ブレインシャッター
すずこ
第1話 完結そして始まり
父は学問的に頭が良い。常に誰かの意見を必要とし、そしてその意見を捨てることを大切にしていた。家族団欒の時間に流れているニュース番組を見ているときに、父は、母、僕と順番に自分の言ったことに対する意見を求める。小学生の時は何を言っているのか訳が分からなかったが、僕が曖昧でもきちんとしていそうなことを言うと、よく僕を褒めてくれて、話を最後まで否定せずに聞いてくれた。
しかし中学一年生になるとそうはいかず、何か考えている風なことを話そうものなら醜いアヒルの子を見るような目を向け、部外者のように僕を扱った。
僕はごめんなさいという言葉を家族団欒の時間に残すことしかできず、それは僕にとって家族団欒の時間なんかじゃなかった。両親にとっても家族団欒というのは定義に当てはめて考えてみたときのことなのだろうと思う。まるで、刑務所に入りたての僕と、長年そこにいる悪い奴らが僕を毛嫌いしているみたいな構図であった。だから僕は非常によく考えるようになった。僕も刑務所内の一員となるために。
僕は結構真面目だったから、A4のノートを買ってきて毎日三ページみっしり、何故批判されなければいけなかったのか、僕の意見を細かく分析し、父の意見の粗を探すことを努めた。そして毎日毎日、自分の頭の悪さを反省した。
中高での僕の立ち位置は、一貫して気難しい近寄り難いタイプの人であった。他人の行動を酷く分析してしまうことを癖とし、コミュニケーションを苦手とした。相手の情報を聞き、そこから意見を言おうとしても、意見を整えたときに相手は既に僕への興味を喪失してしまい、残されたのは空っぽな感情と溢れるほどの思考だった。だから、時間をかけて考え、思い通りに伝えることが出来る発表の時間が何よりも好きだった。そしてそこが自分を誰かに表明出来る唯一の時間だった。皆の中での評価はそこで全て決まった。僕はその評価に酷く縛り付けられた。次第に僕という存在にも縛られて行き、これを揺るがすことがないように笑顔を作るのを辞めた。でもそれで良かったのかもしれない。僕は本当に、笑顔が汚かった。これで僕という存在は確立されたものになる。
本当によくやったと思う。中学一年生から高校三年生まで家族団欒の時間が続き、僕はその度に自分の意見を言うのを辞めず、父も僕を否定することを辞めなかった。思春期の男が団欒の時間に二人いる事を母はどう思っていたのだろう? 図らずも母と父は僕が大学に上がった途端離婚をし、母にそのことを聞く機会は与えられなかった。連絡手段はあるけれど、仲が良かった記憶も無いのに急にそんなことを聞かれたらどうなるかなんてことくらい、分析すれば嫌でも分かる。そして図らずもなんて言葉を付けたけれど、両親の離婚は女がダイエットに失敗するときくらいとても自然な事に思えた。昔の女の人も、二〇二四年の女の人も、何も変わらない。全ては図らずも、だ。
何故父に引き取られたのか、考え出した答えは、母は僕の中では世界一多事多端な医者で家庭に関与したことがあまりなかったからだ。きっと僕を引き取って育てる余裕も無い。それに比べて父は安定した富を、経営している会計事務所から収集し、母に比べれば、僕を視界に入れられる為引き取った、だった。深く関わらなくても衣食住が整えられていて、生活に困苦しないのならば一人暮らしをするより、どちらでも良いから家に住まわせてくれることはありがたかった。僕は今更、父とのこのような索然とした関係を変える気はなかった。母が抜け、父と二人きりになった今、矢印はより堅固に僕に向くようになっていたが、これ以上僕たちの関係が悪化していかないよう努めていくだけだ。
そんな僕は大学一年生の時に一目惚れのようなものを経験した。ようなものと表記するのにも理由はある。第一僕は一目惚れが分からない。その子はとにかく顔が可愛かった。だけどこの感情が一目惚れというものに相当するのかどうか分からないのだ。人は自分と似たような顔に好意を抱くと言われるが、多分その類であった。
彼女に出会ったのは入学式が執り行われている小田急線沿いの広い会場で、大体二〇〇人程度の生徒が僕の左右前後を囲んでいた。最後に生徒一人一人が前に出て書類を受け取りに行くのだが、彼女の持っている人工の金髪と天然物のすらっとした長い脚が僕を魅了した。彼女は所謂、僕とは正反対のタイプの人間であった。ここまで人の容姿が目に入ることは、初めてだった。僕は彼女の後ろ側に席を取っていたから彼女のことを凝視することが出来たが、向こうは僕を見つけることは無かった。話しかけようかと思ったが、そんなことは当然できなかった。何より僕は彼女のような強い容姿を備えていなかったからだ。僕はあまり格好良くない。
入学式が終わると、新しく通う大学の付近をだいたい夜の九時くらいまで家に帰らずに一心に歩いた。川沿い、街中、住宅街。そこには僕が知らない音があり、知らない匂いがあった。そして今日会った金髪ショートの女の子のことを考えた。考えれば考えるほど、その子のことが分からなくなっていき、その子についての事実を知りたいと切願した。
川沿いでは制服を着た男女がクラス替えで離れ離れになってしまったことについて嘆き、その反動で二人の距離は身体的に凄く近いものになっていた。その二人をいつも見ているわけではないが、いつもより近いのではないかと思った。そしてあの子とクラスが一緒にならないものかと耽った。一年後、クラスが別々になってしまったらあの二人みたいにいつもより距離を縮めて感情的に嘆くんだと。二人の目の前には確かに川はあるし桜も咲いて私たちを彩っているし、春の初々しい風を感じることが出来るのに、きっとそこには二人だけの空間が存在していて、その空間には匂いも風も風景も入ることが出来ない。そんなことを想像すると、一人でその子のことを考えているこの時間に、少しでもこの時の感覚を取り込むよう神経を集中させた。そしてなんだか自分が、彼女の容姿だけに惹かれている酷く醜い人間であるような気がした。僕は彼女の思考を知ってからではないとこんな感情を抱く資格なんてない。彼女だって、僕のことをもちろん、僕よりも何にも知らない。
だめだだめだと思うほど、何故自分はこんなにも彼女のことを考えているのか、この初めての感情をうまく整理することが出来ない愚鈍な己を、己の思考を恥じた。
大学に通い始めて半月が経過した。僕はその子と特に距離を詰めるわけでもなくクラスも全然違った。だから僕が知りたかったその子についての事実は何一つ掴めないでいた。しかし分かったことがある。初めの印象であった僕とは正反対という外見の印象は、間違いであるということだ。彼女はお昼休みになると一人で抜け出しそのまま一人で世界の孤独を飲み込んだような顔で、公園でお弁当を食べた。そして誰もいないのを確認してから一人で煙草を吸った。彼女が一人でいるということに驚きを隠せなかった。いかにも集団行動の中で一番目立つような外見であったし、大学の中でも一応仲がいい人がいたみたいだった。そしてそのグループで会話をするときには彼女はいつも皆を笑わせていた。彼女は非常に計算的に動く人であった。その計算は、自然に行われており、彼女が人を笑わせる役割に回っていると気付いていそうな人はいなかった。僕は知らないけれど。
僕の大学ではお昼は決まっているかのように誰かと共に食べるということが当たり前に繰り広げられていた。僕は徐々に居心地が悪くなり一人の時間を確保するようになった。彼女と僕は正反対ではない。これは紛れもなく、知りたかった彼女の事実であった。いつでも自分の中に答えを見出してきたのに、それだけではどうにもならない真実が彼女の中にあり、その真実は誰かに知って欲しいかのように、しかしその誰かは、何故か、僕を待っているような気がした。
終わりのない人生を歩み始めているのではないかと思った。果たしてこれが恋というものなのか、人に興味を持っているだけであるのか、何日間も考え抜いて出した答えは分からない、であった。彼女の気持ちはおろか、僕の気持ちでさえも分からなかったのだ。
そんなある日、僕は学年の何かの発表でイエスキリストについて発表した。何の発表だったかはまるで覚えていない。記憶にあるのは発表台から見る彼女の金髪は、やはり僕を揺れ動かしているということだけだ。彼女に特別光は当たっていないのにも関わらず、そこには神から与えられし栄光の光が灯され、その光は周りの存在を打ち消し、まるで僕を誘惑するかのような光の反射の仕方をしていた。
発表がすべて終わり家に帰ろうと支度をしていると、その光は僕の肩を三回叩いた。直ぐに彼女であると分かった。毎日彼女の後を追っていたこともあり、彼女の匂いに関してはエリート並みに理解していたのだ。これが恋だと言わずに何と言えるだろうか。ただその当時非常に頭がカチコチになっていて、周りから決められた頭が良いというプライドを曲げていなかったから、好きとは負けの行為であり、そんなものには負けていないと虚勢を張っていた。
とにかく彼女は肩を三回叩いた。彼女の細い指が僕に初めて触れた。僕は初めて彼女に触れられた。
彼女の方を向くと、恥ずかしそうに僕を見つめて一言こういった。
「貴方の考え、好きです」
鋭くて、彼女の人生の全てが収納されているその瞳と僕の彼女を見る瞳が重なった。発せられた声は、今にも泣きだしそうな音をしていた。彼女は返事を待たずして、それでは、という言葉を置き前から消えた。この一瞬の出来事にきっと恋に落ちてしまったのだと思う。それまでも恋に落ちていると言えばそうなのかもしれないが、この時、負けたと単純にそう感じた。きっと、彼女の前では無力な人間であり、これからは何もかもが彼女を中心にして生きていかなければならなくなると、そんな長々とした言葉は思いつかなかったけれど、そのような感情が僕の頭も心臓も、体という体全てを侵食し、僕を楽にさせた。その象徴に、僕は初めて上手くスキップをして家に帰った。
夕食時、やはり父と口論をした。第三者から見るといつも通りの光景で、僕からしてもそれはいつも通りのやりとりだった。しかし一つだけいつもと違うことが起きた。父がいきなり私生活について質問をしてきたのだ。そしてその答えは千差万別なものでは無く、僕にしか分からない事実であった。
「今日何か充足したことがあったのか」
この世の誰にも及ばない不愛想な顔と声で、彼が僕を息子であると理解しているのかどうかも分からないような表現方法であった。今日の僕は彼の暗黒な頭の中では眩しすぎるのかもしれない。それとも、単純にスキップをして帰ったところを見られたのかもしれない。そのどちらかは、考える隙が無かった。早く何かを言わなければ僕についての何かを悟られてしまう。今まで必死に作り上げてきた僕と父と言う関係の構図が紛乱してしまう。
「何もないよ」
僕についての何かを、彼が知りたかった僕についての事実を捻じ曲げることで、今までに作り上げてきた関係性を保とうとした。しかし保ったことで何が生まれるのか、もしくはなくなっていくのかは分からなかった。きっとそのどちらも無く、並行を保ち、彼との関係性のように僕自身も変わることは無いのだ。そして不思議なことに、こんな気持ちとは裏腹に、好きな子について話してみたいという感覚に襲われた。何故そんな不当な考えが過ったのだろうか。そして僕は、彼の私生活についても触れたほうが良いのだろうかという忖度が生まれた。関係上、お互いの私生活を露わにするということはもはや不義理と言って良いくらいのものだったけれど、その隠れた掟が破かれた今、この不当な感情と少々戦っていた。しかしそれは自然な形で終わりを迎えた。
父は話を切られると、父の中の知られたくない部分を自分の中でも粉々にして分からなくして、家族の団欒を諦めた。僕には、そんな風に見えた。僕はこの関係を守ったのだ。けれど何だか、暗澹な気持ちの塊が僕から離れていかなかった。
スキップをして帰った日を境に女の子と急速に仲が良くなった。しかしその仲の良さは友人関係的なものでは無かった。それは誤解などではなく、周りに対して僕たちがとっていた行動で明らかなものになっていた。まるで宝のありかを必死に隠すように、お互いの関係を周囲に隠しながら学校生活を送っていたのだ。そのことについて二人で話したことがある。そしてそれは、彼女の言葉から始まった。
彼女といつも話すのは、お昼休みと学校終わりの駅までの帰り道だった。その時間が人生の中で最も美しく青春を帯びた時間だった。死ぬ前の走馬灯で流れる記憶は、きっとその彼女との限られた日々だろう。そんな時間を僕たちは過ごしていた。その中で、以前自分の大切なものについて語ったことがある。
僕はノートをよく書く。そこには完成されていない思考の過程が沢山書いてある。そしてそれは他人には絶対に見せない。それが僕のアイデンティティであり、それはとても繊細で守らねばならない一番大切なものだったからだ。彼女は僕と少し仲が良くなった頃、そのノートを見てみたいと言い出したことがあった。勿論僕はそれを断った。彼女が傷つかないように断った。それを、分かったと許してくれた。それからノートに関しての話題が挙がることはなかったが、秘密に関連してこんなことを言った。
「私は学校の皆の前で貴方のこと話さないし話しかけるつもりないけど、それは平気なんですか?」
一語一語、僕に確認を取るような、かといってそれは事前に用意された言葉ではなく、頭の中の思い付きの連鎖を繋ぎ合わせたみたいに話した。
僕は彼女が作ったからこそ極上に美味しくなった、お裾分けしてくれた卵焼きを食べながら実に自然に言葉に溶け込んだ。そして問いに対して、自分の気持ちと彼女の言葉を整理してから不器用に、彼女の表情を曇らせる「哀感は残ります。だけど平気ですよ」というどっち付かずの答えを返した。
そして彼女はまた一語一語思い出すようにその現象が何故起こっているのかを、二人の間で距離を取るようにして、いや、実際に物理的な距離を取って(彼女は僕の前の席に座っていたが突然立ちだし教卓の方に向かった)教えてくれた。
「私は、さっき大切なものを隠すっていう話を聞いて、何で今まで皆の前では話しかけられないのかとか、隠しておきたいって思っちゃうのかなってことの真実が分かった気がするんです。それは、ただ単に恥ずかしいとかそう言うんじゃない。多分、貴方のことが、何て言うんだろう」
大事な部分を僕に隠して、そのまま僕の顔を見ずに言葉に表すことの難しさを講義するように黙ってしまった。そしてそのまましゃがみ込み、教卓の中に収まった。僕はその言語化に助け舟を出すように「僕のこと、取っておきたいということですか?」と表現した。すると教卓の中に収まっている、僕からは見ることのできない彼女は大声で「そう、です」と返した。それは言葉を繋げて返したというよりかは、彼女の思考の中で紡いでいる、自分だけの物語に終止符を付けたような、簡単に表現するならば自分に言い聞かせたかのような叫びであった。そして最後に「だからノートは、見せてくれなくても、傷つかない気がします」と考えを更に受け入れてくれた。
僕は驚喜した。それは、彼女が僕の中にある“弱みを隠している僕”というものを大切にして受け入れてくれたからだ。そして、僕のことが大切だから誰にも明かしたくない、取っておきたいと伝えてくれたからだ。そんなことを誰かから言われたのは生まれて初めてのことだった。そんな体験を教卓の中に少女のように縮こまっている好きな女の子から言われたのだった。しかし、大切だ、そんな当たり前みたいに思える言葉を言われたことが無いという情けなさにも襲われた。
僕の好きな金髪ショートの女の子は気持ちがさっきより落ち着いたのか、またひょっこりと教卓から顔を出した。体の内側が物凄く熱くなっているのが赤くなった頬から分かった。
彼女はたまに、物凄くストレートに感情を伝えてくれる。しかしそれは僕に対して感じたものだけであった。自分の事になると途端に分からなくなり、分からなくなっているのか、僕に分からせないように、そして自分でもその時のことは理解したくないのか、それこそ僕には分からないが、過去のことについては自分から一切語らないしそれについて関連することを尋ねても、わざとらしく話題を横道に逸らした。僕が知っている彼女は、今の彼女でしかない。彼女が過去を通して得たものを今の彼女を通して知るという行為はとても素敵で、それで充分ではないかと思われるが、人間にはやはり欲がつき纏う。
今の彼女を作ってくれた過去の姿が見たかった。それを知ることによって、僕はもう少し優しくできるかもしれない。優しい笑顔を今よりもっと向けることが出来るかもしれなかった。何よりも、それを知ることによって彼女に好きだと伝えたかったのだ。
僕は彼女が作った卵焼きを何個も食べた。美味しそうに頬張る姿を見て、彼女はたまに自分の分をくれた。
そしてその過程で、彼女はよく、彼女の中での不完全な問いを僕に投げ掛けた。それは、父が僕に対して投げかけるものと、少し似ていた。
「今、私たちが滅びちゃったら、一体全体、みんなは何残して滅びるんでしょうね」
一つ一つの言葉を構成しながら彼女は言う。
彼女はこういうことを、大体帰り道に僕に言う。僕はカチコチになった頭をフル回転させて、今まで培ってきた思考の隅々を模索し完成形である答えを渡すのだった。
「後悔を残す。そして、滅びるんだと思いますよ。どんなに素晴らしいものを築き上げた人でも。反対に僕みたいに馬鹿みたいに固持的な人でも。最後は何かのモノじゃない。人間のエゴだけです。それだけがこの地上に取り残される。そのエゴというのが、後悔です。胸奥に溜まりにたまったどす黒いもの」
長く構成した文章を、女の子に伝えるために分かり易くするよう努めた。彼女はそれをよく、僕の目を、まるでそこからすべての情報を盗み出すかのようにじっくりと見つめ、自分の思考に流し込み、咀嚼した。時折、自分のスマホを出して、僕の言葉を「きょうおう」といった風に平仮名に直してから口に出し、検索した。僕は彼女が理解するのを待ちながらゆっくりと話をするよう努めたし、なにより文章化が適切になされていない回答を口に出すことが不得手であったから、彼女のペースに助けられた。
そして僕の話を聞き終わると、考えと言葉が連動するように「ていうことは、地上で、人間が、凄いもがき苦しんで自分を伝えなきゃってことを目的としても、最後はそういう努力の結晶みたいなもんじゃなくって、そこで失敗しちゃったことが残っちゃうんですか?」と話した。言い終わった後の彼女の表情は、表面である哲学的な問いを投げかけたとは思えないものだった。
この会話は、彼女についての過去である高校時代のことを聞いた直後に起きたものであった。するといきなり滅びたら、という会話に飛んだのだ。彼女の意図がさっぱり分からなかった。そしてこのような問いかけをしてくる度にそう思い続けた。言葉の意味を、分からなければいけなかった。そういう時僕は、どうすればよかったのだろう。その隠れた意図を傷つけないように、さらに時間をかけて考えた。
「その失敗に対する後悔は人によって様々です。強い人もいれば弱い人もいる。だから、肯綮に当たるのは、少しでも後悔をすっきりとしたものにすることです」彼女はまた「こうけい」と平仮名を口に出し一生懸命その意味を見つけようとした。「その努力なんじゃないでしょうか?」
僕自身の答えに対する彼女の思考の過程を待った。
「後悔をすっきりとしたものにする、ですね。それができたら……」
彼女は思考がパンパンになったように頭を搔きむしった。僕の前で必死に思考を巡らせている彼女は単純にとても可愛く僕の目に映り、彼女の思考のプロセスに立ち会って共に築き上げたいと思った。その一生懸命さがとても羨ましかった。僕はただ、僕の中で築き上げられた完成された思考という品物を見せびらかしているだけに過ぎない。そんな僕を、今、彼女に対して感じている一生懸命らしさからなる愛おしさを、感じてくれているだろうか。僕に残していった表面的に見える哲学みたいな問いは、論理的なものにではなく、感情に刺さっていった。しかしこんなにも鬱々としたことを考えていても、隣にいる一生懸命な好きな女の子はその感情を知らず知らずのうちに抱き締めてくれた。
「やっぱり貴方の考えは、凄くて、面白い」
そう言って、今度は悔しがるように笑い、髪の毛をくしゃくしゃにした。そしてぷんぷん怒ったかのように、お腹空いたと言った。
僕は父を思い出さずにはいられなかった。僕らの間で交わされる寂然としたやり取り。しかし、父との会話で違うことは明らかであった。彼女は僕の話を、とても丁寧に咀嚼してくれていた。僕らはそうやってやり取りを続けた。少しでも時間が過ぎていく、抵抗することが出来ない切なさを彼女と共有したくて、長い話をした。彼女も同じ気持ちだったのか、長い話をした。
そして僕らは足りない時間を彼女の家に行くという行為で延長した。そうすると、僕は家で夕食を食べることが無くなっていった。
始まりはひょんなことからだった。いつも彼女がお昼に食べている卵焼きを僕が盛大に褒め、学校帰りに彼女は「卵焼きを食べに来ますか?」と誘ってくれたのだ。勿論勘違いをした。付き合ってもいないのに寝られると思った。しかし彼女のことが本当に好きであったし、何より彼女は手料理を振舞うと僕の勘違いを差し置いて帰り道の延長線上にある関係値で話すのだった。
この状況を短く言うならば、夢であると錯覚を起こしそうになっていた。この場にいるのは本当の僕でなく、本当はまだあの刑務所の中にいて、なりたい状況、僕自身を想像し、神の如く理想を作り上げそれを今この瞬間に置いているのだと思った。しかし実際に存在しているのは僕一人でそれは夢でも何でもない、ただの夢のような時間であった。彼女の髪はしっかりと金色に染まり、それは僕の言葉に頷くたびに僕の視線を上下左右に動かした。そんな非日常的な時間が毎日、当たり前のように続いた。
この幸せを、早く彼女に伝えたい。僕の幸せは、君の心が作り出したものなのだと、早く言ってあげたい。大学で彼女を見かけたときも、僕が見過ぎて目が合ってしまう瞬間も、彼女が料理を作る時に歌う歌を、僕が噓寝をして聞いている瞬間も、僕はずっと初恋をしていた。
人間というのは残酷なもので、自分が望んで知りたいと思った人と会話を重ねれば重ねるほど、知りたかったという純白な思想の裏にある、その人の真っ黒な粗にぶつかってしまい、思想と現実の間にある大きな溝に憂鬱を感じてしまう。そして勿論彼女にそれはあった。しかし僕はそれを彼女の粗だという認識から外して、それこそ彼女について知りたかった人間味のある暖かな足りないものだと思った。彼女には、自分の人生に対しての本音を語る勇気が無かった。何回か彼女の問いかけである哲学めいたものに違和感を覚えたのも、それはやはり表面だけの問いかけではなく、彼女が構築してきた人生に対しての問いだったのだと思う。それをあたかも自分のことでは無いように僕に間接的に嘆き人生の苦しみを隠していた。思えば思うほど、その事実を僕だけで片付けるわけにはいかず、何よりそれを語る相手を見つけることで、幸せになって欲しかった。そして、やはりそれは僕であって欲しい。
いつも通り美味しい卵焼きを食べ、何気ない話をしているときに彼女に言ってほしいことを、もう暗くなった二人きりの部屋で聞いてみることにした。彼女の部屋はいつ行っても明かりが灯っていない。だからと言って身体的に距離を詰めてくることもなく、そういう関係を求めているはずが無かった。それは今まで僕たちが形成していった関係からして誰にどう言われようと揺るがないものであった。暗闇で相手の表情が読めず、それが逆に話しやすさを演出して僕たちの心理的距離は縮まっていたように思える。彼女も以前と比べて遠回しに人生の粗を一生懸命に伝えようとしてくれていた。その本質に迫りたい。
「そういえば、支障があるとかではないですけど、単純に気になったこととして聞きます。一人でいるときも、部屋は真っ暗に近いんですか?」
誰かに思考のプロセスを届けることを苦手とする僕は、その象徴である質問を投げかけるという行為がとてつもなく苦手だった。彼女と会話するときに限らず、誰と会話するにしても、僕は滅多に質問を投げかけない。だからきっと、上手く文を構成して言ったつもりでも、彼女からしてみたら不審極まりないものであったと思う。彼女の反応が気になって横に座っている彼女をちらちら確認していたが、不器用な言葉を発していても僕の様子を気に掛ける小さな天使のように、頷きながら聞いてくれていた。その行動が、僕の言っていることが彼女を傷つける要素になっていないんだという、か細い確信に繋がった。
彼女は自分の話を始める前に、近くに置いてあったタオルケットを手に取りそれで顔を隠した。
「一人の時も大抵部屋は暗いんだけど、貴方といるとき暗くしてるのは、何て言うか、こうしたら、話したいこと話せるかなって。私も、貴方も」
「僕もですか?」
「そうです。話したいことあったら、話せるかなって」
僕は一見なんにも無さそうな言葉をカチコチな頭で確かめていった。彼女が、話したいことを話せるように。
「それは、僕のことを知りたいということで合っていますか?」
彼女がこの暗闇を使って話さなければいけないことが沢山あった。それは僕に話さなければいけないことではない。大切な感情を彼女自身と語り合う必要があったのだ。しかしそんなにも大切なことが今まで語られてこなかった。何度もこの家に訪れ暗闇の中二人の時間を過ごしたが、その意図に気付くことなく他愛もない話を交わした。それは僕にとって有意義で喜びが溢れる時間であったが、彼女にとっては僕との距離をどう的確に保とうか、自分の過去をどう避けようかの模索の時間でしかなかったのかもしれない。しかし横で笑っていた彼女は本当のモノであったから、僕も感じていた嬉しさを共に感じつつ、その思いと戦っていたのだ。それは、僕も同じではないかと思った。ひたすらに思考のプロセスを見せることを拒み、完成されたものだけを提示する、彼女に質問を投げかけることもない。そんな僕に自分の大切なものを見せる勇気を持てる人などいない。稀に、聞いてもいないのに全てを語ってくる人もいるが、僕の知っている今の彼女はそんなような人ではなかった。
彼女は恥ずかしさで半分泣いているのか、笑っているのか分からないような微笑みを向けた。その表情が繊細で、触れて良いものなのか分からなくなりながらも、これは僕たちが歩まなければならないものなのだと直観力の無い僕の直感が言った。間違っていたらきっと嫌われてしまう。
「冷たく聞こえてしまっていたら本当にごめんなさい。でも僕は、貴方のことが本当に知りたい。私もってことは、僕に知って欲しいことがあるんじゃないかなって。暗闇で、自分の表情が相手に伝わらない、そんな時にしか話せない。貴方の大切なことが」
僕は横で僕の言葉に怯えているかもしれない彼女の気持ちを思えば思うほど、自分の世界で築いた論理的思考なんか置いて、彼女の感情に寄り添うために僕の感情を出さなければいけなかった。そしてそれは、好きであるという気持ちがあれば、急進的に努力をしなくとも湧き出てくるものだった。
彼女は珍しく何も言わなかった。僕は言葉で伝えるという手段を辞め、僕に対して、何か言いたいという気持ちを持ちながらも言いたくない葛藤にもまれている小さな天使の両手を、僕の両手で包み込んだ。彼女の手に力はなく、抵抗もしなかった。僕は彼女の言葉を、彼女が僕の言葉を待ってくれていたように待った。待った先の彼女の声は、明るい世界からかけ離れた音をしていた。それは僕がいない、独りぼっちでお昼ご飯を食べていた時の彼女の顔とぴったり合わさった。彼女の笑った顔に慣れ過ぎて、僕と真反対ではないと感じたあの時の彼女の表情を忘れてしまっていたのだ。
「私のこと、興味ないのかなって思ってました。なんでこんなに話してくれるんだろうって。私の言葉に応えてくれて、一緒に考えてくれて、訳分かんなかった。でも、やっと、私に質問してくれた。泣きそうなくらい、嬉しいんです。分かりますか?」
「うん」
僕は彼女の感情を理解すると同時に、自分の今までの、自分以外の人間への行動を思い出さずにはいられなかった。そこには勿論父がいた。父がその九割を占めていた。自分の思考のプロセスを見せないということは、人に興味を持っていないと捉えられてしまうことなのだと、僕は彼女の勇気ある行動で気付くことが出来た。独自の意見に収まらず、彼女の声を聞きたかった。僕はまた、彼女が幸せになるために、本音を聞き出す努力をした。
「僕はね、自分の失敗作に自信が無い。だから、僕が悩んでいる最中のこととか、そういうことを人に見せることが難しいんです。完成されたものしか見せることが出来ない。
でも貴方は、そんな僕の考えを素敵だと褒めてくれる。貴方が初めて言ってくれた帰り道、僕は嬉しくて堪らなくてスキップを上手にして帰りました」
さっきまで俯き加減だった僕の好きな子は、スキップの話になると僕の顔を見ずにふふっと上機嫌に笑った。僕の顔を見れなかったのは、まるで今自分の中にある大切な記憶をこの時間の流れで出してしまっていいものか考えているようにも見えた。僕は少しだけ彼女の話を待ったが、彼女の心はまだ準備ができていないようだった。
「僕がいくら完成されていると思っていても、それは他人には関係ないんだよ。だから文章を構成してから話す。そうすることで思い付きの言葉で勝手に他人を傷心させなくて済むし批判されなくて済む。まあ、そうやっていても批判してくる人はやっぱりいるけどね」
僕はそこまで話すと自分の口からノート以外の大切なことを話そうか悩んだ。彼女の本音を聞いてあげるにはまずは僕が話してあげないと何も進まないのに。人間は精神的に結構弱い。
それを見破れたのか、彼女は「それは誰?」と僕の思考の中にある不純物を一つずつ消してくれているような声で聴いてくれた。僕はその声に感化され頭で考える前に「僕の父だよ」と言った。
「僕はね、父に否定されたくない。だから完成されたものを用意する。貴方が前に見せて欲しいって言ってくれたノート。あれには僕の頭の中にあるものの過程がびっしりある。貴方に見せることで僕を失ってほしくなかった」
彼女は分かった、無理言ってごめんなさいと言ったが、表情を確認しなくても、その言葉は本当に分かったという意味じゃないことは今の僕にはなんとなく分かっていた。僕は立ち上がってリュックが置いてある場所まで行き、そこからいつも使っているA4ノートを出した。そして彼女にノートを開いて見せた。いいんですか?と、僕が無理をしているのではないかと気遣ってくれたが、僕は彼女に自分の世界を共有することで彼女の世界を知りたかった。それを達成するには僕のプライドなんて、彼女に差し出しても問題が無い。
僕のノートをじっくりと見て「お父さんのことばっかですね」と真面目な笑顔をみせた。僕は何て言っていいのか分からなかった。僕のお父さんの話で思い出したのか彼女は人生の中の家族の話をした。
「私お父さんのことめっちゃ尊敬してて、話し方とかお金に対する価値観とか、頭の良さとか。でもそれって元々できたことじゃなかったらしいんです。ほんとに努力家なんですよ。だから、お父さんがお金を稼げてるのは好きな事に一生懸命だったからで、頭が良いのは沢山勉強していろんなとことかいろんな人から吸収したからで。
私末っ子で、お姉ちゃんは努力家なんです。部屋行ったらいっつも勉強してる」
彼女は自分が今より小さかった頃に見た、姉の勉強に対しての奇妙な純情さの光景を思い出し、その頃の彼女のように幼く笑った。僕はそれに会いたくなった。そしてその気持ちが強く出過ぎたのか、さっきより握っている両手を強く握りしめた。彼女は今まで溜まっていた言葉が一気に込み上げてきたのか、すべて吐き出すように話した。
「お兄ちゃんは反対で、いつ部屋行っても汚いしゲームしてるか寝てるか映画見てるかで。でもその全て、お兄ちゃんの本当に好きな事なんです。映画もゲームも、物知りですよ。寝ることは違いますけどね。しかも、こんな勉強とは無縁に見えるのに、受験勉強二か月前から始めて良いとこの法学部行ったんですよ。ほんとすごい。お兄ちゃんは天才です」
兄弟のことが好きな事が駄々洩れの彼女は本当に楽しそうに話した。しかし事実の裏にはきっと彼女がこの話を始めた理由がある。
「それを、君はどう見ていたの?」
彼女は自分の人生に対する意見を問われると、深呼吸をして、今から大切なものを見せるから嫌いにならないでと、僕にも、自分自身にも伝えるように僕の手を握り直した。
「私には、どっちもない」
そう言うと、彼女は両手をそっと離し、自分の範囲にしまい込んだ。僕はかける言葉が見つからなかったから、感情のままに触れて良いのか分からない、繊細な頭に手を置いた。撫でるたびに、頭の中にある葛藤が伝わった。そこには、彼女が、自分の人生に対して本音を言えない理由がまだまだある気がした。しかし十八歳の彼女には、その全てを一日で語るには気持ちが貧相すぎる。彼女はやはり「ごめんなさい、いっぱい聞いてくれたのに」と私は聞いてほしいことがあるという言葉を濁して、その話を断念した。この話の中断は終止符ではなく、僕たちの関係を築く手段として未来のあるものであった。彼女の皆の前での煌びやかさは、そういう何もないという自分を隠すためのモノだったのかもしれない。だとすると、十八歳の彼女は自分に自信があるという風に見せるのが凄く上手であった。僕の好きな金髪が、彼女の心を守っているように見えた。
自信を無くしてしまった彼女の支えになりたかった。僕はもう、言わざるを得ないのかもしれない。
「僕は、貴方のこと好きですよ」
それは濁りの無い、純粋な水のような気持だった。彼女は僕の告白を聞いて、さっきまであんなに孤独の中にいたのに、可愛い驚きの表情を向けてくれた。悔しがって懊悩していると思ったらお腹が空いたと言う。孤独に閉じ込められていると思ったら次は驚愕して口が塞がっていない。本当に、可愛い。彼女は嬉し泣きのような表情を一瞬見せたかと思うと、僕にその表情を隠して「私は嫌いです」と可愛く言った。彼女からしたらその言葉は気持ちを悟られてしまわないようにツンと言ったつもりだったのかもしれないが、それを隠すことは今更無理であった。
彼女の家から出ると、僕は小さく、さっき出てきた二人の空間が存在していた部屋の扉を見て手を振った。そこには僕の思考のプロセスを初めて見せた独りの女の子がいて、その子はもしかしたら、初めて他人に自分の人生を話したのかもしれなかった。そう思うと、手を振りたくなったのだ。こんなことが彼女にバレたら、ちょっとだけ気持ち悪がられるだろうか。でも僕は、手を振った。
家に帰り、さっき彼女に話したことを考え、彼女が僕に話してくれたことを考えた。それは確実に僕の人生にも響く話であった。ずっと何かを求めていた。それは気付かないくらい小さなもので、僕はきっと彼女に出会わなければこんなこと考えもしなかったのだろう。彼女の純美なほどの、向上心が今の僕をそうさせていた。今なら、僕のコンプレックスを作り出した父と戦えるかもしれなかった。彼女に出会ったことで、僕の中の様々なことが成長を遂げた。それはノートに書かれてあることを見れば明らかであった。僕のコンプレックスを打ち破れるかもしれない。
家に帰るといつもソファで本を読んでいる父の後ろ姿は無く、父に会って僕の成長を見せつけてやろうという気持ちが高まっていたのを無視されたように感じた。この興奮は一体全体この家のどこに置いてきたらいいのか分からなかった。父のいない家を見回す。それも、いないということを意識しながら見回す。随分と広い部屋だった。第三者から見たら、この広い部屋はテレビドラマでよく出てきそうな堅苦しい家族関係にぴったりなものだった。そしてその感想は的を射ていた。家族同士が均等に独りになれるように作られているかのようで、僕たちは家族でありながらもやはり独りであった。そんな独りの象徴の父は、この前初めて「何かあったのか」と聞いてきた。それは独りを打開するものだった。何を考えてそのようなことを言ったのか分からないが、僕以上に酷く考える癖のある父が意味のないことを言うはずがない。そこには絶対に、僕との間に何かを求めていたのだ。そしてその時に確かに感じ、踏み込むことのできなかった“父の私生活”。あの時は自然な形で終わりを迎えてしまったが、そのことについての好奇心は線香花火よりもっと小さな炎ではあったが、燃え続けていた。そしてそれを正当化できる機会が訪れれば、炎が段々と大きくなり、消える前に掴みに行ってしまえという使命感へと変貌する。
広い部屋の中で脚は自然と父の部屋の前に行き、ドアノブに手をかけていた。初めてのことであった。誰かの部屋を覗き見ることがいけないことであることは僕にも分かっていた。しかし何もかものタイミングが僕をこの部屋に招き入れ、何かが、何かを、僕に知らせようとしていた。だからと言って良いのか、それを大切な瞬間だと受け入れた僕は罪悪感に苛まれないように急いでドアノブを降ろし、扉を開けた。その時の僕に求められていたのは速さであり、何かを感じようとすることではなかった。その勢いで父の部屋へと脚を踏み入れ前を向くことが無いまま立ち止まり呼吸を確認した。好きな女の子の部屋に初めて上がる時よりも心臓が飛び出そうで、息は激しく、もう少しでも僕に精神的ダメージが加えられていたならば過呼吸になっていたのだと思う。まだドアノブにかかっていた手をゆっくりと離し、父の部屋に入った感触を確かめるように扉を閉める。すると心臓がゆっくりと動くことを覚え始め、始めて目の前に広がるものを確認した。
父の部屋は壁一面に本棚が並び、そこには異様な数の本が敷き詰められていた。しかし僕が驚いたのはその小さな図書館のような光景ではなく、本棚の高さが不均一であったことだった。高いもので並べられていると思ったらその隣には不似合いすぎる百三十センチの僕のくびれほどの高さの本棚がちょこんと添えてあった。僕はそのことに対して不思議がり、誰もがするようにその本棚に近づいた。その上には僕の知りたくなかった父の感情が堂々とあった。父の私生活が知りたいと言ってこの部屋に踏み込み、“知りたくなかった感情”とはあまりにも何もかもが一致していなさすぎる事であるが、その気持ちが僕の本音であり、その相反する感情が強く惹かれ合ったせいで、このことに強い興味を持ったのだ。この矛盾する感情は当たり前のモノだった。
とにかく小さな本棚の上には父について知らなかったことがあった。誰かの意見を求める癖にその何もかもを切り捨てる父からは想像もつかない。そこにあったのは母と離婚する前に毎年の誕生日で貰っていた品であった。僕は父が母に何を渡すのか、母が父に何を渡すのかそのことに非常に興味があり、それが唯一の家族としての繋がりだと思っていた。誰かにモノをあげるという行為を特別なものだと必死に捉え、その行為に家族としての温もりを見出そうとしていたのだ。だから母が何をあげたのかその日のノートにはすべて記録していた。そのものが、小さな棚の上に全て置いてあったのだ。他にも何かないかと周りを見渡すと、ところどころに収められている小さな棚の上には必ずと言って良いほど母に関するものが置いてあった。僕が未だ僕ら家族について違和感を抱いていなかった時期、つまり僕が小学生だったころに皆で行った場所での写真や、僕が生まれる以前に母と父で撮ったものがしっかりと額に飾られて置いてあった。普通の人間がこの人はあいつに執着をしていると捉えてしまう量には及ばないが、この部屋に置いてあるものの数は父のイメージを崩壊させるには十分な量と質であった。
これまで僕が抱いていた威厳さからくる、父の根本にあるプライドが見えたある意味人間らしい存在が崩壊し、この世のものではない、母という幸せに取り憑かれたような、この人は僕の父親では絶対にないという恐ろしい存在に変化した。やはり踏み入ることではなかったのだ。この時の僕はただ単に予想を超えた出来事に驚いていただけだったのだと思う。しかしその驚きも域を超えれば恐怖に変わる。僕は演技の中で俳優が困ったことを表現するときに使う頭を抱えるという行為を自然にそっくりそのままして、これ以上ここにいてはならないとでも言うように僕の気持ちの中では速足で部屋を後にした。
こんな現象を目の前にしても、家族団欒の時間は当然のように現れ、僕は父と、形式上の時を迎えた。以前の父に向いていただけのものとは違う緊張感が僕を襲う。父だけでなく、部屋の隅にこれもやはり形式的に置かれているだけの観葉植物や、テレビから流れてくる芸人たちの音、出て行った母が選んだらしい赤と緑のチェックのカーテン。カーテンの隙間から見える暗闇、全てが僕の敵であり、僕がその空間に一瞬でも気を許そうものならそれらは溶けて僕の体内を襲ってきて、今までの何もかもを奪い取り最終的に僕の中にはただの記憶しか残らない。僕はどうにかして目の前の父の息子らしい冷静さを装う。
父はご飯を掬ってから口に入れるまでのスピードが他の人より速い。その速さは、父の頭の回転の速さを物語っているように見えた。そしてその速度が通常の人間と等しくなり始めたとき、父はいつも僕に問いを投げかける。
「お前は、世の中で一番非効率的な事は何だと思う?」
僕は父と同様、少し食べる速度を緩め、いかにも頭が回っていそうな雰囲気を醸し出しながら少しの間考えた。
「僕が思うのは、疑問を自分自身の中に閉じ込めておくことだと思います。疑問というのは自分以外の誰かから与えられた謎々。それは通常のものとは違う。答えが世界中共通ではありません。
例えば簡単な例で言います。僕は貴方からアイスクリームが食べたいから買ってきてくれと頼まれる。ここでの疑問は、貴方はどんなアイスクリームを求めているかです。しかし僕は分かったと言ってその場を後にする。そしてコンビニエンスストアに向かいます。
どんなアイスクリームが食べたいのだろうと懸命に僕の頭の中で探っても、そこにあるのは貴方に託された疑問。そして僕の不確かなこれじゃないかという確実しかないのです。その時間はとても非効率的です。僕が貴方に疑問を残されたときどんなアイスクリームが食べたいのかということ聞く。それが出来ればその疑問は発散することが出来ます。これは反対に脳に対して効率的な事です」
父は僕の意見を聞き少しの間黙った。僕の意見の中の欠点を探り確固とした自分にしかないことを僕に説明しようとするように。父はきっとこの時間を、いつもの時間と感じているのだろう。僕はいつもと何ら変わりがないと。目の前にいる形上の父は、ただ母に、そして家族という幸せの形に執着しているだけの人間であった。彼を恐れる価値はない。
父が確信を持った顔で言葉を繋ぎ始める。
「なんでも聞けばいいってもんじゃない。君はその分思考しなくなり、その手元にあるスマートフォンと君に疑問を残していった者の頭の中が君の頭の中になるんだ。そんな愚行的な人間になるのなら、少しでも多くのことを思考して相手の行動パターンを理解することの方がこの問題の肯綮だ。
一番非効率的な事は誰かを信じ愛すことだ。君に仁愛するに値する人物がいるかどうか、それは私の興味を別段惹かないがもしそのような行為をしているのならそれは徒爾に終わる。愛していてもいつかは欠点が出る。信愛していてもそれは不確かな自分に対して少しでも自信を持ちたいからということに過ぎない。自分の自信を誰かに求めてはいけない。非効率極まりない」
「母さんがいなくなった。そのことについて、僕が将来育む可能性のある愛について否定的にならないでください」
父の目を見ずにテレビで賑やかにしている芸人たちに目をやり、少し嘲笑気味にそういうと、父は今までの僕とは違う何かしらの雰囲気を感じ取ったのか、いつも僕の言葉尻を噛んで自分の意見を吐き捨てていたが二秒ともいかないくらいの間を開け、その時間の中で頭をフルに回転させていた。
何をどう言われようが、もう関係ない。
「妻は関係ない。元来そう思っていたことでそれが今口から出た。君の将来に期待などしていない。今お前が行った行為が正しく、非効率極まりない」父も僕と同じ行動を取った。僕らの空間にテレビという存在が無かったら、本当に刑務所的な空間だったのだと思う。
「それじゃまるで形式です。貴方と僕は父と子という遺伝子を持った。それだけに過ぎないです。僕も貴方のことには興味はないです。こんな概念にとらわれるだけの生活辞めたらいいです。だからあの人も出て行ったんじゃないですか? この環境では出ていくという概念に基づいて。その行為自体にも、貴方は特別な意味を感じていそうですけどね。母さんに執着していても、あっちは貴方のこともう何にも思ってないんじゃないですか? こんなプライドの塊みたいな貴方には倦厭して出て行ったんですよ」
今度は三秒ほど間を開いた。しかし先程の、戸惑いの間の空いた感じではなく、そこには僕の発言の中に明らかに気に障るところがあり、自分の怒りを少しでも最小のものにする為の間の空き方であった。父のことはもう関係ない存在だと思っていながらも、人が自分の言動に対して明らかに怒っていながらも、その空間からは簡単に抜け出せない状況にいることは、僕の不安と焦りと恐怖を膨らませるには充分だった。しかしここまでの時間に形成した意気地はその雑多な感情に勝った。「お前に私の何が分かるんだ?」父の食事の手はそれどころではないという風にもう止まっていた。僕はそれに変に負けないように手を動かし続けた。そしていつもの父みたいに出来るだけ感情的にならずに淡々と語った。
「扉を開けると本棚が沢山置いてありました。高いものから低いものまで。そしてその低いものの上には貴方の執着を表すものが沢山並べられていました。僕は今日までこの家庭で過ごしてきて、一度も貴方たち二人から本物の家族のような愛情を受けたことがありませんでした。だけど、その中でも誕生日になると、必ず貴方たちは互いの好みを探るように誕生日プレゼントを贈り合っていました。僕が二人から貰ったものなんかより、二人が思慕の心を抱き合っているのかもしれない。
もしかしたら僕たちは家族になれるのかもしれないと、本当の家族である僕たちを客観視していつもそう願っていました。でもそう願っていながらも、僕から見た貴方は誰よりも威厳があって、それを僕たちに示そうと何もかもをプライドで隠してこの中で誰よりも人間的でした。僕はそんな煩瑣な貴方が嫌いなのに、どうしても嫌いになり切れなかった。だから母さんに付いて行かずに貴方とこの家に残る決断をしたんです。
それなのに、貴方の頭の中は母という幸せに取り憑かれているみたいで、一人では作ることのできない家族という幸せを、母を通して手に入れて、放縦していただけじゃないですか。僕はそんなことのために生まれたんじゃない。貴方の幸せに加担するためだけに生まれたんじゃない。僕は僕で、幸せを見つける為に今まで貴方たちの子供であり続けたんです」
気付いたら、父の反応など一言も頭に入れる暇がなく永遠と今までのことを淡々にとは無縁に話し続けていた。そうすると、本当は何が言いたかったのか、何でここまで怒りが込み上げているのかが分からなくなり、きっと支離滅裂な、突っ込み所しかない文章であった。
しかしこれが言いたかったことであり、ぶつけたかったことであった。何もかもを意味が分からないまま言い切ると、何の自信が付いてきたのか、絶対に余計な一言を発したくなった。「そんなんだから嫌われたんだよ」怒りとも興奮とも取れない、泣きごとのようなものだった。
父は自分の部屋を覗かれたことに対して何も言えなくなっているのか、僕が今まで感じてきた家族の話を受けて何も言えなくなっているのか、今までに見たこともない、死んだ目をして下を向いていた。そんな目を見てしまっては、怒りをどうしようという気持ちが勝るわけがなく、言い過ぎてしまったのではないかという気持ちを持って、互いに口を開くことはなかった。父は食事を半分以上残したまま席を立ち、自分の部屋に向かった。その背中を見つめるだけで、何も出来ず、僕はテレビの電源を消し、独りリビングに取り残された。そして、好きな女の子ならこのことについてどう思うんだろう? という疑問が、僕を支配した。
いつもの彼女との空間に、いつもとは違う、僕の思ったことについての彼女の意見を聞いてみたいという欲望をもって僕は彼女の家にいた。
彼女は僕の話を聞き、共感性を持った表情をして、僕に向き合った。
「貴方のその支離滅裂になっちゃった感情分かります。私もそういう時あるから。でも、一体全体それをお父さんに伝えてどうしたかったんですか?」
僕がすべてを言葉として成形するのに時間が掛かっていると、彼女は珍しくその時間を切ってまた言葉を繋げた。
「その言葉どうしたかったんですか? 今のままだとただ単にお父さんの存在否定して、言葉で心臓突き刺してるだけですよ。そんなことしたかったんじゃないですよね?」
確かに、父に様々な言葉をぶつけてしまえと思ったときは突き刺してしまえと言う覚悟の元言葉を繋げていた。しかし感情が表に出ればでるほど、僕のこの気持ちを分かって欲しいという傲慢さに変容し、しかし父を否定することでしか自分の感情を表現出来なくなっていた。
「お父さんのこと知ってしまって、凄い驚いて、怖かったと思うんです。許容できなかったと思います。でもよく考えてください。お父さんは、貴方が一瞬にして許容できないくらい大きなもの必死に背負って悟られないように、この自分知られて賢い父っていう存在ぶらさないように、必死に抑え込んでいたんですよ、きっと。お父さんの今の人格形成しちゃった頃からずーっと。貴方の感じてる威厳さは、そんな必死の努力の賜物なんです。その良い威厳さ貴方はちゃんと受け継いでる。私は貴方を、堂々として自信のある、それでいてその自信と努力が追い付いてる人だと思って今まで見てきました。それを小さい頃から形作ってくれてるのは、お父さんなんじゃないですか?」
僕の知っている彼女からは想像もできない程力のある声であった。その言葉には彼女の人生を存分に理解できていなくとも納得できるだけのものがある。
醜いアヒルみたいだったあの空間は、僕にとっても意味のある瞬間だったのだろうか? そしてそれは、父の人格形成にとって、なくてはならないものだったのだろうか? 僕が今までさんざん独りで考え更けていたあの時間は、一体全体何に向けてだったのだろう。あんな時間作らずとも、僕は僕を知ることが、僕は父を恐れずに許容することが出来たかもしれなかったのに。僕の記憶が、水にふやけた紙のように空々と溶けていこうとした。
彼女は自分の人生についてのことは曖昧にするくせに、僕の人生のことになると物凄くストレートにものを言う。彼女の中での違いは何なのだろう? そして必要以上に父に対してのめりこんでいる感じがした。
「どうして、僕のことになるとそんなに気持ちを話してくれるんですか?」
ここまで言って、これは彼女の人生への問いであると気付き、僕は言葉を付け足した。
「僕のこと、助けたいって思ってくれているで、合っているのでしょうか?」
「助けたいです」
彼女は間髪入れずに話した。そして何か言葉に出したそうな顔をして視線を逸らした。僕は彼女の口から何が出るか分からなかったがそれを待とうと思った。もしかしたら、哲学をまた話すかもしれない。彼女の言葉を待つように、側に行き、自然な態度で手を握った。すると僕の手を握り返し、自分の話をしていいよという合図を汲み取ったのか、今は私の時間じゃないです、と冷静を装った声を発した。そして「過去の話はその記憶が失われるまでならいつでもできます。でも、今の問題は先延ばしにしないで今解決しなきゃだめです。貴方はそれ分からないような人間じゃない」と言って過去の自分の感情に蓋をした。
僕のこの閉じられた人格は、誰のことを幸せにするわけでもなく、不幸にするわけでもない。ただ人間の思考の線を変わりなく延長していくだけの存在。そんなもののどこに価値があるのか、僕はただ僕が勝手に作った僕という存在を、父が作ったと責任転嫁をしてその空気を見ないふりしていただけだった。彼女はきっとそんな人間呆れてしまって、過去の僕なんて見たくもなくなるのだろう。もしかしたら、本当はもうそれでいいのかもしれない。一生僕が僕である続ける限り、誰にも迷惑をかけず、彼女の中でもその記憶は次第に違う誰かに摩り替えられ、そういう都合のいい、他人の思考に、浅く漂い消えていく存在であり続けた方がいいのかもしれない。僕の思考はきっと止まることはないし、止まらない限り、僕は僕を受け入れるためにまた思考を続ければいいだけだ。
僕はこの記憶を僕自身の中で永遠に閉じ込めておこうと、しっかりと彼女の眼を見た。どれだけ煩雑に考えても、僕の眼は彼女を捉えようと必死にもがいていた。しかし彼女の眼を堅実に見止めることは出来なかった。僕の思考なんて関係ないくらい、僕は彼女が好きだった。
一秒でも早く今の問題である“父にこの前のことを謝る”ということをしなければいけなかった。それは何が何でも達成したいことであった。それが今の僕と好きな女の子を繋ぐ唯一のものだったから。しかし父は家族の時間を諦めたのか、夕食の時間にも姿を現さなくなり、ソファで本を読み耽ることもなくなっていた。たまに姿を現したと思ったら、それは必要最低限の生活の問題を解決するときのみで、その少しの時間に話しかけに、しかも謝罪をするという気持ちに達するまでの勇気はなく、何回も一日が過ぎて行った。空っぽな部屋には、僕の充満した気持ちは不釣り合いだった。
それと並行してか、女の子と話すこともなくなっていった。学校では会うものの、授業が終わると僕の顔も見ずに直ぐに教室を出て帰ってしまい、皆の前で話すことが無かった僕たちは、走馬灯で見たかった光景が本当に走馬灯で終わってしまったかのようにすれ違って行った。僕のことを助けたいと言ってくれた彼女の声が、段々と薄れていく。女の子だから分からないのか、彼女だから分からないのか、もはや人というものは全員訳の分からないものなのか、きっと彼女も僕のことを何も分からないと思っているのだろう。僕にだって僕が一体何をしたいのか、訳が分からなかった。ただ、彼女が僕を避けている理由を聞きたかった。
僕はまた長い時間をかけて大学の周りを歩いた。彼女は何をしようとしているのだろうか。僕のことが、本当に嫌になってしまったのだろうか? もしかしたら、僕は気付かないうちに彼女の思考をバラバラにして、修復に多くの分厚い時間を費やさなければいけないほどのことをしてしまったのだろうか?
それは僕が、彼女の分析を誤ってしまったからかもしれない。もっとしっかり、僕自身の中で彼女について、を考えなければいけなかったのかもしれない。僕が直接的に聞くだけでは、誠実ではなかったのかもしれない。もっと考えよう。そうするしか、術がなかった。
僕は大学で講師の話も聞かず、遠くに座る彼女を見ようともしないでひたすらに考えに耽った。その作業が終わり自己に還ると、それはまるでリビングにあるソファに座り、本に淫する父のように感じた。僕が帰ってきて父に話しかけても、空気みたいに当たり前に僕のことを流していくそんな父だ。そこに居心地の良さを一ミリたりとも感じたことはないが、今の僕にはこれが精一杯の、人に対する誠意だった。しかしそれでも何も前には進んでいかなかった。彼女はもう僕を見なくなってしまったし、僕はもう彼女の声を聞くことさえ出来なくなっていった。今までだったら、僕の思考の中で完結させるだけで充分であったのに。僕は彼女の声を思い出す度に、僕の思考が嫌になっていった。僕はノートを取るのを完全にやめた。成長したと思っていた自己は、結局は僕が詰まったノート同様、ただの未完成の僕だったのだ。
彼女は確実に、周りに人がいることが増えていった。それは今まで全く気が付かなかったことであったけれど、こうして遠くからしっかり眺めていれば簡単に分かることだった。彼女はちゃんと、僕以外の人間に対しても曇りのない笑顔を向けているように見えた。彼女が変わっていっている中、僕は何も変わらない、定点に居続けているだけ。
僕は試しに、中からではなく、外からのアプローチとして、彼女の行動をパターン化して真似してみたり、彼女が吸っている煙草の銘柄を買ってみたりした。しかし僕にはどれもピンと来ず、愚行を働いているとしか思えなかった。
彼女だけではなく、馬鹿げたことに、父の行動も真似してみた。同じことをすれば、いつか何か話しかけてくれるかもしれない。ソファに座り本に耽っている振りをしていれば、父が隣に静かに座り、何事もなかったかのように僕たちは日常の先を獲得できるかもしれない。そう思った。しかし僕が探し求めている大切な部分は、僕の知らない二人の感覚や思考に身を預けてしまっていた。
三週間ほどが過ぎた頃、彼女の真似をしている気色の悪い僕が気に障ったのか、授業中にたまたま彼女と目が合った。もしかしたら
ほとんど目も合わせていない日が続いていたから、僕はこの些細なことをきっかけに、貧弱な心に油を注ぎ、決別したはずのノートに思考を預け、今日は話しかけにいくと心を決めた。こんなに悩んでいたのに、僕の行動は意外にも素早かった。この瞬間を逃してしまったら、もう一生彼女の頭の中には僕という魂は存在せず、僕だけが未練たらしく、気色悪く彼女の魂を生かし続けていくのだろうと考えると、愁然としたのだ。
いつも通り速足で帰っていく彼女を追いかけた。僕は彼女に追いつき、彼女の肩を三回叩いた。もしこれで振り払われたらどうしよう。彼女と話していない間、彼女のことを沢山考えた。辿り着いた単純な答えは、怒っているということだった。今の僕には、その曖昧な情報を確かめる事しかできなかった。
三回肩を叩かれた彼女は僕の手を振り払うことなく立ち止まってこちらを見た。僕はその表情に注目した。口をぎゅっと結んでやはり目を合わせずに一歩後ろに下がった。そして「この前はごめんなさい」そう一言言うと周りの目を気にしながら歩きながら話しましょうと僕を誘導した。それから僕らはしばらくお互いの反応を探りながら無言で歩いた。僕は、もしかしたら彼女は僕に嫌われたかもしれないと思っているのではないかと感じ「今日は卵焼き食べに行っても良いですか?」と聞くと、家までの道のりは、あの頃の沈黙が嘘だったかのように授業中に起きた講師の面白かった行動などを話した。僕はなるべくこの前のことを話さないようにした。何かこの時間に軽く話せない理由があるのかもしれない。
彼女は僕といるときは滅多に煙草を吸わない。滅多にというのは、学校の喫煙所でたまたますれ違ったときに一緒になるくらいだった。彼女の部屋には煙草の吸殻がたくさん入っているであろう空き缶がベットの脇に置かれ、そのすぐ傍には赤のマルボロが置いてあった。
部屋に入ってすぐ、彼女は僕に今すぐにじゃないけど今日煙草を吸っても良いかどうか確認を取った。僕は気にしていなかったから、良いよと返事をした。リビングの扉を開けて直ぐにベットがあり、ベットの向かいにはくっつくようにして大きな窓があった。
卵焼きを食べ終わると、隣に座っていた彼女は「あのね」と僕に向き直り「この前のことなんですけど、ちゃんと謝りたいです。折角私の話聞こうとしてくれて準備してくれたのに、何も話さずに話終わらせちゃってほんとにごめんなさい。それと、お父さんと貴方とのこと、必要以上にきつく言っちゃったかもしれなくて。否定しているみたいに聞こえてたらごめんなさい。そんなつもりなかったんだけど。でも、もしかしたら沢山言いすぎちゃったままあの後解散したから怒ってるかなって、思って中々話しかけられなくて」
彼女が何故僕のことを見ることができなかったのか、彼女からの言葉で疑問がやっと解けた。
「話してくれて、僕に謝ってくれてありがとうございます。全然そんなこと無いですよ。むしろちゃんと怒ってくれて嬉しかったです。だから、もう謝らなくて良いですよ」
「分かりました。卵焼き食べに行っていいですかって聞いてくれてありがとうございます。あの、言い辛かったら言わなくても良いです。あの後、お父さんとはどうですか?」
僕は、父を見かけることはあるのに勇気を出せずにいた自分を思い出しながら、部屋に籠ったきりになってしまったこと、会えても話しかけにいけないことを話した。籠っちゃったんですか、と一言言うと、僕らの中でどうしようもならないというような沈黙が訪れた。彼女の部屋は、相変わらず暗闇のままだった。
「私なりに助けたかったんですけど、力になれなくてごめんなさい」
暗闇で表情の細かな部分まで見ることは出来なかったけれど、それでも彼女は分かり易く下を向き何か思い悩んでいるときに出る髪の毛をくしゃくしゃとする癖を出した。そこには、話したくても話せない過去にまた追い詰められているような雰囲気があった。彼女の過去と、僕の父と何か関係しているものがあるのだろうか。
彼女にまたごめんなさいと言われてしまったことに対して、そんなこともう言わなくて良いんだよともう一度言おうとしかけたが、ごめんなさいという表現が彼女に出来る最大のパフォーマンスであり、それは彼女の本心であったから、否定せずに、ありがとうと優しく返した。長い間そのもどかしい感情は彼女を侵し、時が経つにつれて涙を含んだ表情へと変化しているように見えた。我慢できなくなったとかではなく、彼女の気持ちを少しでも楽にさせてあげたくて、前みたいに優しく両手を握った。彼女は、今は私の時間じゃないです、と冷静を装った声を発した。
「じゃあ、貴方がくれた僕の時間を、貴方にあげたい。しかもね、貴方が話してくれている時間は、僕のためにもなっているんだよ。だから、心配は不要です」
「でも、私は過去のこと意味分かんなくなってて、そんなの覚えてる限りいつでも言えます。だから良いんです」
「ねえ聞いて。僕はね、今二つの問題に直面しています。一つは貴方にも話した父とのことです。それは貴方が僕の気持ちをちゃんと整理してくれました。後は僕の勇気です。後は僕がこのことに対して尽力するだけです。でも、もう一つは僕と貴方が向かい合って解決しなければいけません。それは貴方の問題でもあり、僕が一緒に乗り越えたいことでもあります。具体的に言ってしまうと辛辣な言葉になってしまいそうだから。でも今の貴方ならちゃんと考えられているからきっと乗り越えられます。貴方には毎日、幸せであって欲しいんです。それが僕の本当の幸せなんです」
「でも、」
「確かに、過去のことは覚えている限りいつでも話すことが出来るかもしれません。でも、どんどんその時に抱いたあの感覚が薄れていって、現実味がなくなっていってやがてフィクションと化していってしまいます。感覚が近くにあるうちに、話してみませんか? どんな状態になってしまっても大丈夫。貴方にはちゃんと、僕がいるから大丈夫ですよ」
彼女は意を決したように分かりましたと言い、繋いでいた手を離した。彼女の苦手な事であろう自分のことを話す行為に対しての恐怖心を誰かと共有して軽くする余裕は今の彼女には無く、自分の手を自分で握りしめている様子から、恐怖心と己とが手を繋ぎ、和解を試みているように受け取った。だから僕は無理矢理また彼女の手を取るようなことはしなかった。それは今の彼女にとってベストな行動ではないのだ。
「私は何度も言うように、貴方をほんとに尊敬してます。それは、貴方みたいになりたいっていうことです。それは届いてますか?」
静かに、今一番出せる彼女に対しての優しい笑顔で頷く。僕の反応を受け取り、そんな余裕なんてないかもしれないのに彼女も微笑み返してくれた。
「強くて、格好良くて、頭の回転速くて、皆から頼られてて、少なくとも、わたしは凄く頼りにしてるんですよ。後細かいとこいっぱいありますけど、私が最初に声掛けたのはこれが理由です」
彼女の言葉に一段落付くたびに、彼女の呼吸に合うように頷いた。
「人には、憧れる理由っていうのがありますよね。もっと、根本的な理由です。私の場合は、貴方に憧れちゃった部分が欠落してるからです。私は誰かに信頼されたこと無いんですよ。信じられます?」
そういうと、無理に僕に笑顔を向けた。あたかも痛苦ではないこととして話そうとしてくれているのが分かった。恐怖心と一緒に握られている手は、自分の感情を抑えるようにして撫でられていた。
「私は、それを獲得できなかった昔の自分が大嫌いです。今は、貴方の行動を尊敬して真似したお陰で少し成長できたけど。きっと、私たちが高校生の時に出会ってたら、私のこと能無し人間だと思って嫌ってたと思います。こんな仲良くなれてない。絶対に」
そんなこと無いよと言いそうになったが、そんな簡単な言葉を投げかけることに抵抗を覚え堪えた。一体全体彼女に今何をしてあげることが正解なのか、僕にはさっぱり分からなかった。きっと彼女も僕に何をして欲しいのか分からないんだと思う。だからお互い分からないなりに、僕は必死に聞こうとし、彼女は必死に話そうとした。
そして僕は彼女が前に話してくれた家族へのコンプレックスと、今話してくれている昔の自分に対してのコンプレックスのエピソードに、自身の父を重ねた。
父の家庭は、僕の父と母が築き上げた家庭以上に仲が良くない。それは単純にお互いを忌避し合っているとかではなく、表面上では仲が良い家族を偽っているが、個々の居場所はなくそれぞれが家族の中で孤独な存在として浮いているのだった。普段は滅多に父家族に会いには行かないが、表面上だけでどうにかなっている家庭というものはイベント事を大切にする。だからクリスマスやお正月の際に訪れ父の居心地悪そうな顔を僕はその度に見つめていた。僕と話す時には出ない(抑えているのかもしれない)強ばった、この場をどうにかして自分のモノにしなければいけないけれどそれが困難であるという顔をしていた。それはやれと言って真似できるものではなく、父が歩んできた人生でしか表せないものだった。そして自分の家族の中での立ち位置を気にするかのように母の顔色を伺っていた。父の母(僕にとっての祖母にあたる人)がよく言っていたことがある。
「この子は昔っから何も出来なくてねえ。今も変わってないはずなんだけど何だかねえ、大人ぶってんのよ。あんたがいるからさあ」
父はそういう話題になると決まって席を外し仕事の電話をしてくると言っていた。叔父二人(父の弟)はどちらも医学に関わっており、僕の母同様、多事多端な人たちだったから、会ったことは数えられるくらいしかない。そのことについても「あんただけが暇なのよ」と父のやっていることについてあまりよく思っていないようだった。そんなことがあってもイベントがあったら必ず出向くのは、何故なのだろう? 僕にはそれが全く分からなかった。彼女の話を聞いて理解することによって、父はもしかしたら家族に酷いコンプレックスを抱えており、その過去の自分を克服すべく、なかったことに仕立て上げその偽りの完成系を見せていたことに気づいた。父にとってその完成系は、もしかしたら僕の母だったのかもしれない。その存在を失った今、父は何を考えて日々をこなしているのだろう? もしこの勘が当たっていたのなら、父の部屋で見たあの光景は、父が幼少期から築き上げたくても出来なかった家族の痕跡であり、母のことをしっかりと思ってあげたかった痕跡であったのかもしれない。それを僕は拒絶し、父が大切にしていたかもしれない母との関係のことを考え無しに感情に任せるだけで、自分の幸せのことしか、考えられていなかった。
溢れ出す恐怖心に打ち勝とうとしている彼女の姿は、見たこともない父の幼少期を見ているかのようだった。
「私は貴方みたいに誰かに、一人でも良いから誰かに、信頼される人間でありたいんです。後悔してることが沢山あり過ぎて、語ることが出来ないんです。でもその中でも、きらきら頑張ってる皆に密かに憧れて、でも自分にはお姉ちゃんみたいな努力を持ってるわけでもないし、お兄ちゃんみたいになんでも出来るわけじゃないからって、私はただの何もない凡人なんだからって、自分と周りに勝手に差をつけて柄じゃないからって。だから、それが、その憧れに素直になれなかった。頑張ってる人に、貴方凄いねって。貴方みたいに私なりたいって、一つも言えなかったから。私は、だからもうあんな自分に戻りたくない。折角貴方に出会えたから。貴方に、嫌われるような自分に戻りたくないんです」
彼女は以前、小中高とバスケットボールをやっていたことを話してくれた。主に中高で仲が良かった数人の話を、痛苦なものでは無く、充足的な記憶として語ることが多かった。彼女の話に具体的なエピソードが含まれていなくても、それが部活時代のことであることはほぼ確かであった。僕は彼女をしっかりと受け止める。
「今の貴方は僕の目から見たら十分輝いています。それは貴方が望む輝きじゃないとしても。成長したいという輝きが見えます。きっとそれは皆に届いているはずです。僕に届いたんだから。何よりも、僕は貴方のこと、心の底から信頼していますよ」
「敬愛ですか?」空気に触れて震えたその言葉は、僕の中に入ると直線へと形を変えた。尊敬しています。僕はそう答えた。
彼女の目から、何年も溜まっていた涙が零れ落ちた。その涙を今まで独りでずっと抱えていた。彼女がこれからもまだ抱えていく問題である、人に信頼してもらうことの難しさ。そして感情を素直に表すことの重要性は、僕にとっての問題でもある。そしてそれは、父と僕、親子にとっての問題でもある。自問自答を続ける日々の中で気付いていたことだったのに、見ないふりをしていたことに、彼女の勇気から見出すことが出来た。僕も、大切な人に信頼される人間でありたい。
その涙を拭うように彼女は窓際に移動し煙草に火をつけた。
「あのね、私は、お父さんの気持ちちょっと分かっちゃうんですよね。でも、それは貴方が気付くべきことです。考えることが出来るから、こんな私のこと一生懸命考えてくれて、今一緒にご飯食べてます。お父さんのことも、私を思うみたいに、一生懸命考えて、その先にお父さんのこと思ってあげて欲しいです。お父さんはもしかしたら、息子である貴方と他愛もない会話がしたいのかもしれません」
問い質すわけでもなく、客観的に捉えているわけでもない。彼女の人生から溢れた言葉を僕は受け取った。
父を思う。その言葉は、僕の世界では生まれなかった。僕の好きな子は、僕の疑問を一緒に解決しようとしてくれていた。少年のように少しだけ甘えてみることにした。
「でも、誰かを思ったり、信用しようとすることって、無駄な事なんじゃないかと思ってしまいます」
「貴方の言っていること、たまに分からない時がやっぱりあるけど、私は貴方の、考えが好きだから頑張って受け止めます。誰かのこと、信用しようって思ったことあります? 私はあります。それで裏切られたこともあります。裏切ったことも勿論ある。でも私は、過去のこともろくに話せないけど、今の私をちょっとだけど受け入れてみたいです。」
その内面は、全世界を魅了する。でもこの一瞬だけは、僕だけのものだった。
「まあ、そんなこと言ったって、信用することに抵抗感じるときくらいはありますけどね。実際、私も言ったってどうせって、なりますし。コミュニケーションが上手くできなかったりとかね」
コミュニケーションが上手くできないこと。物事の本質を伝えることが出来なく、哲学めいた言葉で自分の本心を隠す。父の哲学にはどんな意味があったのだろう?
僕は彼女に聞きたいことがある。
「それはどんな時ですか?」
もし僕の予想が合っていたら、そんな少年のような期待をぐるぐる巻きにして、恥ずかしそうに口を動かした。僕の心は確信に近いものになっていき、このまま流れで言ってしまえば、幾分か心が楽になり、彼女との間で何か起こるのではないかと思った。
「僕は貴方のこと好きですよ」
まだ煙草を手に持ったままの彼女は、そう言った僕の声を伏し目がちに吸収した。
「私は、普通です」そういうと、彼女はまた煙草を吸った。煙草の火は既に消えていた。僕はその全ての行動に、また惹かれていった。
いつも自信を振りまいて、僕に哲学的思考を求める。その裏には、自分でも見たくない自分と戦った形跡がしっかりとある。彼女を受け入れることが、父を知ることだった。
二十二時頃に家に帰ると、やはり父の姿は無かった。部屋の前まで行き、物音を聞く。人がここで生きているのかどうか分からないような静寂の中に少しの生命を感じる。僕はさっき彼女と話したことを思い出し、後は自身の勇気だけと唱える。しかし長年掘り続けた溝は簡単に超えられることはなく、気持ちを少しでも落ち着かせるために水を飲みにキッチンに向かった。
キッチンには父の作ったものがまだフライパンに残っていて、使った後の食器が見当たらなかったから、夕食は済ませていないことが分かった。父は何かに没頭するとたまにご飯を一日食べないで過ごすことがある。僕もその血を引き継いでいた。確か、母はそうではなかった。そんな記憶をたどり、もう一度部屋の前まで行く。
どうしても最後の勇気が出ない。ひどく、考えたいという衝動に襲われる。父と僕という関係性について考えたい。僕は今父に対してどうするべきなのか考えたい。父は今何を考えているのか、その事実を考えたい。そんな気持ちが僕の心も頭も完全に支配しようとしていた。そんなときでも彼女の柔らかい表情が頭をよぎり、その気持ちを今は隅に置いておこうと両手を強く結んだ。
ドアノブは僕のモノと全く同じ形をしているのに何故かそこには少なからず僕には僕の、父には父の個性が紛れ込んでおり、そういうものの内部に隠されているモノを見抜く才能がある人は、僕と父のドアノブをテーブルに並べこれがどちらのモノであるかということをしたら一秒で見分けがついてしまうくらい僕には違った風に見えた。
扉をノックするが返答がない。その行為を二、三度続ける。まだ返答はない。もしかしたら今日は父が静寂を作り出しているのではなく本当にいないのではないかと思った。もし次返答が無かったら、今後父のことを知ろうとするのは辞めよう。そう防御ラインを張った。もう一度ノックし、父さん、と呼びかける。二秒経っても返答がない。僕は仕方なく、今後の機会を全て諦め、自分の部屋へと続く階段を上ろうとした。僕が今まで苦しんできたことは最終的に何も解決しないで終わり、その悩みの中に閉じ込められるのだ。“あとは僕の問題ですから。僕の勇気です”などと豪語して同い年の彼女に、いらない大人の余裕を見せつけようとしていた自分が心底情けなかった。次会ったとき彼女になんて説明しよう。僕は貴方の憧れに等しい人ではありませんと自己申告しようか。それを受け取った彼女は僕のことをどう思うのだろう? 僕を諦めるのだろうか? もう二度と、彼女が僕のために作る卵焼きを彼女の家で食べられないのだろうか? 長年望んできた、僕の望む幸せな父と子の会話を育むことは出来ないのだろうか? 父はずっと、母に縛られた人生を歩んでいくのだろうか。階段を一段一段と脚を踏み込む度に響く軋みが、聞いたこともない心が割れていく音に似ているような気がして、なるべく心が割れないように慎重に歩いた。その代わり、溜息が近くの空間全てを埋めた。
そんな風にして歩いていると、リビングから先程なかった生命が感じられた。僕が音をほとんど立てないで静かにしていたから聞き取れた椅子の弾く音がしたのだ。ほかの誰でもない。父が出した助け船だった。先程固く決めたはずだった、もしこれで返答がなかったら今後父を知ろうとなどしないという意思はもはやあれは緩く結ばれたものであり、どきどきしていながらもその感情を思いっきりに楽しんでいるようにも思えた。この行動で、何もかも塗り替えられるかもしれない。
気付いたら、父と一緒に食卓の椅子に座っていて、目の前には僕の分のご飯と、父の分のご飯が並べられていた。気付いたらというのは、覚えていなかったということではなく、段取りとして、父の雰囲気に乗せられるまま行動をしていたからだった。父はもう、半分食べていて、静止している僕をずっと見ていた。
「一緒に食べないかと陳じたのはお前じゃないか。食欲がないのならさして無理する必要はない」
僕は正気に戻り、父にならってご飯を食べようとする。しかしやらなくてはいけないことの為にいるのだと再起する。
あの、と言ったところで次に出したい“ごめんなさい”という言葉が上手く出てこなくてぐるぐるとまた考える。そこで辿り着いたのは、彼女の発していた言葉の一つにあった“他愛もない会話”だった。僕と父にはそれが足りない。父はそれを求めているのかもしれない。その会話の中で謝罪をしよう。
「あの、僕最近宇宙エレベーターのこと本で知って、二〇二〇年には試験段階に入るって読んだんですけど、最近大林組が出した構想で二〇五〇年ってあって、あれですかね、やっぱりカーボンナノチューブを大量生産することって労力掛かるんですかね」
「いくら宇宙開発が民間に渡ったとしても国家間でも何かと問題を起こしかねないものに手を出しているのだから、様々な計画を先送りにしてまでそちらの方に労力を費やさないと進められるものも進められないだろう」
「そっかあ、そうですよね。確かに。あ、そういえば、なんかこのじゃがいもいつもより美味しいですよ。新しい料理方法とか見つけたんですか?」
「少し長く炒めた」
「さっき帰ってきたとき、ご飯置いてあったのでもう家にいるのかと思いました。どこ行ってたんですか?」
「散歩だ」
「あー、そうですよね」
彼女が言ってくれた通り、なるべく普段の堅苦しいものでは無く、二人の会話だからこそ生まれる自然さを大切にしたつもりではあったが、そんな会話をしたことが無いのに急に畳みかけてしまったから、そこには僕だけでなく父の戸惑いもきっと含まれていてこっちの方が段取りみたいな会話になってしまった。いくら彼女に言ってもらったこととはいえ、これはやはり僕と父の問題であり、僕にしか分かることのない空気感であった。もっと僕らしく父に歩み寄らなければいけない。
「僕たちが滅びたときには、一体全体何が残っていくんでしょうか」
父はさっきよりも食べる速度を緩め、ゆっくりと咀嚼しながら答えを出した。
「後悔を残す。精良なものを築き上げた人でも、そんなものには一切関わらなかった人でも、最後はエゴだけが取り残される。それこそが真の人類平等なのかもしれないな」
僕が彼女に問われ、答えたものとそっくりの返答が来て思わず笑ってしまった。しかしすぐさま、これは父のことを馬鹿にしているかのように捉えられてしまう可能性もあると思いすみませんと謝罪すると、父は僕の考えている行動通りではなく、自分の考えと似ていたのか? と問うてきた。僕は学校で知り合った人にこの質問をされ、父ならどうやって答えるのかなと思って聞いてみたら、僕が返したことと同じような事を言って来たことを少しの微笑みを加えながら話した。父はそれに対してしばらく何も言わず、間を開けてから一言「親子だからな」とだけ言った。そしていつも通りの速度でご飯を食べ始めた。その言葉を聞いてタガが外れたのか、ただ単に、勇気が湧いてきたのか純粋な「ごめんなさい」という言葉が出た。「何がだ」という父の声を無視して僕は続ける。
「見てはいけないと知っていながらも、貴方の部屋を許可なく見てしまいました。だから、ごめんなさい。僕だって見られたらいやなものが沢山あるのに、だから貴方は僕の部屋には絶対に入って来ないのに。勝手に見て、勝手に怒って、まるで貴方は異常だみたいにずかずか知りもしない私情に入り込みました」
「お前はそれを実行して何がしたかったんだ」
その声は、文章だけで取るといつもの父が発する言葉みたいに少し嫌みが掛かったものだけれど、その言葉に乗せられた音は、僕のしてしまった行為を包んでくれているような言葉だった。だから僕は余計に素直になれた。
スキップをして帰った日に初めてプライベートのことについて触れられ、吃驚したこと。それから少しだけ父のプライベートを知りたいと思っていたこと。
「僕は、貴方の日常を知って、家族になりたかったんだと思う。その方法を間違えた」
「確かに、そういうことを、あの時始終言っていたな」
父は、僕が支離滅裂に話してしまっていた時のことを言った。僕の蕪雑な言葉は、少しでも伝わっていたのかもしれない。だいぶ大まかではあると思うが。父は食べ終わった食器を片付け始め席を立ったかと思うと「お前も早く食べろ」と言ってキッチンで自分の食器を洗い始めた。どういう意味があるのか分からなかったが、取り敢えず今は大童にご飯を片付けることに集中した。僕が食べ終わるのと父が食器を食洗器に入れ終わるのとが一緒になり、食器を片付けようと席を立つと「それは俺がやっておくから、付いてきなさい」とだけ言って、僕は近くにあったティッシュで口元だけを拭き後ろについて行った。今から何が始まるのか、最悪だったとしても最高だったとしても、明日彼女に会ったら何もかもを話そうと思った。それと同時に、父はそういうことを話せる人が近くにいるのかどうかが気になった。そんなことを考えていると、僕らは父の部屋に着き、父は僕のために扉を開けていた。「断りなく入ったのが一回目なら、誘導されて入るのは初めてか」そう言った父の顔は、微笑みが混ざっているように見えた。もしかしたら緊張をしているのかもしれない。威圧的にならないように、細心の注意を払った。「お邪魔します」まるで他人の家に上がり込むときのような態度になる。しかし父はそれに違和感を持っていないようだった。「今更だ。好きに見ろ」僕の仰々しさを感じ取ったのか、始めて気を遣われたような気がした。しかし、その行為に今まで気付いていなかっただけかもしれない。
僕は色々な本棚が混ざり合っている中で、真っ先に背の低い、母の写真が飾ってある本棚に向かった。そしてそこに座り込むと、前は母の写真が飾られてあったことに衝撃を受けすぎて目に入らなかった本棚の中身が目に入った。そこには、父と全く関係が無さそうな料理の本が並べられていた。僕は父にそれを聞くと、俺の作ったもの、食べられるものじゃなかっただろ」と少し照れながら、しかしそれを九割出さないようにして言った。それがなんだが、父らしかった。その言葉を受け取ると、見なくてはいけない母の写真を見た。どれも二人は笑っていて、一見父の方はそこまで笑顔が完成しきってはいなかったが、不器用なところがこれもまた父の笑顔らしかった。僕の笑顔はどうなんだろう? 今度、彼女に聞いてみよう。
父は近くに寄ってきて、僕がずっと見ていた写真を手に取った。
「離婚を切り出したのは私だ。だから、戻って来て欲しいなんてことは思わない。思ってはいけない。私だって男だ。二言は無いとよく言うだろう? しかし、お前が言った通り、母さんに幸せというものを重ね過ぎていた。それが次第に家族という存在に向いていきお前に散々迷惑を掛けた。申し訳ないと思っている。しかし私にはそれしかできなかった。お前も知っているだろ。私の父と母は形のある幸せを追い求める人だ。形のない幸せってものがこんな年にまでなってまだ分からない」
「この小さい本棚は、どうしてここにあるんですか?」
父は僕とその本棚の背丈を図るようにして交互に僕らを見た。そして本棚一転に視線を集中させた。父の指先は、不規則に摩擦を繰り返していた。まるでこの場の空気を操ろうとしているように。
「実はお前が私に誘導されてこの部屋に来たのは初めてじゃない。小さい頃に一度だけあった。私は嫌だと言ったんだが、母さんが入らせてあげたらいいじゃないってな。私は母さんに歯向かうことはあまり出来なくて、何故かあの人の言うことには正当性を感じてしまうんだよ。だから仕方なく入れた」
父は僕が小さかった頃のことを思い出すように、遠くを見た。その遠くは、父から見て物凄く遠そうに思えた。
「私の部屋に入った途端、お前は瞠目状態だったよ。本棚の大きさとその中にある本の量に。それからこう言った。僕にもこんなの頂戴って」
「え?」
僕は本当に覚えていないことで、まさか父の部屋に入ったことがあって同じものを頼むくらいの勇気のある人間だと思っていなかった。父に対してまだ純粋な気持ちがあった頃のことを忘れているのだから、父の遠くを見る目も、本当の遠くに見えたのだろう。
「だから、買ったよ。この部屋にある大きなものでなくとも、お前の背丈に合うようなサイズのものを。それだ」
そのモノとは、この部屋に合わない背丈の低い本棚のことだった。そんな昔のモノを、未だに取って置いていたのだ。
「しかし私はそのことを言えなくてな。幼少期のお前に何も言えなかった。まさか大人になって見つかるとは。驚愕だよ」
「ありがとうございます」
プライドが根を張っている父はそれに邪魔をされてできなかったことが沢山ある。しかし母に促されるとそれを嫌々ではあるかもしれないけれど、穏やかにすることが出来た。
「貴方は何で、自分の意見を補填してくれる母さんに自ら別れを言ったんですか?」
父はどこかのタイミングで話さなければいけない時が来るのは分かっていたという反応を見せながらも、なかなかその答えを話さないという態度に、自分のプライドの根の深さが感じられた。
「それが凄くたまらないときがある。お前にも分かるはずだ」
全ての言葉が出揃っていなくても、その中に込められた意図は充分に理解することが出来た。僕にも分かる。それは、自分の目標としている人が近くにいてどうにかしてその人を超えることが出来ないだろうかと模索しながらも、手助けがあればあるだけ、ああ、この人にはどう尽瘁してもなれないんだという劣等感が襲い掛かってくるあの感覚であった。それを僕は父に、父は母に感じていたのだ。
「その感覚を上手く共存させることが出来なかった。それを分かっていながらも見えないふりをしていた。お前の思う、父さんとも言わせてあげられない、威厳のある父親はやはりこの程度だ」
父はやはり彼女に似ていた。自分の分身のような僕の父に感情移入し、僕をちゃんと怒ってくれたのもその為だ。僕の嫌味な話に共感してしまったら、自分自身までをも否定してしまっているみたいで、そんなことできなかったのだろう。“父は、僕が一瞬にして許容できなくなるくらいのものを、このプライドが形成されてからずっと背負っていた”父を傷つけるばかりではなく、彼女のこともずたずたにしていたのだ。その本心を受け取りながら、涙が出ない訳が無かった。
「僕は、ずっと貴方に酷いことをしてた。貴方の作る料理は、どれもおいしい。そんなことにも気付かなかった」
「今気付いたんだ。上出来だよ」
父は小さな本棚にあった料理の本を一冊手に取り、僕に渡してきた。
「母さんがいなくなって初めて作り始めた私が言うものじゃないが、料理くらいできなければな。好きになった子にでも作ってあげたら喜ぶんじゃないか」
僕が何のことを言っているのか分からない顔をしていると「スキップをして帰ってきたんだ。大体そんなことだろ。しかし私と同じようなことをするよな。私も母さんと初めて会った日は、やったこともないスキップを上手にして帰った」
僕がまだ生まれてもいない頃に父にあった出来事は、その年月を感じることもできたし、まるで昨日のことのように思えた。そして可笑しなことに、父のその声は、未来に起こることとしての淡い期待のようにも聞こえた。
僕はこれからの僕のことを少し好きになれた。
「あの、僕も、父さんの部屋のこのくらい大きい本棚が欲しいです」
「分かった。次の土曜日に見に行くか」
僕らはこの日、二つの約束を交わした。そして父の土曜日の約束の言葉があまりにもよそよそしかったのを見て、父さんと呼んだことに気付いた。僕まで少し恥ずかしくなりそうだったが、どちらかは無理矢理にでも自然体でいるほうがこの空間は落ち着いたものになると思い、背伸びをした。こんなに嬉しい背伸びを父の前でしたのは、初めてだった。
ブレインシャッター すずこ @jrinko
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