ただ、持ち主の元へ

広川朔二

ただ、持ち主の元へ

東の空が白み始めた朝方、柔らかな光が住宅街を照らし始めている。主人公・佐伯誠は、今日もジョギングシューズの紐をしっかりと結び、玄関を後にした。


公立中学校の教師をして十五年。生徒の素行や親の対応に頭を抱える日々の中、彼にとってこの日課は心のバランスを保つための大切な儀式だった。走ることで、少しでも教壇での苛立ちや無力感を汗と一緒に流す──そんな習慣が、いつしか欠かせないものになっていた。


決まったルート。決まった時間。すれ違う犬の散歩、路地裏の自販機、コンビニの明かり、すべてが規則正しい。


しかしある日、その流れに“異物”が混じり込んだ。


それは、最初はただの違和感だった。住宅と住宅の間にある交差点。そこに広がる生垣の下に、見慣れない黒い染みと、紙屑のようなものが散らばっていた。


「あれ、昨日までは……?」


気になって足を止め、しゃがんで見てみれば、乾きかけたコンビニ弁当の容器にタバコの吸い殻、潰れた空き缶。明らかに人為的なごみの山だった。風で飛んできたのではない。意図的に“捨てられた”ものだと、即座にわかった。


その翌日。やはり同じ場所に、似たようなごみがあった。そして、その少し手前に──黒の高級外車が、道端に止まっていた。


ぬるりとした光沢をまとったその車体には、埃一つない。運転席の窓が半分開き、何かを丸めた手が、無造作に外へ突き出されていた。


白く細長いものが宙を描いて、ふわりと生垣の中へ落ちる。


佐伯は思わず、車を凝視した。ナンバーは、末尾が「88」。やけに目につく数字だ。運転席の男は、佐伯と同じくらいの年齢か。整えられた髪型に、シンプルながら高そうなジャケット。表情は見えないが、顔立ちはよく整っていた。一見すれば極々普通、いやどちらかと言えば上品な佇まいの男。


(……なんで、そんなやつが、ごみを捨てるんだ?ポイ捨てがよくないことなんてわかっているだろうに)


心の中で思った。けれど、言葉にはならなかった。教師という立場は、日頃から「冷静であれ」「模範であれ」と内側から縛ってくる。こういう時こそ声を上げるべきだと、頭では分かっていても、体が動かない。


結局その日は、いつものようにジョギングを続けた。心に薄く染み込むような不快感だけを残して。


それからというもの、彼は毎日のようにその車を見かけるようになった。車種もナンバーも、すっかり脳裏に焼き付いていた。


そして、決まってごみは落ちていた。


ポイ捨ては、まるで習慣の一部のように繰り返された。佐伯のように、日々のジョギングが生活の支えになっている人間もいれば──誰かの生活を平気で汚す人間もいる。


自分は、それをただ見ていることしかできないのか。そう思いながら、今日も彼は走っていた。





ごみは相変わらず、同じ場所に捨てられていた。生垣の根元に散乱する吸い殻、コンビニの袋、空の缶コーヒー。週を追うごとに、捨てられる量も雑さも増していた。


佐伯は走るたびに目を伏せた。が、意識は逆に、否応なくそこへ吸い寄せられる。あの黒い高級車。末尾88のナンバー。彼の脳内には、すでに詳細な情報の断片が幾つも貼りついていた。


(車体はレクサス。ナンバーは……)

(運転手は30代後半から40代前半。平日の朝方、いつも同じ時間帯)

(ジャケットはブランドもの)


教師という職業柄か、無意識に「観察」してしまう癖がある。だが、それが今はただの“記録”ではなく、“怒りの燃料”となっていた。


そんなある日、大学時代の友人・森田から連絡があった。


「家買ったんだよ。お前ん家の結構近くなんだ。今度来いよ。新築でさ、けっこういいとこだぜ」


久しぶりの再会に、佐伯は小さな祝いの品を携え、案内された新興住宅地を訪れた。区画整理されたばかりの地域で、真新しい家々が並ぶ。整った歩道、白い外壁。生活感はまだ薄く、まるでモデルルームのような町並みだ。


そして──佐伯の足が、ある一点で止まった。


視界の先に、黒のレクサスが停まっていた。淡く反射する車体、少し開いた運転席の窓。あのときと、まったく同じ状態。全身の毛穴が開いたような感覚とともに、心臓が激しく鼓動を打つ。


(間違いない……あの車だ)


 信号も標識もない、ただの静かな交差点。だが、佐伯の中ではサイレンが鳴っていた。


車の停まる家の表札を、彼は無意識に凝視していた。「岸本」とあった。岸本家。……記憶に刻まれた。


そして手元のスマートフォンが示した目的地、森田の家は──その“はす向かいだった”。家に到着した佐伯は、さりげなく話題を振った。


「はす向かいの家……レクサス停まってたな」


森田は鼻を鳴らすように笑った。


「んー、あそこな。なんか上場企業の部長かなんからしいよ。挨拶ん時、やたら職業でマウント取ってくるタイプでさ。家の値段とか、ローンとか、いちいち詮索してくるのよ。まぁ、近所付き合いはあんまり期待できなさそうだな」


──企業名も聞いた。

──名字も表札で確認済み。

──そして、現場の目撃。


まるでパズルが完成していくように、佐伯の中で“ポイ捨て男”の輪郭が濃くなっていく。


それからの日々、佐伯は夜な夜なパソコンを前に調べものをするようになった。最初は勤務先の企業のホームページ。大企業なので数百ページにも及ぶウェブサイトがあったが、そのなかに岸本という名前を発見。部署名と顔写真までたどり着いた。


そこから始まった情報収集はいつの間にか、本人のフルネーム、勤務先のビルの場所、奥さんの名前、そして彼女の勤め先へと及んだ。


(これだけの情報が……ただ、歩いて、見て、調べるだけで揃ってしまうのか)


恐ろしいのは相手ではない。情報社会そのものでもない。それを手に入れることを、何のためらいもなく行っている自分自身だった。


そしていつものように、またあの現場に遭遇した。黒いレクサスが道端に停まり、窓が開く。白い手が伸び、火の消えた吸い殻が放られる。


──その瞬間、佐伯の中で、何かが“切れた”。


「やるしかない」


口に出した瞬間、自分の声に驚いた。だがもう、佐伯の中には迷いはなかった。


教師という職業柄、“公”の人間として生きてきた。多少の理不尽にも、静かにやり過ごすのが「正解」だと思っていた。だが、それは“なにも変えない選択肢”でもある──と、ようやく悟った。


まず、佐伯はあの交差点のごみを一つ残らず丁寧に回収した。コンビニの容器、吸い殻、潰れた缶、割れたライター。マスクと手袋でしっかりと封じながら、段ボール箱へと詰めていく。


次に、ジョギング中にスマートフォンで何度も撮影していた「ポイ捨て現場」の動画を整理した。ナンバープレート、顔の一部、捨てる瞬間の手元──どれも断片的だが、繋ぎ合わせれば“誰が、何をしていたか”は十分に伝わる。


そして、佐伯は匿名掲示板の「代行バイト募集」スレッドに投稿した。


> 【急募】荷物の発送代行してくれる方

> 内容:指定された宛先に、こちらから送る荷物を発送していただくだけです。

> 報酬:1件五千円+送料実費(後払い保証)

> ※身分証不要、完全匿名。荷物に違法性なし。興味ある方DMください。


ほどなくして、何人かの応募者が集まった。個人間のやり取りで住所を受け取り、郵送で段ボールを送り、そこから「代行発送」させる。佐伯の名前や住所が表に出ることはない。


第一弾──送り先は、岸本の自宅。


宛名は本人名義。中には、ごみの現物と写真、そして一枚の紙を同封した。

「このごみの送り主は、あなたですか?」

それだけの、簡素なメッセージ。


しかし数日後──岸本のポイ捨ては、変わらず行われていた。


(ああ、そういうタイプか……)


何をされたかより、「誰にされたか」を重視するタイプ。匿名の指摘なんて、“虫の鳴き声”程度にしか思わない。自分の社会的地位が脅かされるまでは、何も感じないのだろう。


佐伯は、次の手に出た。


第二弾──送り先は二箇所。岸本の勤務先、そして、妻の勤務先。


調べ上げたビルの住所、部署名、担当フロアまで把握していた。それぞれの宛名に合わせて丁寧に封筒を用意し、中には例の写真と、ポイ捨て行為が記録された日時と場所を詳細に記した文書を添えた。


> 「社員教育の一環として、御社がどのような対応を取るのか注目しています」


送り主の名前は記さなかった。ただ、送り元には「市民監視団体」のような架空の名を使い、真っ白な封筒に淡々と宛先だけをタイプ印刷した。


さらに数日後、佐伯は最後の一手を打った。


第三弾──あの新興住宅地、全戸ポスティング。


ごみを捨てる瞬間の連続写真。ナンバープレート。捨てられた吸い殻の山。そして最後に、控えめな一文を添えて印刷した。


> 「このように街を汚す人間がこの近くに住んでいることをご存じですか?」


夜明け前、顔を隠しながら数十件のポストに投函して回った。誰にも見つかることはなかった。


その後、佐伯は変わらぬジョギングを続けた。


しかし、あの黒のレクサスを見ることはもうなかった。交差点の生垣も、ごみ一つなく、風だけが吹き抜けていた。


静けさの中に残るのは、妙な虚無感と、かすかな達成感。佐伯はその両方を胸に、走る足を止めなかった。





風が涼しくなってきた。秋の入り口を知らせるように、街路樹の葉が色づき始めている。


あの交差点の生垣には、もうゴミはない。吸い殻も、空き缶も、コンビニ袋も──すっかり姿を消した。


「やっと……戻ったな」


佐伯はゆっくりと呼吸を整え、胸の内でそう呟いた。ジョギングのコースを変えることはなかった。むしろ、毎日あの交差点を通るたびに、今の平穏がいかに異常だったかを改めて感じていた。


岸本の車の姿は、ぱたりと見かけなくなった。


ある日、森田に会う機会があった。佐伯はごく自然な顔で、近況を尋ねた。


「そういえば、近所づきあいが期待できないって言ってたはす向かいの家とはどう?」


森田は少しだけ声を潜めて言った。


「いやー、なんかさ、ポイ捨ての常習犯だったとかでさ。この辺りにその写真が配られて…。事情通のご近所さんに聞いたら、旦那と奥さん、両方の会社にご丁寧に梱包されたゴミが送られてきたとかで、会社でもちょっと問題になったらしいぜ。噂だけど出世コース外されて、地方の関連会社に異動になったとか。で、奥さんの方は地元の会社だったから居づらくなって辞めたらしいよ。いつの間にか引っ越しちゃってさ」


「へぇ、そうなんだ」


佐伯は、あくまで興味なさげに返事をした。だが心の中では、小さく頷いていた。


それからしばらく、特に変わったこともなく、日々は過ぎていった。


そして──ある日のことだった。


学校の職員室で、同僚教師が何気なく口にした。


「最近、この辺に越してきた人いるらしくてさ。……黒の車乗ってるらしいんだけど」


佐伯の手が、書類の上でぴたりと止まった。


「なんか、運転マナー悪いって噂でね。昨日も校門前にポイ捨てされてて、うちの生徒が拾って職員室まで報告にきたの。生徒が注意したら、クラクション鳴らして逃げたって」


心臓の奥が、またドクンと跳ねた。


「その車……ナンバー、末尾88だったかな? なんかそういうナンバーって縁起担いでるって話も聞いたけど、ごみのポイ捨てなんてしてたらご利益なさそうだよね」


佐伯は静かに立ち上がり、窓の外を見た。校門前の通りは、秋の光に照らされて、平穏そのものだった。


だが、その穏やかさの奥に──再び忍び寄る黒い影が、確かに存在していた。


(……また、始めるか?)


佐伯は、わずかに唇を引き締めた。静寂を取り戻すには、常に“目”が必要なのかもしれない。それが教師としての役割であれ、市民としての本能であれ。



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