生住異滅
@dalumax
第2話 覚醒
2 覚醒
池のある大きな屋敷に生まれ、家族や使用人取引先からも愛された油屋小太郎。
父親の油屋太郎左衛門は一代で江戸有数な油屋にした苦労人である。田んぼの畦道に許可を得て菜の花を植え、絞って油をつくり、引き売りで小銭を貯めて、店を出し、高品質低価格が評判を呼んで繁盛し大店にしたのである。一粒種の小太郎は大事にされボンボンに育った。小太郎が18歳のとき、父母は隠居屋に移り、小太郎に家督を譲った。商売ができるか危惧したのであるが、実質しっかりした番頭に店を任せたのであった。嫁もしっかりものの評判という株仲間の紹介で、もたせたのであるが。それを良いことに親に隠れて遊行三昧。親が亡くなると、ますます遊びが募り。しっかりものの番頭も愛想をつかして独立してしまった。そして嫁までも、子供を連れて出ていってしまったのである。それからは、誰にも気兼ねなく、朝から宴会の始末。店は休業状態、蓄財を遣う日々であった。
ある朝、小太郎は、夢を見てうなされて眼が覚めた。何故か酒の海で酔っぱらって溺れそうになった。寝床の中から座敷を見た。昨夜の宴会の跡、後始末の残った残滓がこぼれていた。百目蝋燭の蝋がこびりついている。行燈が傾いている。残り香、生臭いすえた匂い。私はこんなことを続けて良いのだろうか。自問した。そして、開眼、覚醒した。悟ったのである。障子を開けて、雨戸を開けると、朝日とともに、すがすがしい空気が部屋に流れた。下駄をつっかけて庭の井戸に向かった。つるべの桶になみなみと汲んで、頭から水を被った。冷たい。身体がシャンとした。そこへ、女中頭のお松が手拭いをもってきた。
「旦那様、今朝は、お早いことですね」
「うむ、朝はいいな。こんなにすがすがしいのは初めてだな」
「朝はいつもそうでございます」
「私は、悟った」
「はあ」
「これからは朝も、昼も、夜の宴会も、やめますぞ」
「お気が変わりましたか」
「いつもの常連客に手代の信介さんから通知してもらってね」
「承知しました」
「そして、信介さんに残りの油を安値でも良いから売っておしまい。空にするんだよ」
「はい」
「酒代、料理屋、小間物屋、つけ、借金があったら、全部精算しておくれ」
「はい」
「それから、旅に出ますぞ」
「旅に」
「伊勢参りだよ、それから、骨董屋の百問屋さんを呼んでおくれ」
邸宅になじみの骨董屋の百問屋が来た。
「旦那様、いつも御贔屓にありがとうございます。今日はどんな御用で、最近旦那様に気に入られる逸品が入りました」
「今日は買う話でない。売る話だよ」
「売るとは」
「そう、この度、伊勢参りに行こうと思ってな。その路銀にしようと思ってな」
「伊勢参りでございますか。良いですね」
「長旅に出るので、使用人にも閑を出そうと思ってな、その退職金にも充てようと思いましてな」
「左様で どの逸品でしょうか」
「全部よ」
「全部 ほう、それは、大事で」と骨董屋は絶句した。
「出来るだけ高く買っておくれな」
「それは、日頃御贔屓にして頂いた旦那さまでございますから、できるだけ頑張ってお引き取りさせて頂きます 惜しいですな 折角先代様がお集めなさった逸品ぞろい」
「ありがとう」
「では、うちの番頭さんも呼んで、鑑定して、お値段を決めさせて頂きましょう」
「出入りの業者さんにも、それなりのお礼をしようと思いましてな」
「良いお心掛けでございます」
「立つ鳥跡を濁さずとな」
「ごもっともで」
さしもの、先代が残した蓄財も底をつき、最後まで残った使用人にひまを出し、書画骨董を売り払い、金子をもって旅に出ようとするのであった。伊勢参りの旅である。
書画骨董の売却は、思った以上に金子になり、使用人へのお礼、出入り業者への返済とお礼、路銀の他は両替屋に預けて心置きなく旅に出ることが出来たのであった。
「みんな良く仕えてくれた、有難う、家の中のものは、持って帰っていいよ。といっても骨董屋が引き取ってくれない物ばかりで恐縮だが、鍋釜柄杓衣類も買えばそれなりに銭の出ることになるでな。お松さん皆さんに公平平等にね。最後のお別れ会、宴会は、存分にやっておくれ、いつも、客人の宴会の支度で骨が折れたことだから、皆さんが主役の宴会をね、それから戸締りして出ておくれ」
「お心遣い、ありがとうございます」女中頭のお松が皆を代表して、お礼を言った。
「お松さんは、これからどうするの」
「はい旦那様の居ない江戸で暮らすのは何ですから、田舎へ帰ろうと思っています」
「そうか、お松さんは、たしか、信州でしたね」
「はい、老いた両親が小間物屋を営んでおりますので、これから、親孝行の真似事をしたいと思いまして。信介さんも一緒に行ってくれます」
「許嫁だったね、私が仲人をしてあげたいと思っていたが」
「有難いお言葉で、旦那様のお屋敷での御奉公が信介さんとの縁でございますので」
「それは良かった。私も心置きなく旅に出ていけると言うものですよ」
「お気をつけて」
「みんなもな」
気軽な旅に希望を募らせたのであった。慌てることもない、のんびりした一人旅である。
旅はいいな、途中茶屋へ、茶を飲み、行き来の旅人をぼんやり見ている。
草鞋の紐をきつく締め、茶代を払い、街道を歩く。
小田原のかまぼこを食べ、宿泊し、次の宿では何を食べようか。
浜松のウナギでしょう。海はいい、山もいい、田畑も、草木も、小太郎を癒してくれる。
路銀はたっぷりある。楽しい旅、気楽な旅である。旅籠に入った。
「お客様、お疲れでした。足をすすぎましょう」
「ありがとう、明日は早いので、草鞋を新しくしたい」
「承知しました。旅の安全は足元が大切で」
「そうだね」
「良い、おみ足ですね。たっぷりと滋養がいきわたっていますね。毎日美味しい物、食されておりましたね。ひとつだけ、お客様の足を触りますと気がかりなことが」
「どうした」
「肝の臓が弱っていますな」
「解りますか、足を触ってみて」
「はい、永年、お客様の足をすすいでおりますので」
「なるほど、ちょっと酒の飲み過ぎかな」
「そうでございますな、お酒は、永く楽しむもの、滴量が良いかと」
「そうですな、今晩も、熱燗を適量頼みますよ。それとウナギもね」
「畏まりました、ウナギも適量に致しますか、というところでございますが、あいにくと、ありません。代わりに鰯の素干しがあります。天日干しで滋養がぎゅっと詰まった逸品で、お酒のつまみに最高でございます」
「わっはっはっはっ、旨そうだな、何事も適量適量」
「お客様、触ってみましたところ、肝の臓の他は至って健康でございます」
「良かった」
「はい、足裏が柔らかく、健康そのものでございます。この足裏を強く推しますと、大概の方は痛くて悲鳴を上げるのでございます。お客様は平気で気持ちよさそうな、お顔をしています。江戸のお客様」
「江戸と解りますか」
「はい、脛の張り具合、足裏の柔らかさ、物腰の柔らかさ、江戸の大家のご主人とお見受けしました」
「なるほど」
「使用人や職人の足は、固いのでございますが、お客様の足は、優雅でございます。普段からの物腰の柔らかさを拝察いたします」
「なるほど」
「長々とすいません。お風呂も沸いておりますので、どうぞ、お入り下さいませ」
「有難う」
掃除の行き届き、庭の見える、一番良い部屋に通されたのであった。宿主の慧眼さには恐れ入ったのであった。
早朝は、新しくした草鞋の紐をしっかりと締めて、宿主にお礼を言って旅立ったのであった。
遊び人の心得は、どんなに遊び心があるとしても、人に迷惑をかけてはいけない、危険を冒してはならない、善根功徳が大切。その3か条が遊び人の心得であることを認識していた。お世辞、追従、同調は、持っているお金に対してであって、自分に対してではないことを戒めているのである。お金が無くなれば、誰も相手にしてくれないのである。そういうわけで、宿の長居は、お掃除の邪魔、陽のくれる前に次の宿場町へ。健脚は大切。ルンルン、鼻歌を歌う。快適、快調である。
旅の楽しみのひとつは茶屋での休息、疲れた身体には、団子も渋茶も旨い。それと、ふれあいだ。
「わっはっはっはっ」「ほっほっほっ」「がっはっはっはっ」袖触れ合うも何かの縁、旅人達は、陽気なおじさんの周りに茶飲み話を聞いている。
「空を見ろ、青空にぽっかり雲が浮かんでらあ」
「いい眺めだ」
「向こうに富士の山が見える」
「いい景色だ」
「いつだったかな、こんな陽気な日だったな。ぼんやり空を見ているとな、驚くなかれ、まあ茶を一服させてくれ、渋茶はいい、旨い」
「驚くなかれ、がどうした」みんな興味津々。
「ぽっかり浮かんだ雲がさ、近づいて来たんだと思いねえ」
「ほんとうかい」
「ほんとうだ、その雲にな、仙人と思しき人が乗っていたのだ」
「何で仙人と解るのか」
「白髪でな、白衣を着て、茶色の杖を付いていたな、あれは仙人だ。間違いない」
「ほんとうか」
「その杖をわしの前に突き出してな、これにつかまって乗れという」
「へえー」
「恐る恐る乗ったよ。雲の上にな」
「へえー」
「中は、上等な綿布団のように、ふかふかだったな」
「へー」
「それでな、仙人とわしを乗せた雲は上空高く飛んだ」
「へー」
「トンビもカラスも雀ちゃん、も驚いていたな、ちっちっちっち、なんだ、なんだとな」
「そうだろう」
「富士の山の頂上付近は、まだ雪だ、丘を越え野原を横切り、美しい川に差し掛かったな、薫風がまた好い、せせらぎの音が聞こえてくるな」
「いいな」
「下界を見るとだな、川だ。ゆうゆう泰然と流れていたな。おや、川べりに女だ」
「うん」
「女は、赤裳のすそをまくって洗濯していた。色白の太ももをあらわにしている」
「いい眺めだ」
「わしは、ふと、その色気に参ったな、まだ修行が足らん、それで」
「それでどうした」
「下界へ真っ逆さまに落ちた」
「ざまあみろ」
「そこで、目が覚めた、夢だった」
「なあんだ」
「お日様が高いうちに次の宿場に着かなければならない」
「道草食ったな」「まったくだ」「まあいいか」「茶代ここに置くよ」
それぞれが、茶店をあとにしたのであった。
「旅人さん」小太郎を呼び止める声。
うしろから声がした。
小柄な人の良さそうな芸人風の中年男がニコニコして声をかけてきた。
「何ですかね」
「荷物の紐が外れていますよ。落としたら大変」
「ありがとうございます」
「おひとりの旅ですか」
「はい伊勢参りです」
「江戸の方とお見受けしましたが、私も神田神保町で小間物屋をしておりまして、上方へ行く途中です」
「そうですか」
「上方には、珍しいものがあるそうなので、仕入に行こうと思いましてな」
「商売上手ですね」
「紀伊国屋ほどではありませんが、あの、みかん船、相当儲かったそうですな、我々には縁遠い話ですがね」
「頑張りなさい」
「ありがとうございます、旅は道連れ、次の宿場まで、ご一緒下さいな」
「いいですよ」
「こうして、大の男が二人連れでは、追剥も雲助も寄ってこないでしょう」
「わっはっはっはっ」
「で、旅籠ですか、木賃宿ですか」
「旅籠に泊まろうと思いまして」
「そりゃいい、いちいち、木賃宿で飯の支度では疲れちゃいますからね」
男は、饒舌だった。宿は、相部屋。
「旅の人、おっと、お名前を聞くの忘れました、私は、神田の伝八と申してな、風呂へ行ってきます。あっしの荷物は大したもの入っていません。ちょっとした仕入れの資金だけで」
「油屋小太郎です。私は後から入ります」
「ほう、お大尽ですな」
「昔の話です。今は廃業してこうして旅ガラスです」
「人品骨柄、申し分ありませんな」
「いやいや」
「客人、いい風呂でしたよ。風呂は旅の楽しみのひとつですな」
「じゃあ、私も、風呂へいってきます」
「おう、膳が来てますな、燗徳利に鰯の素干し焼き、良いですな、先に酒やっていますよ。お酒どうです」
「ありがとうございます。お先にどうぞ」
「酒は絶っていますが、飲みねえ食いねえで、上方行くまでに、すっからかんになっては、お終いよと女房にこんこんと言い含められてきましたが、まあ、今晩は特別、良いでしょう」
翌朝、相部屋の伝八は居なかった。宿によると急ぐのでと早朝暗い家から出発したと言う。
小太郎は次の宿場町で、宿に着くと番屋の役人から声がかかった。
「何の御用でしょう」
「番屋にくればわかります」
番屋には伝八がお縄になっていた。
「伝八さん」 伝八は上目遣いに小太郎を見て頭を下げた。
「旅人さん、こいつは、伝八なんて名前ではありません。雲太郎という、この街道のちょい悪おとこです」
「ほう」
「こいつが一分金5枚持っていたので、尋問した処、旅人さんの財布から盗んだと申します」
「気が付きませんでした」
「そこがこいつの悪賢い処でして、旅人さんの財布から、目立たぬように少しだけ盗むんです」
「なるほど」
「で、被害届出して下さい ここに書いて下さい。こいつを牢屋にぶち込んでおきますから」
「いや、これから商いにいくのでしょうから、私が差し上げたことにして下さい」
「商いなんて嘘っぱち、神田の小間物屋なんか出まかせですよ。この辺を縄張りにして、鴨を探している、ちょい悪男でして」
「まあ、伝八さんじゃなかった。雲さん、これから真人間になりなさい。わたしから言うのもなんですが」小太郎は、過去の遊蕩三昧が頭によぎった。
「良いんですかい」と番屋の役人。
「はい、それじゃあ失礼します」
雲はおいおい泣いている。「こんなに人情かけられたのは初めてだから」と雲は言った。
これも、雲の演技か。
「まあいいか、騙すより騙された方が良い」と小太郎は、呑気なことを思っているのだ。
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