淡水をおしえて
萌 令児(もえれいじ)
淡水をおしえて
本当の淡水を知らない。だから、一緒に真似事をして泳ごう。足を伸ばせばぶつかってしまうような、小さな箱の中で、ぶくぶくと電気を伝い、流れてくる人工の空気しか知らない。息の仕方も、目の開き方も、ヒレの動かし方も、分からない。それでも、貴方のうしろなら、溺れていたって、沈んでいても構わない。
◇
女は、空っぽの水槽を見下ろしていた。
これは自分だ、そう思った。
長いこと、自分自身を見つめていた。
水槽の縁を固く握った手を解くと、指の腹でガラスをそっとなぞる。
「キンちゃん……」うわ言のように口から零れ落ちた。ポンプの音だけが、心地よく、それ以外のすべてがひどく耳障りだった。
「トイレに流せばいいでしょ」その声が頭に響いた。妹のポイは破れたのに「可愛いからおまけね」と、キンちゃんを連れ帰った。母は、じゃがいもの芽を摘み取る手を止めることなく、死んだ金魚を一瞥すると、眉に皺を寄せ、そう言い放った。少女はキッチンで、しばらく考えるように立ちすくんだ。新聞紙に丁寧に包み、庭に転がった錆びたスコップで土を掘り返した。硬い土に根が絡まり、思うようには進まない。散歩をしていた老人の視線を感じると、土からはみ出た金魚の尻尾を無視した。リビングからは「ハムスターを飼いたい」と、駄々をこねる声が聞こえる。窓一枚を隔てたその声は、ひどく遠くのものに感じた。「もし、妹がキンクマハムスターを飼ったのならば、またキンちゃんと名付けよう」少女はそう思いながら、音をたてないように、慎重に扉を閉めた。図書室で読んだ本には、魚には空気が必要だと書いてあった。犬を飼ったら、世話をするのが母親で、父親と喧嘩をしている、という会話が聞こえてきた、本当なのだろうか。
青白いライトが、ジリジリと音を立てる。固まった手のひらをゆっくりと広げると、水の中へ潜らせ、躍らせた。水が床を濡らすことも気に留めず、女はそれを続ける。目を瞑り、生臭い空気をゆっくりと吸い込んだ。ポンプからの泡が手のひらにぶつかっては消えるのを感じた。熱を奪われた女の爪は血の気を失っている。その冷たさで、思考が戻ると、ようやく気が付いた。水槽の外は、ずっとひとりだった。シンクに捨てられたじゃがいもの芽と同じ。息を吐きながら、机の上に目を向ける。新聞紙の上の金魚はぴくりとも動かない。虚ろな目で、女は手だけを動かし続ける。
金魚がまた死んだ。
新聞紙の上の金魚は、白い膜を帯び始めていた。
動かなくなったハムスターを新聞紙に包む。スコップが、かじかんだ手に刺さり痛みすら覚えた。たんぽぽを目印に、固い土を掘り返すと半年前に埋めた金魚の骨がそのままの形で出てきて、すべてを置いて逃げ出した。何度手を洗っても、鉄臭い匂いがこびりついて離れなかった。新聞紙に包まれたままの、あのハムスターは土に還ることはできたのだろうか。土から顔を覗かせた骨が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
淡水をおしえて 萌 令児(もえれいじ) @moereiji
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます