エピローグ 春待ちの菓子箱

冬が静かに遠ざかり、町には、ほんのりと春の匂いが漂いはじめていた。


菓子処いろどりの奥では、茜が店の窓を拭いていた。

ガラス越しに、まだ寒さの残る空の下、梅の蕾がほころびかけているのが見える。


ふと、棚の上に並んだ菓子箱に目をやる。

桜餅、草餅、柏餅、水羊羹、葛饅頭──。

季節をめぐるたびに、そのときどきの甘さが、そっと詰められてきた。


誰かが笑った日も、涙をこぼした日も。

やり直した日も、別れた日も。

小さな和菓子が、そっと寄り添っていた。


茜は、店の奥にある一冊のノートを手に取った。

宗次から引き継いだ、いろどりの記録帳。

そこには、作った菓子の名前だけでなく、

それを手にした人たちの小さな物語も、ぽつりぽつりと書き留められていた。


──桜の咲く日に、勇気を出して歩き出した少女。

──草の匂いのなかで、笑い合った小さな子どもたち。

──灯台の上で、柿の甘さをかみしめた少年。


茜は、ページをめくりながら、ふっと笑った。


この町の四季は、いつだって少しずつ、でも確かに、誰かの背中を押している。


そして、また春がめぐる。


彼女は、窓を開けた。

冷たい風のなかに、やわらかな光が混じっていた。


「──さあ、新しい菓子を作ろう」


小さな声でそう呟いて、茜は新しい白紙のページを開いた。


そこにはまだ何も書かれていない。

けれど、これからきっと、

また誰かの季節を包む、甘くて小さな物語が生まれるのだ。


風に乗って、どこかで春一番の匂いがした。


そして、菓子処いろどりの暖簾が、やさしく揺れた。

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【PV 172 回】「四季いろの菓子箱」 Algo Lighter アルゴライター @Algo_Lighter

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