この思いは、私だけのもの

間川 レイ

第1話

「ね、由美はさ。結婚とかしないのかな」


なんて。紗奈が言ったのは、久々に河原町で会って、一緒にお昼を食べているときのことだった。私は食後の眠気覚ましにと頼んでおいたコーヒーを、カチャンとソーサーに戻しながら答える。


「何でまた、急に」


紗菜の目を見ないように、手元のコーヒーに視線を落として。それに気づいてか知らずか、紗菜はどこか面白げに続ける。


「だってそろそろ私たち29だよ。もう、とっくにアラサー。結婚するなら、さすがにそろそろ急がないといけないじゃん?」


「そういう紗菜は結婚したいの」


そんな私の言葉にどこか照れ臭げに笑う紗菜。


「まあね。一生独りぼっちっていうのも、寂しいじゃん。死ぬ時ぐらい誰かに看取ってもらいたいじゃん?」


「わかんなくはないかな」


軽くため息を吐きつつ背もたれに体重を預ける。


「となると、いろいろ婚活とかもしてるの」


そんな私の言葉に、小さく微笑む紗菜。


「まあ、一応ね。マッチングアプリをいくつか入れてる。そこそこ相性よさげな人も2,3人見つかっているんだよ」


「うまく行くと良いね」


そんな私の言葉は、空疎に聞こえやしなかっただろうか。そう心配しつつ紗菜の顔を窺うも、紗菜は相変わらずニコニコしているばかり。そっと胸をなでおろす。別に、私だって紗菜に嫌われたいわけではないから。紗菜は手元の紅茶に目を落としながらぽつりと言う。


「うまく行くかな」


「うまく行くよ。きっと。あなた良い子だから」


そう返す。実際紗菜はいい子だ。それは間違いない。初めて出会った、中学のテニス部のころから。中高ずっと一緒にダブルスを組んだり、一緒に小説同好会で過ごしてきたから、私は知っている。紗菜はいい子だ。私が知る限り、この世界中で一番いい子。優しい子。かつて京都府大会出場を目前にした試合で、私がチャンスボールを見逃したせいで京都府大会出場を逃した時も怒らなかったし。泣きじゃくりながら必死に謝る私に、ごめん、私がフォローできてたらと逆に謝ってくれた。二人とも泣きながらたい焼きを買って帰った。


一緒に入った小説同好会。一緒にうんうん頭をうならせて、次の文芸誌に出す短編のアイディアを練りあった。時に原稿を見せ合ったりして、ああでもない、こうでもないと言いあった。といっても、紗菜の原稿はいつだって完成度が高くて、ここはちょっとだけわかりにくいみたいな、微調整のアイディアしか出すことはできなかったけれど。むしろ、私は紗菜からアイディアを貰ってばかりだった。その描写では何が言いたいのかわからないよ。その展開は急すぎない。時に厳しく、時に励ますように、言いにくいことでもズバズバと、沢山のアドバイスをもらったことをよく覚えている。


大学は紗菜が東京の大学へ行ってしまったことで、離れ離れになってしまったけれど。定期的にサークルの集まりで上京しては紗菜の家に泊まらせてもらったし、紗菜が京都に帰ってきた時は、ほぼ必ず一緒に遊びに行った。それはお互いが就職してからも一緒。月に何回かは電話するし、タイミングが合えばこうして一緒にご飯を食べたりもする。だから私は知っている。紗菜はいい子。世界で一番いい子で、優しい子。たとえ世界中の誰もが紗菜を嫌っても、私だけは紗菜を嫌いにならない。そんな自信のある素敵な子。だから私は言うのだ。「紗菜なら大丈夫だよ」と。紗菜が結婚したら、寂しくなるな。そんな内心は押し殺して。


「そう?ありがとう」


嬉しそうにはにかむように笑う紗菜を見ながら、コーヒーをすする。熱い芳醇な液体が喉を滑り落ちていくのを感じる。ふうと一息つく。紗菜も一口紅茶を飲むと、かちゃりとソーサーに戻して言った。


「だから、気になったんだ。由美は結婚とかしないのかなって」


私はすっと紗菜の目を見つめると言った。


「しないかな。絶対しない。綺麗ではいたいけど、結婚はしない」


「そっか」


そう、小さく呟く紗菜。


「それは、やっぱり家族のせい?」


そう、小さな声で尋ねる横顔は、どこか寂し気で。それが無性に私を苛立たせた。


「知ってるくせに」


小さく吐き捨てるように答える。吐き出された言葉ののとげとげしさに、我ながら少し驚く。でも取り消すつもりはなかった。


「そうだよね、ごめんね」


小さくうつむきがちに謝ってくる紗菜に、手をひらひらと振って見せる。ずきずき胸が痛むのを、努めて無視するようにしながら。知ってるくせに。私はもう一度内心で呟く。紗菜は知っているはずだ。たくさんの愚痴を聞いてもらったから。たくさんの愚痴を聞かせてしまったから。私の家族について。私が育った環境について。


私の両親は、端的に言って気分屋で、かつ教育ママだった。成績が悪ければ、こんな成績で将来どうするつもりだと力いっぱいお腹を殴った。ごめんなさい、ごめんなさいと必死に泣きながら謝っても、ごめんで済むか馬鹿野郎と、更に余分に殴られた。何でお前は勉強しない、もっと真面目に頑張らないと、馬鹿みたいに耳をつんざくような大きさで絶叫しながら、ポニテのしっぽ部分をつかんで頭をがくがく揺さぶられた。あるいはそのまま壁や勉強机の角っこに何度も頭を打ち付けられた。


頑張って、成績が上がったとしてもそれで褒められたことなんて一度もなかった。頑張って、この程度?そんな思いは常に態度から透けて見えて。あるいは面と向かって言われたこともある。校内でも最上位の成績を収めて帰った時。これで今回ばかりは怒られないだろうと内心安堵していたら、何自慢げな顔をしているんだと叱られた。お前の学校は、決して優秀じゃないんだから、この程度でいい気になるなと言われた。


そしてその次の試験で、少しばかり成績が落ちたとき。いい気になるなといっただろうと普段の何倍も怒られた。私は、成績表を持った帰るのが嫌だった。成績表が渡されるときの、心の中に冷たい氷水をひたひたと流し込まれるような感覚を今でもよく覚えている。どうせ今回も怒られるんだろうなと心のどこかで諦めながら。成績表を見せないという選択肢はなかった。一度隠したとき、すぐにばれて普段の何倍も怒られ殴られたし、壁にたたきつけられたから。


私は家が嫌いだった。何度家出しようかと思った。でもそれはできなかった。家出なんてすれば、親の顔に泥を塗ったとしてそれまで以上に怒られることは目に見えていたし、学校だって退学させられることが見えていたから。だから私にできるせめてもの抵抗は深夜俳諧ぐらい。それもばれるたびに馬鹿みたいに叱られたし、罰として食事を抜かれたりもしたから、やがてせめてもの抵抗は自分の手首を切り刻むことへとシフトした。それもばれるたびに汚い、みっともない。どうせ死ぬ気もない癖にと言われたけれど、殴られることはなかったから。


そんな事情を紗菜は知っている。たくさん愚痴ったし、愚痴を聞いてもらったから。一番病んでるときなんて、リスカの後を見せつけたことすらあるというのに。なのに紗菜はそんな分かりきったことを言う。私の心はかさぶただらけ。そのかさぶたがはがれ、血をどくどく流しているような心地だった。


そんな内面が表に出ていたのだろう。紗菜はもう一度ごめんね、と謝ると、それでも続けた。どこか決意を秘めた様な表情で。


「でもさ。私は思うんだ。由美だって、家を出てからもう10年ぐらいたつんだよ。家のことなんて忘れなよ」


そこまで言うと紅茶を一口すする紗菜。紗菜はさらに続ける。


「家族は家族。由美は由美だよ。いつまでも家族に縛られていちゃ駄目。そろそろ自分の人生を送らないと」


そういう紗菜の目は、薄い涙の膜に覆われていて。紗菜が本心から私のことを思いやって言ってくれているのはわかる。これは、紗菜なりの優しさでそう言ってくれているのはわかる。


確かに、紗菜の言う通り、たとえ忘れたふりでもいいから昔のことなんて無視して。誰かを好きになって。誰かと添い遂げて生きていく。それが叶えば、いつしか本当に昔のことなんて忘れられて、本当の自分の人生が送れるようになるのかもしれない。


でも、それはできそうになかった。それに、紗菜は知らないことだけど、私だって昔男の人と付き合ったことがある。私は紗菜が思うほど初心じゃない。男の人と寝たことだってある。紗菜が言うみたいに、昔のことを忘れるきっかけにならないかと願って。


結果は惨敗。私は、他人を好きになることができなかった。ラブという感情を理解できなかった。男の人が、私を可愛いねと言っても、浮ついた愛の言葉をささやいても、常にその背後にある裏の意図を探り、額面通りに受け取れなかった。それにそもそも、あのじっとりとした、どこか浮ついた眼差しを向けられること、そのものが不快だった。


私を抱きしめる腕の動きが、他人の体温が不快だった。気持ち悪かった。何よりとても怖かった。急に気が変わって髪の毛を鷲掴みにされたら。急に殴られたら。そんな思いばかりが頭の中をよぎって。とても抱きしめ返す気にはなれなかった。他人の熱い吐息も、何かを期待するような眼差しも、奇妙な情熱にも似た目に光も。全部不快で気持ち悪くてたまらなかった。私に近づかないでほしかった。


だからきっと、私は他人を好きになることができない。他人を好きになるという脳の回線が焼ききれている。私は家族に呪われている。過去に囚われて生きている。前を向いて生きていくことなんて、出来そうにない。


だからこそ、私は謝るのだ。


「ごめん、それは無理」


と。


「そっか」


そう言いながらぎゅうとスカートの裾を握る紗菜。


でも。でもね。私は内心付け加える。紗菜。もしあなたが、男の子だったら、私は他人を好きになれたかもしれないんだ。あなたが初めて私の家族の話を聞いてくれた人だったから。これまでで唯一の家族の愚痴を聞いてくれた人だったから。私はあなたに会えたから救われたんだよ。スクールカウンセラーや、担任の先生に相談しても、おざなりな対応しかしてもらえなかった私。家族なんだから大事にしなよとか、親御さんなりにあなたのことを心配しているんだよだとか言って。それどころか、相談内容を親に漏らされて、死ぬほど殴られた私にとって、あなたの存在がどれだけ救いだったか。紗菜。あなたにはわからないだろうけれど。


紗菜。私はあなたに出会わなかったら私はとっくの昔に自殺してた。家出もできず。誰に頼ることもできなかった私にとって、あなたは唯一の救いだった。私の話を否定せずに聞いてくれた。それでいて、駄目な部分は駄目ときちんと言ってくれた。それがどれだけ救いだったかあなたにわかる?あなたは私にとって天から降りてきた天使さま。私はあなたのおかげで救われた。あなたのおかげでまだ人を信じることができた。ここまで生きてくることができた。


私は決してあなたを裏切らない。あなたにだったら何をされても許せると思う。殴られても、怒鳴られても、殺されたとしても。きっとその時私は抵抗しない。だってそれは、あなたが私を裏切るんじゃなくて、きっと私が貴女を傷つけてしまったから。それぐらい私は紗菜のことを信じている。


だからこそ思う。思ってしまう。もし紗菜が男の子なら。きっと抱きしめられても不快に思うことなんてなかった。愛することができたのに。どうして紗菜。貴女は私と同じ女の子なの、なんて。


でも、そんな思い、紗菜に告げることはできない。こんな思い、気持ち悪すぎるから。紗菜にとって私はただの幼馴染。家族に問題のある、ちょっと病んでる幼馴染。そんな人からこんな気持ちを向けられているなんて知ったら。きっと紗菜を困らせてしまう。あるいは嫌がられてしまうかも。最悪、私のもとから去ってしまうことになるかもしれない。そんなことになったら、私はもう生きていけないから。私は紗菜に寄りかかって生きているのだから。だから私はこの気持ちに蓋をする。ばれないように。気づかれないように。でも、それでも思ってしまうのだ。何であなたは女の子なの、と。こんなにも大事に、大切に思っているのに、所詮は友達どまり。そう思うだけで心がぎゅうぎゅう締め付けられるように苦しくなる。


でもそんな思い、紗菜にぶつけるわけにはいかないから。この思いは私だけのもの。胸の奥底にしまっておく。


でも、一言。一言だけ伝えるのは許されるだろう。「ありがとう」と。その言葉に若干びっくりしていたようだけれど、すぐににっこり笑った紗菜の横顔は、いつものように可愛らしかった。

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この思いは、私だけのもの 間川 レイ @tsuyomasu0418

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