クソ真面目な話
カズロイド
本編
二十七歳、童貞。
拓海は地下鉄のシートに背を預け、そのレッテルを心の内側で何度も撫でていた。
拓海に恋愛経験がないのは、特に大きな挫折があったわけでも、異性に全く興味がないわけでもなかった。
ただ、自分に自信が持てなかっただけだ。
見た目も、年収も、学歴も、すべてが平均点をギリギリ掠めているような人生だった。
そのあいだに周りの友人はどんどん結婚していく。
SNSを開けば、友人たちの結婚式や家族旅行の写真が並ぶ。
拓海の心の中には、見えない焦りと不安が積もり、スクロールする指先だけが静かに冷えていった。
マッチングアプリを使い始めたのは、そんな焦りからだった。
恋愛は、YouTubeで必死に学んだ。
『初デートで使えるモテ会話術』『女性が喜ぶ質問テンプレート10選』『確実に相手を落とす心理テクニック』——
すべての動画を繰り返し視聴し、スマホには無数のメモが残されていた。
しかし、実際のデートになると、それらの知識は一切役に立たなかった。
「最近ハマってる事とかありますか?」
カフェで向かいに座った女性が、拓海に優しく問いかけた。
動画で覚えた“初対面で鉄板の質問”を先に投げられた形だ。
拓海は喉を鳴らし、手元のカップを持ち上げる。
「最近は、筋トレ……とかですかね。腕立て伏せを百回くらい……あ、でも調子いい時は二百回くらいやりますよ」
女性の眉間に、一瞬だけ小さなシワが寄った。
それは「ふうん」という軽い驚きと、「そうなんですね」という戸惑いが混ざった表情だった。
会話はそこでプツリと途切れ、数秒の静寂が二人を包んだ。
夜、ベッドに置いたスマホを手に取ると、彼女とのマッチングは跡形もなく消えていた。
通知のない画面を見つめ、拓海は深く息をついた。
部屋には、自分の吐息だけが静かに残った。
――――――――――――――――――――――
金曜の夜。線路沿いの古びた居酒屋。
カウンターの木は長年の油を飲み込み、黒褐色に光っている。
店主が焼き鳥を返すたびに炭の火花が浮き、瓶ビールの栓抜きの金属音が短く響く。
拓海は隣に座る悠真にグラスを掲げ、乾いた笑いとともに愚痴を零した。
悠真は中学時代からの腐れ縁で、なんでも言い合える唯一の相手だった。
「だからさ、その瞬間にもう、俺の頭は真っ白よ。YouTubeで覚えた質問テンプレとか『モテ会話術』とか、ぜんぶ吹っ飛んでさ……」
横で話を聞いている悠真は、声を殺しながら体を揺らして笑いを堪えている。
「なあ、拓海。『最近ハマってること』の返しに筋トレ自慢はねぇだろ。初対面で腕立て伏せの回数とか聞かされたら、誰だって困るわ」
「……それが『ウケる話題ベスト10』に入ってたんだよ」
拓海は不満そうに眉間にシワを寄せ、グラスを傾けた。
口の中に苦いビールが流れ込む。
「お前ってほんと面白ぇよな」
悠真は腹を抱えて笑った。
その瞬間、拓海の中でなにかがチクリとした。
「……なんかさ、お前俺を馬鹿にしてない?」
拓海の声は低く、小さく尖った。
悠真は笑いを止めて一瞬拓海を見つめ、すぐに真剣な表情に戻った。
「いやいや、お前を一番馬鹿にしてんのはお前自身だろ」
その言葉に拓海は戸惑い、少し動揺したように口を閉じた。
「だってお前さ、自分のことずっと年収とかトーク力とか『ステータス』でしか評価してないじゃん。そんなもんでお前の魅力が決まるわけないだろ?」
悠真はグラスを置き、拓海の目をまっすぐに見た。
「お前がヘコんでる時に笑っちゃったのは悪かったけどさ、そういうところが一番『お前らしい』し、人間臭くて面白いと思うんだよ。むしろ魅力なんだって。」
拓海は戸惑ったまま、ビールを飲むふりをして視線を逸らした。
胸の奥がざわざわと落ち着かなかった。
「お前さ、そもそも本当に彼女欲しいわけ? それとも周りが結婚だなんだって焦らせるから、『作らなきゃ』って思ってるだけじゃないの?」
悠真の問いに、拓海は答えられなかった。
自分でも答えがわからなかったのだ。
「正直に言うけどさ、お前を見てると、誰かに認められるために必死で好きでもないことやってるようにしか見えないんだよ。自分の本当に好きなこととかないのか?」
拓海はしばらく沈黙した。
どうしてもその言葉に簡単には頷けなかった。
「……まあ、なくはないけど」
拓海がぼそりと口を開いた。
悠真は興味深げに身を乗り出した。
「なんだよ、言ってみろよ」
拓海は一瞬ためらったあと、小さな声で言った。
「実は、中学の頃から、小説書いたりしてるんだ。ネットでさ、投稿したりとか」
悠真の表情がパッと明るくなった。
「それ最高じゃん。なんで今まで隠してたんだよ。マッチングアプリよりよっぽど向いてそうだわ」
「いや、だって恥ずかしいだろ? 俺の小説、評価なんてほとんどないし、コメントも数えるくらいで」
「評価なんかどうでもいいだろ。自分が夢中になれるものを持ってるほうが絶対カッコいいよ」
拓海は驚いた顔をしたが、心の底で何かがゆっくり動き始めたのを感じた。
「それにお前のことだから、どうせ必死でクソ真面目な話書いてんだろ?そういう拓海らしさが俺は好きだよ」
悠真が穏やかに微笑むと、拓海は不意に照れ臭くなった。
――――――――――――――――――――――
夜更けの高架下。
自販機の冷たい光がアスファルトを白く染める。
秋の風が缶コーヒーの甘い匂いを攫っていく。
拓海はスマホを取り出し、マッチングアプリのアイコンを長押しした。
震える×印をタップすると、画面から色が一つ消え、冷えた指先に微かな解放感が伝わる。
狭い部屋に戻り、ノートパソコンの電源を入れる。
ファンが静かに回り始め、モニターの青白い光が壁に揺れる。
小説投稿サイトを開くと、新しいコメントがいくつか届いていた。
『読みました。ちょっと不器用で、でもそこが作者さんらしくて好きです』
『拓海さんの書く小説、いつも優しくて好きです。次の作品も楽しみにしてます』
画面を眺めていると、胸がじわりと温かくなってきた。
ふと画面の隅に映る自分の顔に気づいた拓海は、口元が自然に緩んでいることに驚いた。
誰もいない部屋で一人苦笑したあと、キーボードに指をのせ、新しい小説を書き始めた。
タイトルは、『クソ真面目な話』。
クソ真面目な話 カズロイド @kaz_lloyd1620
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