完璧なお嬢様』なんて言われてたけど、あれって全部、親御さんの力で作られたイメージだったのかもねぇ……ふふっ」
そんな辛辣な言葉たちが、ナイフのように奏先輩の心を突き刺していく。
それが、私には痛いほど伝わってきた。
先輩が大切にしてきた、一つ一つの繋がりが、
心ない言葉で汚されていくようだった。
あれほど多くの生徒に慕われていた先輩の周りから、少しずつ人が離れていった。
騒動に巻き込まれるのを恐れてか。
あるいは、手のひらを返したように冷たい視線を送る者もいた。
先輩の美しい顔からは、笑顔が消えてしまった。
その大きな瞳には、深い絶望の色が浮かんでいた。
音楽室にも、先輩はほとんど顔を出さなくなった。
あんなに楽しそうに新しいメロディを私に聴かせてくれた先輩が、今はきっと、ピアノに触れる気力さえないのかもしれない……。
私との連絡も途絶えがちになり、たまにメッセージを送っても、短い返事が返ってくるだけだった。
心配で、心配で、胸が張り裂けそうだった。
先輩が、壊れてしまうんじゃないかって。
ある雨の日の放課後。
私は傘もささずに、奏先輩を探し回った。
ようやく見つけ出したのは、旧校舎裏の、今はもう使われていない小さな温室の中だった。
ガラス窓の曇ったその場所で、先輩は一人、ベンチに座って俯いていた。
その華奢な肩は、小さく震えているように見えた。
「奏先輩……!」
私が声をかけると、先輩はゆっくりと顔を上げた。
その顔は、私が今まで見たことのないくらい憔悴しきっていて、瞳からは光が消え失せている。
「……しおりさん……」
か細い、掠れた声だった。
「もう……どうにもならないの。私の力では……」
先輩は、力なくそう呟くと、また俯いてしまった。
「母も、きっと学園長の座を追われるわ。そうなれば、私も……この学園にはいられ
ないかもしれない」
「私は……私は何も悪いことなんてしていないのに……!」
絞り出すような声に、痛みが滲む。
「どうして、こんな……こんな仕打ちを受けなくちゃいけないの……?」
「家柄だけで全てを判断されて、私の努力も、全部……全部、踏みにじられて……」
「もう、何が正しいのかも分からないわ……」
そして、とぎれとぎれに続ける。
「私の音楽も……もう、おしまいなの」
「だって、こんな私の音楽なんて、もう誰も聴きたいとは思わないでしょう……?」
「後ろ盾を失った、ただの学園長の娘が作る曲なんて、きっと誰の心にも響かないわ……」
その声には、深い諦めと、理不尽な運命へのやるせない怒り、そしてどうしようもない悲しみが滲んでいた。
私が以前、ほんの少しだけ「歌ってみたい」と思った学園祭での演奏。
奏先輩はあんなに嬉しそうに話していたのに……。
「奏先輩……学園祭は……」
私がおそるおそる尋ねると、先輩は力なく首を横に振った。
「……学園祭なんて、もう無理よ」
「今の私に、誰かの前で音楽を奏でる資格も、そんな気力も、もう残っていないわ」
「それに……誰も、期待なんてしていないでしょうしね……、私の音楽には」
その言葉は、ガラスみたいに脆くて、今にも砕け散ってしまいそうだった。
「そんなことありません!」
「先輩の音楽を待っている人はいます! 私が……!」
私は必死に否定するけれど、先輩は虚ろな目で私を見るだけで、小さくかぶりを振る。
「……ありがとう、しおりさん。でも、いいのよ。気休めは……」
「もう、分かっているの。私の音楽なんて、もう誰にも……」
そこまで言って、先輩は言葉を詰まらせ、ぎゅっと唇を噛み締めた。
その瞳から、また一筋、涙がこぼれ落ちる。
その姿を見て、私の心の中で何かが決壊した。
違う。
そんなはず、ない。
奏先輩の音楽は、こんなことで終わっていいものじゃない。
ふと、これまでの秘密の練習の日々が、鮮明に蘇ってきた。
先輩が、はにかみながら私に見せてくれた手書きの楽譜。
私が歌うと、子供みたいに目を輝かせて喜んでくれた先輩の笑顔。
二人で創り上げた、たくさんの美しいメロディたち。
あの音楽は、本物だ。
誰が何と言おうと、絶対に。
私は、奏先輩の冷たくなった手を、両手で強く握りしめた。
「そんなこと、絶対にありません!」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
先輩が、驚いたように顔を上げる。
私は、その濡れた瞳をまっすぐに見つめ返した。
「先輩の音楽は、こんなことで終わるものじゃありません!」
「先輩の曲は……本物です! 私が、それを証明します!」
私の瞳には、一点の曇りもない、強い決意の光が宿っていたはずだ。
「私が歌います、奏先輩の曲を!」
「先輩が今まで作ってきた、あの素晴らしい曲たちで……ううん、先輩がこれから作る最高の曲で、この最悪な状況を、全部ひっくり返してやりましょう!」
「先輩の音楽の力で、世界を変えるんです!」
「だから、お願いです、諦めないでください!」
それは、単なる励ましなんかじゃなかった。
奏先輩の才能への絶対的な信頼と、二人で運命を切り開くという、私の魂からの叫びだった。
私の熱い言葉と、自分の音楽への揺るぎない信頼を映した私の眼差しに、奏先輩の瞳が大きく揺れた。
端を切ったように、先輩の目から大粒の涙が溢れ出す。
「……信じて、くれるの……?」
「こんな私を……私を……?」
震える声で、先輩が問いかける。
私は、力強く、何度も頷いた。
「もちろんです!」
「世界で一番、信じています!」
その言葉を聞いて、奏先輩は、私の手に自分の手を重ね、強く握り返してきた。
そして、ゆっくりと、しかし確かに、その瞳に再び希望の光が灯り始めるのを感じた。
雨音だけが響く古い温室の中で、私たちは、お互いの存在だけを頼りに、もう一度立ち上がることを誓った。
砕かれた誇りを拾い集め、それでも、希望の歌を響かせるために。
◆◆◆◆
あの雨の日の温室での誓いから、私と奏先輩の時間は、まるでを合図を切ったように流れ始めた。
目指すは、学園祭のステージ。
そこで、先輩の曲を、私が歌う。
それは、絶望の淵から這い上がるための、私たちの宣戦布告だった。
学園祭までの残り時間は、一ヶ月もない。
奏先輩は、まるで憑かれたように新しい曲の制作に没頭した。
それは、以前私に聴かせてくれた未完成のメロディの断片を繋ぎ合わせ、今の私たちの想いを全て注ぎ込んだ、全く新しいカンタータ――生命力に満ち溢れた、壮大な合唱曲のような響きを持つ歌だった。
先輩は、その曲に『夜明けのカンタータ』という仮タイトルをつけた。
「今の私たちに、そしてこの淀んだ学園の空気に、夜明けを告げる歌になるようにって、願いを込めたの」
そう言ってはにかむ先輩の横顔は、少しだけ痩せたけれど、その瞳には以前よりも強い光が宿っていた。
学園内での風当たりは、依然として強かった。
奏先輩を公然と非難する声は減ったものの、遠巻きにするような冷たい視線や、聞こえよがしな噂話は後を絶たない。
音楽室の使用許可も、何かと理由をつけられては取り消されそうになったり、練習中にわざと大きな音を立てられたりすることもあった。でも、私たちは負けなかった。
音楽室が使えない日は、奏先輩の自宅の、防音設備が整った広いピアノ室で練習を重ねた。そこは、先輩が幼い頃から音楽に親しんできた、まさに聖域のような場所。
そんな大切な場所に私を招き入れてくれた先輩の信頼が、私には何よりも嬉しかった。
奏先輩は、私の「天使の歌声」その持つ透明感、力強さ、そして魂を揺さぶる表現力を最大限に引き出すために、何度も何度もアレンジを重ね、メロディラインを調整してくれた。
私もまた、先輩の創り出す楽曲の素晴らしさ、その世界観の深さに全身全霊で応えようと、これまでのトラウマとも必死で向き合いながら、歌の表現力を極限まで高めていった。
時には、歌詞の一言一句に込められた想いを理解するために、夜が更けるまで二人で話し込んだ。
時には、難解なフレーズを私が歌いこなせず、悔し涙を流したこともあった。
そんな時、先輩は何も言わずに、ただ黙って私の背中をさすってくれた。その温かい手の感触が、どれほど私を勇気づけてくれたことか。
この二人での共同作業は、私たちの音楽的な才能を共鳴させるだけじゃなかった。
お互いの存在そのものが、かけがえのないものへと変わっていくのを感じていた。
深夜までの練習で疲れ果て、ピアノにもたれかかるようにしてうたた寝をしてしまった奏先輩。
その美しい寝顔を、私はそっと見つめた。
長いまつ毛、少しだけ開いた唇、そして、時折苦しげに寄せられる眉……。
この人を守りたい。この人の笑顔を、もう一度見たい。
その想いが、私の胸を強く締め付けた。
またある時は、私が歌う先輩の曲を聴きながら、奏先輩が静かに涙を流していることもあった。
その涙の意味を、私は言葉にしなくても理解できたような気がした。
私たちの魂は、音楽を通じて、確かに一つに重なり合っていたのだ。
恋心、という言葉だけでは、もうこの感情を表せないかもしれない。
それはもっと深くて、もっと切なくて、そして何よりも尊い、魂の結びつきのようなもの。
先輩がいてくれるから、私は歌える。
私が歌うから、先輩の音楽は翼を得る。
私たちは、二人で一つだった。
そして、ついに学園祭の前夜がやってきた。
最後の練習を終えた音楽室は、シンと静まり返っている。
窓の外には、明日のお祭りを前にした学園の喧騒が、遠くに聞こえていた。
奏先輩は、完成したばかりの『夜明けのカンタータ』の楽譜を、大切そうに私に手渡した。
その表紙には、震えるような文字で、こう書かれていた。
『――しおりへ。愛を込めて。奏』
「この曲は……あなたのために書いた曲よ、しおりさん」
先輩の声は、少しだけ震えていた。
「私の、ううん……私たちの、魂そのものだわ」
私は、その言葉を胸に深く刻み込むように、楽譜をぎゅっと抱きしめた。
「先輩のこの素晴らしい曲を、私が世界で一番素敵に歌います。絶対に」
私たちは、どちらからともなく手を伸ばし、固く握り合った。
その温かさが、お互いの決意を確かめ合うように、じんわりと伝わってくる。
「二人なら、きっと奇跡を起こせるわ」
先輩が、確信に満ちた声で言った。
「ええ、絶対に」
私も、力強く頷く。
明日のステージが、どんな結末を迎えるのか、まだ誰にも分からない。
でも、今の私たちには、何も怖いものはなかった。
二人で紡いできたこの曲が、きっと明日、夜明けを告げてくれる。
そう、信じていたから。
◆◆◆◆
学園祭当日。
空はどこまでも高く澄み渡り、まるでお祭りの成功を約束してくれているかのようだった。
けれど、私の心は、期待と不安で今にも張り裂けそうなくらいドキドキしていた。
私たちのステージは、プログラムの本当に最後の最後。
有志参加の、ほんの小さな枠だった。
きっと、奏先輩への風当たりを考慮して、先生方がなんとか捻出してくれたのだろう。
中止になったと思われていた奏先輩の名前が、小さな文字でプログラムの片隅に印刷されているのを見つけた時、私は思わず涙ぐんでしまった。
日が傾き始め、学園祭の喧騒もピークを過ぎた頃。
いよいよ、私たちの出番がやってきた。
講堂の舞台袖は、ひんやりとしていて薄暗い。
隣に立つ奏先輩は、深紅のドレスを身に纏い、まるでこれから戦場に向かう女王のような気高さと、それでいてどこか儚げな美しさを漂わせていた。
先輩は、私の手をギュッと握りしめる。その手は、少しだけ冷たかった。
「大丈夫よ、しおりさん」
先輩は、私に微笑みかける。でも、その笑顔は少しだけ硬い。
「ううん、大丈夫。私たちなら、絶対にできるわ」
「……はいっ!」
私も、先輩の手を強く握り返した。
もう、怖いなんて言っていられない。
先輩の音楽を、私の歌を、信じるんだ。
司会の生徒による、少しぎこちない紹介の後、
私たちはステージへと足を踏み入れた。
眩しいスポットライト。
そして、客席を埋め尽くす、たくさんの顔、顔、顔。
中には、まだ私たちに冷ややかな視線を送る生徒もいる。
そして、講堂の後ろの方には、学園長先生や、理事会の方々と思われるスーツ姿の大人たちの姿も見えた。
会場全体が、どこか好奇と、そしてまだ残る不信感の入り混じった、重苦しい空気に包まれているような気がした。
奏先輩は、深く一礼すると、毅然とした態度でグランドピアノの前に座った。
私も、マイクの前に立つ。
心臓が、ドクン、ドクンと大きく脈打つのが、自分でも分かる。
大丈夫。
先輩が隣にいる。
そして、私たちの音楽がある。
一瞬の静寂。
そして、奏先輩の指が鍵盤に触れた瞬間――世界は変わった。
流れ出したのは、『夜明けのカンタータ』の、切なくも美しいピアノのイントロ。
それは、深い闇の底から、微かな光を求めて手を伸ばすような、そんな祈りにも似た旋律だった。
私は、ゆっくりと息を吸い込む。
そして、歌い出した。
その瞬間、会場の空気が、まるでガラスが砕けるように弾けたのが分かった。
私の声は、一点の曇りもない純粋さで、けれど、聴く者の心の奥底を鷲掴みにするような圧倒的な力強さで、講堂の隅々まで響き渡っていく。
奏先輩の創り上げた、複雑で、美しくて、そして魂を揺さぶるメロディ。
その一つ一つの音に、歌詞の一言一句に、私たちの全ての想いを乗せて。
それは、悲しみも、苦しみも、絶望も、全てを優しく包み込んで、
希望へと導くような、まさに奇跡の歌声と音楽だった。
難しい技巧とか、小難しい理屈なんて、どうでもいい。
ただ、純粋に「美しい」と、そして「心が震える」と、誰もが感じるはずだ。
私は、そう確信していた。
歌っている間、私は客席を見ることができなかった。
ただ、隣でピアノを奏でる奏先輩の横顔だけを、時折見つめていた。
先輩は、瞳を閉じて、全身全霊で鍵盤と向き合っている。
その指先から生まれる音の一つ一つが、私の歌声と完璧に溶け合い
共鳴し、そして、もっともっと大きな力となって、
会場全体を包み込んでいく。
ああ、これが、先輩の音楽。
これが、私たちの音楽なんだ――。
クライマックスで、私の声がどこまでも高く、どこまでも力強く伸びていった時。
ふと、客席から、誰かの声が聞こえたような気がした。
そして、最後の音がピアノの美しい残響と共に消え入った瞬間――。
一瞬の、完全な静寂。
まるで、世界から音が消えてしまったかのような。
そして、次の瞬間、
「「わあああああああああっっ!!!」」
割れんばかりの拍手と、地鳴りのような歓声が、講堂全体を揺るがした。
それは、今まで私が経験したことのない、熱狂的な、心からの賞賛だった。
鳴り止まない拍手と、飛び交う「ブラボー!」「最高だった!」という歓声。
気づけば、興奮した生徒たちがステージの前に詰めかけ、私たちに向かって手を振ったり、涙を拭ったりしている。
先生方も、普段の厳しい顔はどこへやら、目を丸くして立ち上がったまま、あるいは感動を隠せないといった表情で私たちを見つめていた。
講堂の後ろの方にいた学園長先生や理事会の方々も、その多くが呆然とした顔で、しかし確かに、私たちのパフォーマンスに心を揺さぶられた様子だった。
私と奏先輩は、何度も何度も深く頭を下げた。
涙で視界が滲んで、客席の光景がちゃんと見えない。
でも、この熱気と、私たちに向けられる温かい賞賛の嵐は、確かに本物だった。
ようやく鳴り止まぬ拍手の中をなんとかステージ袖にはけると、そこには興奮冷めやらぬ先生方や実行委員の生徒たちが待ち構えていて、口々に称賛の言葉をかけてくれた。
私たちは、促されるままに用意されていた小さな控室へと通される。
ドアが閉まり、ようやく二人きりになった瞬間、私と奏先輩は、どちらからともなくその場にへなへなと座り込んでしまった。
緊張の糸が、ぷつりと切れたみたいだった。
「……やったね、しおりさん……」
奏先輩が、まだ少し震える声で言った。その瞳は、達成感と安堵感で潤んでいる。
「……はいっ、奏先輩……! 私たち……歌いましたね……!」
私も、まだ夢を見ているような、ふわふわとした気持ちだった。
本当に、あのステージで歌いきったなんて、まだ信じられない。
「すごかったわ……しおりさんの歌声……。私、ピアノを弾きながら、何度も鳥肌が立って……」
「先輩の曲こそ、最高でした! あの曲だったから、私、歌えたんだと思います……!」
私たちは、お互いの手を握り合い、ただただその瞬間の感動を分かち合った。
言葉にならない想いが、胸いっぱいに込み上げてくる。
少し落ち着いた頃、奏先輩がふと自分のスマートフォンを取り出した。
「……もしかしたら、誰か、学園祭の感想とか、呟いてくれてるかもしれないわね……」
そう言って、SNSのアプリを開き、学園祭の公式ハッシュタグで検索を始める。
私も、隣からのぞき込むようにして、その画面を見つめた。
すると、数分も経たないうちに、奏先輩が「あっ……!」と小さな声を上げた。
「しおりさん、これ……!」
先輩が指差した画面には、私たちのステージの様子を撮影したと思われる動画のサムネイルが映し出されていた。
客席の後方から撮られたもので、決してプロが撮ったような鮮明な映像ではないけれど、私たちの歌声とピアノ、そして会場の熱気が、確かにそこには記録されていた。
タイトルには、『【神回】聖アリア女学院 学園祭ライブ この少女の歌がヤバすぎる』なんて、少し大げさな言葉が並んでいる。
二人で、恐る恐るその動画を再生してみる。
コメント欄には、すでに凄い勢いで感想が書き込まれていた。
『何これ鳥肌……涙止まらん』
『歌声も曲も神がかってる……!』
『販売熱望!!!』
『この二人、何者なの!?』
そして、動画の再生回数が、私たちの見ている前で、まるで生き物のようにぐんぐん伸びていく。
数百だったものが、あっという間に数千に。そして、気づけば一万、二万……。
「……うそ……。まだ、ステージが終わってから、一時間も経っていないのに……」
奏先輩が、信じられないといった表情で呟く。
私も、ただ唖然として、その画面を見つめることしかできなかった。
何が起こっているのか、まだ現実感が伴わない。
でも、確かなことは一つ。
私たちの歌は、確かに、あの会場の外へも届き始めていたのだ。
その夜は、二人とも興奮と疲労で、ほとんど眠ることができなかった。
そして、翌朝。
事態は、私たちの想像を遥かに超える規模で動き出していた。
学校は、昨日の私たちのライブの話題で持ちきり。クラスメイトたちからは、昨日までとは全く違う、尊敬と興奮の眼差しを向けられた。
そして、あの動画サイトにアップされた『夜明けのカンタータ』は、一夜にして日本国内だけでなく、海外の音楽ファンの間にも瞬く間に拡散していた。
再生回数は、あっという間に数百万回を突破し、テレビの情報番組やネットニュースでも「謎の天才女子高生シンガーと作曲家、学園祭に降臨!」といった見出しで、私たちのことが大きく報じられ始めていたのだ。
学園の電話は、朝から鳴りっぱなしだった。
国内外の有名音楽レーベル、実績のある音楽プロデューサー、果てはハリウッドの映画監督や、世界的な大企業のCM担当者まで……ありとあらゆる方面から、私と、そして何よりも奏先輩への、契約オファーやコラボレーションの依頼が、文字通り殺到していた。
それは、まさに社会現象と呼ぶにふさわしい熱狂ぶりだった。
この圧倒的な事実と、世界中からの賞賛の声によって、「ただのお飾り」「親の七光り」と揶揄されていた奏先輩の作曲家としての桁外れの才能は、疑いようのない形で世界に証明されたのだ。
学園長先生の失脚危機も、この社会的な盛り上がりと、奏先輩自身の輝かしい実績によって、陰謀を企てた勢力は完全に沈黙せざるを得なくなり、理事会も満場一致で解任動議を否決。奏先輩のお母様は、その手腕と娘の才能によって、最大の危機を乗り越え、名誉を完全に回復した。
◆◆◆◆
……あの嵐のような学園祭の日から、数日が過ぎた。
世間の熱狂はまだ少しも収まる気配を見せず、テレビをつければ私たちの話題が、街を歩けばどこからかあのメロディが流れてくるような、そんな毎日だった。
そして私は今、奏先輩の家の、広くて静かなリビングルームにいた。
学園祭の後、あまりにもたくさんの人から注目されすぎて、学校でも、街を歩いていても、知らない人にまで声をかけられたり、遠巻きにヒソヒソと噂されたり……。
正直、そんな毎日に私は少しだけ、ううん、かなり居心地の悪さを感じてしまっていた。
まるで、自分だけが自分じゃない何かになってしまったような、ふわふわとした不安感。
そんな私を見かねて、奏先輩が「少し落ち着くまで、うちにいらっしゃい」と優しく招き入れてくれたのだ。
「……なんだか、まだ全部夢みたいです、奏先輩」
温かいハーブティーの入ったカップを両手で包み込みながら、私はぽつりと呟いた。
「学校に行っても、今まで話したこともなかった人にまで声をかけられて……。嬉しい、はずなんですけど……正直、少し怖いくらいで……」
情けないとは思うけれど、これが私の素直な気持ちだった。
奏先輩は、私の隣にそっと座ると、困ったように笑う私に優しく微笑みかけた。
「ふふ、無理もないわ、しおりさん。あんなにも大きな出来事だったのだから。でも、大丈夫よ」
そう言って、先輩は私の手をそっと握ってくれる。その温かさが、私の不安を少しずつ溶かしていくようだった。
「あなたが不安な時は、私がいつでもそばにいるわ。それに、忘れないで。私たちの
歌が、あんなにもたくさんの人に届いたなんて、本当に奇跡みたいだけれど……でも、それはしおりさんと私、二人一緒だったから起こせた奇跡なのよ」
先輩の言葉は、いつも私の心の奥底に、確かな勇気を灯してくれる。
そうだ。私は一人じゃない。先輩がいてくれる。
そして、私たちの音楽がある。
「これから、どうなるんでしょうね……私たち」
ふと、そんな言葉が口をついて出た。
世界中からのオファー、たくさんの期待の声。それは、目が眩むような未来だけれど、同時に大きなプレッシャーでもある。
奏先輩は、窓の外の景色に目を細めながら、穏やかに答えた。
「そうね……どうなるのかしらね。でも、一つだけ確かなことがあるわ」
先輩は私の方に向き直ると、その美しい瞳で、まっすぐに私を見つめて言った。
「私たちはこれからも、二人で一緒に音楽を創っていく。そして、歌っていく。それ
だけは、何があっても、絶対に変わらない真実よ」
その言葉には、一点の迷いもなかった。
私たちの歌は、確かに夜明けを告げたのだ。
絶望の闇を照らし、新しい世界への扉を開いた、希望のカンタータとして。
そして、その歌は、まだ始まったばかりなのだと、先輩の瞳がそう語っていた。
エピローグ
あの嵐のような学園祭の日から、季節は少しだけ進み、聖アリア女学院の木々も、夕焼けと同じような美しい紅葉に染まり始めていた。
世界中を巻き込んだ熱狂は、まだ完全に収まったわけではないけれど、私たちの日常は、少しずつ、でも確実に落ち着きを取り戻しつつあった。
国内外から殺到した数えきれないほどのオファーについては、奏先輩のお母様である学園長先生や、お祖父様が信頼できる方々と共に、慎重に検討してくださっている。
でも、今の私たちにとって一番大切なのは、そんな華やかな世界の喧騒よりも、この放課後の音楽室で過ごす、二人だけの静かで温かい時間だった。
窓から差し込む柔らかな西日が、グランドピアノを金色に照らしている。
私は、奏先輩の隣に並んで座り、先輩が優しく奏でるピアノの音色に、そっと耳を澄ませていた。
それは、まだ名前のない、生まれたばかりの新しいメロディ。
私たちの未来みたいに、キラキラとした希望に満ちていて、それでいてどこか切なくて、胸の奥をぎゅっと締め付けるような、そんな美しい旋律だった。
「……素敵な曲ですね、先輩」
ピアノの音が途切れた時、私は小さな声で呟いた。
「ありがとう、しおりさん。あなたを想って……ううん、私たちのことを想って作っ
ていたら、自然とこんなメロディが浮かんできたの」
先輩は、少し照れたように微笑んで、私のことを見つめる。
その優しい眼差しに、私の心臓が、またトクンと小さく跳ねた。
あの学園祭の日から、私たちの関係は、言葉にしなくても分かるくらい、もっともっと深くなっていた。
お互いの存在が、空気や水みたいに、なくてはならないものになっている。
そして、その想いは、友情なんて言葉ではもう表せないくらい、甘くて、切なくて、そしてどうしようもなく愛おしいものへと変わっていた。
「先輩……」
私は、勇気を出して、先輩の手をそっと握った。
先輩の指が、驚いたように少しだけ震えて、そして、優しく私の手を握り返してくれる。
「あの時、先輩が私を見つけてくれなかったら……私、今頃どうなってたんだろうって、時々考えるんです」
「それは、私の方こそよ、しおりさん」
先輩は、私の言葉を遮るように、穏やかに言った。
「もし、あなたが私の前に現れてくれなかったら……私は、きっともう二度と、ピアノに触れることも、新しい曲を作ることもなかったかもしれないわ。あなたは、私の音楽に、もう一度命を吹き込んでくれた……」
その瞳は、感謝と、そしてそれ以上の深い愛情で潤んでいた。
「先輩こそ……私の、全部です」
私の声も、涙で震えてしまう。
もう、隠すことなんてできなかった。この溢れ出しそうな想いを。
私たちは、どちらからともなく、ゆっくりと顔を近づけた。
先輩の長いまつ毛が、夕陽の光を浴びてキラキラと輝いている。
その大きな瞳が、私だけを映している。
そして――
そっと、私たちの唇が、優しく重なり合った。
初めてのキスは、先輩が淹れてくれるハーブティーみたいに、ほんのり甘くて、そして心が蕩けてしまいそうなくらい温かかった。
触れ合うだけの、本当にささやかなキス。
でも、その一瞬に、私たちの全ての想いが凝縮されているような気がした。
これまでの苦しみも、悲しみも、そして二人で掴み取った喜びも、希望も、全部。
涙が、私の頬を伝って、先輩の頬にも流れていく。
それは、しょっぱいけれど、今まで流したどんな涙よりも、温かくて優しい涙だった。
唇が離れた後も、私たちはしばらくの間、お互いの額を寄せ合ったまま、その温もりを感じていた。
言葉はいらない。
ただ、こうしているだけで、心が満たされていく。
「これからも、ずっと一緒に歌っていこうね、しおりさん」
先輩が、囁くような声で言った。
「はいっ……!」
私は、力強く頷く。
「奏先輩の作る曲を、私が歌います。世界の果てまで、届けます」
「ええ。私たちの音楽を、世界中に響かせましょう。二人でなら、きっとどこへだって行けるわ」
先輩は、もう一度私を強く抱きしめてくれた。
窓の外には、美しい夕焼け空が広がっている。
それは、まるで私たちの未来を祝福するかのように、どこまでもどこまでも、茜色に輝いていた。
私たちの物語は、まだ始まったばかり。
これから先、どんな困難が待ち受けているかもしれない。
でも、大丈夫。
この温かい手を、この確かな愛を、決して離さない限り。
私たちのカンタータは、これからもずっと、鳴り響き続けるのだから。
二人だけの、永遠のアンコールのように。
サイレント・アリア~君が見つけた私の歌~ くるとん @kuruton3600
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