鏡の感情

ろくろわ

私の感情

 少し折り目のついたレシート。幾つかの文字は色褪せ、もうそこに何が印字されていたのかは分からない。

『レジ担当者モンチャン』

 その文字が唯一、彼が此処に居たという証拠。


 子供の心とは単純で複雑だ。

 自分にとって快か不快か。味方なのか敵なのか。そんな二極化された世界で生きている。自分に向けられた言葉一つに喜び、意味も分からず傷付く。真っ直ぐで裏表がない子供の心には、砂の上に落とした雫のように、良くも悪くも、言葉と感情はそのままに染み込んでしまう。私も洩れなくそんな子供だったと思う。だから私がその言葉に意味があると知ったのは、随分と後の事で、その事に気が付けたのは、モンチャンのお陰だった。


琴音ことねは異常なんだ。それは病気だと思いなさい。そうでなければ私は。私はあなたを……」

 これは小学校に入る前だから、私が六歳を過ぎた頃に実の母から投げられた言葉だ。父親というものは記憶になく、母は私の知る限りたった一人の家族とよばれる形をつくる人だった。

 当時の私には、何故その母が私の事を「異常だ」「病気だ」と言ったのか、この言葉の意味は分からなかった。ただ、この言葉がいい意味では無い事だけは何となく分かっていた。だから幼い私は、なんて答えたら良いか分からず、墨色と紺色とそして少しの白色の絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜたような感覚を胸に、私は母と同じ顔で見返す事しかできなかった。でもその返しにも「だからそれが駄目なのよ」と淋しそうに母が言ったのを覚えている。


 母の言葉。「琴音は異常なんだ」と否応なしに理解したのは小学校に入学してからだ。私は母と二人だけの世界から同級生と過ごす社会へと広がった。それは私を知らない他人と過ごすという事。その中で徐々に私は他の人と違うんだと気付く事になった。

「なんで琴音ちゃんも喜んでるの?」

 なんでって言われても嬉しいから?

「褒められたのは小夜ちゃんなのに?」

 よくわからない。

「何で琴音ちゃんが怒ってるの?」

 何でって言われても腹がたつから?

「意地悪されてたの萌ちゃんなのに」

 よくわからない。

「どうして琴音ちゃんが泣いてるの?」

 どうしてって言われても悲しいから?

「淋しいのは美穂ちゃんなのに」

 よくわからない。

「琴音ちゃんってちょっと変だよね。自分の事じゃないのに直ぐ反応するよね」

 よくわからない。

 私の喜び、怒り、哀しみ、楽しみの感情は自分の物ではないらしい。

 私が感じて出す感情。それは他の人の感情想い。今でこそHighly Sensitive Person (ハイリー・センシティブ・パーソン)とよばれ、生まれつき感覚が敏感で、周りの刺激を強く感じやすい気質の事だと知る事が出来る。私の場合、その気質が特に過敏で他者の感覚をまるで自分の体験、感覚であるかのように感じてしまっていたようだ。当時はそんな事を知る方法もなく、周りとの違いから感じとる事しか出来なかった。

「異常だ」と母が言った私の異常性の正体はソレだった。それでも私は他人との繋がりを避けることはしなかった。ただ、人と違う私から周りの子達は少しずつ離れていったけど。


 私が他人との繋がりを避けるようになったのは、小学二年の夏。母が呆気なく死んだ時からだった。身内もいない小さな葬儀で母の死を悔やむ人や悲しむ人。他人の色んな感情が渦巻く中で、普段はあれ程、他人の気持ちに揺さぶられ影響を受けていた私は、涙一つ流れず何にも感じることがなかった。周りの感情とは全く違う自分の反応。これが周りの影響を受けていない自分の本当の感情だと思うとゾッとした。私は私の気持ちが本当にわからない。

「琴音は異常なんだ」

 母のあの言葉は私に重く纏わりつく呪いとなった。


 母の死。あれから、身寄りの無い私は施設に行く事になった。ただこの事は何も悪い事だけではなかった。施設には笹原ささはらと言う職員がいた。このような所には、私と同じような感覚の過敏な子供もいたようだった。笹原はそんな子供達を見てきたから、私の特性にも直ぐに気がついてくれた。生きていくための方法を教えてくれた。

「琴音ちゃんの心には浅いお皿みたいなものがあるんだよ」

「浅いお皿?」

「そう。そのお皿は他の人の嬉しいとか悲しいとか、そんな感情で直ぐに一杯になっちゃうだよ。そしてそのお皿から溢れた感情は琴音ちゃんの感情として外に溢れちゃっているんだよ」

「よくわからない」

「いいんだよ。今は分からなくても。でもね。さっきお話しした浅いお皿の事は覚えておいてね」

「うん」

「それでね。そのお皿に溜まった感情が溢れる前に一回、蓋をするの。そして自分の気持ちとして考えてみるといい」

 施設にいる間、人と話をする時は笹原の言っていたお皿の事を考えながら言葉を聞く練習をした。小さな私のお皿は、直ぐに他の人の想いを自分の物として溢れてしまう。だけどそこに蓋を乗せて相手をみる。笹原も私と話す時には何度もお皿の事を教えてくれた。

 そのお陰か、私は少しずつ周りと同じような反応が出来るようになって、それなりに周りと馴染むことが出来るようになっていた。


 十八才の春。

 施設を出た私は、小さな会社の事務として働いた。それから十年あまり。人付き合いは随分と上手くなったと思う。ただ、人付き合いが上手くなり社会に馴染むことが出来るようになったからと言って、他人の感情が私に入り込まなくなった訳じゃない。人が多い所や感情の高ぶるイベントは、私の感情を掻き乱しとても疲れる。そんな生きずらさは変わる事はない。

 モンチャンを初めて知った日。その日もそんなイベントがあった日だった。

 その日は会社の同僚の付き合いで流行りの恋愛映画を見に行く事になってしまった。私は映画館で見る映画がとても苦手だった。何十人、百何十人と言う人が役者の演技に入り込み、一喜一憂する。恋する大勢の感情が波のように押し寄せ私のに入り込み、いくら蓋をしても追いつかない。私は一人で大勢の感情を引き受けてしまうから。

 映画を見終えて夕ご飯を皆で食べ、解散した後も私の心は乱れ落ち着かなかった。夜は眠れず、吸いすぎた煙草はあっという間に空になった。煙草を買いに行くついでにお酒でも買って気持ちを紛らわせよう。私は家から少し歩いた所にあるコンビニに向かった。

 深夜三時。コンビニの駐車場には仕入れのトラックが運び終えたコンテナを積み込んでいた。店内には私以外、他のお客の姿は見えない。私は発泡酒を二缶とナッツミックスを一つ持ち、レジに向かった。

「いらっしゃいませ」

 深夜の対応にしては随分と元気のいい声だった。私は声の主を見ずに煙草の並べられた棚を見ていた。私の煙草は三十四番。

「すみません。三十四番を一つ」

 そこで初めて店員を見て私は驚いた。笑顔で対している店員の感情が全く分からなかったのだ。どんな人でも楽しい。疲れた。好意的。何かしらの感情があり、私の心の皿はそれを無意識に掬ってしまう。それがこの店員には見られない。

「あの、いま何を考えていますか?」

「え?どう言う意味でしょうか」

 しまった。思わず口に出してしまっていた。

「何でもないです」

 私はそそくさと買ったものを受け取ると、逃げるようにコンビニを出た。

「ありがとうございました」

 店員は私の様子を訝しむ事もなく、やはり最後まで感情は読み取れなかった。

 コンビニを出る間際に見た店員の名札には『笑顔が素敵なモンチャン』と手書きで書かれていた。

 これがモンチャンを初めて知った日のこと。私はその日からモンチャンなる人のことが気になり、深夜三時にコンビニ行くことが日課になった。モンチャンは大概の曜日の深夜にレジをしていた。通い詰めているうちに、話をすることも増え、聞けば、モンチャンは夜勤専従で働いているとの事。いつの間にか私がレジに並べば、何も言わなくても勝手に三十四番が出てくるようになり、私の部屋には封の切られていない煙草の数が増えていった。これだけ通ってもモンチャンの感情は分からなかった。ただ私はそれが心地よかった。もんちゃんと話している時に楽しい。続きが気になる。そんな気持ちは誰にも影響されない自分の感情だと分かったから。


 モンチャンと出会ってから二ヶ月くらい経ったくらいだろうか。

 私は夜勤明けのモンチャンと偶然コンビニの前で会ってそのまま朝食を食べに行く事になった。いや本当は、モンチャンとご飯を食べに行きたくて待ってたんだ。

 モンチャンと私はコンビニから少し離れた喫茶店でモーニングをお互いに頼んだ。そこでふと、モンチャンが最初に出会った時、私が何で「何を考えているのか」と聞いていきたのか不思議だったと話してきた。

 私はモンチャンに自分が人の感情に影響を受けやすいこと。モンチャンはそんな中、感情が全く読めなかったこと。母の死に何にも感じなかった自身の感情が怖かった事を話した。モンチャンは静かに私の話を聞き、優しい声で教えてくれた。

「その時の琴音さんの気持ちって何も感じなかったんじゃなくて、急にお母さんが死んじゃって何も考えられなかったんじゃない?お母さんのこと嫌いとかじゃないんでしょ」

 モンチャンに言われてハッとした。母は私に「異常」とは言ったけど、いつでも優しかった。それに今思えば、笹原と同じようなことを教えようとしてくれていた。母一人で一生懸命に私を育ててくれて、そして過労で死んだ。私は母が好きで、そして死んだことがショックだった。私は泣かなかったんじゃない。泣けなかったんだ。

 気がつけば、私はモンチャンの前で泣いていた。モンチャンはそんな私は静かに見ていた。

 どのくらい泣いたか分からないくらい泣いて落ち着いた頃、今度はモンチャンが自分のことを話してくれた。

 モンチャンの故郷は小さなところで、周囲の家はみんな同じ苗字であるような血の濃いところであること。そんな中、自身の父親が集落の取締みたいなものである事。そんな父親が嫌いで田舎を出てきたこと。最近そんな折り合いの悪い父親から戻ってこいと言われ、それに逆らえないこと。

 モンチャンが田舎の話をするたびに、初めて私の中のドス黒い感情や諦めといった感情が入ってきた。それは紛れもないモンチャンの感情だった。私はモンチャンの気持ちが嬉しくなり、今度は自分が話を聞いてあげて力になろうと思った。

「モンチャンはお父さんのどこが嫌いなの?」

 モンチャンは一瞬考えて「全部」と答えた。そしてその後にそんな嫌いな父親に自分がどんどん似てきていることが嫌だと話した。まるで自分が父親みたいな男になり変わっていくような気がすると。

 その時、私の心には酷く濁った冷たい色の初めて感じる気持ちが芽生えた。私が感じたことのない知らない初めて感情。これは殺意?

「モンチャンは殺したいほど憎いの?」

 私の言葉にモンチャンは黙り込み、何も言わずに考え込んでいた。だけど直ぐにいつもの感情の読めないモンチャンになり「殺したいほど憎かったみたいだね」と答えた。

 結局、その後少し話をして私達は別れた。


 これがモンチャンと会った最後の日だった。


 あの日から、深夜のコンビニに行ってもモンチャンと出会う事はなかった。

 何度か通っているうちに、違う店員が夜勤専従のスタッフがいなくなったと話しているのを聞いた。

 私は何となく、あぁ。モンチャンはもうここにいないんだと思った。そしてコンビニに通うのをやめた。


 コンビニに通うのやめてから、私の中にあの日、モンチャンから感じたあの酷く濁った冷たい感情が渦巻いていた。その気持ちを私は殺意だと思っていた。私の人生で感じたことのない感情。殺意だと。そしてモンチャンが嫌いだと話していた父親に向けられたものだと。

 でも果たしてその殺意は、本当に父親に向けられたものだったのだろうか。

 だんだんと嫌いな人に変化していく自分。変えられないこの先の人生。モンチャンは果たしてあの時、何を考えていたのだろうか。

 私はそんな事を考えると、あぁ。モンチャンはもうここにいないんだと思った。そしてそれは私のせいだと。モンチャンもまた、私と同じように溢れ出す自分の感情に蓋をして押さえていたのだ。気がつかないふりをしていたのだ。私はその気持ちを掬い取りモンチャンに帰してしまった。


 私の中に渦巻く、酷く濁った冷たい感情。これはモンチャンの気持ちなのだろうか。それとも私の感情なのだろうか。私の心に根付いた小さな芽。これが大きくなった時私はどうなるのだろうか。


 私は少し折り目のついたレシートをなぞる。幾つかの文字は色褪せ、もうそこに何が印字されていたのかは分からない。

『レジ担当者モンチャン』

 その文字が唯一、彼が此処に居たという証拠。

 


 私は汗ばんだ手で大事に握りしめた。




 了


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鏡の感情 ろくろわ @sakiyomiroku

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