あの子がいる夜
雪原一哉
あの子がいる夜
まだ暑さが残っているというのに、僕はある災難に見舞われた。部屋のエアコンが壊れたのだ。生命に関わるほどではないから、災難というと大げさに聞こえてしまうけれど、現代っ子の僕にとっては死活問題である。猛暑日が続く時期でなくてよかったとは思ったものの、まだエアコンなしで過ごすには少し厳しい。修理を依頼したがすぐに直してもらえるとはいかず、これから数日はエアコンのない日々を送ることになった。
実家にいたころは何の問題もなく生活を送っていたのに、一人暮らしを始めた途端、何もかもうまくいかなくなったように感じる。置かれたままの弁当の空きガラやエナジードリンクの空き缶、散乱する脱ぎっぱなしの服、丸められたティッシュ。
「修理に入ってもらうなら片づけておかないと」と思うけれど、どうにもやる気が出ない。前まで多かった独り言も、最近はめっきりと減ってしまって、部屋の中が随分と静かになった。何かが足りない気がするけれど、何が足りていないのか分からないし、実際には何も欠けていないのだと思う。
それにしても、あの人工でしか作り出せない部屋中がひんやりとした空気で満たされる感覚が恋しい。寝ているだけだといっても、じっとりとした暑さがまとわりついて何とも気持ち悪い。日中はエアコンが効いているところで時間を潰すことにしよう。そう思って、僕は最低限の荷物をリュックに詰めて部屋を出た。
何時間かショッピングモールや書店を転々としていたが、店が次々と閉店時間を迎えていき、僕は仕方なくアパートに帰ることにした。帰ったら掃除しなきゃ、なんて考え事をしながら歩いていると、気が付いたら公園の中にいた。いつもは子どもが遊んでいるから、この道を通ることは無いのだが時間が遅くて誰もいなかったからだろうか。「こっちを通ろう」なんて考えた覚えはなかったけれど、アパートに向かう方向ではあるから特に問題はなかった。
夕方まではあんなに騒がしいのに、夜になると静まり返って物音一つしない公園はどこか不気味さを感じさせる。早く帰ろう。そう思って歩みを速めた時、前方の背の低い植木の向こうでガサリと音がした。ちょうど怖いことを考えていた僕は驚いて、音がしたほうに目を凝らす。だけど、人の姿は見えないし再び音がすることも茂みが動くこともなかった。このまま歩みを進めれば音がした付近を横切ることになるけれど、人ではないのなら不審者でもないし問題ないだろう。何事もなかったかのように振る舞えば大丈夫。風とか、重力とか、そんなことで木々が少し動いただけだろう。早く帰ってシャワーを浴びて、キンキンに冷えた炭酸とアイスで涼もう。そう思いながらその付近を通り過ぎるときに、何かの気配を感じた。
呼吸音、鼓動、生き物の体温。そんなものを遠く離れていて感じ取れる訳はないけれど、近くに人がいるときに目を瞑ったときに感じられる気配と同じようなものがそこにあった。ぞくりとすると同時に、家族と一緒にいた時の安心感のようなものを感じた気がした。
通り過ぎてしまったわけだが、立ち止まるべきか振り返るべきか。そんなことを考えながらも足は止まらず前へと進み続ける。それでいい。気のせいだろう、仮に本当に何かいたとしても動物かもしれない。それに、面倒ごとに巻き込まれるのは御免だ。いや、だけど――。
思考はまとまらないが、何かを自分に言い聞かせるようにしながら公園を抜ける。そして、十字路に出た僕は直進してアパートに向かう。はずだったのだけど、左に曲がり、ぐるりと回って公園に入るときに通った出入り口に立っていた。
いや、僕は何をしているんだ?もう一度あそこを通ってみたらどうなるか、などと思い浮かんでしまったことを後悔する。ほら、はじめは興味がなくても次第に気になってくることなんて日常でもよくある話だろ?そんな考えが僕の頭の中で浮かんで消える。僕の性格上、少しでも気になってしまったからには、しばらくは気にし続けてしまうことは明白だった。最終的に、「アイスを食べながら気になりだしたら嫌だなあ。ならばいっそ、確かめておこう。」という答えに至ったわけで。まったく、自分でもつくづく思うが面倒な性格をしている。
結果として、もう一度そこを通ってみたけど何事もなく、少し茂みに入って確認もしたけど、何もいなかった。やっぱり気配を感じたのは気のせいだったのだろう。この茹だるような暑さや、エアコンをめぐるトラブルに、眠気やらストレスやらがそう感じさせたのだろう。これで気になっていたことは解消された。そのおかげか、先ほどまでより頭がシャキッとしているような気がする。
「――じゃあ、帰ろうか。」
僕は茂みから出ると、少し離れたところに立っている彼女に向かって声をかける。いつからそこにいたのだろう?そんなことより、真っ白なワンピースが風に揺れていて綺麗だった。街灯が逆光になって表情が良く見えないけれど、にこりと笑っているような気がした。
僕が彼女の方に駆け寄ると、彼女も僕の方に歩いてくる。コンクリートと彼女の足がたてるペタペタという音は心地良くて、僕の靴の音とは全然違っていてなんとも面白かった。
「隣に来なよ。」
彼女は何も言わずすっと僕の隣に並ぶ。何も言わないのがかえって可愛らしく思えて僕は小さく笑った。僕より身長が低い彼女は見上げないと僕の表情はわからないし、僕が彼女のことをいくら見ていても気付かれないはずだ。彼女のことを眺めていると、いろいろ興味がわいてくる。正面をじっと見て歩く彼女は何を考えているのだろう。肩が触れそうな近さを歩く彼女の手に触れたら彼女はどんな反応をするだろう。
僕は好奇心に負けてそっと指を動かすと彼女の透き通るような白い手に触れた。反応はない。それならば、と彼女の手の甲から手の平へと指を伸ばして手を握る。彼女の手がピクリと動いたような気がするけど、気のせいだったかもしれない。彼女のひんやりとした体温が心地よい。彼女からの反応はないけれど、拒まれているわけではないから嬉しくなる。
彼女は相変わらず正面を見続けている。彼女のことを見ているといろいろな疑問がわいてくる。このきれいな髪はどんな手入れをしているのだろう。透き通るような白い肌を触ったらどんな反応をするだろう。薄着で寒くないだろうか。彼女の小さな口からこぼれる声はどんな音をするのだろう。そういえば話したことはあっただろうか。今、何を考えているのだろう。どこで出会ったのだったか。いつから一緒に居たのか。彼女の名前は……。
気になることは多いけれど、一つずつ明らかにしていけばいい。なにせ時間はこれから先たくさんある。色々と思い出せない気がするけれど、夜も遅いし疲れているせいだろう。だって、彼女は僕にとって彼女は大切な存在な気がするから。
あの子がいる夜 雪原一哉 @yukihara18
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