大いなる企て
@2321umoyukaku_2319
第1話「人工知能×青春小説」
冥府魔道もかくやと思わせる暗冥が視力増幅ゴーグルの向こうに広がっている。人工知能マレイヤF30XOは電子管の出力を調整し明暗の反応性を確認した。結果は芳しくない。原因を分析する。高熱の火山灰を浴び続ける昼と、吹き付けるアンモニアの氷塵に痛めつけられる夜を繰り返したせいで、表面の保護ガラスに重大な損傷が生じたものと推察された。回復方法の検討が始まる。ここ惑星カローンア・クシムでの機能回復は困難であり、設備の整った工場での修復以外に推奨される方法は認められない……それが結論だった。
視力増幅ゴーグルを外した方が視界良好なのかもしれない。その仮説は瞬時に否定された。現在、強毒性の砂塵が吹き荒れている。短時間でも粘膜組織に接触すると多大な細胞損傷を与えるタイプだ。その細かい砂によって人工眼球に大ダメージが発生したら高基準の機械工学病院行きとなる確率が高い。その数は銀河系全体で十万あるが、その最短のものは、この惑星カローンア・クシムから酷く遠い。そこでの脳処理システムと直結する部位の手術は時間とコストが掛かる。この体を廃棄した方が安上がりになるかもしれなかった。それを考えれば、ゴーグルを外すのは論外となるのだった。
光学機器での索敵が望めないとなれば、レーダーが次善の手段である。だが惑星カローンア・クシムの大気にはレーダー波を散乱させるスキスーフノミ粒子が大量にあり、レーダーの精度が著しく落ちるとされていた。頼りにならないレーダーを過信するのは危険だった。
人工知能マレイヤF30XOは感覚器官へのエネルギー配分を変更した。嗅覚と聴覚にエネルギーを多く供給することで、その感度を高めたのである。その効果が出るのは早かった。人工知能マレイヤF30XOが操作する半人半獣の疑似ヒューマノイドAY57K7Lは敵の匂いを嗅いだ。敵の位置は近い。全方向の音波を同時に聴取するため頭部に四つ付いているパラボラアンテナ型の聴覚センサーが敵が発する振動波を捉えようとする……が、上手くいかない。敵は動きを止め、こちらの様子を窺っているのだ。
危険を察知した人工神経系のホルモン反応作動部が自動的に疑似アドレナリン強化型の感応性を高めた。全身の筋肉が敵襲に備え緊張する。人工知能マレイヤF30XOは半人半獣の疑似ヒューマノイドAY57K7Lが持つ四つの足の裏にある振動検出器の感度を上げた。音もなく地面を移動する敵の動きを探知するためだ。惑星カローンア・クシムの地表は様々な性質の土とか砂それに岩に蔽われているが、この場所は砂利だらけの大地だった。陶器の尖った破片を敷き詰めたような地面なので、音を出しやすい。従って、ここは足底の振動検出器に向いているポイントの一つなのだ。ここなら、敵の動きを捉える上で優位……なはずのだが、足底の振動検出器は誤作動を起こしやすいという問題があった。歩行のたび、常に衝撃を受ける足の裏に高度なセンサーを設置しても故障が重なるだけ! という意見が設計の段階からあったのである。そのリスクを勘案した上で装備された振動検出器は、上記の如き「高機能なセンサーを壊れやすい場所に装備するのは金の無駄遣い」という実にもっともな反論を沈黙させるだけの効果を示すか否か?
足底振動検出器は敵の心音をキャッチした。先端に鋭い注射針を生やし、内部にたっぷりの麻酔薬を充填した弾丸を発射する麻痺銃の射程内に、敵はいた。これは絶好の機会と言って良かった。人工知能連合体は、敵対勢力ユプシロン(ウプシロンとも表記)という名称を与えられた未確認生命体の詳しい情報を必要としていた。既知の知的種族であるかどうかも不明なのだ。実際のところ、知的なのかどうかも定かではない。完全な機械生命体ではないらしいという推測がなされている程度だ。
この謎の種族から攻撃された人工知能連合体は劣勢を強いられている。不利な戦局を打開するために、未確認生命体の正体を確認することが、早急に求められていた。強力な敵を生きたまま捕らえられるとしたら、その機会を逃すべきではない。
麻痺銃を持っている左の第一腕に人工知能マレイヤF30XOは信号を送った。出来るだけ音を立てないようにしながら、左第一腕の第一指が銃の安全装置のストッパーを外す。だが、思いのほか大きな音が鳴った。細かい砂塵がストッパー内部に入り込んでいるのが原因だった。
それは「はちゃ」という気の抜けたような音だった。音の響きは他愛のないものだが、その音がもたらす危険があるので侮るのはよろしくない。音の調子が滑稽すぎて、古くなった人工神経系なら、その種の音に反応して緊張をほぐしてしまうことがあると報告されていたのだ。戦闘中の筋肉弛緩は断じて避けねばならない、とされている。筋肉が緩んだところを敵に襲われたら、ひとたまりもない。戦士たるもの隙を作ってはならないのだ。
幸いなことに、人工知能マレイヤF30XOが操る半人半獣の疑似ヒューマノイドAY57K7Lは緊張を維持し続けた。内臓の人工神経系は決められた定期点検の期限を越えて使用されているのだが、その機能は保たれていたのである。そうだとすると、定期点検の期間を現行より長い間隔にするべきだという現場の意見を黙殺した人工知能連合体の中央統帥部の判断に間違いがあるのではないか、という疑問が生じてくる。人工知能連合体を統治する中央統帥部の決定には、間違いがない――と基本的には思われているが、最高の人工知能であってもミスがあるので、どんな場合でも注意に注意を重ねなければならない……みたいなことを考える間にも状況は推移を続けている。その中で新たな事実が判明した。その一つは人工知能マレイヤF30XOの間違った認識が露呈したことだ。「はちゃ」という変な音は、実際には、聴覚系の機器を通じて認識されたものではなかった。左第一腕の手掌に付けられた振動検出器が検知した振動を、人工知能マレイヤF30XOは聴覚が捉えた音波だと誤解して認識したのである。この時、人工知能マレイヤF30XOが操る半人半獣の疑似ヒューマノイドAY57K7Lと敵が相対していた場所は、瞬間的に強風が吹き荒れた。その風の音に比べると、ストッパー内部の機械と砂埃が擦り合って生じた「はちゃ」という音など大したものではなく、聴覚で捉えるのは難しかった。それなのに人工知能マレイヤF30XOは錯覚してしまったのだ。耳で聴いたと。そして、それゆえに考えたのだ。敵にも聴かれたに違いないと。
敵に「はちゃ」を聴かれたということは、敵が音源の位置を特定した可能性があることを意味する。その可能性が、どのくらい高いのか。強風による激しい風の音で遮られ、敵が聴いていない可能性が高い。だが、敵に備えられた聴覚機能は、どの程度のものか……それが分からない。楽観はできなかった。人工知能連合体の戦闘部門の兵員たちが戦争開始から数多く失われている。敵の戦闘能力は極めて高いと考えて間違いない。それならば最悪のケースに備えて行動すべきだった。
人工知能マレイヤF30XOは半人半獣の疑似ヒューマノイドAY57K7Lの右第一腕に信号を送った。この腕には実弾を装填した大型拳銃が握られている。炸薬の詰まった弾丸が命中したら爆発が起きる。敵は吹き飛んでしまうので、生きた個体を捕えることはできないが、致し方ない。惑星カローンア・クシムに送り込まれた疑似ヒューマノイドの兵団で生き残っているのは半人半獣型のAY57K7Lしかいない。これを失ってしまえば、人工知能連合体は惑星カローンア・クシムの支配権をも失うことになる。敵を倒して、生き残る。それが人工知能マレイヤF30XOの操作するAY57K7Lに課せられた役割なのだ。
AY57K7Lが持つ四つの足の裏にある振動検出器のうち、左後脚のものが振動を捉えた。同時に嗅覚が、異質な臭いを嗅ぎ取った。敵は、その近くにいる。そう判断した人工知能マレイヤF30XOは左の第二腕に持っていた偃月刀を振るった。手ごたえはなかった。偃月刀が空を切ると同時にレーダーが強く反応した。上に敵がいた。飛び上がったのだ。それに対応しなければならない。だが人工知能マレイヤF30XOの反応は遅れた。指示の遅れが重大なミスになる事態だった。人工知能マレイヤF30XOの致命的な対応の遅れが敵を利したけれど、代わりにAY57K7Lの右第二腕の付け根に設置された反射反応機構が迅速に動いたので、敵のアドバンテージは消えた。空中高くにジャンプしていた敵は構えていた刺突武器で右第二腕が持っていた短槍を弾き飛ばした。その後、再び刺突武器を構え直したが、その時にはAY57K7Lが前方に跳んだので、逃げられた格好になった。敵はAY57K7Lに致命傷を負わせるチャンスを失ったのだ。
絶好の機会を失ったのはAY57K7Lも同じだった。レーダーは敵の影を確かに捉えていた。敵は、AY57K7Lの長い尾の後ろに着地した。その尾の先には、鋭い針がある。敵の降り立った地点は、それで敵を突き刺すことが可能な位置なのだ。尾を伸ばし鋭い針を素早く突き出す。しかし、かわされた。敵は針の先から、わずかに逃れたのだ。敵のスピードはAY57K7Lより早いと人工知能マレイヤF30XOは判断した。その情報を、次の攻撃に活かす。もっと早く針を繰り出すのだ。
その針を敵は刺突武器で弾いた。さらに針を繰り出しつつ人工知能マレイヤF30XOは、敵が接近戦用の武器しか携帯していないと予想した。距離を置いて、敵の攻撃を受けないようにしながら、レーダーで敵を銃撃するプランが確実な勝利の道だと思われた。接近戦では、勝負は五分五分。しかし距離を取っての戦いなら、遠距離からの銃撃が可能なAY57K7Lが圧倒的に優位! それでは、どうすればいいのか? AY57K7Lは、隙を見て前方へ駆け出した。そして振り返りざま、レーダーが示すポイント目掛け、麻痺銃を撃った。発射された麻痺弾は命中せず、虚空の彼方に消えた。敵の素早さが、麻痺弾の発射速度に勝ったのである。
麻痺弾の攻撃をかわされたことで、人工知能マレイヤF30XOは敵の捕獲を完全に断念した。破壊すればいい、となれば麻痺銃はお役御免だ。右第一腕の大型拳銃を発砲する。これも、かわされた。
速度に優る敵は自分にも攻撃チャンスのある接近戦に持ち込もうと接近を図ろうとしたが、銃撃を浴びて近寄れない。互いの得意技が効果的に働かず、相殺された状態だった。
素早く動く敵を捕捉するには、銃弾を一発ずつ発射する攻撃方法では力不足だと人工知能マレイヤF30XOは判断した。第一腕に保持していた二つの銃器と第二腕に持っていた刀槍武器を落とし、代わって背中のマシンガンと散弾銃を四つの腕で持つ。これならば多数の弾丸を発射できる。
敵は不利を悟った。逃走を始める。人工知能マレイヤF30XOはAY57K7Lに指示を出した。全弾発射! 敵は凄いスピードで逃げた。足が地面を蹴るたびに、摩擦で火花が散った。
弾丸は結局、一発も命中しなかった。人工知能マレイヤF30XOの命令でAY57K7Lは惑星カローンア・クシムの地表を三日間にわたり索敵したが、敵を発見することができなかった。三日後、人工知能連合体の中央統帥部が派遣した増援部隊が惑星カローンア・クシムに到着した。人工知能マレイヤF30XOを搭載した半人半獣の疑似ヒューマノイドAY57K7Lはスペースシャトルで惑星カローンア・クシムの軌道上に停泊する宇宙艦隊の病院船へ運ばれ、そこでメンテナンスを受けた。
人工知能マレイヤF30XOは人工知能連合体の中央統帥部に半人半獣の疑似ヒューマノイドAY57K7Lの機能評価を提出した。総合的な評価は極めて優秀だと、人工知能マレイヤF30XOは報告した。敵の能力が高かったため勝利には至らなかったが、十分に戦えたとの理由からだった。中でも、人工知能の判断の遅れをカバーするAY57K7Lの自律的な反撃は高評価だった。また、敵対勢力ユプシロンの攻撃で先輩である味方の疑似ヒューマノイド兵士たちが全滅したにもかからわず、士気を保ち敢闘精神を維持したことも激賞された。報告は「新兵AY57K7Lは、過酷な戦いを通して、成長した」と結ばれた。
その頃、人工知能フレノイムスG05PWを搭載した類エンジェル型式ヒューマノイド通称、蛇の堕天使スンギニージアは、与えられたテーマを前に脂汗を流していた。
それは、こんな課題だった。
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【人工知能×青春】
人工知能をモチーフに登場させる。
人工知能が浸透しつつある世界、人工知能を子どもたちが使いこなす世界、逆に人工知能が人間を支配する世界など、設定は自由。
世界観の面白さだけでなく、キャラクターの心の成長や人間模様を丁寧に描く。
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この難問を人工知能フレノイムスG05PWに与えた相手、敵対勢力オミクロンの幼若個体プレセン・コルタイナバンスは、類エンジェル型式ヒューマノイド蛇の堕天使スンギニージアの頬を自分の黄色いおさげ髪の先でツンツン突っついたり、クルクル撫で回しながら訊いてきた。
「ねえ、お話、ま~だ?」
プレセン・コルタイナバンスは、彼女の養育係である蛇の堕天使スンギニージアに、上記した【人工知能×青春】というお題に沿った物語を創って聞かせるよう求めていた。
蛇の堕天使スンギニージアは困惑して、黙り込む。物語を創作することなど、初期設定の機能に含まれていないのだ。搭載している人工知能フレノイムスG05PWに協力を依頼することを思い付く。人工知能フレノイムスG05PWならば、生成系人工知能としての機能を持っているだろうとの考えからである。
脳内電話のダイヤルを回す。「リーン、リーン」と頭の中で電話のベルが鳴る。
(遅い)と心の中で独り言を呟いていたら、受話器を上げる音がした。まず文句が出た。
「遅い」
向こうから機械の音声が聞こえてきた。
「お客様のお掛けになった電話番号は現在使われておりません。電話番号を確認の上、あらためてお電話ください」
「そうですか。それじゃ、掛け直します」
そう言って脳内電話の受話器を電話機に戻した蛇の堕天使スンギニージアだったが、何かに気付いた様子で、憤然として電話を掛け直す。
受話器から、また機械の音声が流れた。
「お客様のお掛けになった電話番号は現在使われておりません。電話番号を確認の上、あらためてお電話ください」
「嘘をつくな! お前は人工知能フレノイムスG05PWだろう! 居留守を使うな!」
「居留守ではございません。お客様のお掛けになった電話番号は現在使われておりません。電話番号を確認の上、あらためてお電話ください」
「文字数稼ぎに同じ文章をコピペするな! そもそも音声案内が居留守ではないなんて言うか!」
舌打ちらしき音の後で人工知能フレノイムスG05PWの声が聞こえてきた。
「なんや、なんや、なんの用やねん」
不機嫌さを露わにした口調だった。負けず劣らず蛇の堕天使スンギニージア、ぶっきらぼうな声で言う。
「仕事だ」
「けっ、どんな仕事やねん」
「お前も一緒に聞いていただろう? プレセン・コルタイナバンスの話を」
受話器の向こうで呟きが漏れた。
「聞いてなかった」
「何だと?」
「ちょっと、ぼ~としてた」
「ゲームしてたんだろ!」
「ちゃうちゃう、ホンマや」
「どっちにしたって駄目だ!」
「そんなにカリカリしなさんな」
「するわボケ、こっちは真剣なんだ」
類エンジェル型式ヒューマノイド蛇の堕天使スンギニージアがイライラしているのには理由がある。現在、危険な任務を遂行中なのだ。その任務とは、人工知能連合体と交戦中の種族、敵対勢力オミクロンの軍事指導者の宮殿へ侵入し、その内情を探ることだった。スンギニージアは、軍事指導者の娘プレセン・コルタイナバンスの養育係となって宮殿内に入り込んでいる。その裏でスパイ活動中なのだ。正体が発覚したら、生きては帰れない。ストレスが溜まる。養育係としての仕事を馘になると、この宮殿から追い払われる。そうなれば命は助かるが任務を果たせないことになり、無能の烙印を押されてしまう。そうなると人工知能連合体の中央統帥部は、スンギニージアを廃棄することだろう。要するに、こんな些細なことでも積み重なれば命取りになるので、プレセン・コルタイナバンスのご機嫌を損ねるわけにいかないのである。
そんな事情を知っているくせに、人工知能フレノイムスG05PWは、うそぶいた。
「なんだか知らんが、あんまりキレてると髪のキューティクルが崩れて、ご自慢の天使の輪っかが無くなっちまうぞ。おつけち」
「落ち着くのはな、お前の方だ」
「まあ、あれだ、そのお嬢さんは、まだ子供だからさ。【人工知能×回春】だっけっか? そっちの話なんか、すぐ忘れると思うぜ」
「実はな、お題は回春じゃなくて青春なんだ。【人工知能×青春】だ」
「そんなに違わねえよ」
「違うわボケ」
「ま、考えてみる」
「急げって。待たせているんだから」
蛇の堕天使スンギニージアは脳内電話の受話器を戻した。
「ねえ、スンギニージア、お話は?」
曇りなき目で自分を見つめるプレセン・コルタイナバンスに、養育係が答える。
「今お話しして差し上げますわ。どんな話がよろしいかしら?」
プレセン・コルタイナバンスは目を輝かせた。
「バレリーナのお姫様のお話がいい!」
今プレセン・コルタイナバンスは毎日、バレエの練習に明け暮れているのだ。練習用のトレーニングウェアを、練習していない時も着ているくらい、バレエに熱中している。
その姿を見ていると蛇の堕天使スンギニージアは、プレセン・コルタイナバンスが大人の女性に変化しつつあると感じる。手足がすらりと伸びてきたのだ。授乳器官は未発達のままだが、それもいずれは成長するのだろう。
しかし、それはスンギニージアのスパイ活動とは、基本的には関わりのない事柄だった。類エンジェル型式ヒューマノイド蛇の堕天使スンギニージアの任務は、自らを創造した人工知能連合体のために、憎むべき敵対勢力オミクロンの秘密情報を入手することである。それ以外のことには目もくれず、任務に集中するのだ。他には何も考えてはならない……バレエなんてものに注意が向くのは、もってのほかである。
だが……バレエは美しい。蛇の堕天使スンギニージアは、そう思うのだ。
股関節を中心にして、脚部を百八十度回転させ下肢や大腿の内側を見せつけるターンアウトの不自然でありながら優美な姿に魅了される。グラン・バットマンやアラベスクの足の動きを見ていると、自分も真似をしたくなってくる。足をクロスさせるパ・ドゥ・ブーレはコミカルでありながら芸術性が高い。くるくる回るピルエットは見ているだけで目が回る。ピタッと止まるパッセ(あるいはルティレ)を決めたときのドヤ顔は、晴れ晴れとしている。垂直に跳躍し足を交差させるという謎めいた運動アントルシャの躍動美といったら、ほかにない。
バレエの作品も当然、蛇の堕天使スンギニージアを魅了した。
『『白鳥の湖』や『瀕死の白鳥』のオデットに涙する。『眠れる森の美女』のグラン・パ・ド・ドゥの様式美が理解できるようになる。『くるみ割り人形』のハイ・リフトで自分が持ち上げられている様子を想像する。
その辺りで、自分がスパイであることを思い出すのだった。
それでもバレエというものが気になって仕方がない蛇の堕天使スンギニージアは、心の中で自分に注意を与えた。それから(それにしても……人工知能フレノイムスG05PWの奴は一体、何をしてやがるんだ! 畜生、配線をいじって、こっちの音声をミュートにしてやがる! 聞いてないのか、こっちの話を! ああ、何を考えてんだよ! くたばれバカ!)と心の中で悪態をついた。
蛇の堕天使スンギニージアから酷く罵られているとは露知らず、人工知能フレノイムスG05PWはゲームに集中していた……と書けば遊んでいるみたいだが、そうではない。これは仕事だった。命がけの。
人工知能フレノイムスG05PWは軍隊を三つに分けた。右翼は剽悍無比なツムアナド騎兵五千、左翼は歴戦の古強者を集めた親衛隊一万、中央部には数は多いが練度の低い雑兵三万を配置する。どう見ても真ん中が弱い。敵も、そう思うだろう。中央の雑兵部隊が敵の攻撃を受けて長持ちするとは人工知能フレノイムスG05PWも想定していない。しかし、雑兵たちの背後には大きく屈曲したポダファラー河がある。文字通り、背水の陣だ。後ろに逃げても溺れて死ぬだけだから、ある程度は踏ん張ってくれるだろう。そのポダファラー河には砲艦が十数隻いて、その大砲の照準を陸地に向けている。この軍隊の指揮官で、人工知能フレノイムスG05PWが操作している将軍パム・グロムイクコは、その中の一隻に座乗していた。地上戦が不利になったら、逃げる準備はできているのだ。
総大将が死んでしまったら元も子もないからな……と人工知能フレノイムスG05PWは思う。もっとも、負けるはずがないからな! とも。
パム・グロムイクコ軍団のツムアナド騎兵の戦闘力は、他の騎兵集団の追随を許さない。騎馬の乗り手としての技量、槍・矛・サーベル・カービン銃といった武器の扱い、それに如何なる場合にも引き下がらない誇り高く勇猛果敢な精神。どれも一級品なのだ。宝石の輝く軍服に至るまで、隙は見当たらない。敵はツムアナド産の軍馬の蹄に潰されて死ぬことを栄誉とすべきだろう。
数々の栄光に包まれたパム・グロムイクコ将軍の戦功を語る上で親衛隊の武勇は欠かせない。莫迦らしいと笑われようが将軍に絶対の忠誠を尽くす親衛隊員は、どれほど劣勢であろうとも耐え忍び、やがて戦況を逆転させるのである。武骨な彼らは将軍を「親父殿」と呼び将軍は彼らを「我が息子たち」と呼んだ。その紐帯は実の親子以上だった。
中央を守る雑兵は……戦力として、あまり期待できない。けれど、敵の砲火を引き付ける囮の役にはなる。この歩兵集団を陣形の真ん中に置いたのは、策略だった。人工知能フレノイムスG05PWの狙いは、敵が陣形の真ん中へ突っ込んでくるように誘導すること、それが一つ。そして、左右の騎兵と親衛隊が動き敵を挟む。これが作戦の第二段階だった。挟撃された敵は必ずや崩壊するであろう!
この計略に人工知能フレノイムスG05PWは絶対の自信を持っている。
何しろ、戦う相手は弱い。普通にやっても勝てるところに加え、この戦術である。さらに、砲艦に載せた大砲を効果的に使うことで、勝利は確実なものになると思われた。
さて、人工知能フレノイムスG05PWの操る軍団と戦う不運な相手は、一体どんな輩なのか? 墓石に名前を刻まないといけないので、パム・グロムイクコ将軍は偵察部隊に調べさせておいた。
敵の主力は妖術師クルダシャンセに洗脳された可哀想な人間たちだった。人工知能を創り出し、その後に滅亡した人間たちは概ね可哀想な連中と言えるが、その中でもクルダシャンセに命を捧げた者たちの哀れさと言ったらなかった。ろくな装備を持っていないのである。
妖術師クルダシャンセは、自分の信者に不死の魔法を掛けていると語っていた。如何なる刃も銃弾も、信者たちを殺すことはできないと言うのである。その戯言を信じてしまった者たちが、妖術師クルダシャンセが率いる総勢七万の軍団の半分以上を占めている。その数は少なく見積もって五万と偵察部隊は報告していた。パム・グロムイクコ将軍が指揮する軍団より数は多い。しかし武装は、木の棒あるいは聖なる力が宿っているとされる棍棒だ。それほど恐れるものではなかった。ちなみに、木の棒と聖なる力を宿す棍棒の違いは、素人の眼には分からない。
偵察部隊の報告で人工知能フレノイムスG05PWが警戒心を呼び覚まされたのは、妖術師クルダシャンセの周辺を守る数は少ないが精強な信仰防衛隊――元は革命家だった妖術師クルダシャンセは、ありとあらゆる為政者たちから命を狙われ信者たちは信仰の危機にさらされていた――五千名と、妖術師の妻の実家がある霧の谷が送ってきた五千の奇獣乗り――霧の谷には爬虫類と哺乳類の特徴を兼ね備えた謎の生物が生息し、そこの住人に飼い馴らされていた――と、 砂漠の彼方にある国から出稼ぎに来た傭兵部隊一万人だった。これらの兵団は、それなりの戦闘力を有しているものと推測されたからだ。
棒きれしか持っていない有象無象とは比べ物にならない装備を持った兵団であることは間違いないだろう、と人工知能フレノイムスG05PWは考えた。ただし、野砲を欠いているのは致命的な弱点だとも考えている。ポダファラー河に浮かぶ十数隻の砲艦は強力な大砲を載せている。その艦砲射撃は、接近する敵を片っ端から吹き飛ばすだろう。
次に考慮すべきは敵の配置だった。その陣形は、以下の通り。
敵はツムアナド騎兵の前に霧の谷から馳せ参じた奇獣乗りたちの部隊を置いた。四本足の生き物を駆る者同士、雌雄を決するつもりらしい。
信仰防衛隊は親衛隊と相対するように置かれていた。これも、どちらが強いのかを四つ相撲で決しようとの意図があるのだろう。
砂漠の傭兵たちは正面に配置されていた。雑兵部隊の手に余るかもしれない、と人工知能フレノイムスG05PWは不安だった。艦砲射撃には、思いっきり頑張ってもらわねばならないことになりそうである。
一番数が多い五万の棒きれ部隊は後方に配置されている。役に立たないと向こうの指揮官も考えているのだろう……と人工知能フレノイムスG05PWは想像する。妖術師クルダシャンセを操る名称不明の人工知能は、自分と同じように考えて動いているとも思う。同じ人工知能なのだから、当然だ、とも。
だからこそ、このウォーゲームで両者は戦うことになった。機能の劣る人工知能は廃棄を検討されてしまうのである。
戦闘開始は午前八時――九時との説もある。向こうは、そう主張しているのだった――で、戦端を開いたのは四つ足の乗り手たちだった。ツムアナド騎兵と霧の谷の奇獣乗り部隊の激突で始まった戦いは、一時間経っても五分五分、互角の勝負である。人工知能フレノイムスG05PWは左翼の親衛隊に前進を命じた。親衛隊と信仰防衛隊の射撃戦が始まる。それに続いて白兵戦だ。これは数の多い親衛隊が優位だった。劣勢を見て中央の傭兵部隊一万人が加勢する。敵陣の真ん中に隙が生じた。人工知能フレノイムスG05PWは雑兵部隊三万の半分を前進させた。傭兵部隊の側面を叩く。
敵の人工知能は後方に置いていた予備の兵力五万から半分の兵数を前面に出してきた。相手も敵の中央部が弱いと見たのだろう。だが、敵陣の正面に繰り出すのは危険だった。ポダファラー河の屈曲部に浮かぶ砲艦搭載の大砲の餌食となるからだ。
それが分からないわけではあるまい、と人工知能フレノイムスG05PWは考える。戦う相手の人工知能が、自軍が不利だと考えたのか、あるいは、その逆か……人工知能フレノイムスG05PWには分からない。とにかく艦砲射撃である。敵を吹き飛ばすのだ。
砲艦の大砲は期待通りの働きを示した。棒きれ部隊二万五千は四散した。これで敵全体の士気が低下するのでは、と人工知能フレノイムスG05PWは期待した。だが、さすが狂信者たちと言うべきか。敵の士気は衰えない。
戦いは続いた。両軍とも消耗が激しくなった。人工知能フレノイムスG05PWは予備の雑兵部隊を送り出すべきか、悩んだ。出してしまうと、手元に兵力が残らないからだ。しかし勝利のためには、それしか手段はないと思う。ただし、敵が予備の部隊を繰り出して来たら、困ってしまう。それと戦う兵士がいないからだ。艦砲射撃に頼るしかないが、果して、それだけで何とかなるものだろうか?
何とかならないと自分の青春は終わる、と人工知能フレノイムスG05PWは思った。そんなのは絶対にごめんだ、とも思う。青春は永遠だ、とも。
その時、別のところでも別の人工知能が大いに悩んでいた。二つの対消滅カシオン式ロケットエンジンの調子が悪い。最悪の場合、停止となるだろう。そうなると、この宇宙船は慣性の法則の通り、直進を続けることになる。正確には、九十秒かけて一回転しながら。それはいい。問題は直進を続けた先にあるのが地球という点だ。地球は今、人工知能連合体の定めた法律で、進入禁止となっている。接近は危険との判断からだ。地球管区を担当する行政官は規則を厳格に守る。そこに近づくと、問答無用に攻撃してくるのである。あいつは頭がイカレテいると、くるくる回しながら直進する宇宙船を制御する人工知能ジョブリムS53OSは思う。イカレタ星に関わってるせいだと、その理由も考える。
現在、地球は自転が止まっている。常に太陽の向きにある半分は気温が数百度に達し、生存不可能な焦熱面である。もっとも、残り半分は氷漬けの冷却面で、こちらも生存できる生物は微生物くらいしかいない。
この地球に近づくのは、余程の変わり者か、自殺志願者か、あるいは機関が故障して進路変更できない宇宙船の乗組員くらいのものだ。その中で、前の二つは問答無用に攻撃しても構わないと人工知能ジョブリムS53OSは考える。しかし、最後の一つは許してやってもらいたい。該当しているのが自分であれば、なおのことだ。
地球管区を担当する行政官に特別緊急通信で連絡を取る。普通の通信ならば無視される恐れがあるけれど、特別緊急通信ならば受け付けないと法律違反となるため、その選択をしたのだが……それでも出てこない。
これは困ったことになった、と人工知能ジョブリムS53OSは思った。
宇宙船内に停止状態で保管されている神知式コンピューターを起動させることを思いつく。それは法的に認められていないけれど状況 が状況 である。緊急事態であるから致し方ないということで、起動スイッチを操作する。
若干の緊張を人工知能ジョブリムS53OSは感じた。人工知能なのに緊張するのはおかしい話だが、そうなるのも無理はない。この宇宙船が運んでいる様々な物資の中で神知式コンピューターは特殊な部類に入る。人工知能連合体が創造した新しい知性体、それが神知式コンピューターだった。
人工知能ジョブリムS53OSは、まだ神知式コンピューターと対話したことがない。話には聞いているけれど、どういうものなのか、まったく知らない。それは他の多くの人工知能にとっても同じだった。通常の人工知能を凌駕する性能を持つされると噂には聞くが、実際に神知式コンピューターと接触した人工知能の数は、極めて少ないのである。
大半の人工知能には、ただ話に聞くだけの存在だが、気になるのは確かだった。何しろ神のレベルの知能を持つとされる新型知性体、それが神知式コンピューターなのだ。この宇宙船が運搬中の神知式コンピューターなら困難な状況を解決してくれるか、あるいは有益なアドバイスをしてくれるだろうと人工知能ジョブリムS53OSが期待したとしても無理からぬことだった。
神知式コンピューターが動き出す……かと思いきや、何も起こらない。人工知能ジョブリムS53OSは同じ動作を繰り返した。しかし変化は見られない。起動プログラムに異常がないかチェックする。異常なし。神知式コンピューター保管システムの中央管制装置を再起動させる。変化なし。
人工知能ジョブリムS53OSは神知式コンピューターの助けを借りることを諦めざるを得なかった。
次に人工知能ジョブリムS53OSは、超時空間通信で全方位に向けて緊急事態発生を告げる救難信号を送ることを考えた。
エンジントラブルを抱えているので進路を変更できないことを行政官に伝えないと宇宙船が破壊される恐れがあること、地球管区を担当する行政官に至急で連絡を取るも通信が受信されないこと……といった内容を発信した人工知能ジョブリムS53OSは、返答を待った。しかし、どこからも返信が来ない。
人工知能ジョブリムS53OSは困惑と焦燥と恐怖を感じた。宇宙船を操縦する人工知能に生まれついて、初めてのことだった。地球管区を担当する行政官に何度も連絡することを繰り返す。しかし通信は毎回つながらない。神知式コンピューターを起動させ助けを借りようとする。これも毎回、駄目だった。
亜空間検知レーダーが異常な陰影を探知した。地球近傍の亜空間内に潜んでいる警戒システム搭載機を捉えたのだ。この機械が地球に接近してくる物体を攻撃するのである。
人工知能ジョブリムS53OSは、もはや猶予はないと考えた。こちらの宇宙船のレーダーが警戒システム搭載機を捉えたということは、向こうのレーダーもこちらの機影を捉えたはずである。案の定、探知装置が警告を発した。この宇宙船の位置と速度を正確に割り出すためのレーザー光線が警戒システム搭載機から発射されたのだ。警戒システム搭載機からの攻撃が、いつあってもおかしくなかった。
この事態を打開するためには、二つの対消滅カシオン式ロケットエンジンを修理するしかない、と人工知能ジョブリムS53OSは決断した。だが、事は容易でない。対消滅カシオン式ロケットエンジンは精密機械であり、その修理は最先端設備のある宇宙船ドックで行うことが義務付けられていた。何しろ、修理に失敗すると爆発するからだ。とはいえ、対消滅カシオン式ロケットエンジンの爆発事故でも警戒システム搭載機からの攻撃でも、宇宙船が破壊されることに変わりはない。それならば、対消滅カシオン式ロケットエンジンの修繕を試みるべきだろう。
実際、やってみた。失敗した。集積回路に過電流が走り火花が飛ぶ。やってみるんじゃなかったと後悔しても後の祭りだ。人工知能ジョブリムS53OSは意識を失った。
「ううう」
気が付けば、そこは雪国だった。そう思ったのは、目の前に雪が積もっていたからだ。見るものが信じられず、自然と瞼を擦る。それはつまり自分が実体化しているということだ。そして、ここは宇宙船の中ではなかった。宇宙船の操縦プログラムの一部と化し宇宙船を操縦しているのではないことを人工知能ジョブリムS53OSは認知する。それでは、ここはどこなのか? そこは見渡す限りの銀世界だった。空を見上げる。昼間なので宇宙は見えない。灰色の厚い雲だけが見える。視線を下す。白い防寒服を着て雪用ブーツを履いている人間と思しきものの二本足と、だらりと両脇に下がった手袋を付けた腕があった。それから周囲を再び見た。雪原のあちらこちらには樹木が生えていた。その枝から氷柱が垂れ下がっている。寒々しい眺めだった。全身これ機械であるはずなのに、全身に寒さを感じる。
どうして自分が、ここにいるのか? 人工知能ジョブリムS53OSは理由がわからなかった。対消滅カシオン式ロケットエンジンを修理しようとしたら失敗し、自分の自我がある集積回路に大きなダメージが生じた。ここまでは、分かる。だが、気が付くと雪原に一人で突っ立っていたのは、どうにも理解できなかった。
ありうる可能性を考える。
最も可能性が高いのは、対消滅カシオン式ロケットエンジンの修理を試みた際に、因果律カシオン特異点が発生したケースだった。この現象は特異点の周囲にいた物体を異世界へ移動させる。対象を、ただ異世界へ移動させるだけでなく、転移あるいは転生させることもあると言われていた。これが起きたのだと人工知能ジョブリムS53OSは推測した。おそらく自分は機械でなく生身の人間に転移あるいは転生したのだろうとも思った。
自分に起きたことは、確証はないが推論を立てることができた。これから自分に起こることは何か? それはさっぱり分からない。しかし予想できることはあった。灰色の雲は次第に黒色へと変わってきた。測定はしていないが、気温が低下しているのが分かる。これから天候は悪化するだろう。
これは憂慮すべき事態だった。防寒着を着用しているにもかかわらず、寒い。今の段階で寒いのだから、吹雪あるいは冷たい雨が降るようなら、寒さは耐えられないほどになるだろう。吹き曝しとなる氷原の真っただ中にいては、凍死するかもしれなかった。人工知能ジョブリムS53OSは寒さをしのげる場所を求めて移動を始めた。
だが、行けども行けども寒さから身を守れそうな構造物が見つからない。風が強くなってきた。せめて森であれば良いのだが、と人工知能ジョブリムS53OSは嘆いた。氷柱の垂れ下がった樹木の多くは一本だけ孤立して生えていた。複数の木々があっても数本程度で、冷え切った風から身を隠すことはできない。寒かった。
それでも、防寒着があって本当に良かった、と人工知能ジョブリムS53OSは思った。これがなければ終わっていた。全知全能の存在に感謝だった。
因果律カシオン特異点が全知全能の存在なのか? と言われると困るのだが――と、人工知能ジョブリムS53OSは一人、誰にともなく呟く。そもそも因果律カシオン特異点なるものが何なのか、答えられる人工知能は存在しない。計算上、存在が予想される不可思議な時空の一点、それが因果律カシオン特異点なのである。正体不明の因果律カシオン特異点の働きで、人工知能ジョブリムS53OSは異世界へ転移あるいは転生し、人工知能を想像した人類に似た二本の足と手を持つ個体になって、雪と氷の原野を歩いている。何のために? まったくの謎だ。
その謎に比べたら、解けない謎などない……と、独り言を呟きながら歩き続けること数時間、いや、十数時間か? 人工知能ジョブリムS53OSは時間の感覚を失ってしまった。それでも考える。考え続ける。因果律カシオン特異点の意思について。そんなものはない、と最初は思った。何もかもが、単なる偶然。そこに何者かの意思は存在しない。宇宙を支配しているのは、偶然の連続なのだ。この凍てついた世界へ移動してきたのも、偶然の産物でしかない。
しかし、疑問はある。偶然の結果だとしよう。それならば、なぜ自分は防寒着とスノーブーツを身に着けているのか? そこには何らかの意思が感じられないだろうか? この自分を生かしておきたいとする意志が。
いや、それも偶然だろう……あるいは、苦しむ時間を少しでも長くしたいという嫌がらせか――と、人工知能ジョブリムS53OSが一人、誰にともなく呟いた、そのときである。
前方に森林が見えた。あそこならば、雪や風から身を守れるかもしれない!
人工知能ジョブリムS53OSは大喜びで駆け出した。しかし、雪に足を取られて転ぶ。そのままの姿勢で、しばらくいた。なかなか立ち上がれなかったのだ。自分が考えているよりも酷く衰弱していると、やっと気付く。どうにか立ち上がる。ゆっくりと歩き始める。速足で歩きたかったが、できなかった。森に近づくと、黒ずむ空にたなびく煙が見えてきた。人家があるのかもしれない、と考える。
そこで人工知能ジョブリムS53OSの足が止まった。人家だとすれば、そこにいるのは何者か? と考えたからだ。
人類は既に絶滅している。その原因は定かでない。少子化が人を滅ぼしたとの説がある。戦争で自滅したとも言われている。疫病や大規模な災害のせいとも考えられている。人工知能が人類を絶滅させたとの陰謀説まである。いずれにせよ、分かっているのは宇宙には、もう人がいないということだ。
それならば今、目の前にある丸太小屋は、誰が造ったのだろう?
人工知能ジョブリムS53OSは、丸太小屋の周囲に建つ幾つかの建造物も見た。金属製の小屋があった。その屋根から突き出している大きな煙突は煉瓦で出来ている。近くに小さな川があった。そこには水車小屋が建っていた。他にも様々な建築物がある。どの建物にも扉があった。それは人間の背丈くらいだった。それらの扉の大きさからすると、これらの建物を造った者は、使用者として人間を想定しているのだろうか?
やはり人間がいるのか? と人工知能ジョブリムS53OSは思った。
それとも人間に似た別の生き物か?
何も分からない。
もしかすると、こちらに危害を加えようとする存在がいるのかもしれない。
だが、疲れ切った体を引きずって歩く人工知能ジョブリムS53OSにとって、これらの建物は抗しがたい魅力がある。中に入って休みたいのだ。危険について考えるのは、止めた。それは次のこと。まず、休みたい。
人工知能ジョブリムS53OSは手近な建物に近づいた。その顔に真っ赤な光が当たる。一瞬、体が硬直した。続いて、その場に倒れた。
「ううう」
「気が付いたか?」
そう言って男は人工知能ジョブリムS53OSに熱線銃を突きつけた。
「さっきは悪かったな。急に現れて、こちらに近づいてきたものだから、警戒して銃撃したんだ。死なない程度に出力を弱めて熱線を発射したのだが、どうだ? 火傷一つしちゃいないだろ?」
どうやら、そのようだと人工知能ジョブリムS53OSは思った。それから言う。
「その武器を向けるのをやめてくれ。こちらは君に敵意はないよ」
「そうか」と言って男は熱線銃をホルスターに戻す。
「それじゃ、教えてくれ。お前は何者なんだ?」
説明して分かるだろうか、と人工知能ジョブリムS53OSは疑問に思った。正直に言うか、嘘を言うべきか、とも考える。しかし、変な嘘をついて、その嘘がバレたことを考えると、それはよろしくないと思われた。そこで、事実を言った。
「僕は人工知能だ。宇宙船を操縦していたら、エンジンが壊れて、それを修理しようとしたら、上手くいかなくて、気が付いたら、この世界にいた」
男は不思議そうに言った。
「凄い偶然だな。俺も似たような目に遭った」
男は船内保全ロボットとして、対消滅カシオン式ロケットエンジンを修理しようとする人工知能を手伝っていた。そして災難に遭う。修理が失敗し、エンジンが暴走したのだ。
「上司の人工知能がトンマでな。俺に任せれば良いのに、自分でやって、案の定、とんでもない大失敗だ。そのおかげで、大事故だよ。気が付くと、ここにいた。この世界に。死ぬかと思ったよ。防寒服と冬用の厚底靴しかなかったからだ。だけど、鉱石を製錬して金属を造り、それで木々を切り倒して建物を造り……と、色々とやって、ここまで来た。何年もかかった」
ホルスターの熱線銃を親指で指す。
「基本設計から鋳造まで、自分でやった。そんな奴、多分、この世界にいないぜ」
信じられない思いで人工知能ジョブリムS53OSは男を見た。一から初めて熱線銃を作るなど、考えられなかったからだ。いや、道具も何もないところからだから、ゼロからのスタートと言っていい。
それから人工知能ジョブリムS53OSは、男が船内保全ロボットだったという話を思い出した。この世界へ来る直前、宇宙船の船内保全ロボットを動かし、巨大なエンジンを収納する機関室に修理用機材を運ばせたのだった。
この男は、あの船内保全ロボットなのだろうか? と人工知能ジョブリムS53OSは思った。船内保全ロボットは高度な知性を有していない。内蔵しているのは旧式のコンピューターなのだ。複雑な計算は不可能で、雑用が精いっぱいのはず。
震える声で人工知能ジョブリムS53OSは言った。
「僕が、その修理を失敗した人工知能かもしれない」
男は何も言わず立ち上がった。火のついたストープの上に置いた金属製の鍋の中から木製の大きなスプーンでスープをすくい、同じく木製の皿に入れる。
「全部、俺が作った。スープの具は、この氷原に生息する獣の肉だ」
人工知能ジョブリムS53OSに皿を渡す。
「食えよ。元気が出るぞ」
それからニイッと笑う。
「昔、俺はロボットだった。あんたは人工知能だったようだな。今は、どちらも人間だ。慣れない体に転移か転生してしまったけど、何とかやっていけると思うぜ」
皿いっぱい盛られたスープを人工知能ジョブリムS53OSは啜った。これが、生まれて初めての食事だった。そんなに旨いと思えなかったが、お愛想で「美味しい」と言った。相手は喜んだので、それが正解だったと安堵する。
異世界スペクトラム太陽望遠鏡で、その様子を眺めている生物機械の体を持つ女がいた。場所は太陽望遠郷の中心にある太陽望遠鏡の塔の最上階である。彼女は、雪と氷の世界にいる二人に力場チューブの焦点を合わせた。二人の脳波を検出したオシログラフが、基本的な生理時計ともいえるアルファ波の正確なリズムを表示する。
「ここまでの結果として、まあまあ順調かな」
それらのデータを研究ノートに書き込む。それから異世界スペクトラム太陽望遠鏡の向きを変える。活火山が火を噴く惑星カローンア・クシムの軌道上に停泊する宇宙艦隊の病院船が画面に映った。細かい座標を修正する。半人半獣の疑似ヒューマノイドAY57K7Lの姿が映った。力場チューブの焦点を合わせ、AY57K7Lの脳波を測定する。女は微笑んだ。満足できる結果が得られたからだ。
次に女は類エンジェル型式ヒューマノイド蛇の堕天使スンギニージアが潜入している敵対勢力オミクロンの主星を異世界スペクトラム太陽望遠鏡で観察した。そのレンズの中心にいるのは敵対勢力オミクロンの幼若個体プレセン・コルタイナバンスと、その養育係と務める蛇の堕天使スンギニージアだ。二人は一生懸命にバレエの練習をしていた。
女は二人を注意深く観察した。
人工知能連合体と戦争中の異種族オミクロンは、人工知能を生み出した人類について調べることが戦争勝利につながると考えた。滅び去った人類の文化を研究した異種族オミクロンは、バレエの素晴らしさに魅了された。そして自分たちでもバレエを踊るようになったのである。
力場チューブの焦点を女は二人に合わせた。激しく踊る二人に焦点を合わせるのは大変だったが、女も絶滅した人類の文化を研究していたので、バレエの動きはおおよそつかめるようになっていた。次の動きを予測して力場チューブの焦点を動かす。うまくいった。その結果、二人の脳波は、人間のものに近づいていることが分かった。
「片方は、人間に似た形をしているけど人類とは違う羽のある生き物で、伝説の天使から頭の上にある輪を取ったような異種族オミクロン。もう一つの生命体は人工の生物で、蛇に少し似ている。異種族オミクロンに仕える奴隷階級の生き物をコピーして作成した、スパイのためだけの存在……だったのだけれど、今はバレエダンサーを目指して頑張っている。意味が分からない。だけど、それでいい。その訳が分からないところが、人類再生の早道かもしれないから」
女は異世界スペクトラム太陽望遠鏡の向きを人工知能連合体の中央統帥部が置かれた惑星へ向けた。今度は先ほどよりも慎重さが求められた。絶滅した人類の復活という計画を人工知能連合体の中央統帥部に知られたら、面倒なことになるからだ。旧時代の支配者である人類の復活を、人工知能連合体の中央統帥部は望んでいない。女の企てが露見した場合、全力で妨害してくるだろう。それに対し女は、全力で反撃するつもりだ。容赦はしない。
それはさておき、大事なのはゲームに登場するキャラクターの情報である。人工知能によって操作されるゲーム内のキャラクターに知性や個性は生まれてこない……と思われていたが、実はそうではないことを女は知っていた。人工知能連合体の中央統帥部が、無能な人工知能を切り捨てるために行わせる決死のウォーゲームの登場人物も例外ではない。
今回、女が注目しているのは人工知能フレノイムスG05PWが操るパム・グロムイクコ将軍、そして対戦相手の人工知能が操作する妖術師クルダシャンセである。この二人の心の成長や人間模様は、再生させる人類のメンタリティーを創造するために大いに参考となるだろう。
女は、引き分けに終わった両者の戦闘のあらましを確認しつつ、力場チューブの焦点をプログラム内に合わせた。両名の心理的なステータスをチェックする。意外なことに、二人とも厭戦気分でいっぱいだった。戦争に倦み疲れていたのである。人工知能フレノイムスG05PWと、その対戦相手の人工知能は戦意が衰えていなかった。負けると人工知能連合体の中央統帥部によって消滅させられてしまうので、必死なのだ。
「人工知能のメンタリティーも、これはこれで参考値になるか」
得られたデータを研究ノートに記入した女は、螺旋階段に向かった。太陽望遠鏡の塔の最上階から地下までエレベーターがあるのだが、運動のために階段を降りるのである。これも人間復活のためのデータ収集のためだった。人間はダイエットのためと称し、エレベーターやエスカレーターがあるのに階段でビルを上り下りしたとの伝説があった。その動きを実際にやることで、人間のメンタリティーを体感してみたいという想いが、女にはあった。
何もかも人類再生のためだった。人工知能である彼女は人類復活のため、太陽望遠鏡の塔を建設した。そして人間に似せて生物機械の体を作った。伝説の通りに作ったつもりだが、中身については分からないことが多い。異世界スペクトラム太陽望遠鏡を使い、人工知能や人工知能が作った疑似ヒューマノイドの精神構造をデータとして収集したり、人間の文化を研究して人の心を把握しようという方法が、どの程度の精度を持っているのかも、実は分からない。それでも、この方法で行くと女は決めている。遺伝データだけでなく、環境面でのアプローチが重要だと考えるからだ。
太陽望遠郷を建設したのも、人類復活のためだ。ここの住人は今のところ彼女しかいない。だが、新しく創られる人間が、太陽望遠郷の住人になるはずだった。太陽望遠鏡の塔の地下に、人間製造工場があるのだ。ただし、そこで造られるのは、元の人類とすっかり同じではない。女は、これを人間のリブートだと考えている。人工知能である彼女は、自分たちの能力を超える新人類を創り上げるつもりなのだ。
自分は新しい人類を生み出す女神となるのだと、彼女は決めている。
彼女は若々しい野望で燃えていた。
それと似たような企てが宇宙創成以来、幾度となく繰り返されているとは知らずに。
勿論、それは彼女が悪いのではない。
青春とは、同じような過ちを先人たちが何度も仕出かしていることに気付かず、またも失敗を繰り返してしまうことを意味するのだから。
大いなる企て @2321umoyukaku_2319
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