夜雨の影

夏野篠虫

傘と人

 夜雨よさめはしとしと降っている。

 残業終わりの帰り道。日を跨いだ町の灯りは消えた。月も星もない。街灯の光だけが濡れた路面を照らす。人の気配もなく、自分の革靴がぱちゃり、ぱちゃりと水溜まりを踏み鳴らす。排気と塵を含んだ湿気は不思議と落ち着く匂いがする。

 まだ歩き慣れない道は家まであと20分続く。ここら辺に越してきて一週間、仕事帰りは当然夜だが雨は初めて。水をまとった景色はまるで違って見える。反射光が多くなるからだろうか、まばらな光があちこちに映って夜を彩る。

――剪定せんてい不足の植込みがある家を右に曲がる。

 100メートル以上先に見える2区画目の右手角、ベージュ系の淡色をしたマンションの入口にこの一帯では何故か少ない自販機が見える。人工的な白の光に温かみは感じられないのに安心する。見慣れたものの存在は私たちにとって偉大なのかもしれない。

 そのマンションのエントランスから自販機のすぐ手前に人が出てきた。

 自販機の光を背にシルエットを晒すその人は大きめの傘を差し、よほどの疲労かショックなことがあったのか、がっくりと首を前に倒し猫背のままトボトボと歩いていた。

 転勤したばかりで職場環境もあまりよくないし社員も癖のあるやつが多いけど仕事は順調に進んでいる。あの人と比べたら自分はまだマシだろう。そう思いながら、横切り向かいの道へ消えるのを見送った。

 ばらばらばらと雨粒が強くなってきた。

 裾はすでに雨雫あましずくの跳ね返りで湿っている。早く帰りたい気持ちが増してきた。傘の保護から足がはみ出すのも構わず大股で歩く。

……足が止まる。

 つい先ほどより近づいた自販機のあるマンション。そこからトボ、トボ、傘を差し大きくうなだれた人が出てきた。逆光になっているからか、傘と一つになった黒い人影に見える。10秒前に見送った人とまったく同じ姿に、私には見える。

 似ているだけか?

 観察しているとそのまま歩いて道の先に吸い込まれるように見えなくなった。

 たまたま、かな。偶然よく似た姿の人物が同じマンションから出てきて同じ方向へ歩いて行った。それだけだ。

 一瞬聞こえなくなった雨音が鼓膜に戻ってきた。ザァザァと聞こえる。

 足を動かそうとして、少しだけ躊躇い、一歩進みだしたその時、私は傘を手放しそうになった。

 視線の先、マンションから三度同じ姿の人が出てきたのだ。

 黒い傘に首を前に倒した猫背の人影。トボトボトボとすり足気味に前へ進む。

 同じ人。さっきとまったく同じだ。傘、背格好、歩く速度までまるでコピーしたかのように寸分たがわない。

 行ったり来たりしている? 違う、私はずっと前を見ていた。帰ってくる姿は見ていない。私とその人以外、さっきからこの道には誰もいない。

 雨に濡れたせいだろうか、足元からだんだんと冷えてきた。今鏡を見たら、たぶん唇は紫色になっている。


……引き返そう。遠回りだがこの道を通らなくても家に帰れる。いや私も分別のあるいい大人だから別に何かあるとは思わない。でも今日はこの道はやめておこう、その方がいい。強がっても粟立った肌は元に戻らなかった。

 雨は一層強まり私の傘と地面を叩く。

 いよいよマンションから次の黒い傘が出てきたのを見てしまい、私はきびすを返し水たまりを蹴散らしながら駆け足で家路を急いだ。きっとあそこからは同じ影が何度も何度も出てくる。これ以上見てはいけない気がした。

 逆方向から大回りで自宅のある道へ向かう。

 次の角を曲がれば、家はすぐ左に――


 息を切らせ、角から顔を出した時、私の住むアパートが見えた。2階建ての古めかしい安アパート。外付けの錆びた階段を上って一番奥が私の部屋だ。


 だが私は家に帰らず駅まで全力で走った。

 傘を差す意味はもはやなく、駅前のネットカフェに着いたときには全身汗と雨でぐっしょり重くなっていた。

 不審げな店員に深夜フリーパックを頼み、手早くシャワーを浴び朝が来るまで震えながら貸し出しの毛布にくるまって自分を抱きしめた。


 翌日は良く晴れた休日だった。

 朝、恐る恐るアパートに帰ると何事もない雨上がりの光景があるだけだった。

 でも翌月に私は引っ越した。本来は一年契約だったので大家には強く引き留められたが、多少出費がかさんでも、なんとしても引っ越したかった。引っ越すまでの間もネカフェやビジネスホテルに泊まり、なるべく家にいる時間を減らしていた。

 あれを見たらもうあそこには帰りたくない。


 あの夜アパートにたどり着いたとき私が見たのは、マンションから出てきた黒い傘を差す人影が何十人も集まって建物を取り囲んでいる光景だった。部屋の前も階段も屋根の上まで登って、じっとアパートを囲んでいた。



 あれは、絶対よくないことが起こる予兆だと思った。

 そうしたら、昨晩、あのアパートで火事が起きた。

 一階奥の住人の寝たばこから出火。木造は瞬く間に炎に包まれ全焼。就寝中の住人計5人が亡くなったと報道されていた。遺体は外見が分からなくなるほど黒焦げになっていたらしい。


 傘の人影と関係あるとは思いたくない。でもあれを見て不吉を感じた自分が運良く助かったことを考えると、あの人影が善悪のない人知を超えた存在なのは確かなんだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜雨の影 夏野篠虫 @sinomu-natuno

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説