第11話 雪女(3)
夜更け、紙の上に筆を走らせながら、私はその日の出来事をそっと掬い上げるように書き留めておりました。真夜中のしんとした静けさの中で、ただ墨の香りだけが柔らかく立ちのぼります。ハーン先生なら、きっとこの奇妙な一日の顛末を知りたがるに違いない――そう思うと、筆を置くわけにはいきませんでした。
「ハーン先生、ご飯食べているかしら?」
独り呟く声が部屋の闇に溶けます。胸の奥に小さな痛みのようなものがありました。ですが、きっと先生も同じように私を案じてくださっているでしょう。ボンド先生が一緒とはいえ、帰りが遅れれば心配しないはずがありません。
「セツ、まだ起きているか」
ふいに、襖越しに低い声が響きました。私は筆を置き、襖を開けます。
そこには、いつもの端正な仕立ての服の上に、どう見ても丈の足りない浴衣を無理に羽織ったボンド先生が立っておられました。妙に窮屈そうで、その姿が可笑しいやら気の毒やらで、思わず声が漏れそうになります。
「すまない。多分、この着方が違うのはわかっている」
「あ……はい」
ボンド先生はどこから持ってきたのかブランデーの瓶とグラスを二つ持っており、ちゃぶ台に静かに置くと、琥珀色の液体を満たしました。灯火に照らされたその色は、冬の夜に似合わぬほど温かく見えました。
「改めて謝らせてくれ。日帰りの予定だったのだが」
「いえ、お気になさらず。お仕事ですもの」
私がグラスを覗き込みながら申しますと、先生の肩から少しだけ強張りが抜けたように見えました。どこか奇抜な行動の多い方ですが、根はとても優しく、繊細な方なのだと改めて思います。
「しかし、ハーンくんは気を揉むに違いない」
「大丈夫です。あの方は、私を信じてくださっていますから」
そう言ったとき、先生はふっと口元に穏やかな笑みを浮かべました。そのぬくもりが、凍てつく夜気をかすかに溶かしたかのようでした。
――その時でございます。
廊下の向こうから、鋭い女性の悲鳴が聞こえました。
「先生!」
私が叫ぶより早く、ボンド先生の身体は音もなく走り出していました。私も急いで丹前の紐を結び、近くの行燈を掴んで追いかけます。外は雪がしんしんと降り続き、白い闇のようで何も見えません。
「どこからだ?」
先生が行燈を受け取り、暗闇を切り裂くように廊下を進みます。やがて、頼りない提灯の灯りがぼんやり浮かび、その下で春子さんが崩れ落ちているのが見えました。
春子さんの視線の先――露天風呂へ通じる扉が半ば開いております。冷気がそこから流れ込み、足元を刺すように冷たくします。
「春子さん!」
呼びかけると、彼女は震える視線だけをこちらへ向けました。
ボンド先生は行燈を足元に置き、提灯を手にすると、露天風呂へ向かって歩き出します。
「先生……」
「セツ、来てはならん! ミスター・田所を呼びたまえ!」
鋭い叱責が飛び、私の胸が跳ねました。しかし、その直後――私は見てしまったのです。
先生がしゃがみ込んだ先、湯船の縁に横たわる伊勢谷様の亡骸を。
月明かりが湯けむりをすり抜け、青白い光となって死に顔を照らします。口元には氷が張りつき、目は見開かれたまま凍りつき、何かを訴えるようですらありました。
「これは……」
先生は膝をつき、静かに遺体を調べ始めました。
そのときです。背筋を撫でるような、人ならぬ気配がしました。
私は庭の方へ顔を向け――息を呑みました。
露天風呂の向こう、黒い闇の縁に、白い影が立っていたのです。
長い黒髪が風に流れず、まるで凍ったように垂れ、白い着物がひとひらも揺れません。動かず、ただこちらをじっと見つめている。目の奥だけが、氷のように光っているように思えました。
「ボンド様、あちらに……!」
私が震える指で示した瞬間、影はすうっと掻き消えました。本当に、夜そのものに沈んだように。
先生は私の声に即座に闇を見るものの、影はもう跡形もありません。
「セツ、何を見た?」
「白い……白い着物の女性が……消えた方ではないかと」
先生は立ち上がり、私の指す方向をじっと眺めました。その瞳が月光を鋭く返し、見たこともないほど冷えた光を宿していました。
「この事件、思っていた以上に根が深い。――伊勢谷氏の死因、そして“あの女”の正体を必ず突き止めねば」
間もなく田所署長様が駆けつけ、二人は遺体の検分に入りました。
私はまだ、あの影の残像が消えず、胸の鼓動がいつまでも収まりませんでした。
「伊佐治……」
署長様が地の底から搾り出すような声をあげられました。長年の知己を前にしたとき特有の哀しみが、その一言ににじみ出ていました。ボンド先生は、まるで光を反射する金属のように、すっと目を細めます。
「そういえば、知り合いでしたな。ご関係は深い?」
問いかけは淡々としていますが、声音の奥には、何か“重要な糸口を探る者”の鋭さが潜んでおりました。
「……え? ええ、付き合いが深いと言うほどじゃないですが、ここの署長になる前からですから十五年くらいです」
署長様は、喉の奥で絡む感情と言葉をほぐすように、ゆっくりと答えます。無造作に積もった雪の匂いと湯気が、場の悲しみをいっそう濃くしていました。
ボンド先生はそれ以上は問わず、静かに遺体に手を伸ばしました。その所作は敬意すら感じられ、湯船の水が小さく揺れます。
「これは……ひどい。口から喉まで、火傷のようになっている。この分なら内臓もやられているはずです」
うっすら蒸気に曇った眼鏡の奥から、先生の声が低く響きます。
「火傷? こんな露天風呂で火種など……」
署長様が周囲を見回し、湯気の隙間を探るように視線を巡らします。
しかし、ボンド先生はすぐに首を横に振りました。
「いえ、これは火傷のようであって、火傷ではないのです。おそらくこれは……凍傷?」
「え?」
署長様と私の声が、ほぼ同時に漏れました。こんな温かい湯のそばで凍傷だなんて、常識が受け付けません。
「凍傷、ですか……」
署長様の顔から血の気が引き、白い雪の光に照らされたその横顔は、まるで蝋のようでした。
ボンド先生は伊佐治さまの遺体を静かに湯船から引き上げ、近くにあった布を丁寧にかけます。湯気の向こうで、その手つきだけが妙に鮮明でした。
「口から内臓まで、急激な温度低下を起こして裂傷が生じています。おそらく、この内部の損壊が死因でしょう。知人に軍医がいるのですがね、彼ならもっと詳しく分かるのですが……いまは本国におりまして」
「こちらも医師を手配して調べさせます。しかし、凍傷……」
署長様が言葉を飲み込みながら呟くその横で、ボンド先生はもう動き始めていました。湯気の外へ出て、降り積もる雪の上にひざまずき、跡を丹念に追います。
雪は静かに、しかし無慈悲に降り続け、わずかに残った足跡の輪郭を飲み込んでいきます。
「方向はわかるが……大きさまでは、もう無理か」
悔しげな吐息が白く溶け、風にちぎれて消えました。先生の視線は、その先の闇へと注がれていました。まるで、先ほど闇に消えた“白い影”の姿だけを捉えようとするように。
※ ※ ※
「大変なことになったな」
「ええ……びっくりしました」
旅館の座敷に戻ると、ふすま越しに聞こえる外のざわめきが、事件の余韻を否応なく引きずってきます。ボンド先生は椅子に腰を落ち着け、パイプに乾いた煙草草を押し込み、火をともされました。紫煙がふわりと揺れ、薄い香りが部屋に満ちてゆきます。
署長様は警官たちを集め、あの女を追って雪山へ向かったはずです。だが、その足音が遠ざかってゆくにつれ、むしろ不安が濃くなってゆくようでした。
「見つかると思いますか?」
「無理だろうな」
その返答は、息を白くする必要すらないほど冷静でした。不思議と、私の胸の奥にも同じ確信が静かに沈んでいました。
――あの女は、この世に属する存在ではないのではないか。
そう思えて仕方がなかったのです。
「雪女でしょうか?」
そっと漏れた私の言葉に、ボンド先生は鼻を鳴らしました。パイプをくわえたまま眼鏡の奥の瞳だけをこちらへ向けます。
「セツ、雪女に関して私は大きな疑問を持っている。雪女は果たして妖怪なのかね?」
「え?」
思いがけない切り口に、私は声を上ずらせました。先生は口元をわずかに吊り上げ、皮肉とも好奇心ともつかぬ笑みを浮かべられます。
「だってそうだろう。彼女は雪山でふらりと現れただけの女性じゃないか」
「……でも」
ボンド先生が当然と言った顔で続けます。
「雪女は吹雪の夜にやってきた。そして、老人を殺した。そうだったね」
私は小さく頷きました。
ハーン先生のまとめられた雪女伝説――若い木こりと老人のふたりが山小屋で吹雪に閉じ込められ、雪女が現れて老人を凍死させたという話――を思い出します。
「目撃したのは若い木こりだ。ハーンくんは後日談として、木こりが年老いてから雪女が再び現れる話を付け足すつもりだそうだが」
「ええ、それも聞いています」
「だが伝承の本質は、こうだ。“木こりは老人が凍死したのを雪女の仕業とした”――ただそれだけだ。不思議とは思わないか?なぜ雪女なのだ? 雪男でも、山の怪でも、獣でもなく?」
「それは……」
私は言葉を詰まらせました。
山の吹雪の中を歩くのは、たしかに力のある男のほうが自然です。女が吹雪を突いて歩く姿は、伝説だからこそ成立するもので――。
「あり得ないのだよ。吹雪の中で女がやってくることなど。つまりは老人を殺したのは若い木こりだ」
「え?」
思わず声が裏返りました。しかし、先生の表情は真剣そのもの。
ああ、そうだった――この方は、感情ではなく論理で世界を見る人だ、と私は思い出しました。
「何か?」
「え、いえ。そ、そうか、目撃者が彼しかいない以上そうなりますね。でも……」
でも、情緒がない――とは、飲み込みました。先生にそれを言っても始まりません。
「では、事件は解決したも同然だな」
「は?」
気の抜けた声を出してしまった私に、先生は実に平然と続けます。
「いくつか確かめることはあるがね。おそらく、明日の夕方には家に帰れるだろう。これ以上、キミを独占してはハーンくんに怒られる」
そう言い終えると、ボンド先生はグラスのブランデーを一息で飲み干し、空になったグラスを手に、静かに立ち上がられました。足音が廊下の闇へ消えてゆくまで、私はただ呆然とその背中を見送るしかありませんでした。
赤煉瓦怪事噺(あかれんがあやかしごとのはなし)ー怪談作家と謎の英国紳士の事件簿ー 浪漫贋作 @suzumochi
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