第5話 五行
「うふふ…しかし大和や…お主の弟は化け物かもしれんなあ。実に実に愉快痛快」
純白の狐は牙を出しながら呟いた。
無論俺がその声を聞き逃すはずがない。俺はうどんを食べきって「出るぞ」と薫に小さく言うと、薫は驚いた顔を一瞬しては平静を保ち「うん」と小さく返事をした。食べ終わったトレーを持ち返却口まで持っていく。だが、最早限界に近い程に理性が擦り切れていた。
「大和、渡してソレ。私が返しておく」
そう言って俺の手からトレーを奪い取った薫は一人返却口まで歩いていった。
手ブラになった俺はそのまま「落ち着け、落ち着け」と呪文を唱えるようにゆっくり地面を見つめながら店舗から出た。
そしてそのまま公衆トイレの奥のベンチまで歩く。
今は平日の朝早い時間だ。周りにはさほどサービスエリアの利用客が見えない。実に都合が良かった。
大きく息を吸い、隣の狐に向き合う。そして
「どういうことだよ狐!!!!」
ありったけの声で叫んだ。人が少なくて本当に良かったと思っている。だが、俺の怒りと焦りは吐露された。その怒気を孕む叫びに純白の狐は口に袖を当てながら目を釣りあげて話し出す。
「大和や、昨日夜の我が言った『雨を携えた奇妙な輩』。どうやらお前の弟の裕也だがねぇ…都合がいいのか悪いのか、二人は契りを交わしおったわ」
ドズン!
俺は感情に任せて思いっきりベンチ横のテーブルを殴った。非力な方ではないのだがやはり普通の人間、木製のテーブルに小さな悲鳴を上げさせる程度しか出来ない。
「ちょっと大和あんた!…ベンチに座って。手、出して」
向こうから急いで駆けつけてきた薫が俺をベンチに座らせ、ハンカチで拳の血をふき取った。そして急いで手洗いへと走って行き濡らしたハンカチでもう一度傷口を拭いてくれた。
「…何があったのよ」
そういうのが精一杯の薫に俺は「落ち着いたら話す」と言うのが精一杯だった。
「大和や、その『失意の雨』を事も無しに受け止めるお前の弟。まさに化け物よ。伊達に白上大和の弟ではないのう」
そう言いながら笑わず狐は目を吊り上げたまま淡々と俺に状況を説明する。相変わらず黙ったまま俺の手の手当をしている薫には聞こえていない会話なのだが、今日ばかりは薫の能力が気配感知だけであることに助かったと思った。
目の前に薫がいることで俺が迂闊に喋ることが出来ないと分かっている狐はそのまま状況を説明し始めた。
「今朝方までは住処周辺でうろうろしている程度だったその小さき存在。弟と交わることで一層の力を得た。そもそも産まれ持っていた底力が段違いの弟よ、その弟に受け入れられた事で小さきものが得た力は絶大。…いいや、二人の相性が良すぎおる。さも錠前と鍵の組み合わせのような関係じゃ。そして弟もまた、その小さきものから得た力を使いこなすこともできよう。じゃが…」
ここで初めて狐は言葉を詰まらせた。昼間の狐は言ってしまえば『神』だ。その神に言葉を詰まらせる相手となる善性とはやはり『神』なのだ。俺は狐の言葉を黙って待った。薫も俺が狐と話していると悟り、黙ってベンチから立ち上がって車に向かった。どうやら教授に時間をもらえるよう説明しに行ったんだろう。
「裕也は無事か?」
幾分心も落ち着いた俺は、薫が居ない今、やっと狐と対話することが出来ると口を開いた。
「無事も何も無し。弟がその小さきものを取り込んだのじゃ。先程にも言ったであろう?二人は錠前と鍵の関係じゃと。弟とソレはもともと一対だったと言ってもよい関係よな。在るべきところに在る。戻るところに戻った。川が流れて海に着くように自然の流れ、運命であろうよ」
「そうじゃねぇ、お前、さっき口籠ったのは一体何を言おうとした?」
俺の目は自然と力が入り、一瞬『夜のソレ』になりかけていた。
「やめい大和。昼にそれをするでない。…よい、語ろう」
そういった狐は珍しくため息をつく。普段の余裕がないように見えた。そして実につまらなさそうに狐は語りだした。
「決して敵になることもなく、決して毒になることもなく、それは善性を生涯垂れ流す。その行いは人間であると言えるかえ?」
俺が愕然とした。そして恐れていた。
過分な善性のその先、つまり人間性の放棄だ。
誰かの為だけに生きる装置だ。自分を失うのだ。
それになってしまうと言うのか?俺の弟の裕也が!?
俺は吐き気を覚えその場で胃の中の物をまき散らしそうになった。だが踏みとどまる。まだ狐に聞いていないことがある。口を開けと俺は必死に吐き気に抗い狐に問いかけた。
「裕也の意思は…あるのか?残っているのか!?食われちまったのか!!??」
そう、合一化によってその善性による裕也の意思の支配、それが起きていないか狐に訊ねた。その言葉で狐はいつもの顔に戻りニマニマしている。
「先程も、何度も言ったが大和。二人は『鍵と錠前の関係』じゃと。わからんかえ?男と女の関係じゃということに?『二人であることに意味がある』ということじゃ。安心するがよい」
吐き気が一気に収まる。その代わりに自然と目が大きく見開いてしまった。
「…冗談じゃあねぇよ!裕也や夜風は普通に人として生きてほしいから、俺はそう願ったからお前と今こうやって居るんだろうが!」
感情論だ。今俺が怒鳴っているのはただの感情論だと分かっていた。結果的には運命に逆らえなかったという憤りをぶつけているだけだ。だが狐の言いたいことは分かった。
「つまり裕也は…人でなくなる可能性を常にはらんでいることになるって言いたいんだな」
そう聞き直すと狐は無言で目を逸らしながら語った。
「善性を脅かすは悪性ではない。善性が故に己が正しさで、その力で身を亡ぼすのじゃ。知らずに疲弊し、知らずに時が濃密になり、擦り減り消え去る。善性の塊故、生を終えることに後悔すら持たずに、な。そういう危険性を弟は得てしまった、本来あるべき姿を得たことで、じゃ」
背中に汗が流れる。狐の言うその生き方は誇り高いかもしれない。尊い聖人のようなものだ。だがそんなものは自己犠牲を望む者だけがすればいい。俺は家族が人として一生を終えることを望んでいるのだ。『それは祖父との約束なのだ』。
「今更簡単に分離は出来ないんだろ?」
狐は黙って頷いた。
「だが、弟が人として生きる可能性はある。それは『その小さきものが人としての生を望むのであれば』自ずと二人は人間としての生を全うするであろうよ。己が善性に飲まれることなく、な」
狐のその解決策は実に曖昧だった。神が人に存在を落とすことを望むなんて有り得ない。だが俺はそのわずかな望みに賭けるしかない。俺はベンチから立ち上がり大きく息を吸った。
「つまり裕也に憑りついた神様の気分次第ってことかよ…」
落ち着けと自分に必死に言い聞かせてているのだが、無意識に目が黄色く光を放っていた。
「…大和、一週間待つがいい。それで弟の状況を判断して強硬手段にでるかどうか答えを出すがよかろう。今となってはそれしか打つ手もなかろうよ。その間は誰かに弟を見張らせておれ…そもそも強硬手段が通用するかどうかも分からぬ相手故な」
そう言いながら狐は俺のベンチの隣をチラリと見ていた。
「大和!…目。今は落ち着いて。ほらコーヒーあったかいの。飲もう?」
薫がいつの間にか俺の隣に座りホットコーヒーと渡してきていた。余程狐との会話に集中していたのだろう、全く薫に気が付いていなかった。
「顔色真っ青だよ大和。何かあったの?」
と薫はそう言っているが俺の隣の狐を睨んでいた。内容は分かっていないだろうが狐が何かを言ってきたのだろうとは十分理解しているようだ。薫が傍にいるために口での会話が出来なくなった。心の中の会話は疲れるから嫌なのだが、今はそうは言っていられなかった。
「…『裕也の中の席はもう一席あるはず』だ…そこにお前の意思が入り込めば何とかなるんじゃないのか?」
その問いかけに昼間の狐は珍しく難色を示した。
「可能ではあるが…夜の我との相性は最悪じゃな、負担が大きすぎる」
その絶望的な返答に俺は更に落胆した。
弟の中の善性。それを抑え込みながら身を護る術を持つもう一席、それが狐では難しいらしい。
『そもそも逢魔が時の狐は俺が借りている状況なのだ。そして夜の狐は無理をして繋ぎとめているのだ。』
強すぎる力の逢魔が時以降の狐、その力を制するには『あの時の二人は幼過ぎた』。だから俺が引き受けているだけだ。
そして一番特殊な存在の弟裕也が今まさに拙い状況だというのに俺は…
「大和、今は『見に徹する』ことに勧めよ。我とて急な対策は難しい故な。だが…これは良い機会かもしれぬぞ?これで弟を完全に『この運命』から切り離すことが出来るかもしれぬ。その代わり、舞台を替えても弟の重要性は変わらぬ道を行くと我は予想するがな…」
一理ある。確かに弟を切り離すことで自動的に妹の夜風への役割が外れる。だが俺の考えていたプランは台無しなうえに弟達へのサポートが出来なくなる、俺とは立つ舞台が違ってしまうのだから。もう俺が弟妹を助けることが出来なくなってしまうのだ。では、どうすれば…
そう悩んでいると目の前の騒がしい女が俺を揺さぶるのだった。
「ちょっと大和!しっかりなさい!」
頭がガクンガクンと振り回される勢いで肩を揺さぶられる。薫から見ると怖い顔して黙ってふさぎ込みながら地面を見て動かない俺を見て心配したのだろう。だから心の中で話すのは嫌いなんだ、疲れるし。
「って何しやがるんだ!正気だよ俺は!」
危うく脳震盪になる手前で薫は揺さぶるのをやめた。揺さぶった当の本人は安堵の胸を撫でおろしていたが、俺は身の安全に安堵の息を漏らすのだった。だが、薫には心配ばかりかけさせたなと少しだけ優しい気持ちになるのだった。
頭を切り替えて考える。まず大切なことは一刻も早く地元に帰る事だ。そして現場の状況を確認して対応する。その為にも…
「…薫、一週間で結果を出すぞ。来週の金曜日には地元に帰る」
と口に出して自分自身に気合を入れた。
その俺の言葉に
「ああ、直人君の単位の心配をしてたのね?そうね頑張りましょう!…取り敢えず、その手、ちゃんと冷やそう」
と明後日方向の思慮と心配をする薫だった。
「ちょ、ちょっと、その手、大丈夫かね白上君?」
車に戻ると早々に新崎は俺の手を見て驚いていた。包帯でぐるぐる巻きにされている手を見たら誰でも驚くとは俺も思う。そして薫は不器用だとも改めて認識できた。
「大丈夫です。ところで結局俺達はB班とは別に先に行く場所って何処なんですか?」
と新崎に目的地を確認した。
すると新崎は
「…ああ、言ってなかったっけ?『五剣山』だよ」
と、どことなく悪い顔をして言うのだった。
・・・・・・・・・・・・
狐は思う。
弟にまとわりつく善性が一つならまだしも、
もう一つ呼び寄せることになると、
それはもう取り返しのつかない事なのだよ大和。
その考えを狐は口にすることはなかった。
朝日が昇り切り、自分の体を陽の光に晒しながら、狐は遠い寝床を見つめるのであった。
カサが要る日は雨が降る 外伝 「兄の務め 吾」 終
狼の目に狐の面 褄取草 @tumatorisou
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