口癖

カズロイド

本編

「なんで僕だけ…」


それが僕の口癖だった。


職場で小さなトラブルがあれば「なんで僕が」、駅で電車に乗り遅れれば「ツイてない」、雨に降られれば「どうして今日なんだ」といつも呟いている。

周囲の人間も、僕のそんな愚痴っぽさにはすっかり慣れていた。


職場の同僚である木村にも、よく愚痴を聞いてもらっていた。

木村は、僕の愚痴を聞くたびに、苦笑しながらも受け流してくれる。僕らはそれなりに仲がいい友人だ。


――――――――――――――――――――――


ある日の朝、家を出ると突然強い雨が降り始めた。

スマホで天気予報を確認すると、曇りマークの横に小さく傘マークが表示されている。


「最悪だ……」


ため息と一緒に小さく呟き、僕は急いで職場まで走った。


びしょ濡れで出社した僕を見て、近くのデスクで作業していた同僚の青木さんが「大丈夫ですか?」と小さな声で声をかけてくれた。

僕は普段、青木さんとは挨拶程度しか交わさない。彼女はとても控えめで、僕自身も積極的に話しかけたことはなかった。


「いや、もう最悪ですよ。なんで今日に限って雨なんですかね」


僕はいつもの調子で愚痴を返す。


――――――――――――――――――――――


その日の昼休み、昼食を買おうとコンビニに立ち寄った。

レジ前でバッグに手を入れた瞬間、固まった。財布が、ない。

ああ、今朝バッグを変えたときに財布を移し忘れたのだ。


レジで顔を青くしていると、後ろから聞き覚えのある笑い声がした。


「おいおい、またなんかあったのか?」


木村だった。彼は僕の顔を見てすぐに事情を察したようだった。


「まったく、お前ってほんと抜けてるよな」


彼は笑いながら、僕の分まで会計を済ませた。


――――――――――――――――――――――


仕事が終わったころ、雨はますます激しくなっていた。

玄関ホールでぼんやりと雨を見つめていると、青木さんに呼び止められた。


「あの……これ、よかったら使ってください」


そう言って彼女が差し出したのは、小さな折りたたみ傘だった。


「これ、青木さんのじゃないですか? いいですよ、すぐ近くだし」


「いいんです。私、今日はバスだし」


控えめな笑顔で傘を差し出す彼女の好意を、断ることができなかった。


帰宅途中、小さな折りたたみ傘の下を歩きながら、僕は妙な感覚に包まれていた。


――――――――――――――――――――――


その夜、ベッドの中でぼんやりと今日の出来事を思い返していた。

傘を貸してくれた青木さん。昼食を助けてくれた木村。

どれも小さな出来事だけど、こうして一日に重なると、さすがに少し不思議な気持ちになる。


そういえば、こんなふうに誰かに助けてもらった場面って、今までも何度かあった気がする。

でも僕は、それを当たり前だとしか考えていなかった。


「僕は本当に不幸なんだろうか?」


天井を見つめながらそう考えていると、心の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じた。


――――――――――――――――――――――


次の朝、出社すると青木さんはパソコンに向かって資料をまとめていた。

僕は昨日の傘を返しに彼女の席へ向かった。


「青木さん、昨日は本当にありがとう。助かりました」


僕が傘を差し出すと、彼女は驚いたような表情で受け取った。


「いえ、そんな……」


「……あの、昨日は愚痴ばかり言っててすみません。なのに親切にしてもらって、嬉しかったです」


自分でも少し照れくさいくらい、意識して言った言葉だった。

青木さんは一瞬戸惑ったように目を伏せ、それから控えめに微笑んだ。


「よかったです。そう言ってもらえて」


――――――――――――――――――――――


その日、昼休みに木村とすれ違ったとき、僕はふと思い立って声をかけた。


「昨日、ありがとな。……いや、いつもありがとう」


木村はちょっと驚いた顔で僕を見たあと、ふっと笑った。


「お前どうした。風邪でも引いたか?」


でもその表情は、どこか嬉しそうだった。


――――――――――――――――――――――


夜、家に帰り、ふと思い出したように両親へ電話をかけた。


「どうした? 珍しいな」


電話口の父が驚いている。


「いや……ただ、最近ありがとうって言ってなかったなと思ってさ。いつもありがとう」


照れくさかったが、素直に口にしてみた。

父は電話の向こうで小さく笑った。


「なんだそれ。改まって……まあ、悪い気はしないけどな」


母も電話口に出てきて、嬉しそうに言った。


「元気そうで安心した。こっちこそ、ありがとうね」


電話を切ると、心が不思議なくらい軽かった。


――――――――――――――――――――――


次の日から、僕は自然と「ありがとう」と口にするようになった。

挨拶のときも、小さな親切を受けたときも、感謝の言葉が自然と出ていた。


日常は何ひとつ変わらなかった。

相変わらず満員電車に乗り、相変わらず仕事は忙しかった。


それでも僕は以前ほど不幸を感じなくなっていた。


もしかすると幸せというのは、特別な出来事が起きることじゃなくて、ありふれた日常の中で感謝できることを見つけられるかどうか、ただそれだけのことなのかもしれない。


「ありがとう」


それが今の僕の口癖だ。










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口癖 カズロイド @kaz_lloyd1620

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