一話完結の泣けたり、笑えたり、エモい話。
香住七春
第1話 キスの前に、単位が必要でした。
教室の湿気が、窓の外に吸い込まれていく。
ひとしきり鳴いた蝉の声が、少し遠くでフェードアウトして、風だけが教室に残された。
ガラリ、と誰かが窓を開けた。
カーテンが、ふわっと膨らんで揺れる。
ベージュのそれはまるで誰かのため息みたいに軽く、
黒板の端をなぞるようにして、ゆっくりと揺れていた。
補講は――なかった。
プリントに書かれた日付と、今日の日付が、ひっそりと違っていた。
「最悪ー」
美樹が、教室の後ろでぼやいた。
誰に言うでもなく、ただ空気に投げるような声だった。
ブラウスの首元をつまんで、パタパタと仰ぐ。
そのたびに、首筋が、鎖骨が、そして白い肌の胸元が、
ほんのわずかに、光を受けてゆれた。
ちら、と目をそらす。
でも見なかったことにすると、見たことになってしまう気がして、
もう一度だけ、視線を戻す。
「先生、ほんとなんなの。今日わざわざ来たのにさ」
そう言いながら、美樹は空いた机の上に腰をかける。
スカートのすそが少しだけめくれて、膝がきらきらしてた。
「なあ、ほんと最悪だよな」
俺は言葉を繋いで、少し間をあけてから、続けた。
「でも……まあ、俺は来れてよかったかも」
美樹が、ぴくりと眉を上げる。
「なにそれ」
顔をそむけて、でもちょっとだけ笑ってた。
風が、またカーテンをふくらませて、
今度はその向こうに、ふたりの影が並んで映っていた。
「……まあ……うちも」
小さな声が、教室に落ちる。
美樹が、すっと近づいてくる。
教室の床に小さな上履きの音が響いて、
気づけば、もう息がかかる距離だった。
ふわっと、制汗剤の匂いがした。
甘すぎない柑橘系。
だけどその奥に、汗をかいたあとの首元の匂いがまざってる。
首すじには、うっすらと汗が浮いていた。
陽に焼けてない白い肌に、水滴みたいな粒があって、
それが涼しげで、どこか熱を帯びてる。
美樹が、少しだけ身をかがめる。
「ねえ」
顔が近い。
もう少しで前髪がこっちにかかりそうな距離。
「さっきの……『来れてよかった』ってどういう意味?」
二重の目がまっすぐに見てくる。
アイラインは細く、でもしっかり引かれていて、
どこか涼しげな線を描いていた。
まつげは長くて、風にそよいでいる気がした。
唇は、ピンク色のリップ。
グロスの艶は控えめで、でもやけに印象に残った。
ごくり、と喉が鳴ったのが自分でも分かった。
美樹は、もう一度首元を仰ぐ。
そのたびに、ブラウスの第一ボタンの隙間がふわっと開く。
見えそうで、見えない。
そのわざとじゃないっぽさが、逆に意識させた。
「な、なんでもいいだろ」
絞り出すように言うと、美樹はいたずらっぽく笑った。
「なにそれー、めっちゃあやしいんだけど」
口元をおさえるようにして笑いながら、
でもその声は、少しだけ震えていた。
「……うちはさ」
小さく息を吐いて、でもちゃんと目を合わせてきた。
「涼介に会えて、ちょっとだけ……ラッキーだったかも」
照れた顔で、からかうみたいに言う。
その目は笑ってるのに、どこか本気だった。
「ねえ」
ふいに、美樹がまた顔を近づけてくる。
その距離はさっきよりも少しだけ近くて、
俺は、息を飲む。
「キスしたこと、ある?」
時間が止まったような気がした。
教室のどこかで、天井の扇風機がゴゥッと回る音がする。
でもその音さえ、遠く感じた。
彼女の唇が目の前にあった。
ピンクのリップが、さっきよりも艶を増して見えた。
上唇はうすくて、でも形がきれいで、
下唇は、すこしだけ柔らかそうにふくらんでいる。
何も言わないのに、言われているような気がする。
この距離で、俺はどんな顔をすればいいのか分からない。
グラウンドの方から、野球部の掛け声が聞こえてきた。
「ナイスボール!」って誰かが叫んでる。
こっちは、ナイスどころかアウトになりそうだ。
「ど、どっちでもいいだろ……」
自分でも驚くくらいの声の高さで言ってしまった。
ごまかすように咳ばらいをして、目をそらす。
美樹は、ふふっと小さく笑った。
その笑い方は、完全にからかってる声だったけど、
目元がすこしだけ揺れていた。
「私も」
そう言って、美樹はするっと顔を引いた。
急に戻った距離に、教室の空気がまた動き出す。
扇風機の音が、もう一度耳に届いた。
グラウンドの掛け声も、ただの風景に戻った。
二人の間に、誰もいない教室の温度が挟まっている。
でもさっき、たしかにあったその距離が、
まだどこかに残っている気がした。
「残念だった?」
美樹が、冗談とも本気ともつかない声でそう言った。
肩越しに視線だけを投げてきて、
でも、目は少しだけ揺れていた。
――そりゃ、残念だよ。
さっき見えそうで見えなかった胸元とか、
こんなに近くで息を感じて、リップの艶まで見て、
それで「私も」って言われたまま戻られたら……
それは残念以外のなにものでもないだろ。
でも、そんなこと口に出せるわけがない。
ただ、心臓の音がどんどんうるさくなっていく。
美樹が、急に静かになった。
うつむいて、でも何かを飲み込むみたいに、
ひとつ呼吸をととのえて――それから、
決意を固めたような目で、俺を見た。
さっきよりもずっと真剣で、
さっきよりもずっと近い。
また、顔が近づいてくる。
今度は、ふざけてるようには見えなかった。
「じゃあ……」
一瞬だけ間をあけて、
唇が少しだけ開いて、言葉がこぼれた。
「してみる?」
息の温度が頬にふれて、
唇が、ほんの数センチのところまで近づいてくる。
まつげが風を受けてふるえていた。
グラウンドのほうでは、誰かがバットを振る音がした。
でも教室の中では、もう誰も、何も動いていなかった。
俺も動けなかった。
彼女の目だけが、真っ直ぐにこっちを見てた。
日本の学校制度は、近代国家としての体裁を整えんとする明治政府によって、学制という名のもとに始まった。
それは明治五年、いまだ徴兵令も地租改正も途上にあった時代である。
制度は大正、昭和を経て戦後、六・三・三・四制として定着するが、しかし、ここに見るべきは制度の形骸ではない。
本質は、教育がつねに「誰を通過させ、誰を
出席と学力という、表向きは中立に見える基準が、じつは無言のうちに社会の適者を選別してゆくのである。
それはあたかも、冬の山中に設けられた仕掛け罠のように、誰かが知らぬうちに踏み抜いている――そういう類の制度であった。
制度とは、つねに救済の顔をして近づいてくる。
だが実際には、教育という名の門を潜った者を、どこまでも穏やかに、そして冷徹に選別するものである。
この教室の二人――名を涼介と美樹という――が今交わした些細な会話は、
この
教務規定に従い、補講の成立要件を満たさなかった場合、単位は付与されない。
たとえその日に、ふたりの心がどれほど通い合っていようとも、制度はそれを考慮しない。
制度は、情を知らぬ。
すなわち――
この涼やかな午後に芽生えた恋情は、学則第十六条に基づき、不認可である。
一話完結の泣けたり、笑えたり、エモい話。 香住七春 @kasuminanaharu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。一話完結の泣けたり、笑えたり、エモい話。の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます