永い、落下の途中で
二晩占二
第1話
男は絶望していた。
高層ビルの屋上、強い風に撃たれながら。
遺書は書いた。靴も、揃えて脱いだ。
思い残すことは何もない。
二十数年、良いことなど何もない人生だった。
平凡以下の家庭に生まれ、低級以下の不幸を過ごした。
最低以下の青春を送り、どん底以下の社会に苛まれた。
もういいだろう。 もう十分だろう。
彼は人生を清算したかった。
フェンスを乗り越え、ビルの縁に立つ。
風が一層強くなり、足元をぐらつかせる。それを意思で、踏みとどまる。
最後の最後くらい、自分のタイミングで決断したかった。
男は大きく一度、息を吸う。
そして、吐くと同時に、身を投げた。
風の向きが変わる。
横から前へ。下から上へ。
男は落ちる。地面へ向けて、ものすごい勢いで。
不思議な感覚だった。
風の勢いが増す。落下速度の凄まじさを物語る。
一方で、地面はなかなか近づかない。とても、ゆるやかに感じた。
はためく服が、邪魔だった。
男の人生における足かせを、象徴しているようだった。
ふと、目を上げると、ひとりの女が落下していた。
男と同じように、物凄いスピードで風を切り、地面へ向けてゆっくりと落ちている。 長い髪が天空を指して、たなびいている。
女もまた、人生に絶望してビルから飛び降りたところだった。
ただし、男とは別のビルから。
今生の別れに流した涙が、目尻から上空へと昇っていく。
風のいたずらか、それとも落下時の角度のせいか。
ふたりの距離は、落ちるにつれて近づいていった。
やがて目が合い、手を取り合った。
ふたりは手を繋いだまま落下しつづけ、口づけを交わした。
落下の勢いは増す一方だったが、地面からはむしろ、遠のいて感じた。
ふたりは愛し合い、結ばれ、子を産んだ。
ビルとビルの間を貫く強風が、新たな生命を祝福した。
子は育ち、ふたりの手を離れても、風の中を落下できるようになっていく。
やがて成人し、ビルの窓のひとつに着陸した。
そこは、男がかつて飛び降りたビルだった。
子は手を振り、落ちていく両親はそれを見送った。
男と女は再びふたりきりになり、手をつなぐ。
徐々に老いていく身体に、風が鋭く突き刺さる。
ふたりはともに歳を重ね、落下しつづけた。
ふたりの愛は朽ちることがなかった。
男の髪は抜け、手に震えが出始めた。
女の髪も白くなり、肌の若さが失われていく。
風の噂に、ふたりの子どもにも祝福があったと聞いた。
孫ができたのだ。
写真が届き、ふたりでそれを眺めて、微笑みあった。
さらに、落下は続く。
さらに、ふたりは歳をとる。
いよいよ、地面の正体が見えはじめたとき、ふと女が口を開いた。
それは、風の中で交わす、はじめての会話だったのかもしれない。
――どうして飛び降りたの?
男も、風の中で答える。
――人生に、絶望して。
――今は?
女は、いたずらっぽく笑う。
――幸せだよ。君は?
――わたしもよ。
ふたりは落ち続ける。 地面が近づいてくる。
――結局、何年落ち続けていたんだろう。
――さあ。カレンダーなんて、ずっと見ていないから。
手を繋ぐ。
――ようやく、地面につきそうだよ。
――いよいよね。
地面が近づいてくる。
年老いて、力を失ったふたりの手を、風が振りほどいた。
ふたりは落ち続ける。
地面が、近づいてくる。
――先に、逝くよ。
――すぐに、逝くわ。
最期の言葉を交わす。
直後、ふたりは折り重なるようにして墜落した。
枯れ木のような老体が地面に打ち付けられ、肉体は勢いよく爆ぜた。
男は享年88歳、女は享年87歳だった。
永い、落下の途中で 二晩占二 @niban_senji
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます