この声が聞こえるか

十夏

この声が聞こえるか

 お前は根っからの変人だったよな。いつも人が聞いたら耳を疑うことばかり言ってさ。だからあの時お前が言ったのもいつもの冗談かと思ってたんだ。

「俺、誰かに見張られてるんだ」

 なんて。

 どうして俺は、真面目に聞いてやらなかったんだろう……



「俺、誰かに見張られてるんだ」

 友人が初めてそう言い出したのは、やけに暑い日の昼下がりだった。

 また妙なことを言い出したな、と思った。火星人にWi-Fiを盗まれただの、テレビの天気予報は気象操作のための暗号放送だの、とにかく妄想癖の強いやつだったから。

「へえ、誰に?」

 コンビニの前で、溶けかけたアイスを食べながら俺は聞いた。

「わからないんだよ。どうも盗聴器を仕掛けられたみたいなんだ」

「盗聴器」

 今度は盗聴器ときたか。俺は失笑した。しかしその瞬間、友人は激昂した。

「人が真剣に話してるのに何で笑うんだよ!」

 その余りの剣幕に、笑いを引っ込めざるを得なかった。

 友人はなんの変哲もない一般人だ。いや、確かに変わってはいるが、それだってどこにでもいるレベルの話。見た目も並、金回りも悪い。男の一人暮らしで、特別な背景があるわけでもない。こんな奴の家に盗聴器を仕掛けて、いったい誰に何の得があるっていうんだ?

 しかし、それをそのまま言う訳にもいくまい。俺はとりあえず話を合わせることにした。

「まあ、盗聴器を見つけたら教えてくれよ」

 そう言ってその場を収め、アイスの棒をごみ箱に捨てた。ごみ箱には蝿が二、三、舞っていた。


 翌朝、安アパートの部屋のドアを激しく叩く音が響いた。こんな時間に迷惑な。一体誰だろうとドアを開けたら、友人が息を切らせて飛び込んできた。

「ついに見つけたぞ!」

 友人は荒い息を吐きながら手を差し出す。手の中には白いアダプタらしき物が乗っている。

「こんな朝から、アダプタがどうした? ふざけてるのか?」

「どうも盗聴器らしいんだ」

 友人は言う。蒼白な顔で、息を潜めながら。

「お前、今日の日付わかってる? 四月一日から四ヶ月とんで十二日も経ってるぞ」

「嘘じゃない!」

 友人は気色ばむ。こんな所で騒がれては近所迷惑になるので、とりあえず家の中に入れた。

「で、その盗聴器とやらはどこにあったんだよ」

「アダプタなんだから、コンセントに刺さってたに決まってるだろ」

 それはそうだろうが、急に押しかけてきてそんな言い方があるか。理不尽に思いつつ俺はスマホで調べてみた。確かに、そういうタイプの盗聴器があるらしい。

「心当たりは?」

「ある。最近、俺を悪く言う奴がいるんだ」

 友人は確かに根っからの変人だ。決して悪い奴ではないが、人が耳を疑うような事を平気で言うため、その人柄を誤解する者も多かった。

「ああ。相手が誰だかはわからないが、SNSでもリアルでも、四六時中悪口を言い出すんだ」

「ふうん……じゃあ、SNS見せてくれる?」

 俺もSNSのアカウントは持ってるが、面倒でほとんど使ってない。友人のアカウントもフォローしてない。会って話せば十分だと思ってたからだ。

「勿論見てくれ」

 友人は意気揚々とスマホを出し、SNSを開き、タイムラインを見せた。

「なになに、『寝坊した』『推しが好きすぎて辛い』『猫吸いたい』……ごく一般的なタイムラインに見えるが」

「あっ……くそ、書き込み消しやがったか。やっぱり見てやがる。俺の動き、全部――」

 俺は身震いした。友人は嘘を吐いている様子はない。だとすると考えられるのは……

「ちなみに何て書いてあった?」

「お前はダメな人間だ、誰もお前を必要としていない、今すぐ首を吊れ」

「それは酷いな……リアルでは何て?」

「同じようなことを言われてる。家の外でも中でも、ずっと」

「――」

 黙り込む俺に構わず、友人はすがりつく。

「なあ、お前、友達だろ? 助けてくれよ」

「――ああ、考えておくから。今日はとりあえず帰ってくれ」

 玄関に向かい、靴を履いている友人に声を掛ける。

「なあ、病院には行ったか?」

「怪我はどこにもしてないから大丈夫だよ。あいつら、俺に直接危害を加えてくる訳じゃないんだ」

「そうじゃなくて……別の科、というか」

「?」

「いや、何でもない」

 何も言える訳がなく、友人を見送った。その後、スマホで調べて確信した。友人は恐らく……精神疾患にかかっている。


 夕飯の後、俺はパソコンを立ち上げ、その病気について調べた。

 それは、現実には存在しない「声」や「音」が聞こえる「幻聴」、見えないものが見える「幻視」といった症状を伴う精神疾患らしい。

 本人にとってはすべてが現実そのもので、誰が何を言っても信じ込んでしまうという。時には「自分の思考が誰かに操られている」と感じたり、「監視されている」「命令されている」といった妄想に支配されることもあるそうだ。また、ちょっとしたことで興奮したり怒ったりするようになるらしい。

 ――まるで、あいつの言動と一致していた。


 俺があいつにしてやれる事はなんだろうか。それも調べてみた。

 とりあえず、妄想を頭ごなしに否定するのはいけないようだ。「そんなことあるわけないだろ」と言えば、本人にとっては自分の現実を全否定されたも同然。だからまずは、「そう感じてるんだね」と受け止めるのが第一歩らしい。……簡単じゃなさそうだが、やるしかない。

 あいつには俺しか友人がいない。あいつは根っからの変人だ。理解してやれるのは俺しかいない。だから俺が支えてやるべきなんだ。この俺が――


 静かな部屋で逡巡していると、突然スマホの着信音が鳴り響いた。刹那、心臓が激しく鼓動する。恐る恐る画面を見たら、あいつからだった。俺は電話に出た。

「――もしもし」

「助けてくれ。部屋中から囁き声が聞こえる」

「そうか……それは大変だな」

 毒にも薬にもならない事しか言ってやれなかった。

「警察に通報したけど取り合ってくれない。盗聴器も持ってったが、調べても何もなかったって言われた」

 やっぱりな、と言いたいのを抑えて、俺は友人を慰めることにした。

「色々あって、お前も疲れてるんじゃないか?

 そうだ、良いことを思いついた。明日は気分転換に遊びにでも出かけないか?」

「遊び? そんな場合じゃ……」

「景色の良い所へ行けば、少しは気が晴れるだろう。車は出してやるから。なあ、どうだ?」

「……まあ、それなら『声』も聞こえないかもしれないな。監視の目もくぐり抜けられるかも……」

 最後の方はぶつぶつ言っているようで、よく聞き取れなかった。ともかく何とか約束を取り付けて、電話を切った。


 翌日。俺達は広くて人気の少ない公園へ出かけた。空は少々曇ってはいるが、雨は降らなさそうだ。風は凪いでいる。

「ほら、ここなら誰もいないし、声も聞こえないだろ?」

 俺がそう言うと、友人は頷きながら、空を見上げた。

 その瞬間だった。にわかに羽音がして、やや大きい鳥が俺たちの近くの枝にとまった。嘴は黒く、頭頂には羽冠がついている。鸚鵡おうむの一種だろうか?

 とりわけ目を引いたのは、その極彩色の羽根だ。まるで虹のように美しい。


「珍しいな。どこかの家から逃げたのか?」

「……来やがった」

「え?」

「ここにも来やがったか! なんで俺をつけ回す!?」

 突然、友人は叫び声をあげ、公園の奥へと駆け出した。俺は慌てて後を追う。


 数分後、ようやく追いついた俺は息を切らしながら言った。

「ただの鳥じゃないか。ちょっと珍しい色をしてるだけの……」

「違う! おれを監視してる奴が送り込んだんだ! お前も見ただろう!?」

「もういい加減にしてくれ!」

 俺は怒鳴り返した。友人は虚をつかれたように黙った。

「お前のためを思ってドライブに連れてきてやったのに。自然豊かで静かな場所へくれば、少しでも気が紛れて、お前の病気が良くなると……」

「病気?」

 しまった。俺は口を噤んだ。

「……まさか、俺が頭の病気だと思ってるのか?」

「――」

「俺の言った事が全部! 妄想だっていうのかよ!?」

「――ああ、そうだよ。お前みたいな症状があるんだ」

 俺はその病気の説明をした。友人はうなだれた。

「――お前だけは信じてくれてると思ったのに」

 友人は出会って以来いっとう悲しそうな顔をしていた。俺も心が揺さぶられたが、心を鬼にして言った。

「絶対に病院行けよ。病気じゃなければ、お前はただの嘘つきだ。季節外れのな」

「――」

 友人は何も言わずに去った。俺は間違ったことは言っていない。ただ何か、そう、決定的に何かが壊れてしまった気がした。そんな気持ちに蓋をして、俺は駐車場へ向かった。



 翌日、俺はあいつのアパートに行くことにした。気持ちとは裏腹に、空は晴れている。

 理由はどうあれ、あいつを傷つけてしまったのは事実だ。だから――いや、正直に言えば、俺の心が落ち着かなかった。あいつを「見捨てた」ような罪悪感が、昨日から胸の奥で膨らみ続けていた。


 ただ、もしあいつがまた変なことを言い出したら、その時は――もう、遠慮はしない。嫌がっても構わない。暴れても、首に縄をかけてでも病院に連れていく。

 やり方は間違っていても、それがあいつの為なんだ。正常な俺こそが、あいつを何とかしてやらないといけないんだ――昨日から巡っている考えを反芻しながら、俺は友人の部屋のドアをノックした。


「ようこそ」

 友人の声ではない。合成音声のようだ。

「……誰だ?」

「扉を開けばわかるよ」

 どういうことだ? 疑問を払拭させるためにも、俺はドアノブを回した。錆び付いた音を立て、ドアは開いた。しかし、誰もいない。代わりに、一羽の鳥が玄関マットの上にいた。昨日遭遇した、あの虹色の鸚鵡だ。

 あいつが飼い始めたのか? さっきのは、この鸚鵡の声か?

「おい、いないのか?」

 友人を呼ぶが、やはり返事はない。その代わり、別の誰かの声が聞こえてくる。

「テレビか?」

 確かにテレビの音も聞こえる。しかし、それだけではなかった。テレビに重なり、別の音声が聞こえる。

「お前はダメな人間だ」

「誰もお前を必要としていない」

「今すぐ首を吊れ」

 俺は凍りついた。この内容、確かあいつが言っていた――まさか、俺までおかしくなったのか?

 そんなはずはないと首を振り、音の出所をたどった。そこにあったのは、あの白いアダプタだった。中央に小さな穴が沢山あいており、スピーカーになっているようだ。この前あいつが持ってきたのとは別物のようだった。

「お前はダメな人間だ」

「誰もお前を必要としていない」

「今すぐ首を吊れ」

 合成音声と思しき声が、あちこちから等間隔で聞こえてくる。俺は咄嗟にアダプタを引き抜いた。

「無駄だよ」

 振り返ると、鸚鵡がこちらを見ていた。周りを見回すと、コンセントというコンセントに同じアダプタがあった。俺は思わず悲鳴をあげ、後ずさった。

 瞬間、何かにぶつかった。テレビだ。テレビからはニュースが流れている。

「……続きまして次のニュースです。今日未明、鳥型ドローンを使った盗撮の容疑で複数の男女が逮捕されました」

「え?」

 見ると、あの虹色の鸚鵡が画面に映し出されている。「犯行に使われた物と同機種のドローン」という字幕と共に。

「主犯格の男の自宅から、アダプタ型の盗聴器やカメラも発見されており、警察は余罪についても調べているようです。同型の盗聴器による盗聴被害はこれまでに何件か寄せられていましたが、新型の盗聴器だったため、調査が遅れたとのことです。犯人グループは黙秘を続けており、動機は未だ不明……」


 ぐらつきそうな体を支えるために、テーブルに手をついた。そこには、あいつのスマホがあった。何かの通知が来ているらしく、光っている。何かに取り憑かれたように、俺はそれを手に取った。ロックは掛かっていなかった。

 SNSを起動すると、タイムラインは罵詈雑言の嵐。明らかにあいつを標的にした内容だ。遡っていくと、随分前から続いている。

 しかし、あいつから見せられた時はこんなタイムラインじゃなかった。どういう事か考えていると、書き込んだ奴の名前に「凍結解除」と書かれているのに気づいた。

 つまりこういうことだ。俺が書き込みを見る直前に、書き込んだ奴が通報されるか何かして、アカウントが凍結されたんだろう。凍結されれば、書き込みが一時的にタイムラインから消える。運悪く俺は、その時にタイムラインを見せられたという訳だ。


 続いて俺は、通知の元となるメンション欄を開いた。

「お前はダメな人間だ」

「誰もお前を必要としていない」

「今すぐ首を吊れ」

「お前はダメな人間だ」

「誰もお前を必要としていない」

「今すぐ首を吊れ」

「お前はダメな人間だ」

「誰もお前を必要としていない」

「今すぐ首を吊れ」……

 ゲシュタルト崩壊しそうな言葉の波。耳には相変わらず同じ内容の言葉が流れ込んでくる。しかし、ある時から音声の様子が変わった。

「お前は友人を信じなかった」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

 言葉が一つになった。

「今すぐ首を吊れ」「今すぐ首を吊れ」「今すぐ首を吊れ」「今すぐ首を吊れ」「今すぐ首を吊れ」「今すぐ首を吊れ」「今すぐ首を吊れ」「今すぐ首を吊れ」「今すぐ首を吊れ」「今すぐ首を吊れ」「今すぐ首を吊れ」「今すぐ首を吊れ」

 耐えきれず耳を塞ぐと、タイムラインが瞬く間に流れていく。

「お前は友人を信じなかった」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「今すぐ首を吊れ」

「うわあああああ!」

 俺は駆け出した。その先にベランダが見えた。ベランダには物干し竿があり、おびただしい数の虹色の鳥がとまっていた。一様に首を傾げ、身じろぎもせず、こちらを見ている。

 物干し竿には一本の縄が垂れ下がっていた。そして縄の先には、友人が……


 無機質な声で、鸚鵡が繰り返す。

「遅かったねえ、遅かったねえ」



 その日のそれからのことは、あまり覚えていない。断片的に覚えているのは、救急車を呼んだこと、警察から事情を聞かれたこと。

 確かに覚えているのは、救急車を呼ぶ前に友人の首にくくられている縄を切り、友人を物干し竿から降ろしたこと。あいつのポケットにメモ帳が入っていて、それを取り出したこと。そこに書かれていた内容。


「○月×日 どうやら盗聴されている。俺の生活の様子が筒抜けになっているらしく、SNSで逐一報告してくる。この頃どこからか、恐ろしい声も聞こえてくる。一体どうなってるんだ?」

「8月11日 警察に言っても信じてもらえない。あいつに相談する」

「8月12日 やっと盗聴器を見つけた。盗聴の動かぬ証拠だ。

 さっきは一笑に付されたが、これを見せればわかってくれるだろう。あいつは俺の唯一の友人なんだから」

「8月13日 友人が気晴らしに遠くの静かな公園に連れて行ってくれるらしい。気は向かないが、折角の申し出を断る訳にはいかない。それに遠くならあいつらも追って来られないかもしれない」

「8月14日 あいつが言うには、俺は病気か嘘つきらしい。別に誤解されたのは構わない。病気を悪く思うつもりは毛頭ない。しかし、どちらでもない俺は何者なんだろう?

 アダプタは捨てても捨てても戻ってくるし、増えてきてすらいる。こんな物が見えている俺はやっぱり病気なのか?

 今アダプタを持っている、この手の感覚は至って鮮明だ。この触覚は、視覚は、まやかしなんだろうか? いや、どちらにしても同じことだ。この声が聞こえる限り――」

「8月15日 沢山の声に囲まれながら、俺はたった独りだ。この声は誰にも届かなかった。しかし悩む必要はない。誰の理解も必要ない。

 もう、声は聞こえなくなるのだから――」


 事件は大々的に報道された。あの日を境に、マスコミがひっきりなしに家へ押しかけて来た。どこで聞きつけたのか、SNSでもコメントが殺到した。

 無責任な憶測や、勝手な正義感。言葉のナイフが、次々と投げつけられてくる。地獄のような日々が終わり、気がつけばあの日から幾つもの季節が過ぎ去った。


 俺はあいつの声に耳を傾けていなかった。警察やマスコミの言うことは信じ、あいつのことは信じようとしなかった。

 病気に理解ある振りをして、あいつ自身を理解しようとしなかった。あいつの望むことをするどころか、望まないことだけをしてしまった。

 声があいつにあんなことをさせたんじゃない、俺があいつの声を黙殺したんだ。


 あいつが病気であろうがなかろうが、関係なかった。実際あんなことをしたんだ、病んではいたんだろう。

 でも、そこは問題じゃない。そうさせたのは俺だ。あいつの首に縄をかけたのは、俺なんだ。


「なあ、そう思わないか?」

「ああ、全くだ」

 あの頃と打って変わって、すっかり吹っ切れた様子で友人は笑った。

「元気になったもんだな」

「おかげさまでな」

 友人は降りしきる桜の花びらをひとひら取って眺めた。

「まだ息があるうちに俺が縄を切ってなかったら、どうなってたことか」

「俺は繊細だからな、唯一の友人に裏切られてすっかり悲観したんだ」

「悪かったって」

「しかしお前、独り言長いな」

「ああ?」

「『それからのことはあまり覚えていない』から、ずっと聞こえてたぞ」

「ああもう、こんな奴、助けるんじゃなかった。大体、どんな生命力してんだ。医者もあの状況での手術成功率は、正直高くないって言ってたぞ」

「半狂乱で救急車を呼ぶお前に応えなきゃいけないと思ったからな」

「うるせえ」

 俺達は笑い合う。こんな風に戻れて良かった、心からそう思った。

 今では、あの騒ぎも嘘のように静かだ。マスコミは去り、ニュースも下火になった。散々な目にあった俺達の元に、ようやく日常が戻りつつある。些細な幸せを、俺は噛みしめた。


 下らないやり取りを続けていると、女の声がした。俺の名前を呼びながら、こちらへ駆け寄ってくる。少し前からの知り合いだ。

「なんだ、彼女か?」

「バカ、そんなんじゃねえよ」

「邪魔したら悪いから帰るわ、じゃあな」

「言ってろ」

 挨拶もそこそこに、女の方へ向き直る。女は口を尖らせる。

「もう、探したんですよ。こんな所で何をなさってたんですか?」

「ああ、友人と話してましてね」

 俺は友人の方を指さす。

「えっ? でも……」

 女は俺が指さした方向を見て、一瞬口ごもる。しかし思い直したように、とびきりの笑顔で話し始める。

「そうだったんですね。どんな方なんですか?」

「根っからの変人でね。いつも人が聞いたら耳を疑うことばかり言うんですよ」

「面白いお友達なんですね。でも、勝手に出歩かないでくださいね。そんな薄着で外に出たら、風邪を引いてしまいますよ」

「申し訳ない」

 女に手を引かれて、俺は病棟へと歩き出した。振り返ると、あいつの姿はもうなかった。あいつのいた後には、桜の花びらが幾ひらか残されていた。そしてその中には、どこかで見たことのある虹色の羽根が一枚、交ざっていた。

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