〈短編小説〉雨空の贈りもの

夕砂

雨空の贈りもの






 祖父の命日は、決まって雨が降る。

 今年も空は重く、分厚い雲が垂れ込めていた。


 線香の煙が静かに揺れている。手を合わせ、目を閉じたそのとき、ひと粒の雨が頬を打った。


 続いて、ぽつ、ぽつーーと冷たい滴が肩を濡らしていく。


 その瞬間、ふいに頭上がふわりと暗くなった。


 見上げると、ひとりの老人が、黙って傘をこちらに向けていた。


 その老人は、くしゃくしゃの笑顔と、かすれた声で言った。


「風邪、ひくぞ」


 傘を手渡すと、振り返ることなく、細い山道の先へと歩いていってしまった。


 何気なく傘の柄に目を落とすと、小さな紫陽花が彫られていた。




 帰りの駅へ向かう途中、踏切の手前で、泣きながら歩いている少女とすれ違った。


 ランドセルが濡れて、前髪が額に張りついている。

 すれ違いざま、ふと足を止めた。


 声をかける勇気はなかった。それでもただ、老人がしてくれたように、そっと傘を差し出した。


 少女は驚いたようにこちらを見たが、言葉はなかった。


 代わりに小さく会釈して、傘を受け取った。



 その数日後の午後、また冷たい雨が降った。


 少女は、紫陽花のイラストが描かれた、少し大きめの傘を持って家を出る。


 しばらく歩いていると、商店街の路地裏で、近所のおばあちゃんがびしょ濡れのまま、立ち尽くしているのが目に入る。


 スーパーの袋がいくつも手にぶら下がっていて、傘もさしていない。


「重そうですね。持ちますよ」


 少女は、おばあちゃんにそう声をかけて、すっと手を差し出した。


 おばあちゃんは驚いた顔をしたあと、にこっと笑った。


 荷物を受け取って、肩を寄せるようにして二人で傘に入り、ゆっくりと歩きだす。


 傘の布地に、雨粒が静かに弾けて消えていく音が二人を包んだ。



 少女がおばあちゃんの家に着くころには、雲の切れ間からやわらかな陽が差し、雨の気配はもうどこかへ消えていた。


 古い平屋の玄関先には、錆びた傘立てがあった。


 そこに傘を立てかけると、なんだか“それが一番ふさわしい場所”に思えた。


 少女は、玄関の傘立てにそっと傘を置いて帰ることにした。


 おばあちゃんは、何度も何度も、少女に"ありがとう"と言った。

 角を曲がって、姿が見えなくなるまで見送ってくれた皺だらけの笑顔が温かった。


 数日が過ぎたころ。


 おばあちゃんの家を、ひとりの若い女性が訪れていた。

 少し乱れた髪、やつれた表情。重たいスーツケースを引いて、扉の前で項垂れていた。


 おばあちゃんは無言で玄関を開け、まるで帰ってくるのが分かっていたように「おかえり」とだけ言った。



 翌朝。駅へ向かうその足元に、空から容赦ない雨が降りはじめていた。


「おばあちゃん、傘借りてもいい?」


 持ち手に、小さな紫陽花のイラストのある傘を、女性はしばらく見つめていた。


 やがて何かを決めたように、それを手に取り、歩き出した。



 —



 あれからしばらく経って、梅雨もとうに明けたような空模様が続いていた。

 もう梅雨も通り過ぎたかと思われた頃。




 急に降り出した雨に、俺は出先で完全に立ち尽くしていた。


 雨宿りできそうな場所もなく、仕方なく濡れるかと歩き出そうとしたとき。


 目の前、ビルの植え込みの影。

 傘が一本、そっと立てかけられていた。


 不思議と躊躇いはなかった。


 見覚えのあるその傘を手にとると、

 持ち手には、小さな紫陽花のイラストがあった。


 胸の奥に、懐かしい記憶と一緒に、ぽつりと小さな暖かさが降り始める。


 それは間違いなく、あのときの傘だった。


 傘を開くと、雨の音が少し遠くなった。



 いくつもの手を渡ってきた優しさが、雨に冷える胸の奥にそっとさざなみを立てていた。



 空は重い曇を纏っていたけれど、心の中には、嘘みたいに澄んだ空が広がっていた。










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