"稲荷" of the West End

もち

第1話


――1903年、日本、某所

 社の軒先に、ぬるい風が吹いていた。木々の間から陽が落ちかけている。かつては村の祭りで人がごった返したこの神社も、今はもう鳥の鳴き声すら遠くなった。

 土間に座した志乃の前で、叔父が腕を組んだ。

 「……わしの若いころは、祭の日には、ここに三十は灯籠が並んだ。おまえも覚えておるだろう」

 志乃は黙って頷いた。

 「だが、もう誰もおらん。年寄りは山を下り、若い者は汽船で佐世保や台湾へ行った。――あの英一郎でさえ、帰ってこんかった」

 その名に、志乃の指が一瞬、箱の蓋の縁で止まった。

 英一郎。兄だった人の名。国のためと出征して、そのまま帰らなかった。最後に届いた手紙は、遠い南方の砂混じりの風の話だった。

 「もう、祭りも神楽もできん。そういう時代なのだ、志乃」

 叔父の声は静かだった。志乃は御神体の入った箱に手を添えた。

 それは、彼女が幼い頃から一度も触れたことのない、大人たちが決して軽んじなかったものだった。

 兄がいたらどうしただろうか、とふと思う。けれど、彼はもういない。誰もいない。

 だったら、せめて――

 御神体を覆っていた白布が、志乃の手でそっと剥がされる。古びた狐面と、焦げ茶の木箱。

 「おまえ……まさか、本当にそれを異国へ持ち出す気か……」

 低く怒ったような声で、叔父が言う。

 「志乃、おまえはもうこの家を出るのだ。向こうの言葉も話せぬくせに、異国へ嫁ぐ。それで十分ではないか。神さまは――静かに、ここで眠らせて差し上げれば……」

 志乃は膝の上に置いた木箱を撫で、ゆっくり首を振った。

 「眠らせるだけで済めば、いいですけど」

 その目は、どこか遠くを見ていた。

 「祀る者がいなくなって、人々に禍を齎す荒神にでもなったら――誰が責任を取るんですか」

 そう言われると、何も返せなかった。

「私は、トマスと行きます。……わかってくれます、トマスなら。あの人は違う宗教でも、神さまを敬う心は同じだって、そう言ってくれたから。海の向こうで、祀ります。形は変わっても、誰かが灯を絶やさなければ、神さまは……神さまでいてくださるから」

 そのとき、どこからか狐の鳴くような風が、かすかに吹き抜けた。


――202X年現在、英国、ロンドン


 ロンドンの夜は、火の祭りのために朱に染まっていた。アーチ状の街灯には燃えるような布が垂らされ、通りごとに火の鳥の彫像、竜のような燈台、祈りを捧げる子どもたちの紙細工が並ぶ。屋台の甘く焦げた匂いと、遠くから聞こえる笛の音が、空気をどこか異国めいたものに変えていた。

 日本人留学生の匠は建築科の学友たちに連れられて、初めてこの祭りを見物していた。

「建築史の視点からも面白いと思うよ、タクミ。中世の構造物を再現してるんだ」

「……そうだね」

 だが匠は、妙な既視感に満たされていた。目の前の装飾のひとつひとつが、どこか見覚えのあるような……。細かい刺繍、鈴の音、布のひるがえり方。――まるで、日本の神楽のようだった。

 いや、違う。これは混ざっている。日本の記憶に、何か異なるものが染み込んでいる。ケルト的な渦巻模様、牡鹿の角を模した冠、祈祷の仕草。それらが、奇妙に噛み合っていた。

 「ここじゃ見ないはずだ」と自分に言い聞かせる。匠は霊感を持って生まれた。誰にも見えない何かに見つめられ、触れられてきた。特に祭りなどの人が集まる場所ではそれが顕著に表れた。

「けど、ここはロンドンだ。大丈夫だ」

 そう思った瞬間だった。

 人波の向こうに狐面をつけた少女が立っていた。赤い着物に、真っ直ぐな黒髪。日本人――に見える。しかしよく見ると、着物の柄はトリスケルのようなケルト文様で染め抜かれ、帯は金の蔦のように背中で結ばれている。草履ではなく、鹿革のような素足履き。肩にかけた風呂敷には、火の紋章。

「……あれは、誰だ?」

 匠が学友に尋ねても、誰もその少女を見ていないようだった。「どこに?」「誰が?」「いたって何が?」と口々に言われる。もう一度見ると、彼女は跡形もなく消えていた。

「……またか」

 胸の奥がひやりと凍るようだった。自分だけに見える「何か」。それが再び現れた。しかも異国の地で。

 すると、近くの通りにいた老婦人が言った。

「それって、The Flame Girlかもしれないわね。たまに見る人がいるのよ、燃える夜に。火のなかを歩いてるって」

 匠は笑うしかなかった。「炎の少女」。神話でも読んでいるかのようだった。

――その夜、匠は夢を見る。

 暗闇のなか、赤金の炎が燃え盛っていた。炎の中心には、狐面の少女が立っていた。表情は見えない。だが、その背筋の伸びた佇まいには、寂しさや儚さではなく、荘厳な気配があった。――神。これは神だ。彼女の影は一切揺れず、炎だけが周囲を踊っている。

 翌日、匠は大学の資料室で、火の祭りに関する記録を調べる。断片的な資料のなかに、気になる記述を見つけた。

「明治三十六年、Shino F., Nipponより当地へ神体を携えし旨記載あり。InariまたはHinokamiに類する伝承を持つと推定」

 匠は、記憶の片隅にひっかかった「Inari」という単語を反芻する。

 その夜も、彼は祭りの会場へと足を運んだ。暗がりの中に、ひとつだけ和風の木棚があった。煤けた掛け軸が飾られており、『穂乃稲姫』と墨で書かれた文字は読みにくくなっていたが、匠には確かに見えた。

「ほの……?」

と読みかけたとき、後ろから誰かの手が彼の口を塞いだ。

「――呼んではなりません」

 驚いて振り返ると、昨日も見かけた灰色のローブをまとった神官風の女性が立っていた。40代後半、イギリス人らしい面差し。だが、どこかアジアの血を引いているようにも見える。

「その名前を口にすることは、禁じられてきました。私の曾祖母もそう申しておりました。名前を呼べば、火があなたを焼くかもしれない、と」

 その瞬間。匠の目の前に、「彼女」が現れた。狐面をつけ、手には炎の鈴。ゆっくりと匠の方を向く。鈴がひとつ、からん、と鳴る。

――そして。狐面を外す。

 その顔は、思わず息を呑むほど美しく、無垢で、そしてどこか永遠の時間を思わせる神性をたたえていた。彼女はゆっくりと、匠に顔を近付ける。香のような匂いが風に混じる。やわらかに微笑み、囁く。

“Do not call my name. Just remember the light.”

(名を呼ぶな。ただ光を覚えていろ)

 そして、ほんの少し声を落として――

“I walk behind you, where the fire does not reach.”

(私はおまえの背後を歩こう、火の届かぬところで)

 匠が言葉を返す前に、炎がひときわ強く揺れた。異国の土地で"The Flame Girl"と呼ばれたその神は、再び狐面をかぶり、匠の視界からすうっと溶けるように消えていった。



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