割引シールを貼られたパン

カズロイド

本編

「笑顔が気持ち悪い」


小学五年生の夏休みのことだった。

クラスの女子たちと遊んでいたとき、何かの拍子に笑った杏奈に、隣にいた女の子がふいに放った言葉だ。

冗談とも本気ともつかないその一言が、早川杏奈という人間の人生を変えた。


それ以来、杏奈は人前で思いきり笑うことをやめた。

写真を撮るときも、友達と話すときも、口元にはいつも手が添えられていた。

そんな癖がもう二十年近く続いている。


――――――――――――――――――――――


杏奈は、素朴だが整った顔立ちをしていた。

どちらかといえば美人と呼ばれる部類に入る。

学生時代から恋愛もそれなりにしてきたが、自分から告白したことは一度もなかった。

誰かに好意を向けられれば、それで充分だと思っていた。


それでも、そこそこ勉強をして、そこそこの国立大学を出て、今は東京の小さな出版社で編集の仕事をしている。

暮らしぶりは決して裕福とはいえないけれど、生活には困っていない。

好きな服を買い、ときにはオシャレなカフェでひと息つく程度の贅沢もできる。

たぶん、周囲から見れば「幸せそうな独身女性」に映るのだろう。


でも杏奈は知っている。

胸の奥に、名前のつけられない空洞があることを。


――――――――――――――――――――――


二十九歳。

女としての“賞味期限”はもうすぐ切れるのだろう。

母からの電話、職場の同僚の視線、友人たちが何気なく放つ言葉から、そんなニュアンスがひしひしと伝わってくる。

「そろそろ結婚しないの?」「いい相手見つけなきゃ」という言葉が、まるで挨拶のように繰り返される。

その度に杏奈は、軽く肩をすくめて曖昧にうなずき、話題が通り過ぎるのを待った。


確かに結婚したい気持ちはある。家庭だって欲しい。

ただ、恋愛はいつも受け身で成り立ってきたけれど、結婚となると話は違う。

「本当にこの人でいいのだろうか」と、相手を値踏みするような気持ちが生まれる。

そのたびに、杏奈は立ち止まった。


杏奈はいつも、目の前にある関係を客観的な基準でしか定義できなかった。

この人は第三者から見て「いい男」だろうか。この人との結婚は、世間から「幸せ」と見なされるだろうか——そうやって考え込んでしまうから、自分の心が本当は何を求めているのか分からなくなる。

だから、何も決められなかった。


結婚して、子供が生まれて、家を建てて……同世代が次々と人生の大きな決断をしていくのが、杏奈には不思議で仕方なかった。

彼らは一体どこでそんな確信を得ているのだろう、と。


――――――――――――――――――――――


そんなことをぼんやり考えながら、杏奈は仕事帰りにスーパーへ立ち寄った。

閉店間際のスーパーは人も少なく、どこか寒々しい蛍光灯だけが店内を照らしている。

杏奈はパンコーナーの前で足を止めた。


棚には、売れ残ったパンたちが整列していた。

賞味期限が過ぎたわけでもないのに、早めに設定された基準に従って、割引シールが貼られるパン。

本当はまだまだおいしく食べられるはずなのに。

私だって同じだ。

まだ期限は切れていないはずなのに、世間が決めた勝手な基準で、割引シールを貼られたような気がしてしまう。


杏奈がそう考えながらパンを眺めていると、小さな男の子が母親の手を引きながら近づいてきた。


「あ、これがいい!」


男の子は迷わず、一番手前にあったあんぱんを指差した。

割引シールが貼られた、あまり形も綺麗とは言えない、平凡なあんぱんだった。


母親は少し困ったような顔で、「こっちのほうが美味しそうよ」と別のパンを勧める。

でも男の子は首を横に振る。


「ちがうよ!これが一番おいしいんだよ!」


杏奈は少しだけ驚いて、それから、笑った。

口元を手で隠すのを忘れたまま。





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割引シールを貼られたパン カズロイド @kaz_lloyd1620

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