異世界リスキリング 33歳休職中の私がマネジメント覚醒するまで

@nijiclip1

第1話 私のキャリア終わってね?

「久しぶりに会った友人は、私とは異世界の住人に感じられた」


暖簾をくぐると、休職する前と変わらない小さな居酒屋のカウンター席が目に入った。向かいに座る同期の親友・三浦は、顔をくしゃりと崩してビールジョッキを掲げる。


「久しぶり。元気にしてた?」


声は軽やかで、店内のざわめきに溶け込んでいる。三浦を含めて周囲にいるのはYシャツ姿の会社員ばかり。Tシャツにジーンズ姿の牛鳴坂ルリは明らかに浮いている。当然だ。ここはルリたちが勤める会社にほど近いオフィス街なのだから。

同僚や上司に会わないだろうか。せめて場所を変えてもらうべきだった。ルリは早くも三浦の誘いに乗ったことを後悔していた。



「うん、まあね」

本当のことなど言えない。毎朝、布団から這い出るのに1時間半かけている。夜は泥酔しなければ寝られない。キッチンのシンクはビールの空き缶で埋め尽くされ、少しでも触ると小蝿が飛び出す。大学時代から12年付き合った彼氏は「別れよう」と言ったきり一ヶ月以上LINEの返信をよこさない。貯金は20万580円。言ったところで三浦を困らせるだけだ。


いつまで経っても三浦は休職の話題に触れなかった。部下が結婚したこと、同期が業界の賞を受賞したこと、夫が海外赴任したこと、自身は女性初の課長に抜擢されたこと。他愛もない近況報告のはずだ。しかしルリにはどれも眩しすぎた。「うん」「すごいじゃん」「ルリも頑張らないとなあ」。ルリの相槌のレパートリーはすぐに尽きてしまい、気まずい沈黙が流れた。


(昔は延々と居酒屋を梯子しても話題が尽きることはなかったのに。一緒に何度合コンしただろう。どうしてだろう。相手が変わってしまったんだろうか。私が変わらなさすぎたんだろうか)


「ねえ、うちの子、この前初めて運動会に出たんだよ!」。三浦がスマホをひょいと差し出し、青い帽子を被った女児の写真を見せた。


(子供の話なんて、独身の私に言われても困るんだけど。デリカシーなさすぎる)。心の中でルリは舌打ちした。

無理やり口角を上げ、「かわいいね」とだけ返す。女児の半開きの口、ボサボサの髪と眉、整形をしていない不揃いな両目。努力をしなくても誰かに愛される存在。ぴかぴかの金メダルやキャラクターものの運動靴がキラキラして見えた。私にはもう絶対到達できない世界だと感じた。


「それでさ、ルリは最近何してるんだっけ」。ルリの苛立ちが伝わったのだろうか、話題を変えようとする三浦の声はそれでも柔らかい。

「うん……。先月かな。あの、箱根に」

旅行なんて行っていない。行きたいとも思えない。けれど「行った」と言わなきゃ、惨めでここにいられない気がした。


(休職し始めてから半年、私は本当に何もしていない。ただ起きて、コンビニに行き、カロリーと水分を摂取して、寝る。たまに履歴書を書いては自分のキャリアの空っぽさに絶望するだけだ)。


【職歴】

2015年、A社総務部

16年、管理部

19年、営業事務

24年、営業


【資格】

普通運転免許(AT)

日商簿記3級

英検準二級


(会社で何も積み上げていない。履歴書を見ただけでわかる。同期の中には10人の部下がいる課長もいるが、一人たりともいない。マネジメント経験ゼロだ。特殊な技能もない。何かを変えたいと自ら志望した営業の仕事も、1年ももたなかった。資格だって今時の大学生ならよほどマシなものを持っているだろう)。

そんなことを考えながら、ルリは嘘の旅行の思い出を絞り出した。口にすればするほど、のどの奥がきしむ。三浦は満足そうに頷き、「リフレッシュできたならよかった」と笑った。


「そろそろ帰ろうか」


三浦もついに話題が尽きたらしい。会計はルリトイレに行っている隙に済ませたらしい。三浦はよく後輩に奢っているのだろう。同期に奢られている自分が惨めだった。胸が苦しくなり、ルリは「ちょっとトイレ…」と言い残して席を立った。店の奥へ続く廊下を抜けると、冷えた空気に思わず肩をすくめてしまう。トイレの鏡に映る自分は、目の下にくっきり黒い隈を作り、肌は土気色。ホクロからはうっすら2本の毛が生えていた。

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