我が手に在るは、ネーミングライツ

翡々翠々

第一件 濫觴は闇の中で

 世界に“穴”が開いたのは、今から五十数年前のことだった。


 それはまるで地平の向こうからじわじわと侵食してきた異世界の病巣だった。都市の地下、山の奥、時に空中にまで現れたその穴――“迷宮ダンジョン”と呼ばれたそれを人々は恐れ、そして夢を見た。


 異常な物理法則、常識を越えた魔物。それは、現実と思えないような理不尽なまでの死の試練。


 だが、それらすべてをくぐり抜けた者だけが手にできる、現実離れした報酬――魔法、想像上の鉱石、そして未知の超文明の遺産。


 国家すらその価値を無視できぬ時代。富と名声を求め、数多の者たちが自らの命を担保に“冒険者”となった。


 それが、現代という時代の生き方の一つだった。






        ◇ ◇ ◇


 真城霙しんじょう みぞれ、二十一歳。冒険者歴三年。


 美しいと、よく言われた。目鼻立ちがはっきりしていて、肌が白く、母親譲りの長い銀髪と蒼の瞳が印象的だと。けれどそれは、彼女にとって褒め言葉ではなかった。


 中学では、毎週のように呼び出され告白された。高校では、男子からの好意と女子からの敵意の挟み撃ちに遭った。冒険者ギルドでも、訓練を共にした者の視線は剣ではなく胸元に注がれ、女たちは「男を誑かしている」と揶揄した。


 どこにいても、どこまでいっても、向けられるのは劣情と嫉妬。


 だから、霙は人を避けるようになった。戦闘では最前線に立つ。だがそれ以外では、誰にも必要以上に関わらず、淡々と任務をこなす“孤高の魔法剣士”。


 そんな彼女が“都市伝説”に縋ったのは、誰にも媚びないで済むような“力”を求めたからだった。


「都市のどこか、看板もない路地裏に、“真の力”を与えてくれる場所がある」


「呪物か、外法か、それとも超文明の遺産か――たどり着けた者だけが知る、“禁じられた力”」


 どこで聞いたかも忘れてしまった笑い話が、今では霙の唯一の希望だった。


 だから、探した。人に頼らず、誰にも言わずに昼も夜も歩き続けた。ネットに残された曖昧な書き込み、地下掲示板の断片、ギルドで“冒険者”達が交わす噂話を繋ぎ合わせ、ついに――






        ◇ ◇ ◇


 ようやくたどり着いたのは、雑居ビルの裏手にある狭い路地だった。ゴミと湿気の匂い。陰鬱な空気。誰も足を踏み入れたくはないような、都市の盲点。


 喧騒も届かぬその静寂の中、看板すら掲げられていない黒鉄の扉がただ一つ沈黙していた。誰にも知られてはいけないとでも言うように、存在を拒絶するような空気が漂っている。


 霙は一度、足を止めた。

 鼓動が速い。恐怖か、それとも期待か。


 違う。これは“警戒”だ。

 これまでずっと、笑顔の裏に棘を隠す人々を見てきた。誰かと関わるたびに、何かが傷ついた。


 それでも。今だけは、関わらなければ得られない“何か”がある。そう信じて、足を進めた。


 ゆっくりと、扉を押し開ける。軋むような音が耳を打つ。目の前に広がるのは、外の光の届かぬ半地下。薄明かりの蝋燭が灯るだけの、まるで書斎のような空間。壁一面に積まれた本。魔導書のように装飾されたものや、金属板に何語とも知れぬ文字が刻まれたもの。天井から吊るされた干からびた鳥の骨。無数の懐中時計に、魔石の入った大きなガラス球。“異質”という言葉さえ生ぬるい、狂気と知性の巣窟。


 そして――


 「来訪者よ。汝が求むるは何ぞ?」


 奥の机に腰掛けていたその男が、ゆっくりと顔を上げた。


 すらりとした長身を覆う黒い衣。白髪に紫の瞳。喉元にはまるで錆びた鎖を巻いたようなチョーカー。左手は薬指以外が銀の指輪で埋まっていた。


 若い。が、その瞳には百年単位の記憶が沈殿しているかのような重さがある。全身から怪しさを噴き出している男は、机を離れると霙の前まで歩いてきて再度口を開いた。


 「我は招かず。されど拒まず。然らば、汝は何を求める?」


 痛い。中二病にもほどがある。

 そう思った。でも、霙はそれを口には出さなかった。自分を強くしてくれるなら、中二病でもなんでもいい。


 拳を握りしめ、叫ぶ。


 「私に……私に力を!」


 紫色の瞳が大きく見開かれ、霙を射抜いた。


 「成程。汝“も”求道者シーカーか」


 「シ…シーカー?」


 「異界の門を叩いた者共のことだ。或る者は富を!或る者は名声を!そして或る者は力を!生命を棄てて己が欲望を満たさんとする者共よ!」


 男が両手を広げて叫ぶ。その顔は狂気に満ちており、その気迫に霙が一歩後ずさる。


 「……貴方も“冒険者”ってこと?」


 「然り。我もまた、深淵を覗かんとする求道者シーカーに名を連ねる者」


 「じゃあ、力を与えるっていうのは……」


 「我が術…汝らの言うところのスキルによるものだ」


 「他者を強くするスキル?それって“付与エンチャント”とは違うの?」


 冒険者のスキルの内、他者のステータスに影響を与えるものは二つに大別される。一つはステータスを下げる“呪詛カース”で、もう一つがステータスを上げる“付与エンチャント”。所謂、デバフとバフである。


 「否だ。我が術は真を偽とし、偽を真とするもの。或いは本質を晒し、正すもの。一時の喜憂に関わらず、永劫消えぬ名をその身に刻み込む力だ」


 「………つまり?」


 「ふむ……些か堅かったか」


 言葉の意味が伝わらなかったことを察したのか、男は顎に手を添えて少し考えた素振りを見せ、部屋の奥の机に再び腰掛けると、黙って見ている霙に首をかしげながら声を掛けた。


 「ほら、適当なところに座って」


 「普通に喋った!?」


 「そりゃ、喋れるさ。ずっとこんなだと色々困るでしょ」


 「じゃあ、さっきのは?」


 「雰囲気作り。大事でしょ、そういうの」


 「雰囲気って……」


 「せっかく来てくれたんだから、全力で迎えなきゃでしょ?」


 衝撃だった。先程までの痛さはどこへ行ったのか、男がにこやかに笑う。その顔には狂気が一欠片もなかった。霙が頭を抱える。


 「…………スキルについて聞きたいんだけど」


 霙はそれ以上、深く考えることをやめた。話が通じる分、ただの中二病よりは好ましい。今はスキルについて聞くことが大事だった。


 「その前に、幾つか聞きたいことがある。まず一つ、なぜ“力”を求める?どうして強くなりたいんだい?」


 「冒険者なら誰だってそうでしょ」


 「それは手段の話だ。迷宮ダンジョンを攻略して有名になりたい。お金が欲しい。モテたい。それらの夢のために強さを求めるんだ。でも、君は違うんでしょ?」


 「っ!どうして……」


 「人を見る目には自信があるんだ。カラコンだけどね」


 男が右手で自分の目を指差す。紫色に怪しく光る両の瞳は、確かにすべてを見透かしているようだった。


 「それで、どうして強くなりたいのかな?」


 「……誰にも……誰にも!媚びないで済むように力が欲しい!一人で生きていくための力が!」


 霙が叫ぶ。その拳は再び握りしめられており、ギチギチと音を立てていた。その様子を見た男の顔から、笑顔が消える。


 「冒険者歴とレベルは?」


 「え?」


 「どれくらいの実力かは把握しておかないと」


 「ぼ、冒険者歴は三年。レベルは56だけど…」


 「うーん……まぁ、大丈夫そうかな」


 「じゃ、じゃあ!」


 「まだだよ。まだ質問は終わっていない」


 思わず前に乗り出した霙を、男が右手で制止する。差し出した右手の奥で、男の目が鋭く細められた。


 「ここに一人で辿り着けた」


 親指を折り曲げる。


 「動機も十分」


 人差し指。


 「それなりの経験と実力」


 中指、薬指。最後に残った小指に霙の意識が集中する。


 「………あと一つは?」


 「代償だよ。金銭じゃ駄目だ。君はいったい、何を差し出せる?」


 「わ、私は……」


 待ち望んだ力があと少しで手に入る。誰にも頼らないで、一人で生きていくための力が。そのためには──


 「全部!!私の全部を払うから!!!」


 部屋に霙の声が響き渡るが、男の小指は動かない。答えを間違えたか。霙の背中を冷たい汗が伝う。


 「…………ふふっ」


 不意に男が笑みを溢す。右手で顔を隠すように覆うと、その笑みは徐々に勢いを増していった。コケにされているのだろうか。


 「何が可笑しいの!?」


 「一人で生きたいのに、全部をあげちゃ駄目でしょ」


 「あっ」


 「まぁ、それだけ強くなりたいのは分かったよ。そうだね……代償を払うのは後にしてあげてもいい。笑ってしまったお詫びかな」


 男が微笑む。今度は悪意が全くないように見えた。急に見せた善意に思わず突っ込む。


 「今度って……初対面でそんなに信用していいの?」


 「信用じゃない。取り立てに行くだけさ」


 「取り立て?」


 「うん。私結構強いからね」


 途端に部屋が殺気で満ちる。中二病の時の異質な存在感が場を支配し、思わず呼吸が止まる。数秒後、殺気の消失と同時に急いで酸素を吸い込んだ。ゴホゴホと噎せる霙に男が話しかける。


 「ね?」


 「ごほっごほっ……分かったから早く」


 「そうだね。じゃあ、改めまして…………我は命名者ネーマー。すべてを正し、すべてを欺く者。理想に焦がれし者よ。ついて参れ」


 そう言うと、命名者ネーマーは部屋の奥へ消えていった。

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