悠々

「どうした、お嬢ちゃん? 怖がんなくても、いいんだぞ?」

「……か」


 悠理は優しそうに語りかけながら口を開き、尖った歯の奥から先端の割れた舌を覗かせた。そうしてゆっくりと近付いてくる悠理に声を詰まらせたアゲハは、唇をわなわな震わせている。

 それでも意を決して息を吸い、声を発した。


「か、かっこいい~!」

「え?」


 きらきらと輝く目から尊敬の眼差しが向けられ、悠理の口からは頑張って張っていた気が漏れるような声が出た。


「その口! 舌! 髪の毛も素敵! もしかして……炎とか吐けちゃう!?」

「ほ、炎!? あのなあ」


 アゲハは悠理の容姿に興味津々で近付き、腰に手を回してその顔を見上げてくる。

 全く臆せずに抱き着いてきたアゲハに困惑する悠理へ、ぱたぱたと白衣の埃をはたきながら近付いてきたシオが、隣で同じように顔を上げた。


「悠理、ごめん。驚かせて。けど、逃げたんじゃなくて、これは」

「分かってるって、最初から。怒ってなんかないよ。ちょっと言ってみたかったんだよ! ああいう台詞。もう」


 悠理はしゃがんで、アゲハと目線を合わせる。


「なあ、お嬢ちゃんの名前は?」

「私? アゲハだよ!」

「アゲハ……あっはっは! そうか、良い名前じゃないか」


 アゲハの名乗りを聞いた悠理は、首から提げたカードホルダーを胸ポケットから取り出す。そこには細かく刻まれたバーコードや文字列、そして顔写真と共に『LiFEライフ』というロゴが描かれていた。


「あたしは冴木さえき 悠理。ここで、『遺伝子操作による形成術及び整形術の確立』という研究をしてる。簡単に言えば、手術なしで好きな身体になれる研究、ってとこかな?」


 立ち上がった悠理は壁のスイッチに手を伸ばし、部屋の照明を点ける。灰色の瞳が持つ瞳孔は光を受け、縦長に縮小した。

 まるで捕食者のような鋭い目となったそれを見て、しかしアゲハはまるで恐れてる様子を見せずに目の輝きを増すばかりで、シオもまた見慣れた風にその顔を眺めていた。


「なんか、嬉しいのか調子が狂うのか分かんないな、こりゃ。なあアゲハちゃん、ここでしか見られない最新の研究成果があるんだけど……特別に見られるとしたら、どう? 見たい?」

「見たい見たーい!」

「よーし! 隣の部屋にあるやつ、見てって良いぞ! あ、もちろん散らかすのは止めてなー」




 悠理が現れたドアの奥へと、アゲハは興味津々で駆け込んでいった。その様子をよそに、シオは静かに悠理の元へ近付く。無表情な様子は相も変わらずに見えるが、悠理はシオを見て少し訝しげな表情になった。




「悠理……」

「シオ? なんか、いつもより元気なくないか。別に、あたしは怒ってなんかないから……」

「ごめん……気分、悪くて。吐きたい」


 白衣の胸元辺りを握り締めながらたどたどしく言ったシオの言葉に、悠理は全てを察した。


「あ、まさか! おい、ちょっと待ってな」


 慌ててビニール袋を被せたゴミ箱を持ってきた悠理は、シオに膝をつかせた。傍らに寄り添い、その背中をさする。


「ほら、もう我慢すんな」

「うん。ごほ、ぅおえ……」


 苦し気な声と共に、固いチョーカーの上で素肌を晒すシオの喉が、ぼこりと膨らんだ。逆流するかのようにせり上がっていき、息を詰まらせながら開かれた口から、吐き出される。

 ビニール袋が受け止める音は一度ではなく、何度か続いた。


「どう、落ち着いた?」

「……ありがと」


 シオが大きく息をつきながら顔を上げる。その顔色は幾分か良くなっているように、悠理には見えた。


「シオがパンを食うなんて。一体どういう風の吹き回しだ?」


 悠理はシオの頭にそっと手を置いた。シオは静かに目を閉じ、それを受け入れる。


「これ、アゲハの分。けど、貰って。断れなくて」

「それで食ったのか? 優しいな、ほんと。"パパ"にも見習ってほしいくらいだ」

「パパは、優しくない?」

「どうだか。少なくとも、シオよりはひねくれ者だな」


 悠理はシオの髪を整えるように、その頭を撫でる。穏やかな感触が、気分の悪さを和らげてくれているような気がした。


「さ、ちょっとばかしあの子と遊んでくるから。無理せずゆっくりしときな。……あ、おい! それは触んなよ!」


 悠理はシオに語りかけたかと思うと、立ち上がりながら隣の部屋へと声を上げた。ドアの向こうから、けらけら笑い声が聞こえてくる。


「えー! じゃあ代わりに、悠理お姉ちゃんのお顔、触らせて!」

「どんな交渉だ!」




 悠理が早足で隣の部屋へと歩いていく背中を眺めながら、シオは近くにあった丸椅子を引っ張り、へたりと座る。




 開けっ放しのドア越しに、シオは悠理とアゲハの様子を眺める。

 両手でそれぞれ輪っかを作り、縦に並べたその中にアゲハを収めてみようとする。ピントが合わずに上手く行かず、片目を閉じてやっと捉える。覗いてみる。お手製の黒い望遠鏡の中で、アゲハの笑う横顔が観測される。

 他人のポジティブな感情を見て、自分の感情が穏やかになるのを感じる。

 

 ふと、シオは考えを巡らせる余裕ができた。


 ――結局、アゲハが怯えたあれは何だったのだろう?


 しばらく愛用していた望遠鏡を解体して、手を握ったり開いたりを繰り返しながら、開いたままの天井を見る。ここ……LiFEについて、未だに知らない事ばかりだが、それなりに厳重な施設らしい事は、"パパ"から聞いた記憶があった。

 普通、ここの人間が通る道ではない。ましてや外部からの侵入者でもない。

 ならば、一体?


「さあて、そろそろ部屋に戻る時間だ」

「えー、もう!」


 アゲハと悠理が手を繋いで、シオのいる部屋へと戻ってきた。

 しばらく考え込んでいたような、それともただ少しだけぼうっとしていたような。シオは自分がどれくらいここに座っていたのか、つい忘れてしまっていた。


「わがまま言うなよ。さ、楽しかったか?」

「楽しかった! あ、でもお部屋って、どこだっけ?」

「ちゃんとあたしが道案内してやるから、安心しな。それと……」


 悠理は手に持ったビニール袋をシオに渡してきた。中を覗くと、銀色をしたパウチ容器が幾つも詰め込まれている。


「パンよりは受け入れやすいだろ。アゲハちゃんと一緒に飯を食いたくなったら、一旦それで我慢してくれな」

「うん。ありがとう」


 悠理が空いてるもう片方の手を差し出すと、シオはそれを握り返す。左右それぞれで2人と手を繋ぎながら、悠理は部屋を後にしていく。


「じゃ、行くか。戻ったらシオもアゲハもいい子にしといてくれな。夜になったら、良い所に連れてってやるからさ!」




 3人の後ろ、開いたままのダクト点検口の奥で物音がしたが、誰の耳にも届かずに消えた。

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マッドサイエンティストの仔 ナギシュータ @nagisyuta

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