ルドベキア

アル

第1話

「それでは開廷いたします。被告人、前へ出てください」


 裁判が始まった。被告人は殺人罪で逮捕された若い女性。私は裁判長として、彼女に公正な判断を下す必要がある。重苦しい空気が漂う中で、検察官が淡々と起訴状を読み上げた。


「被告人は二ヶ月前の十月一日午後二十二時三十分頃、自宅前にて交際相手である男性を絞殺しました。罪名及び罰状、殺人罪、刑法第百九十九条」


 検察が話し終えるのを確認すると、私は被告人に向けて諭すような口調で語りかける。


「あなたには黙秘権があります。裁判中終始黙っていてもいいし、答えたくない質問は拒むこともできるということです。無論質問に答えることも、あなたに認められた権利です。ただし、あなたが法廷で述べたことは、あなたにとって有利なことも不利なことも証拠となります。わかりましたね?」


 一連の流れを経ても、被告人女性は無反応を貫いている。表情に変化はなく、常に無表情だ。この様子を見る限りでは早々に罪を認める流れになるだろうな、と内心考えつつ、冒頭手続きにおける最後の質問に入った。


「被告人及び弁護人に質問いたします。先ほど検察官が読み上げた起訴状の内容に間違いはありますか?」


 私の質問に対して被告人は大きく目を見開くと、強い口調で否定した。


「違う。殺人なんてやっていない。あいつが……、あいつがやったんだ」


 傍聴席の空気が騒然とする。無理もない。先ほどまで顔色ひとつ変えなかった彼女が急に態度を変えたのだ。だが惑わされてはいけない、と自分に言い聞かせる。私は裁判長として、公正な立場から罪人に正義を執行しなければいけないのだから。



 再び落ち着いた様子の被告人が席に着いたのを確認し、検察官の方を向いて口を開く。


「それでは証拠調べを行います。検察官、お願いいたします」


 検察官は頷くと、前に出た。証拠調べ。検察官や弁護人が証拠などを提出し、証拠能力の有無や事実を明らかにすることだ。


「事件当日、被告人はアルバイト先のコンビニエンスストアから帰宅した後、自宅玄関にて交際相手であった被害者男性と口論になります。近隣住民の証言によると、周囲には『近寄るな!』『てめぇ、ぶっ殺してやる!』といった声が響いていたようです。その後被告人は自身が身につけていたベルトを被害者の首に巻きつけ、絞殺した。これが事件の流れになります」


 検察官は私の方を向き直すと、こう締め括った。


「以上の事実を証明するため、証拠の取り調べを請求します」

「許可します」


 私の声を皮切りに、数々の証拠が提示される。現場の写真、被害者宅の見取り図、供述調書……、その中でも特に目を引くのは犯行に使われた凶器である。


「証拠番号九番は凶器として使用されたベルトです。被告人の指紋が多数付着しているほか、被害者の指紋と共に表面が剥がれかけている部分が見受けられます。これはベルトの持ち主が被告人であること、首を絞められた被害者が抵抗する際にベルトを強く握りしめたことを示しています」 


 検察官は続けて一枚の写真を提示する。


「こちらは被害者の遺体の首を撮影した写真です。絞殺された際に残った跡が、ベルト表面の模様と一致しています」

 

 検察側の意見を聞く限りでは、女性が犯行に及んだという事実は明白だ。それにも関わらず彼女は自身の罪を否定するどころか、責任転嫁までしている。裁判長としてではなく、ひとりの人間として嫌悪感を覚える。だがここは裁判所だ。あくまで私情を持ち込まないことが前提だということを思い出す。


 検察側による証拠品の提出が終わると、被告人の方を向いた。


「被告人及び弁護人、検察側の証拠に異議はありますか?」

「全て同意します」


 被告人が話し始めるよりも早く、弁護人が口を開いた。何はともあれ、これにて証拠能力が認められた。被告人は深く俯いており、表情は判別できない。


「弁護側、被告人の立証をお願いします」


 弁護人はゆっくりと立ち上がり、のんびりとした口調で喋り出す。


「えーと、弁護側は被告人が働いていたコンビニの店長を、証人として請求します。被告人の性格や、普段の立ち振る舞いなんかを皆さんに知ってもらおうかなぁといった感じで」


 どこか気だるげな様子の弁護人の言葉に「許可します」と返すと、四角い眼鏡をかけた中年の男性が前に出てきた。証人として呼ばれた男性の顔には、どこか疲れが見て取れる。


「被告人がどうしてこのような事件を起こしたのか、あなたの考えをお聞かせください」


 弁護人の声をきっかけに、証人尋問が始まった。


「彼女は……、誰とでも分け隔てなく話すタイプで、非常に心優しい人間であると記憶しています。ただ、かなりはっきり自分の考えを主張することも多いです。それゆえに交際相手にいらぬ誤解を生み、口論に発展したのかもしれません」


 最後に証人は思い返したようにこう付け加えた。

「あぁ、そういえば。被告人は以前職場の同僚である男性とトラブルを起こしていました。相手の男性は度重なる問題行動が理由で職場を解雇されていますが、逆恨みされて困っている、という話を以前彼女本人から聞いたことがあります」 


 いらぬ情報だ。特に気にする必要もないだろう。そう判断し、証人の発言について深く追及されることもないまま裁判を次のフェーズへと移行させる。



「被告人質問に入ります。被告人は前へ。弁護人、どうぞ」


 弁護人は頷くと、被告人の方を向いて口を開く。


「今回の事件はあなたが犯人ということで間違いないですね? あぁ、今の質問は答えなくて結構です。今回犯行に至った原因はなんだと思いますか?」


 被告人が目の色を変えて弁護人を睨みつける。


「私は何もしていない。私は被害者だ。原因なんて存在しない」

「あー、こりゃ面倒だな。すでに物的証拠は揃ってんだ。弁護側としては大人しく罪を認めることを勧めますがね」

 

 早く仕事を終わらせたいとでも言いたげな弁護人の声を無視し、被告人は叫び出す。


「犯人はあいつだ!」


その瞬間、興奮状態の被告人を警備員が取り押さえた。彼女の発言は支離滅裂だ。まるでこの場に真犯人がいるかのような口ぶり。まったく馬鹿げている。日本の刑事裁判における有罪率は九十九パーセント。判決まであと少しというこの段階で、逃げられるはずがないというのに。


「双方、立証は以上ですね? それでは検察官、ご意見をお願いいたします」

 

 検察官は立ち上がると、険しい顔つきで語り始めた。


「本事件は極めて悪質かつ計画的な犯行です。凶器などの状況証拠も揃っており、被告人女性が犯人であることは間違いありません。また、裁判の様子を見ても反省の色はなく、情状酌量の余地もありません。よって被告人を死刑に処すのを相当と考えます」

 

 死刑。日本において最も重い刑罰。それが宣告された時の周囲の反応を見る限りでは、被告人を除いたその場の全員が納得しているようだった。被告人の顔は乱れた前髪に隠れており、表情を伺うことはできないが、呼吸が荒くなっていることが見て取れる。警備員に取り押さえられていなければ、今にもその場から逃げ出しそうだ。


「弁護人、ご意見をお願いいたします」


 先ほどの検察官に続き、今度は弁護人が前に出る。


「弁護側は、検察側の意見に全て同意します」


 傍聴席から若干のどよめきが起こる。弁護側でさえ匙を投げるという状況を民衆は予想できなかったようだ。その様子を気にも留めず、弁護人は話を続ける。


「被告人の悪質性は擁護できるものではありません。彼女が悪だということは紛れもない事実と言って差し支えないでしょう。よって死刑が妥当です」


 弁護人は私の方を向き直し、こう締め括った。


「裁判長、どうか賢明な判断を」

 

 深く頷く。裁判もいよいよ大詰めだ。私は襟を整え、まっすぐ被告人を見つめた。


「被告人、前へ出てください」


 腕の両側を警備員に掴まれたまま、被告人が立ち上がる。


「最後に何か言うことはありますか?」

「最後……?」


 被告人の前髪に隠れた顔から右目が覗く。


「笑わせないでよ。こんなくだらない裁判の真似事で私を裁いた気になってるの?」


 彼女の物言いに少し驚く。


「おや、まともに会話ができたのですか。ある程度の責任能力はあるようだ」

「質問に答えてよ。あなたが裁判長なんて何様のつもり?」

「おかしなことを聞くものですね。私は裁判長。この場においては法律を司る者の頂点にいる立場です。このことを疑う余地はありません」

「嘘、嘘、嘘、嘘、全部嘘。あなたが私を裁く権利なんてない。裁かれるのはあなたの方」


 この後に及んでなお責任転嫁をする傲慢さ。到底許される言動ではない。もうこれ以上裁判を続ける意味はないだろう。警備員を振り解こうともがく女性を無視し、裁判を最終局面へと移行させる。


「本来ならば裁判員との話し合いを経て、後日判決内容を言い渡すところですが、今回に限ってはこの場で宣告いたします。皆様、異論はありませんね?」


 被告人を除いた全員が頷く。完璧だ。これこそが正義の象徴たる裁判。誰も侵すことはできない神聖な場を、裁判長であるこの私が取り仕切っている。溢れ出る高揚感を隠しきれぬ勢いで、私は判決を下す。


「判決を言い渡します。主文、被告人を死刑に処する」


 歓声が湧き起こる。この場にいる全ての人間が、正義の執行を喜んでいる。民衆の興奮が冷めやらぬまま、判決の理由を述べる。


「現場に残された状況証拠から、被告人が交際相手であった男性を殺害したことは明らかである。また、裁判中も彼女は自分の保身のために虚言を吐き、他者に罪をなすりつけようとした。これら行為は社会に対して害をなす悪であり、死刑判決が相応しい」


 検察、弁護人、傍聴人。その場の全てが安堵の表情を浮かべている。被告人女性はもはや言葉を発することすらなく、四肢をだらりと下げてその場に立ち尽くしている。


「これにて、閉廷いたします」


 私の言葉を受け、人々が次々に私のもとへ駆け寄って来る。被告人はぺたり、と座り込むと、そのまま駆け寄ってきた人々に突き飛ばされ、ぴくりとも動かなくなった。


「これで秩序が保たれる。正義は守られたのだ!」

「裁判長は必ずや賢明な判断をすると、僕は信じていました!」

「万歳! 万歳! 万歳……」


 民衆から寄せられる賛辞の声が心地よい。みんな私が下した判決を心より喜んでいる。みんなが俺の凄さを認め、称賛している。黙秘権の告知、証拠調べ、証人尋問。全てのフェーズにおいて公正な裁判を続けた私は、もはや正義の象徴と言っても過言ではないのだ。


 そう考えていると、達成感からか急激な眠気に襲われた。みんなから信頼される人気者というのも罪作りなものだ。人々からの賛辞に応えるのも少し疲れた。一仕事終えたところだし、少しの間寝てしまおう。裁判所で眠るというのもおかしな話だが、裁判長たる私ならこのくらい許されるはずだ。私は背もたれに全体重をかける。目を閉じて人々の声を聞いていると、不思議と安堵の気持ちさえ沸きあがってきた。そうして俺はゆっくりと眠りについた。 



 目が覚めると、そこは冷たい畳の上だった。どうやら長い夢を見ていたようだ。無理もない。こんな薄汚い拘置所で出来る娯楽など、寝ることくらいしかないのだから。


「しかしあのアマ、いつ考えてもムカつくな……」


 こんな場所に押し込まれる原因となった女を思い出す。バイト中いつも思わせぶりなことを言って俺の気持ちを弄んでおきながら、俺の愛をきっぱり拒絶したあの女。いつからか何かに怯えるようになった姿を見て、自宅に匿おうとした俺の親切心を踏み躙ったあの女。


「まったく。俺も運が悪い」


 俺の言いなりにならないこと、それ自体が罪だ。ほんの少しお灸を据えるために、あの女には俺の正義を執行してやった。たまたまそれが原因であいつは死に、否応なしに俺は警察に捕まった。それだけのことだ。


 四ヶ月前に職場をクビになったのも、今思えばあいつのせいだろうか。店長は「度重なる問題行動が原因」とかほざいていたが、どうせそれもあの女を守るための嘘に決まっている。まぁそんなことはどうでもいい。あんな窮屈な職場じゃ俺の能力も埋もれてしまう。「いつもあなたを見つめていた」という俺の告白を「気持ち悪い」と一蹴したあの女といい、傷ついた俺に寄り添うことなくクビを言い渡してきたバイト先の店長といい、どうしてこの世の人間はこんなにも見る目がないのだろう。


 それにしても夢の中における自分の裁判長という立場はなかなか様になっていた。全てが俺を中心に動く現実世界においても、俺の言う通りにしない罪人を裁く姿は、裁判長という役職に相応しい。弁護人や検察が全て俺の都合の良いように動く様子を思い返すと、愉快すぎて笑いが込み上げてくる。


「くくっ、コンビニバイトなんかよりよっぽど俺に合ってるじゃねえか」


 だがこんな茶番ももうすぐ終わりだ。既に逮捕されてから二ヶ月が経過している。じきに裁判が始まるだろう。そうなれば俺がストーカー殺人犯だなんて誤解は解ける。裁判官に俺の正義を理解してもらえさえすれば、すぐに無罪放免になること間違いなしだ。溢れ出る感情を隠しきれず、思わず高笑いしてしまう。その時、廊下から無機質な足音が聞こえてきた。


「被告人、出ろ」

 

 看守の低い声が耳に入る。


「お勤めご苦労。そう急かさんでもいい」

「無駄口を叩く暇があったらさっさと動け。まったくお前の発言や行動全てに反吐が出る。それとも、法という名の『正義』に裁かれる覚悟ができていない、とでも言うつもりか?」


 看守の言葉に耳を貸すことはなく、俺はゆっくり部屋から出る。


「俺が正義だ」


 そう吐き捨てると、裁判所へ向かう護送車へと、心を弾ませながら足を運んでいった。

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