異世界ドクター

霧乃遥翔

第1話 救命のカルテ

 オペ室を包むのは、いつもの無機質な匂い――消毒用アルコールと焼けた皮膚のわずかな焦げ。

 高峯アオイはライトのまぶしさを感じながら、開胸器越しに鼓動する心臓を見つめていた。


「血圧、九十を切りました!」

 麻酔科医の声。アオイは素早くガーゼを交換し、拍動のテンポを頭の中で数え直す。

 冠動脈瘤が破れた。あと十秒でクリップを噛ませなければ――。


 滝のように流れる血液。だがアオイの耳は静かだった。恐怖も焦燥も、彼女の中では無音になる。

 その一瞬、天井のライトがバチッと弾けた。


(非常灯に切り替わるまで七秒……)

 経験が冷静に計算を下す。けれど七秒は長かった。

 闇の中心で患者の心臓は止まりかけ、アオイの視界には紫がかった閃光がちらついた。


 ――刹那、床が沈む。

 空気が裏返り、次いで視界を焼く白光。重力の向きが失われ、アオイの身体は無重力に放り出された。

 彼女は思わず手術器具を離し、声なき悲鳴を呑み込む。


 ドクン――

 心音だけが耳元で巨大に鳴り、意識が遠のいた。


 どれくらいの時間が過ぎただろう。

 草の匂いと冷たい泥の感触で、アオイは目を覚ました。開けた空には二つの月――青白い月と赤黒い月が重なり、森の梢を幽かに照らしている。


(ここは……病院の屋上? いや……)


 身体を起こすと、濡れた手術用ガウンがまとわりつき、手元には血に染まったメスと鉗子、そして胸ポケットのペンライト。

 だがオペ室の喧騒はどこにもなく、替わりに遠くから――鉄が軋む音と、獣の唸りが混ざった叫びが渦巻いていた。


 アオイは本能的に走りだす。

 朽ちた城壁の陰にたどり着くと、視界に飛び込んだのは若い騎士―銀髪の少年が倒れ伏す姿だった。

 血に塗れた胸板の間に、黒い棘のような矢が深く突き刺さり、周囲の空気が煤のように揺らめく。


「大丈夫、聞こえますか!」

 日本語は届かない。それでもアオイは膝をつき、手首で脈を取る。微弱だが鼓動はある。


 矢を抜くには道具がない。だが出血と“何か”の毒性が進行中――時間はない。

 アオイは無意識に術前チェックリストを唱える。滅菌環境など望めない。だが救命の優先度は変わらない。


「メス……」自分で呟き、手の中の細刃を握り直す。

 鎧は厚い鉄でメスでは歯が立たず、彼女は瞬時に方針を変えた。

 腰の救急ポーチに残っていた鉗子をぺきりと折り、即席のドライバーにする。鎧の留め金を外し、素手で血まみれの胸当てをこじ開けた。


 肺が虚ろに泡立っている。そこへ――


「ひゃああ! な、なにしてるの!?」

 頭上に浮かぶ小さな光。少年ほどの高さに、看護帽のような白いリボンを付けた妖精が震えていた。

 透き通る翅がキャンドルの炎のようにはためき、好奇心と恐怖がない混ぜの瞳でアオイを見つめる。


「黙って。彼は今すぐドレナージが必要なの」

 言葉は通じたらしい。妖精――後のルーミィは胸に手を当て、ぱちぱち瞬きをした。


 アオイは矢柄を切り、創を拡げ、胸腔に溜まった暗赤色の液体を排出させる。

 次の瞬間、矢尻が抜けるとともに黒い瘴気が噴き出した。

 ルーミィがキャンと悲鳴を上げ、空気がひりつく。


「瘴気毒……?」

 医学書には載っていない未知の病理。だが毒なら希釈だ。

 アオイはペンライトを噛み、ポーチからリンゲルよりも薄い生食パックを探す――あるはずがない。

 替わりにバッグの奥で触れたのは、手術前に口にしていたペットボトルの水。そして、緊急用の小瓶アルコール。


「これしかない」

 即席で洗い流し、創部を圧迫。ルーミィが震える指先で淡い光を放ち、それがナイロン糸の代わりに血管を縫い止めるかのように絡みついた。


 ――鼓動が安定する。

 アオイは深く息を吐き、ぽたりと汗が鎧に落ちた。


「あなた……すごい……。神官さまでもないのに、治したの?」

 ルーミィは目を丸くして言う。

「私は医者。科学で命を救う者よ」

 胸の奥で、オペ室のモニター音が錯覚のように鳴った。


 そのとき――周囲の闇から鎖帷子を擦る足音。

 黒い外套の男たちが現れ、アオイと傷付いた騎士を取り囲む。


「異端の治療行為だ。神殿の許しなく呪を解くとは」

 彼らの手には紫黒の法符と、鈍く光る刃。

 ルーミィが肩を震わせ、アオイは騎士の身体を庇うように立ち上がった。


(患者を奪わせない――)


 胸ポケットのメスは、灯火に細く煌めいた。

 脈拍は上がり、しかし頭は驚くほど冷静。アオイは白衣の袖を捲り、未知の世界で初めての戦線に立った。

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異世界ドクター 霧乃遥翔 @0720hk

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