八・アーレル・アスティマの旅立ち

 アーレル・アスティマは、ひんやりとした鉄の感触と共に目を覚ました。

ベンチの背もたれに凭れたまま、ぼんやりと曇り空を見上げる。

 ──ここは、あの町。

 煤けた煙とくすんだ風が肌をなぞる、無機質な灰色の町。

 いつからここにいたのか思い出せない。けれど、ずっとここにいた気もしない。

 スワローと過ごした日々は、夢だったのかもしれない。

 骸骨に助けられ、影と話し、人形と別れ、太陽の使者に見送られたこと。

 ありえないほど奇妙で、けれど、ありありと胸に残っている。

 「──夢だったよう。でも、忘れたくないよう」

 自分の肩に羽織っていた布に気づく。

 それは旅の途中でずっと纏っていた、あの布のマントだった。

 指先がそれを掴んだ瞬間、何かが胸の奥から込み上げてきた。

 立ち上がる。ブーツの足裏が地面を強く踏みしめる。

 そして、駆け出した。

 公園の裏手。

 あの穴があったはずの場所は、落ち葉と小枝で覆われ、地面はぴたりと静まり返っていた。

 ──なかったことになっている。

 世界はまるで、何もなかったふりをしていた。

 アーレルは枝を手に取り、必死に地面を掘った。

 だが、すぐに固い層にぶつかる。

 もう──繋がっていない。

 「ゴーン」

 鉄の鐘の音が町に鳴り響いた。

 労働者たちに一時の休息を知らせる合図だった。

 けれど、その音に立ち止まる者は少ない。

 誰もが黙々と、機械の歯車のように動き続ける。

 アーレルはその音に反応し、ポケットに手を差し入れた。

 一枚の切符。それから──ひとつの瓶。

 それの中身はジャムではなかった。

 けれど、甘くやさしい光を、ほんの少しだけ宿していた。

 彼女はぱっと笑い、軽やかに跳ねるように身をひるがえした。

 そして、掘りかけの小さな穴にそっとその瓶を落とす。

 「またね」

 振り返らずに、走り出す。

 誰かが呼ぶ声も、誰かの影もない。

 けれど、彼女は迷わずに前を見ていた。

 アーレルは、一等列車の車窓に映る風景を見つめていた。

 町はもう遠ざかり、灰色のスモッグは背後へと流れていく。

 窓の向こうには、風にそよぐ草原、鳥の飛ぶ空、柔らかな光。

 それらは少しずつ、確かに彼女の方へとやってくる。

 窓に映る自分の姿──白い髪、淡い目、どこか子どものような笑み。

 その笑みは、

 あの少年──スワローの笑顔と、

 少しだけ似ていた。

 これからどこへ向かうのか。

 そこに何があるのかは、まだ知らない。

 けれど、確かに今──

 アーレル・アスティマの旅が、また始まろうとしていた。

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アーレルとスワローの冒険(中編ファンタジー) 桶底 @okenozoko

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