末路

ぶざますぎる

末路

 君は、左手の親指と人差し指で作業着の左襟をいじくりながら、深呼吸をする。

 吸ってインヘイル吐くエクスヘイル

 倉庫の扉から顔を出し、辺りへ素早く目を配る。誰も居ないのを確かめてから表へ出、急いで施錠。駐車場を横切り、翡翠ひすい色の工具箱マックパックを抱えて作業車バンまで駛走しそうす。乗り込む瞬間に不図、空を仰ぐ。不香花しらゆきめいた雲の靉靆あいたいたる穹窿てんくうに、日輪が弱弱しく光る。車に乗り込む。

 深呼吸。吸って、吐く。

 助手席に工具箱を置く。シートベルトをする。エンジンを掛ける。不満げに車が唸る。アクセルを踏む。

 少しく車を走らせると、君は街を抜ける。後写鏡バックミラーうち街衢まちなみは徐徐と小さくなり、ハテ消える。辺りを平坦な草原に取り囲まれた土瀝青アスファルト道が、地平線まで一直線に伸びる。四方の眺望ながめを遮るものは何もない。窓外を後ろへ後ろへ、景色が急湍きゅうたんのように君から逃げ去る。


 おまえは何をそんなに怯えてるんだ。

 先だって、君は年下の上司から訊かれた。

 ボクですかい?

 おめえだよ。

 ボクが怯えてること?

 そうだっつってんだろ!上司は殺気立っていた。いつも挙動不審なんだよ。

 全部でさあ。君は返した。

 は?

 全部に怯えてるんでさあ。

 なにがだよ。

 ボクが怯えてるって話でさあね。

 君は深呼吸した。吸って、吐く。

 全部?

 そうです全部。

 なんでよ?

 それが判れば苦労しませんや。

 須臾しゅゆかん、年下の上司は値踏みするような目で君を見た。病院行けよ。吐き捨てるような口吻で言った。気持ちわりいから。


 車は走り続ける。車の揺れに合わせ、助手席に置いた工具箱の裡でカチャカチャと音が立つ。車窓に縁どられた大地と天は借景の如く幽邃で、目路めじには、すれ違う人も車もない。広渺たる情景に君はひとりポツン、アイソレイテッド。

 君は不図、てめえは本来居るべきところに居ないのだ、と思う。てめえに向けられた、世界からの底意地の悪い視線を感ずる。カタリ派も斯くや。作業着を纏った躰が緊張する。

 深呼吸する。吸って、吐く。


 なあオッサン、あんたいっつもくまがやばいけど、ちゃんと寝てんの?

 君は以前、二回り若い同僚に問われた。

 え?

 寝てねえのかって訊いてんだよ。

 ボクが?

 同僚は舌打ちを放った。

 そうだよ。なにもしてねえのにビクビクすんじゃねえよ。とっとと答えろや。

 寝れてねえです。

 なんでよ。

 ボクは土性骨どしょうぼね不眠体質インソムニアってのもあるんですが毎度悪夢を見るもんで怖くて眠れねえし仮令たといおねんねできたとしても悪夢で直ぐ目覚めちまってそれっきり二度寝も叶わねえんで昨晩もそれで起きたっきりボロアパートの虚室にひとり蛍光灯のばくとした薄灰色のもと金ピースカマしながらボヘミヤのクリスタルと一緒に蒲団の上へ座り込んで腐れ野菜のこうこを肴に毒液まがいの安焼酎かっ喰らいながらヨナも斯くやと懊悩してるうち気づけば朝ってワケでさあ。

 君は捲し立てた。

 同僚は眉を顰めながら君を見、一拍黙った。それからまた、口を開いた。

 どんな夢を見たんだよ。

 え?

 昨日はどんな夢見たかって訊いてんだよ、馬鹿が!

 二回り若い同僚は胴間声で怒鳴った。

 君は深呼吸してから、夢の内容を話した。


 山眠る冬の夜。えらい寒い。雲ひとつない空に、舷窓の如き丸い銀蟾ルナが浮かぶ。四囲まわりには野っ原が広がって、背高の草が夜風に揺れる。外灯も家もない。人間の灯りがないから星も目立つ。草、草、草、月、月、月、星、星、星、風、風、風、そればかりで。

 君は激しく肩で息をする。駛走のハテ、躰は疲弊している。呼吸が整わない。脚が顫える。喘ぎながら膝に手をつく。心臓が激しく鼓動する。老耄ろうもう甚だ。年古りて相当ウロが来ている。大きく鼻で息を吸う。夜露に濡れた土の匂い。鼻腔から入った冷気が肺を穿却せんきゃくする。口中に血の味が広がる。息を吐く。白い吐息は須臾しゅゆかん、中空を漂ってから夜に滲む。

 顔を上げる。四顧きょろきょろする。

 君は何かを見失っている。

 ████████!!!

 君は號呼ウェイリングする。

 離れたところに何かが見える。

 少女。長い橙色の髪、鳶色の瞳、陶器めいた白い肌、鼻周りのそばかす、薄い唇、一矢まとわぬ風態なり、裸、乳房のふくらみ。両手を下げた直立の姿勢で、草上の宙を滑るように移動している。髪は蝋の如く固まりなびかず、非風非幡ひふうひばんか、君のうちだけが無情の颶風ぐふうに掻き散らされて、乱れる。

 ████████!!!君は、またぞろ叫ぶ。

 併し、████████は無表情に往く。君に構わず。人形の如く。

 蹤跡おいつかんと、君は脚を動かそうとするが、歩履蹣跚フラフラとして覚束無い。

 ████████は漸漸ゆっくりと遠のく。ううう。君は唸る。距離が拡がる。ううう。双眸そうぼうに涙が滲む。ううう。████████の姿が小さくなるペルデンドシ

 ████████が遠ざかる。████████が点になる。████████が消える。

 場面が変わる。

 黒暗淵やみわだ

 眼をかっ開いているはずだが何も見えず、目路には深深たる黒一色。

 世界全体が葬衣もふくで覆われたような晦冥テネブレ

 ████████はてめえの呼吸を意識できる。

 君は████████になっている。

 息を吸う。鼻腔が拡がる。生暖かい空気が身のうちを満たす。吐く。口から息が旅立つ。空間識が失われている。てめえがしているのか立っているのか皆目見当がつかず、かてて加えて躰の自由も効かない。足趾あしのゆび一本、動かすことすら能わぬ。声も出ない。黄泉の如き暗黒の裡、████████にできることといえばじっと待つことだけで。

 何を?

 刃物で暗幕を裁断したように、黒の世界へ白い縦線ラインが入る。その間隙あいだからぬっと二本の腕が突き出される。黄ばんだ皮膚、垢でずず黒く汚れた爪、指は芋虫の如く太い。腕は闇の亀裂を拡げる。徐徐と闖入者の姿が顕わになる。

 太鼓腹の大兵肥満、毛むくじゃらの裸体。男。雌雄の区別がつくのは、股座に勃起した魔羅マラが見えるからで。男は悠揚迫らぬ足取りで████████に近づく。男ではなく、雄と表するのが適当やもしれぬ。それは人間の躰に豚の頭を載せている。豚の両眼窩がんかからはナメクジの触覚のように男根が何本も突き出て居、その一本一本が屹立エレクトし、触手よろしく蠢いている。

 安心しろよ、直ぐに、いい思いをさせてやるからよ。雄が言う。

 饐えた臭いが████████の鼻を刺す。表面へ黒紫の血管を走らせ隆隆といきり立った陰茎が████████の下腹部に押し当てられる。やはり████████の躰は自由が効かない。全身を纏縛しばられたように。

 天にも昇る気持ちにさせてやる、思いっきり狂わせてやるよ。

 ████████の膣にペニスが挿し込まれる。それが合図だったかの如く、雄の眼窩から生え出ている男根が伸長しだす。一本一本が████████の裡へと傍若無人ブルータルな侵入を始める。肛門と耳道が裂ける。下咽頭まで突き込まれたファルスは間断なく精液を放つ。亀頭で圧し潰された眼球が破裂する。両の眼窩へピストンが繰り返される。

 おいおい、おまえの股はビショビショだぜ、悦んでんだろ、うれしいんだろ、感じてるんだろ、こんなことされてんのに、とんだアバズレだな。

 雄の舌が████████の頬を舐め上げる。裡も外も雄の唾液と精液に塗れる。

 併し、████████には何もできない。

 ████████は君だった。

 おれの正体を教えてやるよ。雄が言う。おれは――

 喚叫して飛び起きる。

 汗みどろ。気息いきが乱れる。暗い部屋に吐息が白い。動悸が激しいアジタート。頭蓋まで心音が響く。壁掛け時計の夜光塗料が光る。深更2時過ぎ。呼吸が落ち着くのを待つ。掛け布団を剥ぐ。ベッドを降りて洗面所へ往く。灯りをつけて鏡に向かう。てめえがこっちを見返す。橙色の長髪は乱れている。まなじりが裂けんばかりに見開かれた目。鳶色の瞳は血走っている。上気の気配が残って顔は赤い。鼻周りのそばかすが目立つ。目を閉じる。

 深呼吸する。吸って、吐く。

 大丈夫、大丈夫。独りちる。

 吸って、吐く。

 大丈夫、大丈夫。

 再び目を開く。鏡裡きょうりには顎の細いてめえの顔がある。最前よりは落ち着いた少女の顔で。汗に濡れた寝間着を脱ぐ。薄い汗膜が肌を覆っている。タオルで躰を拭く。使ったタオルと寝間着を、ランドリーの底へビタつける。洗面所の灯りを消す。部屋に戻る。新しく寝間着を纏う。ベッドに潜ずり込む。目を瞑る。眠れそうにない。そのまま眠れずに眛爽まいそうを迎える。しかして████████は横臥おうがしたまま、窓外のしらしら明けを見つめている。

 これも夢。

 そこで目覚めた。涙が出ている。寝ながら泣いていたらしい。君は████████ではなかった。深更、安普請のボロアパートにひとり、夢想ゆめから帰還したばかりの中年ダッチマンが居た。

 深呼吸する。吸って、吐く。

 森閑しんとした孤室に闇が満ちる。

 君には闇の表情が見えた。歯を剥いて嗤っている。


 ややこしぶっちまいやしたがこんな塩梅でね。毎度似たりよったりの夢ばかし見ちまって困るんでさあ。君は言った。

 ストッキングを被せて引っ張ったかのように、同僚の満顔は引き攣っていた。

 ねえお願いですぼくを助けちゃくれませんか。君は懇求した。

 二回り若い同僚は何も言わずにそびらを向け、立ち去った。

 あの新入りジジイ、やっぱり気狂いだったぜ。後日、該同僚が他の社員との会話で、君へきこえよがしに、おらびあげていた。


 土性骨がグレハマにできているとでもいうのか、世には一定数、どうやっても社会に馴染むことができず、てめえにはどんな役割も居場所もあたえられることはない、という諦念をふとこりながら、一生を孤独と低迷の裡に終える人間が、雌雄今昔の別なく存在する。その事由は各各独自のものがあろうが、ハナ人生に向いていないという点は同じで。

 君自身、斯く手合いと類を同している。已往いおう、君はどこにも根をもつことができず、一所不住の生活を続けた。而して烏兎匆匆うとそうそうと馬齢は累なり、人生も落暉らっきの様相を呈し始めた頃、不図まわりを見てみれば、そこには何もなかった。希望を託する未来も、回顧ノスタルジーに値する過去もない。移ろう年華に足踏みを続け、君は人生を空費し、棒に振っていた。


 孤独とともに車は疾駆する。石でも踏んだか、がくんと車体が揺れる。助手席の工具箱が軽き跳躍をする。裂帛ひめいめいた風音かぜが車窓を叩きつける。がたがたと車体が鳴る。鉄の塊に突き破られた世界の怨嗟か、すべての音は車内に鬼哭啾啾きこくしゅうしゅうと響く。ハンドルを握る君の手に、力が入る。

 深呼吸する。吸って、吐く。

 君は不意に、後写鏡バックミラーに映った男と目が合う。短く刈った頭、幽鬼じみた青黒い肌、痩けた頬、落ち窪んだ眼窩、灰を塗ったような目元の隈。

 それは曩時むかしに死んだ君の父親のラツで。


 人間のように生きることはできないが、想い出は永遠に人間を覚えて居、人間が意識せずとも想い出が歴史を語り、それが人間へ吹き込まれ、想い出が生まれる。


 土建の社長をしていた父親は、乱暴な男だった。

 猖狂しょうきょう的な癇性の父親は二六時中、罵声を放ち、目に映るものすべてに暴力を揮った。よく犠牲になったのは会社の若いやら、愛人の女、妻――つまりは君の母親――そして君で。君は幼児より、さんざっぱら殴られ蹴られし、失神した状態で深更の屋外へ放置されたこともある。復、父親はたびたび紅灯の巷に出掛けては喧嘩を売り、堅気と悪筋の区別なく凄惨な危害を加えた。斯く牛頭馬頭ごずめずめいた獣心者が、囹圄れいごくびきもかけられず、娑婆でのうのうと暮らしていることが、君には不思議でならなかった。

 父親は君が中学生の時分に死んだ。

 ある日、君が学校から帰宅すると、全裸の母親が、居間の天井から逆さ吊りにされて死んでいた。左足首に結わえ付けたロープで吊られた母親は、両目を潰され、顔面の皮を剥がれていた。往時、妊娠していた母親の大きな孕み腹には、何十本もの刃物やっぱが突き立っていた。母親は因業いんごうな女だった。おまえもあの男とそっくりだ。おまえなんて生まれてこなければ。君は恒恒いつも、悪罵され、打ち打擲された。その母親の胎で、君は造られた。

 父親は、愛人の経営するスナックで発見された。床には愛人の死体が全裸で仰臥ぎょうがして居、愛人は母親と同じく面皮を剥がれ、双眸そうぼうにアイスピックを刺されていた。肉畜の如く縦に裂かれた腹からは、内臓が抉り出してあった。而して空洞からっぽになった腹の裡へ、やはり一糸纏わぬ風態なりをした父親が、頭を突っ込んで事切れていた。てめえの素首を掻き切り、愛人の腹の裡へ潜ずり込んだらしい。父親は母親の面皮を被り、愛人の面皮を胃の腑に収めていた。

 父親は射精していた。

 さきに、君は父親の使いで、愛人のスナックを訪うたことがある。短躯ではあるが肉置ししおき豊かな愛人は、全身から発するなまめきで、語らずともその履歴を呈していた。

 あの人、殴ったり首絞めたり好きだからねえ、交尾セックスの時とか。

 艶冶えんやな長い黒髪を揺らして、愛人は言った。その髪に、愛人の全魅力が蝟集いしゅうしていた。

 君は不意に、眼前の女を、そのアマを、雌を、攔腮らんさい劈面へきめんに拳してやりたい、頭皮ごと毟り取る勢いで、髪を引っ張ってやりたい、嬲り殺してやりたいと思った。

 愛人は玻璃はりの如き眼球で凝と見つめて来、君の手を愛撫した。

 あんた、お父さんとそっくりねえ。

 愛人の淫猥な吐息が、鼻孔に侵入した。

 

 女の目は血走っていた。

 

 君は親類縁者間をたらい回しにされ、ハテ遠縁の宅に引き取られた。


 爾来じらい、くたばった父親は帰天するでも堕獄するでもなく、依草附木えそうふぼくの悪霊として有漏路このよに居座った。地上へ稲妻のように落ちたサタンが大人しくしていなかったのと同じく、父親の悪霊も、さんざ災厄を振りまいた。父親はしばしば君に憑依し、狂悖暴戻きょうはいぼうれいをはたらいたので。

 幼時からの虐遇ゆえか土性骨が臆病おびんたにできている君は、平生こそ小心翼翼ビクビク鞠躬如シュリンクしているものの、不意の拍子で精神的に追い詰められたり鬱憤が嵩じたりすると、その隙を突いた父親の悪霊に狂疾めいた瞋恚いかりと、目路に入る人間すべてを嬲り殺しにしてやりたいという危険な衝動を惹起せしめられ、理非曲直を問わぬ暴力的な振舞いをしてしまうのだった。

 一度標付しるしづけした獲物を、悪霊は決して逃さない。コミュニケーションに於ける生来の絶望的な感覚の悪さルバートに加え、斯く悪障がたびたび顔を出したせいで已往、往く先先で人間関係をわやにした君は、いっかな社会に溶け込めぬまま、迷い羊を続けた。も舌も及ばぬ速さで過ぎる歳月を暴力と流失の裡に経て、気づけば君には暴行の前科が付いていた。

 どうで、てめえは余計者。ハナ江湖このよに居場所はないのだ。いっそのこと見込み薄の人生なぞ、ぶん投げてやると、君は開き直り、一時いっときは樹下石上におこも真似事パロディを決め込んだ。宿無しホームレスの君へ、世人の蔑視、罵りが沛雨ヘビーレインの如く降り注いだ。おまわり、木端こっぱ役人、悪たれガキから、さんざ足蹴にされた。おう、殺せ殺せ。君は思った。殺してくれ。命よ、おわれ。我生わがうまれし日はのろわれよ。命なぞ坤儀こんぎかび。長くとも百年そこらのかんを蠢き回り、ハテ四大分離ディゾルブ、どっとはらい。てめえの消滅に、誰も何の痛痒を感じない。百もしないワースレス塵。ぶざまに窮死しようと、げに悔いやあろうず。君は、エキンムも斯くやと通行人へ呪詛を吐き、てめえのかばねを、薄汚れた裏町の路傍に晒す心積もりで過ごした。

 併し、土性骨が半ちくにできている君には、一切放下なぞ土台、無理な話で。結句、世捨ても自殺もままならず、路上の起臥せいかつも直ぐ止めた。而して所期のぞみなき鈍色の毎日を未練たらしく、おめおめと生き延びてしまった。

 鶏肋けいろくの人生も、それだけでは腹を満たせぬ。生きるには食わねばならぬ。糊口にはあしがいる。最低食えるだけのたつきを転転と漂泊し、ハテ君は今の電気工事店へ職籍を置いたが、已往ずっとそうであったように、今般も人の群れに馴染むことができず、離存している。


 後写鏡バックミラーうちから父親が睨め付けてくる。

 君は深呼吸する。吸って、吐く。

 鏡裡の父親が、嘲るように同じことをする。

 吸って、吐く。

 君は、前腕が破裂せんばかりにハンドルを握り込む。前面窓フロントガラスのあなたに、定規で引いたような地平線が見える。道は直線に続く。善見城の天人どもが拵えた防護壁バリケードか、最前から灰色の密雲が空を満たし始めている。世界が昏くなる。窓外の景色は、悪意をもって騒ぎ立つ。

 深呼吸。吸って、吐く。

 どこに向かってんだっけな。君は独り言ちる。

 ふさわしい末路へだよ。

 男の声がする。

 君は深呼吸する。

 焼損した電線のような臭いがする。

 ふさわしい末路に向かってんだよ、みんな。再び声がする。

 助手席に置いた工具箱を、君は横目で見遣る。

 声は、工具箱の裡からしている。

 喋るものを容れた憶えはねえんだけどな。工具箱に向かって、君は言う。

 おれだよ、おれ。声が応える。

 誰でえ。

 アキラだよ、高校の時の。覚えてねえかな。


 君の高校生時分、同級生にアキラという生徒が居た。長身痩躯の男前、人好きのする奴で。併し君には、どこかかげがあるように見えた。

 ある日の放課後。茜色の西日が射し込む教室に君は、ぽつねんとしていた。机に頬杖をつき、窓外を見つめる。赤い世界。生徒たちの楽しげな会話。吹奏楽部の調子外れな演奏。運動部の掛け声。夕轟の裡、君はひとりだった。

 音を立てて教室の引き戸が開く。

 見るとアキラが立っていた。

 口元に微笑を浮かべながら、アキラは君の席に近づいた。

 君は、アキラと口を利いたことがなかった。

 おまえ、両親いないんだって?

 君の横に立ったアキラは、相変わらず笑みを湛えていた。

 は?

 父親の悪霊が君に近づく気配がした。

 おれも居ないんだよ、両親。アキラは言った。

 君は緘黙してアキラの顔を見据えた。

 親父は、おれが小学生の時分に、お袋のことっちまったんだ。

 アキラの眼球は、夜光貝の如き光輝ひかりを放っていた。

 セックスの最中に首絞めてたら死んじゃった。しかも、アナル・セックスだぜ。で、親父はお袋の死体を眺めながら、自分も首掻っ切って自殺したんだよ。ちなみに、お袋の肛門は裂けてて、直腸には親父の精液が残ってた。

 世界全体が森閑しんとした。生徒の声、吹奏楽部の音、運動部の掛け声。最前まで響いていた音がすべて消え、ただ夕陽だけが雄弁に沈黙を拡げた。

 今もな。アキラは寒山拾得かんざんじっとくの如く歯を剥き、愉快げに続けた。夜中に二人揃って出てきて、寝てるおれの真横で、同じこと繰り返してんだ。死んでるくせにな。馬鹿みたいだろ。

 腹の底から奔騰バーストするような勢いで、アキラは哄笑した。

 君にとり、その笑声には何か、惹かれるところがあった。

 君も顔を崩した。 

 爾来、君とアキラには同夏どうげじみた奇妙な親狎フレンドシップが結ばれ、日を経てるほどに情合いは深化した。思い返せば、母親の陰裂よりひり出されてからこのかた、君が他人の温もりを感じたのは、アキラとの交りの裡だけだった。

 アキラは学校をえずに自殺した。伯母夫婦の宅に居候していたアキラは、自室としてあたえられた6畳間で縊死いししたので。アキラは全裸で宙に揺れた。縫い合わされた両まぶた。有刺鉄線が巻き付けられた胴。司馬遷の如く根元から切断されたペニスと陰嚢たま。麺棒が突き込まれ肉の裂けた肛門。暗紫赤に変色した魔羅とふぐりは、血塗れの出刃に寄り添い、床に落ちていた。

 遺書らしきものが机上に見つかった。

 殷鑑不遠にたようなもの。すべて色情をいだきて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり。

 死にかけのミミズがのたくったような字で書かれていた。


 火葬場の空にアキラを見送ると立刻たちどころに学校から出外れた君は、勢いそのまま家を飛び出し、万年過客ダサーの労務者暮らしを始めた。


 悍馬かんばいななきめいた音を出しながら、車は駆走する。空を隅から隅まで、灰色の雲が塞いでいる。小刻みに車体が揺れる。君も、助手席の工具箱も揺れる。

 深呼吸する。

 あれから長い時間をけみしちまった。寂しかったぜ。ボクもくたびれた中年だ。君は言う。にしてもえらい惨烈ホリフィックな死に方したもんだね。

 あれが、おれにとってのふさわしい末路だったんだよ。声が応える。

 あれが?

 ああ。

 君はハンドルを握ったまま、凝と前を見つめる。左手の人差し指でハンドルを叩く。

 そもそもなんで自殺したんでい。君は訊く。

 心臓がうるさかったからザ・ハート・メイド・ア・ファス

 は?

 心拍ってのは不随意的だろ。自分じゃどうにもならない。

 はあ。

 神が動かしてんだよ。

 は?

 神つちちりを以て人を造り生氣いのちのいき其鼻そのはな嘘入ふきいれ給へり人即ち生靈いけるものとなりぬ。

 は?

 創世記だよ。2章7節。

 そういや聖書読みだったな。君は生前のアキラのことを想う。

 ルーアッハ。声が言う。

 は?

 ヘブル語だよ。聖霊、風、息、っていう意味を併有してるんだ。聖霊、つまり神だな。神は風であり息でもあるんだ。

 は?

 それと古代ヘブル語には時制がないんだぜ。

 は?父親の悪霊が君の肩に触れる。

 つまり創世記の世界には過去、今、未来っていう区別がそもそもないんだよ。まあ、神は時間なんて超越してるってことだろうな。存在するのは目の前の、これ、これ、これだけ。神のわざは絶え間なく更生され続けてるんだ。

 君は深呼吸する。

 何が言いてえんだい。吸って、吐く。旧友との久方ぶりの会話がこれかい?ええ?

 さっきの箇所に照らせばだな。声は歌のように縷縷るると続く。元始はじめ、人間に息を吹き込んだ神は、今も息を吹き込み続けてるんだよ。生きろ生きろってな。さっきの箇所をおれが私訳しようか。神は土の塵をもって人を造る。人に息を入れる。人は生きる。

 君は深呼吸する。吸って、吐く。

 おまえのその息も、神が今、入れてるものだよ。そして息自体が神でもある。

 父親の悪霊が君を捕らえる。

 いじゃこじゃうっさいんじゃ!ダボ!君は怒鳴る。おお?!いってえ何が言いてえんだい?!ああ?!インテリぶるな!おい!マスター・キートンごっこか?!しゃらくせえスノッブめ!おお?!この野郎!そもそもよお!勝手に自殺しやがって!ボクを置いてきぼりにしやがって!ずっと恨んでるんだからな!おお?!赦してねえんだからな!糞が!ぶち殺すぞ!

 もう死んでるよ。声が楽しげに言う。

 曇り空が少しく割れる。

 弱弱しく光明ひかりが射す。

 工具箱が鈍く光る。

 声が続ける。置いてきぼりと言えば、おまえ、倉庫の死体はどうすんだ?

 は?

 おまえが殺した二回り若い同僚と、年下の上司の死体だよ。あれはそのままか?

 君は、つと、首のへし折れた上司と、片耳を引き千切られ顔面の陥没した同僚が、倉庫の床に転がっている様を表象する。眼窩底がんかてい破砕シャタードにより位置のずれた眼球で、同僚は死魚の如く宙を見つめる。言われてみれば、殺したような気もする。いや、殺していないような気もする。

 深呼吸する。

 糞が!君は怒罵する。

 左手で思い切りハンドルを殴りつける。

 かしがましく警音クラクションが鳴る。

 深呼吸を繰り返す。

 アキラ。君は訊く。おめえは聖霊かいそれとも悪霊かい。

 それを決めるのは、おまえ自身だよ。おれは、どっちにでもなれる。

 曇り空の下、地平線はぼやけて見える。悪鬼の慟哭めいた車のエンジン音が、三千世界に響き渡る。

 際涯はてなき目路は、絶え間なく更生されている。

 目の前の、これ、これ、これ。

 今は転瞬にして、過去と未来へ変わる。

 いや、同時に、過去と今と未来がある。

 君は、これを見ながら過去これに居、未来これ揺曳ストレイしている。

 深呼吸する。吸って、吐く。

 ふさわしい末路とか言ってたな。君は言う。

 おう。

 へっ。君は嗤笑する。末路ねえ。どうでハテ待つのは永沈奈落ようちんならくの如きぶざまな末路エンドだ。テレーズ・デスケルウじゃねえけどさ。毎日が気鬱だよ。生きてたって苦しみが続くだけ。なら長っ尻してねえで疾っとと自殺したほうがマシだわな。そうすりゃ自他ともに損害ダメージが少ねえ。

 君は軽く頭を振る。

 深呼吸する。吸って、吐く。

 ボクは疲れたよ。ハナ生まれて来なけりゃよかったんだ。もう生きていたくねえ。

 深呼吸。吸って、吐く。

 投げやりになるなよ。声は言う。おれは、おまえに生きていてほしいよ。

 矢庭の慈誨じかいめいた言いに、君は、と胸を衝かれる。

 目が潤む。

 優しいこと言ってくれるじゃねえか。ありがてえな。古き友情のゆえかい。

 いや、違うザッツ・ノット・イット・アット・オール。声は否定する。おれが生きてほしいって言うのは、おまえに苦しんでほしいからだよ。おれはおまえが生きて苦しんでる姿を見るのが大好きなんだ。死んじまったら見れなくなるだろ。おまえの苦しむ姿が。だからさ、生きろよ。もっと苦しめ!頑張れ!苦しめ!足掻け!しぶとく生きろ!生きろ!生きろ!生きろ!

 

 声は、車内の空気が割れんばかりの大音声で、ゲラゲラと笑う。


生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ


 嘲りにも励ましにも聞こえる。実際は、どちらでもないのやもしれぬ。

 いずれにせよ、識ったことか。君は思う。

 深呼吸する。吸って、吐く。

 君は金切声を上げ、何度もハンドルを殴りつける。

 耳をろうさんばかりに警音が鳴り響く。

 思い切りアクセルを踏み込む。

 車の速度がとみに上がる。

 深呼吸する。

 吸って、吐く。

 而して驀地まっしぐらに進んでいる。

 

 どこに向かって?

 君は呟く。

 深呼吸する。吸って、吐く。

 どこに向かって?

 道は果てしなく伸びている。

 どこに向かって?

 

 大きく息を吸い込んでから、君は絶叫する。


 末路ゴール!!!


<了>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

末路 ぶざますぎる @buzamasugiru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画