日常を脅かすサイバーテロリストの影

神崎 小太郎

全一話 見えない侵入者


「ご主人、テレビ消してくれる? どうせろくなニュース、やってないでしょ」


 昼下がりの『おっ母さんぶらり食堂』。


 年季の入った引き戸がガタつくこの定食屋は、白髪の老夫婦がふたりで切り盛りしている。圭子が昔から通う、何でも言い合える気さくな顔なじみの店だ。


 お米の値上がりが続く中でも、ごはんのおかわりは今も無料。それが、この店の変わらぬやさしさだった。


 ところが、圭子は物価高騰の時代に、ふとこの店が潰れてしまわないかと心配になる。こうした店ほど、いつまでも元気に営業を続けてほしいと願っている。


 窓から差し込む木漏れ日が鰺フライの皿を照らす。圭子はひと口かじると、ぽつりと呟いた。顔に刻まれた皺が、その言葉に静かな重みを添えていた。


 向かいに座るのは、レバニラ炒め定食を前にした息子の優斗。三十代半ばの保険会社勤め。夜勤明けのせいか、ネクタイを緩めたまま、黙々とご飯をかき込んでいる。


「待って。ちょっと見て、ほら」


 優斗が箸を止め、テレビの方をあごでしゃくる。壁に掛けられた古めかしい小さなテレビには、報道番組のアナウンサーが、緊張気味の声で語りかけていた。


「昨年、クレジットカードの不正利用による被害総額は約555億円にのぼり、そのうち92.5%が『番号の盗用』によるものでした」


 1997年に統計が始まって以来、最悪の数字だという。画面には粗いドットのグラフと、見覚えのあるクレジットカードの写真が数枚並び、解説テロップがじわじわと流れていく。


「またか。カードばっかり狙われて……」


「でも最近はそれだけじゃないんだよ。マイナンバーカードも危ないって」


 圭子が首をかしげる。


「えっ、あれってただの身分証でしょ?」


「そう思ってる人、多いけど。あれは、口座とか、保険証とか、いろんな情報がひもづいてるから。ハッカーからしたら宝の山だよ」


 その言葉を聞いて、圭子は思い出したようにバッグを開けた。財布を取り出し、中を覗く。


「あれ……あんた、カードってこんな風に財布に入れてたらまずい?」


「えっ? 見せて。……マジで? それ、ICチップ読み取られたらアウトだよ。今どきのスキマーって、カバンの中でも通るって噂だし」


 ブッとほのかに震えたスマートフォン。通知の文言を目にした圭子の顔から、血の気がすっと引いていった。


「な、何これ……『丸菱銀行よりお知らせ。残高が異常に減少しました』って……ちょっと、見てよ、優斗!」


 スマホを覗き込んだ優斗の眉間がピクリと動いた。


「これ……引き出された? いや、電子送金か……。やられてる。これ、完全にやられてる」


 定食屋の湯気の向こう側で、現実味のない恐怖がふたりを覆った。圭子の口座からは、すでに数十万円が引き出されていた。調べるうちに、第三者によって不正にマイナンバーカードを使われていたことが判明する。


「俺、家に帰ったら、自分の資産も確認しとくわ。……最近、証券口座の動きが、ちょっとおかしい気がしてたんだよな」


 それから、二日後。優斗の嫌な予感は、残酷なまでに的中することになる。


 彼がオンラインで取引している証券口座には、まったく覚えのない銘柄が大量に購入されていた。しかもそれは、業績が急落している某新興企業の株だった。


 取引履歴を追うと、深夜帯に不自然な指値注文が何件も連続で入っている。まさかと思いログを詳しく調べた優斗は、登録アドレスが一時的に書き換えられていた痕跡を発見した。


「まさか、ワンタイムパスワードも突破されるなんて……」


 優斗はふと、母の言葉を思い出した。


「自分なんかが狙われるなんて、思わなかったって……」


 その瞬間、はっきりと悟った。ハッカーは『弱いところ』を狙ってくる。高齢者であろうと、情報を甘く見ていた自分であろうと関係ないのだ。


 誰でも、いつでも、狙われる時代になったのだ。


 後日、母とともに被害届を出し、金融機関への対応が始まった。だが、銀行も証券会社も、補償にはどこか及び腰だった。失われた金は、すぐには戻ってこない。優斗も、圭子も、現実感のない喪失を抱えながら、ふたたび定食屋の席にいた。


「……警察に言っても、完全には防げないらしいのよ」


「うん、結局は自分で守るしかないんだよ。母さん、これからはマイナンバーカードとスマホ、ちゃんと金属ケースに入れてね」


「そんなの、あんたが買ってくれたら、考えるわ」


 圭子は笑った。けれどその目元には、わずかながらも警戒の色が残っていた。


 店内のテレビは、次の「誰か」の被害を報じていた。終わらない、どこかの物語の続きを告げるように――。


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