売買される未来
トマトスコアー
第一話:入学と開かれた市場
春の匂いが、静かに空気を満たしていた。
風に乗って、桜の花びらが舞う。
私は白く光る校門の前に立ちすくみ、
ゆっくりと深く、呼吸をした。
鼻先をかすめる、花びらのやわらかな感触。
緊張で強張る手のひら。
真新しい制服の、きつい糊の匂い。
それらすべてが、今日から始まる生活を、
小さく、しかし確かに祝福しているように思えた。
私立エデン学園。
未来のリーダーを育成する――そんな触れ込みで、
世間では「選ばれし者たちの楽園」と呼ばれている場所。
見上げた先に広がるのは、
どこまでも高く、清潔感のあるガラスの校舎。
朝日を受けて、宝石のようにきらめいていた。
制服姿の生徒たちが、笑顔で校門をくぐっていく。
軽やかに談笑する声。
あちこちに咲く春の花の香り。
その光景はあまりに眩しく、
気づけば私は、
自然に頬をゆるませていた。
(――ここでなら、きっと)
小さく、胸の奥でつぶやく。
壊れやすい夢を、そっと抱きしめるように。
希望というものを、私は信じたかった。
ここでなら、過去を乗り越えられるかもしれないと、
そんな甘い夢を見たかった。
校門の脇に立つ受付の教師が、私に向かって微笑んだ。
白衣に似た教師服、よく整えられた顔立ち。
だが、そこに浮かぶ笑みには、
どこか温度のない冷たさがあった。
「ようこそ、選ばれし者たちへ。」
低く、重く、響いたその言葉に、
私は一瞬だけ、足を止めた。
胸の奥に、小さな違和感が生まれる。
(選ばれし……者?)
だが、すぐに制服の袖を握り締め、歩き出す。
これから始まる新しい生活に、私はすがりたかった。
信じたかった。
この場所が、ただの楽園であってくれる
――。
正門を越えた瞬間、
世界が、ぱっと開けた。
広がる中庭には、白い石畳が敷かれ、
その両脇に、手入れの行き届いた花壇と、
白く塗られたベンチ、小さな噴水が配置されている。
水音が、春の空気に溶けるように柔らかく響いていた。
そこかしこで、生徒たちが談笑している。
笑い声は軽やかで、無垢で、
この場所に一片の影もないように思えた。
私はゆっくりと歩き出しながら、
無意識にペンダントを握りしめていた。
銀の小さなロケット。
兄からもらった、たった一つの形見。
指先に伝わる冷たい金属の感触が、
私を現実に引き戻してくれる。
(大丈夫。私は、やれる)
そっと、胸の中でつぶやき、
それを制服のポケットにしまい込んだ。
講堂の扉をくぐった瞬間、空気が変わった。
冷たい空調の流れ。
どこか無機質な匂い。
体育館とは違う、建物そのものが発しているような冷たさ。
真新しい制服を着た新入生たちが、
整然と並べられた椅子に、無言で座っている。
静寂。
ほんの少しでも声を出せば、あっという間に弾かれそうな、
そんな張りつめた沈黙だった。
壇上には、校長が立っていた。
深い藍色のガウンをまとい、
金縁のメガネの奥で、何を考えているのかわからない目をしている。
まるで、この場にいる全員の未来を見透かしているかのようだった。
マイクの前に立った校長は、静かに口を開く。
「エデン学園へようこそ。」
低く、響く声。
一語一句、空間に吸い込まれるように伝わってくる。
私は反射的に背筋を伸ばした。
周囲も、誰一人として動かない。
「ここは、皆さんの未来を創る場所です。」
その言葉には、祝福の響きも、温かさもなかった。
ただ、事務的な宣告のように聞こえた。
校長は間を置き、さらに続けた。
「この学園では、皆さん自身の『価値』が、明確な形で評価されます。」
淡々とした口調。
それなのに、言葉の一つひとつが、胸に重く沈んでいく。
「学力だけではありません。
人間性、行動力、影響力――
あらゆる資質が数値化され、市場に示されます。」
(数値……?)
脳裏に、先ほど見たマーケットボードの映像がよぎる。
生徒の名前が、数字とともに並び、
まるで株式のように売買される世界。
違和感が、胸の奥で小さく波紋を広げた。
周囲を見渡す。
誰もが無表情で、ただ話を聞いている。
異議を唱える者も、戸惑う者もいない。
(……私だけ?)
そんな不安が、背中を冷たく撫でた。
壇上の校長は、最後に微笑んだ。
だがその微笑みは、どうしようもなく――作り物のようだった。
「期待しています。
皆さんが、どれほどの価値を示してくれるのか。」
再び、無機質な静寂が講堂を包み込んだ。
私は、制服の裾をぎゅっと握りしめた。
今さら後戻りなどできない。
ただ前を向き、この場所で生きていくしかない。
そう、心に言い聞かせながら。
配布されたクラス表に目を落とす。
――1年D組、竹内結月。
滲むような緊張感を抱えたまま、
私は割り当てられた教室へ向かった。
廊下の床は、真新しいワックスの匂いがした。
ガラス窓から差し込む光が、柔らかく床に反射している。
教室の扉の前で、一度だけ深呼吸をする。
ドアノブに触れる手が、かすかに震えていた。
(大丈夫。私は、やれる)
自分に言い聞かせるように呟き、そっと扉を開ける。
パタン――
ドアの閉まる音が、やけに大きく響いた気がした。
中には、すでに何人かの生徒たちが座っていた。
ざわつきも笑い声もなく、静かだった。
誰もが、まだ互いに距離を測り合っている。
椅子を引く小さな音すら、必要以上に耳に残る。
教室全体に漂う、緊張と気まずさ。
私は、空いている席を探して歩き出した。
窓際の席に座っている、ふわふわとした髪の女の子が、
こちらに気づいて、にこりと微笑んだ。
春の陽射しに溶け込むような、柔らかな笑顔。
「えへへ、同じクラスだね。よろしくね!」
その声は、妙に無防備で、
この冷えた空気の中でただ一つ、温度を持っていた。
彼女は、星野莉子と名乗った。
名前も、笑顔も、
どこまでも軽やかで、どこまでも自然だった。
私は、ぎこちなく微笑み返す。
「……竹内結月。よろしく。」
小さな声だった。
けれど、それでも、ちゃんと届いた。
莉子は嬉しそうに、さらに笑った。
それは、飾り気のない、心からの笑顔に見えた。
(……こんな場所にも、
優しい人は、いるのかもしれない)
I.P.だとか、価値だとか、
そんな冷たいものとは無縁に思える存在。
教室の隅に置かれた観葉植物の緑さえ、
少しだけ色濃く、暖かく見えた。
私は、自分でも気づかないうちに、
ほんの少し、心の壁を緩めていた。
――それが、どれほど危ういことだったのか、
このときの私はまだ知らなかった。
自由時間が与えられた私は、
小さく深呼吸をして、校舎内を歩き始めた。
廊下は、まるで美術館のように静かだった。
真新しい白い壁。
天井から差し込む光は柔らかく、床に長い影を落としていた。
歩くたびに、革靴の音がコツコツと響く。
誰も話さない。誰も走らない。
この学園には、“無駄な音”が存在しないのかと思うほどだった。
壁際には、整然と配置された観葉植物。
時折、微かに水やりの匂いが漂う。
(……きれいすぎる)
そんな感想が、ふと心をよぎる。
完璧に管理された美しさは、
どこか息苦しく、人工的に思えた。
渡り廊下を抜けた先、
ふと、視界の端に違和感が引っかかった。
そこにあったのは、巨大な電子スクリーンだった。
透明感のあるガラスパネルに、無数の文字と数字が表示されている。
煌びやかなフォントで並ぶ生徒たちの名前。
その横に、整然と刻まれた数値。
赤、青、緑――
数値がリアルタイムで変動し、
まるで株価のように色を変えていく。
スクリーンの下には、小さく書かれた文字。
【インテリジェンス・ファンド】
――生徒知能市場
思わず足が止まった。
(これ……なに?)
息を呑む。
まるで心臓を直に握られたような感覚だった。
その圧倒的な情報量に、
脳が処理を拒否しそうになる。
最上段に表示されていた名前は、ひときわ異彩を放っていた。
【黒川律 8450 I.P.】
桁外れの数値。
他の生徒たちの数値――1000台、2000台――
そんなものが、まるで幼稚な数字に見えるほどだった。
彼の名前だけが、異様な静寂を纏っている。
周囲にいた生徒たちは、
スクリーンを仰ぎ見ながら、小声で何かを囁いていた。
だが、誰一人として、
その順位に挑もうという気配はなかった。
まるで、そこだけは触れてはいけない領域のように。
私は、無意識に一歩後ずさった。
スクリーンの冷たい輝きが、
教室の暖かな光とはまるで違う、
異質なものに思えた。
誰が笑っていても、誰が優しくしていても、
この場所では――
すべてが、数値で裁かれる。
そんな確信めいた予感が、
胸の底を冷たく撫でていった。
そのとき、後ろから声がかかった。
「驚かれましたか?」
振り向くと、担任教師が微笑んで立っていた。
その笑みもまた、
作り物めいて、どこか空虚だった。
私が頷くと、教師は簡潔に言った。
「エデン学園では、すべての生徒の知的価値を、I.P.として数値化しています。
努力すれば上がり、怠れば下がる。
とてもシンプルでしょう?」
淡々とした口調。
だが、そのシンプルさの裏に潜む冷酷さを、
私は肌で感じ取っていた。
(シンプル――それは、言い換えれば、容赦がないということ)
教師は何も言わずに去っていった。
残された私は、
スクリーンの冷たい光を浴びながら、
しばらく、その場から動けなかった。
夜。
窓の外には、星がぽつぽつと瞬き始めていた。
昼間の暖かな光とは違う、
どこか冷たさを孕んだ夜の気配。
寮のラウンジは、静かに賑わっていた。
壁際には長いソファ。
中央には、低いテーブルと大きな観葉植物。
間接照明が柔らかく床を照らしているが、
その光はどこか、影を際立たせていた。
数人の生徒たちが、
PC端末を囲んで小さな輪を作っている。
スクリーンに映るマーケットボード。
そこには、絶えず動く名前と数値。
生徒たちは、それを指さしながら、
くすくすと笑い合っていた。
「うわ、あいつまた下がってる!」
「マジ? もうすぐ500切るんじゃね?」
からかうような、悪びれない声。
その笑い声は、まるで、
誰かの価値が削られていく音と重なって聞こえた。
誰も、そこに悪意を感じていない。
ただの遊び。
ただの話題。
価値が落ちた誰かは、
単なる”ネタ”でしかなかった。
私は、一歩ラウンジに足を踏み入れたところで、
ふと、立ち止まった。
空気が、違う。
ぬるい空調。
笑い声。
マーケットボードに釘付けになっている目。
それらすべてが、
見慣れたはずの”学生寮”という空間を、
どこか別の、異質なものに変えていた。
(ここは――)
背筋を、冷たいものがすっと撫でていく。
私が夢見ていた楽園とは、違う。
ここでは、
誰かの希望も、失敗も、
数値に置き換えられ、
笑いながら消費されていく。
私はそっと、
ラウンジから身を引いた。
誰にも気づかれないように、
影に紛れるように。
床を照らす間接照明の光が、
妙に白く、冷たく感じられた。
静かな廊下を歩く。
革靴が床に触れる音が、異様に大きく響く。
無人の廊下。
規則正しく並んだ部屋の扉。
そこにいるはずの誰もが、
今この瞬間、市場というリングの上で戦っているのだと思った。
競り合い、
蹴落とし、
笑い合いながら。
私は自室の扉を開き、
そっと、深く息を吐いた。
自室に戻ると、
そこは、静寂に包まれていた。
真っ白な壁。
まだ何一つ飾られていないシンプルな空間。
窓の外には、漆黒の夜空。
瞬く星の光だけが、かすかに寮の壁に反射していた。
机の上には、
新品のタブレット端末が静かに置かれていた。
柔らかな起動音。
青白い光が、暗い部屋を淡く照らす。
ログイン画面に、自分の名前が浮かび上がった。
【竹内結月 1000 I.P.】
その数字は、あまりにも無機質だった。
ただの数。
なのに、
胸の奥を鋭く貫いてくる。
(これが……私の、価値?)
思わず指先が震えた。
たったひとつの数値が、
自分自身をすべて計られるかのような、
そんな圧倒的な無力感。
笑顔も、努力も、夢も――
何もかもが、このたった四桁の数字に収束している。
喉の奥に、苦いものがせり上がった。
吐き出したいほどの違和感。
けれど、
私は、目を逸らさなかった。
画面に映る”1000”という数字を、
ただじっと、受け止めた。
(これが、スタートライン)
胸のポケットから、
小さな銀のペンダントを取り出す。
冷たい金属の感触が、
かすかに震える手のひらに伝わった。
兄からもらった、たった一つの形見。
(でもいい。私は、ここで……)
(兄さんの、あの日の答えを――必ず見つける)
私は、ペンダントをそっと胸元に戻し、
タブレットを静かに閉じた。
夜空に浮かぶ星たちは、
何も言わず、
ただ遠くから、
私を見下ろしていた。
その冷たく、孤独な光が、
なぜだか、ほんの少しだけ、
私の心を支えていた。
売買される未来 トマトスコアー @TTTYYY0519
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