老害対策

 ちまたに溢れる情報は、いかにして老害にならないか指南するものが多い。私は別の角度から老害対策を考えてみた。すなわち私が老害になったらどうすればいいか、である。


 もう老害になってしまった、治ることもない。いったいどうすればいいか。まず、自分が癌や脳性麻痺などの重度な病にかかっている、という認識をもたなければならない。これに大いに時間がかかりそうだ。そしてもう自分は誰かに適切にものごとを伝えることはできないと悟り、自分が持っている有益なものすべてを誰かに託す必要がある。文章でもよい。YouTubeの解説動画でもよい。老害となった私は、私が想像する以上に周りの人にとって害悪で排除したい存在だ。昔の経験に依存して今の現状を直視せずにものを言い、聞き入れられないと発狂して物を壊す。老害である私を、老害でない私が見たら、関わりたくないので立ち去る。


 自分が老害と分かったときから、早くに遺言を書くように自分の思いや経験を記すのがよい。そして誰かに渡すのがよい。これらは滅私奉公とも言えるかもしれない。枯れて醜悪な色味や形に変質した私は自ら己を捨て、未来のために自分が持つすべてを誰かに与える。


 それでその「遺言書」は、おそらく99%は誰にも読まれず、川に捨てられ、山で焼かれ、路上を歩く人々に踏みつけられ、車に敷かれるだろう。それでも書くのかどうか。私は書く。未来のためにならずとも、老害となった自分のためにはなる。何も言わずにそれを読み、孤独に孤独を深めて過去の自分にすがる。老害は、害なき者に変わらなければ受け入れてもらえない。「かわいそうな老人」となって初めて、若者や非老害に見下されながら老人ホームに入れてもらうことができる。老害が人に与えて喜ばれることは何か、それは複数あるだろうが、一つには自分自身を「他人が見下す材料」として提供することだ。極めてレベルの低いものでしかない。相手が、そういうふうに私を見下して内心喜んでいることに気づいて苦しくなったとき、ようやく希望の光が差す。昔に自分の思いを託した人、書き溜めた文章、それらが媒介となって初めて老害は存在を認められる。しかしそれまでだ。老害は社会にとっていらないものであるから老害と呼ばれる。そうでなければ老害と言われなくなるだろう。ここでは「老害となった私」について書いているので、必ず老害の領域を出ない。一度認められても忘れられるだろう。何度か認められたとき、もうどうでもいいと思うだろう。

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「あいつ老害やん」と発言する人は、のちに老害になるのではないか 島尾 @shimaoshimao

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