黄金のカノプス

粟野蒼天

黄金のカノプス

 心の臓が止まった瞬間から、私の魂はバーという鳥に近しい姿となった。体が軽く、澄み切った清らかなナイルの水で体中を洗い流した時のような爽やかな気分になった。

 私はそこで自身の感覚がとても鋭く研ぎ澄まされていることに気が付いた。

 瞳に映し出された純白の大理石の天井のひび割れ。草木の葉から垂れ落ちる雫の音。部屋中焚かれた強い香の匂い。体表を駆け巡る生暖かく心地の良い風の感触。髪にしがみ付く砂漠の砂どもの煩わしい感触。近くを流れる偉大なるナイルのせせらぎ。部屋の中に灯された篝火かがりびの熱。

 私の視覚、嗅覚、聴覚、そのどれもが冴えに冴えに澄まされた。

 しかし、バーとなった私には死に対する喪失感や欠落感など一切の感情が湧き上がってこなかった。死ぬというのはとても無情なものである。

 自身の遺体を眺めていると黄金の装飾品を身に着けた数人の男達が部屋の中に入ってきた。男達が身に着けているものから察して彼らミイラづくりを専門とする神官であろう。一人の男の手には顔ほどの大きさの壺が抱えられたおり、それを地面に置くと私の体は小刻みに揺れた。

  これからこの場で執り行われるのは神聖な儀式だ。魂が離れ、もぬけの殻となった私の肉体を未来永劫この世界に残す為に『』へと変えるのである。

 私達は死後、黄泉の国で永遠に生き続けることができる。しかし、その為には元の肉体と心臓イブが完璧な形を保ったまま現世に残っていることが条件なのだ。心臓が完璧に残って無くては死者の審判を執り行えずにオシリス神より黄泉の国で暮らす権利を剥奪され、アメミットという獣に心臓を食べられてしまい、我々は本当の意味での『』を迎えることとなる。

 男は壺の中から真水を取り出すと私の体の至る所を洗浄し始めた。

 不思議な感覚だ。奴隷に体を洗わせるのとは訳が違った。慣れた手つきで淡々と体の汚れを洗い流していく様はとても見ごたえがあり、人に触られる嫌悪感などの感情が沸き上がってこなかった。

 ひと通りの場所を洗われた私の体は次にテレビンの樹の樹脂によって全身をいぶられた。匂いが独特で体の局所が痒くなる。生前に聞いたことがある。このテレビンの樹の樹脂をいぶることによって体を浄化するのだとか。全身に施され終わると、男達は壺を持って部屋の外へと姿をくらました。

 私の体は静まり返った部屋の中に取り残された。

 私は自分の肉体を見つめた。初めて見る自身の肉体は肉付きが良く、鍛えられ、歴戦の傷がその美しさを際立たせている。それもそうだ、私は外界の侵略者からエジプトを守るために、日々鍛え、戦い抜いて来たのだ。

 私は戦いの傷が影響して死んでしまった。戦って死んだのだ。戦士として、王としてこれほど名誉なことはない。私は私自身をとても誇りに想う。

 自分の生き様に惚れ惚れしていると部屋の外から足音が聞こえてきた。一人ではない、大勢の足音が部屋の外から聞こえてくる。篝火の明るさが徐々に近づいてくる。部屋の外から犬の頭を持つ、ミイラ作りの神であるが姿を表した。

 鋭く研ぎ澄まされた眼光は部屋の空気を張り詰めさせる。アヌビス神直々に私の肉体をミイラにしに冥界からやってきたのだろうか。ありがたいことだ。部屋の入口をみると続々とアヌビス神の下僕がやってくるのが見えた。いよいよ、ミイラ作りの本番に入ることになった。

 最初にアヌビス神は私の鼻に先端が曲がり尖った銀の棒を突き刺した。それを木槌を用いて奥へ奥へと差し込んでいく。私はその光景を目の当たりにし、背筋が凍る感覚に陥った。見ていてとても凄惨で痛々しいものだった。

 頭の中に銀の棒が到達すると、アヌビス神は銀の棒を掻き回し始めた。自身の頭の中を掻き回されるというのはこれほどまでに恐ろしいものなのだろうか。

 しばらくの間、棒は掻き回された。

 そして、アヌビス神が銀の棒を取り出すと私の鼻の中からドロドロと桃色の液体と共に短い腸のような切れ端がいくつも流れ出てきた。

 このようなものが私の頭の中に入っていたとは思わなんだ。

 アヌビス神はそれらのものを壺に収めると絹布で私の顔を拭った。

 そして、私の鼻の中に植物からできた防腐剤を押入れ、頭の中をそれで満たした。

 あの腸のようなものはいらないものとして捨てられるそうだ。

 次にアヌビス神は鋭利な刃物を用いて、私の横腹をエチオピア石でできたナイフで切開し始めた。

 スッと物音一つ立てずに開かれている様はまさに神業であった。

 開かれた私の肉体に手を入れると慣れた手つきで次々と私の肉体の一部を切り取り出していく。肝臓、肺、胃、腸の順番で取り出された私の臓物は壺の中に入っているナイルの水で洗い流された。体の中がすっぽりと抜け落ちた感覚だ。空気が染みる。

 取り出された臓物は、アヌビス神の下僕が手にしている黄金のカノプス壺にそれぞれ一つづつ入れられていくことになる。

 これは生前、私が願っていた事の一つである。私の臓物を入れるカノプス壺をどうが光り輝く黄金のものに変えてもらいたいと強く願ったのだ。黄金は覇者の象徴。貴重な黄金を山のように使える王はエジプトの歴史の中でも私含めて数人ほどであろう。私は自身に身につけられる装飾品の殆どを黄金で埋め尽くしてほしいとアヌビス神に願っていた。もしもこの世に戻って来ることがあった際に私の力を示すためだ。

 四つのカノプス壺にはそれぞれ神が宿っている。四つの神は全員が天空の神ホルス神の息子であり、我々の臓器を守ってくれる存在なのだ。

 肝臓を守護するの人の姿をした神イムセティ。

 肺を守護するヒヒの姿をした神パピ。

 胃を守護する黒犬の姿をした神ドゥアムトエフ。

 腸を守護するはやぶさの姿をした神ケベフセヌエフ。

 神々が守ってくれるのであれば私の臓物も安泰だろう。

 全ての臓器がカノプス壺に納められるとアヌビス神は私の体に薬を差し入れ、開かれた腹を精巧に閉じていく。

 全身の毛という毛を刃物で剃られ産まれた当時の姿となった。

 そして、体の穴という穴に綿物を敷き詰められていく。

 ミイラになる際に体が欠け落ちることがあり、それを防ぐためにこうして綿物を敷き詰めていくのだ。

 一通りの処理が施されると、私の体は別の部屋に移された。

 着いた部屋には大理石で出来た棺が安置されており、中には大量のナトロンが敷き詰められていた。

 私の体は四十日間をかけて水分を抜かれ、乾燥していくことになる。

 棺の中は暗く、狭く、ナトロンは苦く、目に染みた。日を増すごとに私は自分の体から水分が抜かれて行く感覚に苛まれた。体は縮み、皮膚は過去の弾力と張りを失い、私の自慢の筋肉は完全に消え失せた。数十年の努力が水泡に帰した虚しさだけが残された。


 ──四十日後。


 棺が開かれた。太陽の光が私の体を眩く照らし来る。

 私の体は干からび、以前のたくましい肉体の面影は無くなっていた。

 皮膚は萎縮し、肌の色は黄ばんでいた。

 アヌビス神は干からびた私の体にテレビンの樹脂を施し、体中を白い包帯や布切れでぐるぐる巻にしていった。

 大小様々の包帯や布切れを使い、細い指先、上腕、胴体、下半身、陰部、そして顔を何重にも重ねて巻付けていった。光を感じられない。息苦しいが仕方がない。完璧な状態で体を残すのにはこれが最善なのだ。

 全身が包帯と布切れで覆われると、アヌビス神は私の腕を胸の前に持ってきて十字に交差するようした。これは王の威光を示すための施しである。

 そして、交差されたそれぞれの腕に錫杖が持たされた。

 右手には先端が曲がったヘカと呼ばれる魔力や神力が籠もったものを、左手にはネへハと呼ばれる鞭状のものが持たされた。二つはいずれもエジプトを支配下に置いた象徴とされる。私の為に創られたものと言っても差し支えがなかろう。

 こうして、私はミイラとなった。

 最後に私のミイラは私の顔が描かれた黄金の棺に埋葬される。棺は三重に仕上げてもらい、もしも私の墓に野盗風情が侵入したとしても、ミイラを傷つけることの出来ない使用に出来上がったのだ。

 そうして私の墓は王家の谷の奥深くに埋葬された。

 壁には私の輝かしい戦の記録や、伝承が書き綴られている。

 ここには私の財産である金や日常世界で使うようの椅子や衣類が埋葬され、この世に戻ってきた時の準備も欠かさずに行った。

 そうして、私のミイラは悠久の時をこの墓場で過ごし、私のバーは黄泉の国へ旅立ち、そこで永久に暮らすことなった。再び、この世に蘇るその時まで。

 

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黄金のカノプス 粟野蒼天 @tendarnma

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