末路
ぶざますぎる
末路
君は、左手の親指と人差し指で作業着の左襟を
倉庫の扉から顔を出し、辺りへ素早く目を配る。誰も居ないのを確かめてから表へ出、急いで施錠。駐車場を横切り、
深呼吸。吸って、吐く。
助手席に工具箱を置く。シートベルトをする。エンジンを掛ける。不満げに車が唸る。アクセルを踏む。
少しく車を走らせると、君は街を抜ける。
おまえは何をそんなに怯えてるんだ。
先だって、君は年下の上司から訊かれた。
ボクですかい?
おめえだよ。
ボクが怯えてること?
そうだっつってんだろ!上司は殺気立っていた。いつも挙動不審なんだよ。
全部でさあ。君は返した。
は?
全部に怯えてるんでさあ。
なにがだよ。
ボクが怯えてるって話でさあね。
君は深呼吸した。吸って、吐く。
全部?
そうです全部。
なんでよ?
それが判れば苦労しませんや。
車は走り続ける。車の揺れに合わせ、助手席に置いた工具箱の裡でカチャカチャと音が立つ。車窓に縁どられた大地と天は借景の如く幽邃で、
君は不図、てめえは本来居るべきところに居ないのだ、と思う。てめえに向けられた、世界からの底意地の悪い視線を感ずる。カタリ派も斯くや。作業着を纏った躰が緊張する。
深呼吸する。吸って、吐く。
なあオッサン、あんたいっつも
君は以前、二回り若い同僚に問われた。
え?
寝てねえのかって訊いてんだよ。
ボクが?
同僚は舌打ちを放った。
そうだよ。なにもしてねえのにビクビクすんじゃねえよ。とっとと答えろや。
寝れてねえです。
なんでよ。
ボクは
君は捲し立てた。
同僚は眉を顰めながら君を見、一拍黙った。それから
どんな夢を見たんだよ。
え?
昨日はどんな夢見たかって訊いてんだよ、馬鹿が!
二回り若い同僚は胴間声で怒鳴った。
君は深呼吸してから、夢の内容を話した。
山眠る冬の夜。えらい寒い。雲ひとつない空に、舷窓の如き丸い
君は激しく肩で息をする。駛走のハテ、躰は疲弊している。呼吸が整わない。脚が顫える。喘ぎながら膝に手をつく。心臓が激しく鼓動する。
顔を上げる。
君は何かを見失っている。
████████!!!
君は
離れたところに何かが見える。
少女。長い橙色の髪、鳶色の瞳、陶器めいた白い肌、鼻周りのそばかす、薄い唇、一矢まとわぬ
████████!!!君は、またぞろ叫ぶ。
併し、████████は無表情に往く。君に構わず。人形の如く。
████████は
████████が遠ざかる。████████が点になる。████████が消える。
場面が変わる。
眼をかっ開いているはずだが何も見えず、目路には深深たる黒一色。
世界全体が
████████はてめえの呼吸を意識できる。
君は████████になっている。
息を吸う。鼻腔が拡がる。生暖かい空気が身の
何を?
刃物で暗幕を裁断したように、黒の世界へ白い
太鼓腹の大兵肥満、毛むくじゃらの裸体。男。雌雄の区別がつくのは、股座に勃起した
安心しろよ、直ぐに、いい思いをさせてやるからよ。雄が言う。
饐えた臭いが████████の鼻を刺す。表面へ黒紫の血管を走らせ隆隆といきり立った陰茎が████████の下腹部に押し当てられる。やはり████████の躰は自由が効かない。全身を
天にも昇る気持ちにさせてやる、思いっきり狂わせてやるよ。
████████の膣にペニスが挿し込まれる。それが合図だったかの如く、雄の眼窩から生え出ている男根が伸長しだす。一本一本が████████の裡へと
おいおい、おまえの股はビショビショだぜ、悦んでんだろ、うれしいんだろ、感じてるんだろ、こんなことされてんのに、とんだアバズレだな。
雄の舌が████████の頬を舐め上げる。裡も外も雄の唾液と精液に塗れる。
併し、████████には何もできない。
████████は君だった。
おれの正体を教えてやるよ。雄が言う。おれは――
喚叫して飛び起きる。
汗みどろ。
深呼吸する。吸って、吐く。
大丈夫、大丈夫。独り
吸って、吐く。
大丈夫、大丈夫。
再び目を開く。
これも夢。
そこで目覚めた。涙が出ている。寝ながら泣いていたらしい。君は████████ではなかった。深更、安普請のボロアパートにひとり、
深呼吸する。吸って、吐く。
君には闇の表情が見えた。歯を剥いて嗤っている。
ややこしぶっちまいやしたがこんな塩梅でね。毎度似たりよったりの夢ばかし見ちまって困るんでさあ。君は言った。
ストッキングを被せて引っ張ったかのように、同僚の満顔は引き攣っていた。
ねえお願いですぼくを助けちゃくれませんか。君は懇求した。
二回り若い同僚は何も言わずに
あの新入りジジイ、やっぱり気狂いだったぜ。後日、該同僚が他の社員との会話で、君へ
土性骨がグレハマにできているとでもいうのか、世には一定数、どうやっても社会に馴染むことができず、てめえにはどんな役割も居場所も
君自身、斯く手合いと類を同している。
孤独とともに車は疾駆する。石でも踏んだか、がくんと車体が揺れる。助手席の工具箱が軽き跳躍をする。
深呼吸する。吸って、吐く。
君は不意に、
それは
人間のように生きることはできないが、想い出は永遠に人間を覚えて居、人間が意識せずとも想い出が歴史を語り、それが人間へ吹き込まれ、想い出が生まれる。
土建の社長をしていた父親は、乱暴な男だった。
父親は君が中学生の時分に死んだ。
ある日、君が学校から帰宅すると、全裸の母親が、居間の天井から逆さ吊りにされて死んでいた。左足首に結わえ付けたロープで吊られた母親は、両目を潰され、顔面の皮を剥がれていた。往時、妊娠していた母親の大きな孕み腹には、何十本もの
父親は、愛人の経営するスナックで発見された。床には愛人の死体が全裸で
父親は射精していた。
あの人、殴ったり首絞めたり好きだからねえ、
君は不意に、眼前の女を、そのアマを、雌を、
愛人は
あんた、お父さんとそっくりねえ。
愛人の淫猥な吐息が、鼻孔に侵入した。
女の目は血走っていた。
君は親類縁者間をたらい回しにされ、ハテ遠縁の宅に引き取られた。
幼時からの虐遇ゆえか土性骨が
一度
どうで、てめえは余計者。ハナ
併し、土性骨が半ちくにできている君には、一切放下なぞ土台、無理な話で。結句、世捨ても自殺もままならず、路上の
君は深呼吸する。吸って、吐く。
鏡裡の父親が、嘲るように同じことをする。
吸って、吐く。
君は、前腕が破裂せんばかりにハンドルを握り込む。
深呼吸。吸って、吐く。
どこに向かってんだっけな。君は独り言ちる。
ふさわしい末路へだよ。
男の声がする。
君は深呼吸する。
焼損した電線のような臭いがする。
ふさわしい末路に向かってんだよ、みんな。再び声がする。
助手席に置いた工具箱を、君は横目で見遣る。
声は、工具箱の裡からしている。
喋るものを容れた憶えはねえんだけどな。工具箱に向かって、君は言う。
おれだよ、おれ。声が応える。
誰でえ。
アキラだよ、高校の時の。覚えてねえかな。
君の高校生時分、同級生にアキラという生徒が居た。長身痩躯の男前、人好きのする奴で。併し君には、どこか
ある日の放課後。茜色の西日が射し込む教室に君は、ぽつねんとしていた。机に頬杖をつき、窓外を見つめる。赤い世界。生徒たちの楽しげな会話。吹奏楽部の調子外れな演奏。運動部の掛け声。夕轟の裡、君はひとりだった。
音を立てて教室の引き戸が開く。
見るとアキラが立っていた。
口元に微笑を浮かべながら、アキラは君の席に近づいた。
君は、アキラと口を利いたことがなかった。
おまえ、両親いないんだって?
君の横に立ったアキラは、相変わらず笑みを湛えていた。
は?
父親の悪霊が君に近づく気配がした。
おれも居ないんだよ、両親。アキラは言った。
君は緘黙してアキラの顔を見据えた。
親父は、おれが小学生の時分に、お袋のこと
アキラの眼球は、夜光貝の如き
セックスの最中に首絞めてたら死んじゃった。しかも、アナル・セックスだぜ。で、親父はお袋の死体を眺めながら、自分も首掻っ切って自殺したんだよ。ちなみに、お袋の肛門は裂けてて、直腸には親父の精液が残ってた。
世界全体が
今もな。アキラは
腹の底から
君にとり、その笑声には何か、惹かれるところがあった。
君も顔を崩した。
爾来、君とアキラには
アキラは学校を
遺書らしきものが机上に見つかった。
死にかけのミミズがのたくったような字で書かれていた。
火葬場の空にアキラを見送ると
深呼吸する。
あれから長い時間を
あれが、おれにとってのふさわしい末路だったんだよ。声が応える。
あれが?
ああ。
君はハンドルを握ったまま、凝と前を見つめる。左手の人差し指でハンドルを叩く。
そもそもなんで自殺したんでい。君は訊く。
は?
心拍ってのは不随意的だろ。自分じゃどうにもならない。
はあ。
神が動かしてんだよ。
は?
神
は?
創世記だよ。2章7節。
そういや聖書読みだったな。君は生前のアキラのことを想う。
ルーアッハ。声が言う。
は?
ヘブル語だよ。聖霊、風、息、っていう意味を併有してるんだ。聖霊、つまり神だな。神は風であり息でもあるんだ。
は?
それと古代ヘブル語には時制がないんだぜ。
は?父親の悪霊が君の肩に触れる。
つまり創世記の世界には過去、今、未来っていう区別がそもそもないんだよ。まあ、神は時間なんて超越してるってことだろうな。存在するのは目の前の、これ、これ、これだけ。神の
君は深呼吸する。
何が言いてえんだい。吸って、吐く。旧友との久方ぶりの会話がこれかい?ええ?
さっきの箇所に照らせばだな。声は歌のように
君は深呼吸する。吸って、吐く。
おまえのその息も、神が今、入れてるものだよ。そして息自体が神でもある。
父親の悪霊が君を捕らえる。
いじゃこじゃうっさいんじゃ!ダボ!君は怒鳴る。おお?!いってえ何が言いてえんだい?!ああ?!インテリぶるな!おい!マスター・キートンごっこか?!しゃらくせえスノッブめ!おお?!この野郎!そもそもよお!勝手に自殺しやがって!ボクを置いてきぼりにしやがって!ずっと恨んでるんだからな!おお?!赦してねえんだからな!糞が!ぶち殺すぞ!
もう死んでるよ。声が楽しげに言う。
曇り空が少しく割れる。
弱弱しく
工具箱が鈍く光る。
声が続ける。置いてきぼりと言えば、おまえ、倉庫の死体はどうすんだ?
は?
おまえが殺した二回り若い同僚と、年下の上司の死体だよ。あれはそのままか?
君は、つと、首のへし折れた上司と、片耳を引き千切られ顔面の陥没した同僚が、倉庫の床に転がっている様を表象する。
深呼吸する。
糞が!君は怒罵する。
左手で思い切りハンドルを殴りつける。
かしがましく
深呼吸を繰り返す。
アキラ。君は訊く。おめえは聖霊かいそれとも悪霊かい。
それを決めるのは、おまえ自身だよ。おれは、どっちにでもなれる。
曇り空の下、地平線は
目の前の、これ、これ、これ。
今は転瞬にして、過去と未来へ変わる。
君は、
深呼吸する。吸って、吐く。
ふさわしい末路とか言ってたな。君は言う。
おう。
へっ。君は嗤笑する。末路ねえ。どうでハテ待つのは
君は軽く頭を振る。
深呼吸する。吸って、吐く。
ボクは疲れたよ。ハナ生まれて来なけりゃよかったんだ。もう生きていたくねえ。
深呼吸。吸って、吐く。
投げやりになるなよ。声は言う。おれは、おまえに生きていてほしいよ。
矢庭の
目が潤む。
優しいこと言ってくれるじゃねえか。ありがてえな。古き友情のゆえかい。
声は、車内の空気が割れんばかりの大音声で、ゲラゲラと笑う。
生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ生きろ
嘲りにも励ましにも聞こえる。実際は、どちらでもないのやもしれぬ。
いずれにせよ、識ったことか。君は思う。
深呼吸する。吸って、吐く。
君は金切声を上げ、何度もハンドルを殴りつける。
耳を
思い切りアクセルを踏み込む。
車の速度が
深呼吸する。
吸って、吐く。
而して
どこに向かって?
君は呟く。
深呼吸する。吸って、吐く。
どこに向かって?
道は果てしなく伸びている。
どこに向かって?
大きく息を吸い込んでから、君は絶叫する。
<了>
末路 ぶざますぎる @buzamasugiru
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