第3章 試しの間
館長は、軽く声を張った。
「リツ。こちらへ」
すぐに、石造りの通路にかすかな足音が響く。
音の粒は均一で、影を引かぬ歩調。まるで“書架の構造”がそのまま歩いてくるようだった。
やがて現れたのは、あの少女──リツ。
表情はなく、まなざしは澄んでいる。ただ、どこか“他者としての距離”を一切持たぬ目だった。
「お呼びでしょうか」
武蔵は眉をひそめ、館長へと振り向く。
「……どういうことじゃ。先ほどの娘ではないか。体得しているというのは、館長殿──そなたのことではなかったのか」
館長は、変わらぬ穏やかな声で答える。
「わたくしもそうですね。ただ──このリツもまた、“習熟者”と言って差し支えございません」
その一言で、場の空気が変わった。
沈黙。武蔵の呼吸がわずかに乱れる。
肩が動き、杖を握る指に力がこもる。
「……ワシを、愚弄しておるのか」
声は静かだった。だがその奥には、老いた誇りを踏みにじられた者だけが持つ、剥き出しの怒気が滲んでいた。
「この哀れな老人を笑おうとしておるのか。……それとも、試そうというのか……?」
館長は静かに首を振る。
「滅相もございません。貴殿のような高名な術士を侮るなど、とんでもない。ただ──」
一呼吸、置いた。
「……“論より証拠”と申しますゆえ」
そう言って、館長は身を翻した。
「武蔵殿。──どうぞ、“試しの間”へご案内いたしましょう」
* * *
試しの間は、図書館の深部に位置していた。
回廊の奥、魔法障壁で封じられた扉の先。円形の石造りの空間は、魔力の反響を逃すよう幾何学的な文様で満たされている。
床には結界陣が刻まれ、空間は“試験”のためだけに調律されていた。
「ここであれば、いかなる術式を用いられても問題ございません。……壊れるものは、なにもございませんゆえ」
館長が一歩下がると、リツ──いや、今や“構造体”とも言うべき少女が、無言のまま前に出た。
武蔵は、その動きに小さく眉をひそめた。
「……ぬ? 何を──」
リツは、肩をゆっくりと回し、腕を静かに伸ばす。
その動きに、無駄も躊躇もない。まるで書を開くように、自然な手続きとして構えが完成する。
武蔵の目がわずかに見開かれた。
「どういうつもりじゃ?」
館長がゆるやかに答える。
「今から武蔵殿には、リツと戦っていただきます。先ほど言った意味が──直にご理解いただけるでしょう」
「なっ、この娘と戦えと申すのか?」
リツは微動だにせず、平坦な口調で言った。
「ご安心ください。お客人様に怪我がないよう、ちゃんと手加減は致します」
その瞬間、空気がひとつ、跳ねた。
武蔵の足元に刻まれた魔法陣が、微かに輝く。
抑えていた魔力が滲み、床を伝って波打ち始める。
「こっ……このワシに手加減を……? “千の門を開けし者”とまで謳われた、このワシに……!」
武蔵は静かに言った。
「ただではすまぬぞ……いいんだな?」
リツは微動だにせず、平坦な口調で答えた。
「御自分のお身体のみをご心配ください。」
「……舐めるなよ、小童がッ!」
声が低く響くと同時に、結界の魔力がわずかに軋んだ。
「世間でワシが“千の門を開けし者”と呼ばれているのは、伊達ではないぞ。──よかろう、ならば見せてやろう」
杖が振るわれる。
初撃。雷撃の閃光が、空間を裂いた。
杖が振り下ろされた瞬間、雷撃が空を裂いた。
紫電の奔流が、幾重にも束ねられた魔法陣の中心から放たれ、リツへ直線に奔る。
だが──彼女は、一歩たりとも動かない。
その右手が、空をなぞるようにわずかに動いた。
「展開式に、初期座標の重複がございます」
瞬間、雷撃は空中で散り、結界に触れることもなく、消滅した。
「……なっ……」
武蔵の目が揺れる。
第二撃。炎熱が爆ぜ、空気を灼くように火球が飛ぶ。続いて氷刃、圧縮空間、斥力による多重干渉──
彼の身体が動くたび、術式が次々に編まれ、空間に展開される。
だが、そのすべてに──“何か”が欠けていた。
「術式の切り替えが早すぎます。変調帯の余熱が重なって、魔力流が乱れております」
また、解体。
また、崩壊。
武蔵の眉間に皺が寄る。
呼吸が粗くなり、額に滲む汗が頬を伝う。
「……では、これはどうじゃッ!」
杖を高く掲げる。
空間が歪み、音が沈む。
重力が一瞬反転し、試技場全体が沈黙に包まれた。
──“黒界の針”。
古代魔術書より発掘された、対次元構造体用の術式。数百の条件を同時に満たすことでしか発動できない、武蔵の奥義。
解放の瞬間、結界がきしみ、床に刻まれた文様が明滅する。
空間に浮かんだ漆黒の針が、ゆっくりとリツへ向かって進む。
だが──そのとき。
リツはわずかに首を傾けると、静かに指を鳴らした。
次の瞬間――
世界が歪んだ。
空間そのものが波打ち、闇の針が音もなく霧散する。
武蔵の目の前で、黒界の針が“消失”したのではない。
“存在自体が、最初からなかった”ような虚無が残る。
「……なっ……!?」
膝が、勝手に震えた。恐怖でも、敗北でもない。
“論理すら超えた力”の断絶――。
リツは、何事もなかったかのように武蔵を見ていた。
「旧い技術体系では、私に届きません」
リツの声には、何の感情もない。だが、それがかえって深く突き刺さる。
「現行理論における魔力流動係数は、十年前から更新されております。外部収束術式の構成法則も、対消滅干渉への耐性が不足している状態です」
武蔵の足が、わずかによろけた。
杖の先が床を打ち、微かな音が石の空間に跳ね返る。
「ワシは……ワシは……!」
彼は、唇を噛んだ。血の味が広がる。
「全人生をかけて、命を削って……すべてを学んだ……! それを、なぜ……!」
答えは、返ってこない。
リツはただ、構えを解き、静かに頭を下げた。
「お客人様。終了でよろしいですか?」
──その一言が、武蔵の誇りを完全に砕いた。
杖が、床に落ちた。
金属音はせず、ただ“重さ”だけが石の床に染み込むようだった。
武蔵は、その場に膝をついた。
手をつき、頭を垂れる。肩がわずかに揺れ──その震えが、誇りの終わりを告げていた。
背後から、館長の声が静かに届く。
「……武蔵殿。“知”とは、いかなる形をしておると思われますかな?」
武蔵は、答えない。
「わたくしは、“構造”こそが知の形だと信じております。ゆえに、あの子は……その構造の結晶です。お解りいただけたかな?」
武蔵の口元が、わずかに歪んだ。
「……ああ。……痛いほど、わかったわい……」
──そして、沈黙が再び、試技場を包んだ。
* * *
試技場から戻った三人は、再び図書館内の一室──
厚手の絨毯が敷かれた静かな居間へと通された。
丸卓の中央には、湯気の立つ茶器が置かれている。
小さな魔術灯が淡く光を投げ、先ほどまでの張り詰めた気配が、ようやく和らいでいた。
武蔵は、椅子に深く身を預けるように腰を下ろした。
杖は傍らに立てかけたまま、しばし沈黙する。
「……自分の実力には、それなりに自信があったのだがな」
ぽつりと洩れた声は、敗北の悔しさよりも、どこか乾いた笑いに近かった。
「それが、こうも粉々になるとは……老い、という次元の話ではないな。まったく、ワシときたら──何を相手にしておったのかの……」
館長は卓を挟んで向かいに座り、静かに湯を啜っている。
その口元には、微笑とも苦笑ともつかぬ表情が浮かんでいた。
「武蔵殿の実力は、今まで訪れた術士たちの中でも、紛れもなく上位にございます。ねぇ、リツ」
言われて、少女が答える。
「……そうでしょうか?」
無表情のまま、淡々と。
対面に座るリツは、表情一つ変えずに告げた。
「お客人様の術式は、第五階層基準において、反応速度と精度の両面で──ワタクシと比べて、大幅に下回っております」
館長が、わずかに眉をひそめた。
「……リツ。君は、少し分かっていないようだな」
武蔵が右手をゆるく振り上げて、それを制した。
「……もうやめてくれ。こんな有様で慰められても、惨めなだけじゃ」
その声は、怒りでも自嘲でもなかった。
ただ、静かに“受け入れた者”の響きを帯びていた。
館長はしばし黙し、それから湯を一杯注いで、武蔵の前にそっと置いた。
「では──武蔵殿。先ほどの問いに、お答えいただけますかな?」
武蔵は視線を上げる。
一瞬だけ虚を突かれたようにまばたきし、それから思い出したように呟いた。
「……ああ、あの問いか。……ワシが“体得せねばならぬのか”というやつじゃな」
短く息を吐くと、湯飲みを手に取り、口元に寄せた。
香草の香りが鼻をかすめる。ひと口すする。
「──ワシが欲しいのはの、“読む力”ではない。“その力を使える状況”じゃ。それだけでええ」
湯飲みを置くと、彼は卓越した術士の顔ではなく、長い年月を歩いてきた者の顔で、まっすぐ館長を見た。
館長は、微かに目を細めた。
「……左様でございますか。であれば──武蔵殿」
言葉を切り、リツを一瞥する。
「この子を、あなたの道連れにしてみてはいかがですかな。」
言葉に、重みはなかった。
けれどそこにあったのは、“意図”でも“願い”でもない、まるで自然現象のような、“結論”だった。
* * *
外は薄く霞んでいた。
森の稜線に朝の光がにじみ、石造りの階段には露が残っている。
武蔵は段の縁に腰を下ろし、冷えた空気を深く吸い込んだ。昨夜のやりとりが、頭の奥にまだ沈んでいる。
足元には荷が整えられている。水筒、干し肉、簡易道具、魔術具──余計なものは何ひとつない。
隣にはリツが立っていた。白い法衣を着たまま、表情もなく、ただ風を計測するように袖が揺れている。
「……ふむ。もう、準備は整っておるのか」
「はい。お客人様の分もすべて整えてあります」
「おいおい……今からは旅の仲間じゃろ。その呼び方はやめてくれんかの」
「お客人様はお客人様です。辞める意味がわかりません。」
「う、うーん….まあええじゃろ。」
後ろで扉が音もなく開いた。館長が、法衣の上から旅装に近い薄手の外套を羽織って現れる。
その手には、小さい袋がひとつ。
リツの前に立つと、その小袋を手渡した。
「お守りの様なものです。常に手放さずに持っていなさい。」
リツはわずかにまばたきを一度し、それだけで応じた。
「──承知しました。記憶に記録しておきます」
武蔵は一歩だけ進み、館長の隣に立つ。
「──世話になった。あの子のこと、責任もって見届けよう」
館長は視線をリツに向けたまま、静かに口を開く。
「……行ってきなさい。世界を、その目で見てくるといい」
「承知しました」
それは命令を受けるための、反射的な応答だった。
武蔵は肩をひとつだけすくめ、踵を返しかけ──ふと、その動きを止めた。
迷いとも、後悔ともつかぬ色が一瞬だけ表情をかすめ、彼は振り返らずにリツと館長を見やった。
「ワシは……もう、動き出してしまったのじゃ。今さら考えても、しょうがあるまい」
そう覚悟を決めた武蔵は、リツとともに霧の中へと歩き出した。
静かに、確かに──この“構造の檻”を後にして。
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