持ち物リストに赤はない

十夏

持ち物リストに赤はない

 目覚ましの音で目を覚ました。スヌーズを二回繰り返して、ようやく布団から這い出す。

 いつも通りの、何の変哲もない朝だ。

 洗面台の前で顔を洗いながら、スマホの通知をなんとなく開いた。よく当たるというレビューを読んで最近ダウンロードした、ルーン占いのアプリだ。「ルーナヴィーク・イングヴィ」という、占い師が運営しているらしい。


「みずがめ座のあなたへ。今日の運勢は花丸!

 場合によっては、運命の日とも言えるかも」

 運命の日! 私は歓喜した。どんな一日になるんだろう。就活で内定が決まるとか?運命の人と出会えるとか?

 私はうっとりと、画面を眺めた。しかし何やら続きがある。


「ただし、『赤い持ち物』には気をつけて」


 赤い持ち物。気をつけないと、どうなるんだろう。転んで怪我をするとか?病気になるとか?ひょっとしたら、死――

 まさか、と私は笑った。今まで生きてきて、そんな大それたことが起きたことは一度もない。

 それに、赤い物を避けるのは特別難しいことではなかった。元から赤が好きという訳でもなかったので、持ち物に赤い物はない。口紅もチークも、ネイルも。家具類にも赤い物はない。私は安心して、大学へ行く準備を始めた。

「待った」

 私は、ペンケースを開ける。教科書のライン引きなどに使う、赤ペンが入っている。

「取り出しておかなくちゃね」

 ライン引きなんて、他の色のペンを使えば良い。私は赤ペンを取り出した。

「……でも、待てよ」

 ふと疑念が湧いた。占いには「赤い持ち物」と書いてあった。持ち物の定義とは何だろう。もし、ここに書かれている「持ち物」が「持ち歩く物」ではなく、「所有物」という意味だったとしたら?

「馬鹿馬鹿しい」

 私は自嘲気味に笑った。しかし、一度抱いてしまった疑念は、もう頭から離れなかった。

「……」

 私は、赤ペンを捨てることにした。幸い、今朝はごみの日だ。やはりついている日なのかもしれない。


 それから、朝食の準備に取りかかった。冷蔵庫を開けると、様々な赤い食材が目に飛び込んでくる。イチゴジャム、ラディッシュ、トマトジュース……ビタミン不足が気になってたけど、仕方がない。

 大丈夫、占いは今日限りなんだから。また明日、買えば良い。そう自分を慰め、肉類も、調味料も、赤味のある物は全部ごみ袋に入れた。にんじんやエビなど、赤い食材が含まれているカップラーメンも全部捨てた。食材が化けて出るといけないので、手を合わせてから、そっとごみ袋を締めた。朝食は、トーストにした。



 玄関を出て、ふと表札を見た。正確には表札の下にある、「Security by SECOM」と書かれている、赤い色した正方形のステッカー。

 少し迷ったが、私はそれを黒いマジックで塗り潰した。大丈夫、明日また再発行すれば良い。とにかく今日を乗り切ることが先決だ。私は大学へと向かった。

 教室に入り、空いている席に座る。けれど、講義の内容よりも、赤い物ばかりが気になって仕方がなかった。

 とりわけ厄介だったのは、黒板の赤いチョークの文字。さすがに見るだけなら大丈夫だろうけど、あまり長いこと視界に入れておくと、「自分の持ち物」扱いになってしまうような気がしてならなかった。

 けれど、ノートに写すためには赤い文字を見なければならない。なるべく赤い文字が網膜に焼き付かないよう、ノートと黒板の間で視線を忙しなく行き来させた。


「――さん。――さん!」

「はい!」

 教員に名前を呼ばれた私は、飛び上がるように席を立った。

「この部分、黒板にまとめてくれる? 強調する箇所は、赤チョークで書いてね」

「えっと、あの……黄色じゃダメですか?」

「黄色はもう、結構使っちゃってるから。赤でお願い」

「……すみません、体調が悪いので早退します!」

「え?」

 教員の私を呼ぶ声、学生達のざわつく声を背後に、私は教室の出口へと駆け出した。

 二時間目以降も同じことが起きるかもしれないので、早退することにした。馬鹿げているのはわかっている。でも、「赤」のない場所で息をしたかった。


 今日はさっさと家に帰ってしまおう。私は帰路につこうとした。しかし、あることを思い出した。

 ――そうだ、SECOMのステッカーを塗り潰したんだった。

 そうすると、家に居るのは危険かもしれない。もし強盗なんかが家に来たら、殺されなくとも怪我をするかもしれない。怪我をすれば、赤い血が流れてしまう……そうなると、日付が変わるまで家に帰らない方が良いだろうか。


「血といえば……」

 大丈夫。次の生理まで三週間もある。念の為、生理周期が予測できるアプリでも確認した。

 けれど、血は体内を常に巡っている。それは赤い物を持っていることにならないだろうか?

 いや、さすがにそこまで考えなくても良いだろう。それがダメなら、私はとっくに不幸になっているはずだ。血は今日が始まる前からずっと体内にあるんだから。私はそう自分に言い聞かせた。

 でも、その論理でいうならペンや食材を捨てることもなかったな。前からずっと持ってたんだから。


 さて、どこで時間を潰そうか。

「そうだ、市内の図書館へ行こう」


 図書館なら静かで、色のことも気にしないで済むかもしれない。そう思って、歩き出した。

 横断歩道に着くと、赤信号に引っかかった。私は授業の時と同様、「赤」から目を背けた。信号が青に変わったので、左右を確認した。車はきちんと停まっているので何も起きないはずだけど、いつになく緊張してしまう。私は周りから数歩遅れて歩き出した。

 その時だ。すれ違いざま、赤いカーディガンを着た女性とぶつかった。腕と腕が、かすかに触れ合った。

「あっ、すみません」

 女性は謝ってくれた。でも、私は何も言えなかった。ただ黙って、ぶつかった自分の腕を凝視していた。

「どうかしましたか?」

「あっ、いえ……」

 大丈夫です、とだけ返して、私は逃げるように信号を渡った。少し離れた場所で、私は急いで腕を払った。

 赤いカーディガンの、繊維がついてしまったかもしれない。わずかな可能性でも排除しなければ。人が見るのも構わず、必死で払い続けた。


 そんなこんなで、図書館に辿りついた。せめて今日出席できなかった授業の内容だけでも補っておこうと、教科書をひらいた。

 一通り学習を終えると、装丁が赤色ではなく、ページがモノクロの本を探した。そんなのは幾らでもあるから簡単なことだった。水を得た魚のように、本の海に没頭していた。


 もう何冊読んだだろう。ふと私は周りを見た。美しい夕焼けの光が、部屋中に降り注いでいる。夕焼けに照らされ、私の体も赤く染まり――

 私は急いで本を戻し、光の当たらない場所を探した。トイレは混雑していて、入れない。私は図書館を出て、地下鉄の出入口へと足を速めた。血の海のような世界から、逃げ出すかのように。そして日が落ちるまで、身を潜めた。


 日没後、ようやく地上に戻ることができた。

「……おなかすいた」

 そういえば、朝食以来何も食べていない。私は蛾のようにフラフラと、コンビニの灯りに引き寄せられていった。

「いらっしゃいませ」

 一歩踏み入れた途端、深みのある出汁の香りがした。これはそう――おでんだ。おでんなら、赤い具材もほとんどないだろう。私は調理器の前に並んだ。そして目を疑った。

 生の臓物のような赤い物体が、煮込まれている。

 私は思わず悲鳴を上げ、後ずさった。

「お客様!?」

「……あの、この赤いのは……?」

「ああ、これですか?当店名物の『赤こんにゃく』ですよ」

 にこにこした顔で店員は言う。

「わたくし、滋賀の出身でしてね。近江八幡特産の赤こんにゃくをお客様に知ってもらいたくて、売り出してるんです」

「あの、血で赤くなってる訳じゃないんですか……?」

「やだなあ、違いますよ〜! 酸化鉄で赤く染めあげてるんです」

 私はその場でスマホで調べた。本当にそういうこんにゃくがあるらしい。ともかく赤いのには変わりないので、私はサンドイッチを買った。無論赤い食材も、赤い色素も含まれていないものを選んだ。

 ありがとうございました〜、という店員の声を背に、私はコンビニを出た。


 お腹はふくれたが、悲しい気持ちでいっぱいだった。それに朝から栄養が足りていないせいか、体がフラフラする。

 わかっている。これじゃ本末転倒だ。幸せになろうとして、逆に不幸になっている。

 そう頭でわかっていても、止められなかった。やめたら、もっと不幸になるかもしれない。とんだマジカルシンキングだ。

 でも、それも今日限り。あと数時間待てば、日付が変わる。それまでの辛抱だ。それさえ乗り越えれば、きっと幸せに――


 ふと、私は口の中に異変を感じた。舌で触れると、ピリリと痛い――

「まさか……口内炎?」

 私は立ち止まり、スマホで検索した。口内炎の主な原因は、ビタミン不足。

 すぐに、口の中を鏡のアプリで確認した。小さな白い潰れと、その中心に滲むような赤。見た瞬間、心臓が跳ねた。

 その時だった。耳元で、ブレーキのきしむ音がした。次の瞬間、背中に衝撃が走り、世界がひっくり返った。

「大丈夫ですか!?」

 車のドアが開く音と、駆け寄る足音。

「救急です。車で人を轢いてしまいました。相手は歩きスマホで、突然止まって……」

 ああ、赤が流れていく。私の体は、これまでに手に入れたどんな赤よりも、鮮やかに染まっているだろう。それも、もう見えないけれど。

 こうなった理由は、きっと誰からも理解されることはないだろう。やがて何も――音も声も、届かなくなった。



「こうなることは予測できなかった……」

 水晶玉を覗いていた女が、肩を落とした。

 傍らにある占星術の道具ーーラピス・ラズリ製のルーンストーンを丁寧に磨きながら、男が返答する。

「偉大なる予言者、ルーナヴィーク・イングヴィ先生でもわからないことがあるんですね」

「言っただろう。占いではわからないことの方が多いんだ。

 彼女にしたって、口内炎ができる以外は、幸せになっていたはずなのに。それに今日の授業の発表でも、十分に活躍できただろうに」

「『赤い持ち物』なんて、わかりにくい書き方するからいけないんですよ。

 例えば契約書がやたらに小難しく長ったらしい文章なのは、解釈が分かれないようにするためなんですから」

「それではアプリの利用者が減るではないか。小難しい占いが売れるものか。

 それに、生年月日が同じ者をまとめて占っているんだ。ピンポイントな占いなど出来るものじゃなかろう。

 ああ、アプリなんて始めるんじゃなかった。従来のように対面で占っていたら、十分に説明できたろうに――」

「確かに、占った相手をわざわざ水晶玉で覗くような人には、アプリ運営は向いてないかもしれませんね。利用者一人一人を観察してたら、キリがありませんよ」

「私は自分の占いで人に不幸になって欲しくないんだ」

「だったら、いっそ占いなんてやめてしまえば?」

「それだと幸せにすることも出来ないだろうが」

「占いなんてなくても、幸せな人は幾らでもいますよ」

「身も蓋もないことを言うな。それだと食いっぱぐれてしまうではないか。私も、私の助手をしているお前もな」

「それは困りますね」

 助手と呼ばれた男は苦笑いした。

「ところで、彼女のあの強迫観念は何なんでしょう?」

「断定はできないが、おそらく……強迫性障害だと思われる」

「強迫性障害って……極端に手を洗うとか、そんなイメージがありましたが」

「それも一つだが、彼女のようにジンクスを気にしすぎる症例もある。

 程度によってはこんな風になるのは日常茶飯事だし、こんなものじゃ済まないことも多々ある。

 最初は大したことがなくても、徐々にエスカレートしていくパターンも多い」

「先生は精神医学にも詳しいんですね」

 知っているだけじゃどうにもならないさ、とルーナヴィークは自嘲気味につぶやいた。

「せめて祈ろう。この魂が来世では幸せになれるよう。幸運の星の下、生まれ変わることができるよう――」

 予言者ルーナヴィーク・イングヴィは目を閉じ、水晶玉に手を合わせた。助手もそれに倣った。

 そのとき水晶玉に、白く細い靄のようなものが一瞬だけ揺らめいた。だがそれも、風に吹かれる煙のように、やがて消えていった。

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