朝陽の少年
みつぼし
第1話
「もうちょっと叩けないの?」
陽介は見積書を出す入社三年目の大原に座ったまま、見上げるようにして言う。
「いや、工場もそれが限界だって・・」
はあ。大きくため息をつく。
「そりゃできるだけ利益確保したんだからそう言うって。ここで引いたら他社との競札に勝てないよ。いいや、俺が連絡する」
見積書を雑に突っ返すと部下は小さく頭を下げて自分の席に戻っていく。
陽介は今年度から第二営業グループのリーダーになった。会社の規模を考えたら、34歳という年齢でのこの役職は大抜擢だった。自分のやり方が評価されたからこその人事だと、任命されたときは自分を肯定された気がした。
「でかい物件が次来るんでここで勝っときたいんですよ。今回は値を下げることで恩を売るというかね。端数切るくらいじゃ勝てないんですよ」
電話の相手はうーんと唸る。
「社長。おたくとも付き合い長いと思いますが、そんなに渋られちゃ別の安いとこ探すしかなくなっちゃうんですよ。私個人としてはそんなことになってほしくないんですよね」
陽介はわざとらしく猫なで声を出す。そんな問答がしばらく続き、電話を切ると大原を呼ぶ。肩をすぼめ、小さく陽介の前に立つ。
「いいか、相手は下請けで、工場としてもそんなに大きなところじゃない。強く出ていいんだよ。向こうからしたらうちは大きな取引先だ。でも、こっちからしたら外注先の一つでしかない。バンバン叩かないと、数字上がってかないから。結局、五十万マイナスで飲んだよ。な、向こうも駆け引きしてるんだよ。若いからってなめられんな」
「すいません。なんか、工場行くたび社長とも仲良くなって、それで強く出にくくて」
声がだんだん小さくなる。大原は陽介がリーダーになる前からの先輩と後輩関係だった。頭は切れるし、客先からも可愛がられやすいが、どうにも情が強すぎる。
「あのな、よく聞け。俺たちは仕事をやってんだ。取引先相手と和気藹々、仲良しこよしでやるのは表面だけだ。向こうだって、強かにお前を懐柔しようとしてんだぞ。実際強く出られなくなってるし。意味ないことすんな、時間がもったいない」
陽介は言い終わるともう大原のことを見ていない。パソコンから出る電子的な光を見つめ目を細める。大原はまたも小さく会釈すると、自分の席に戻っていった。
「この後、客先のとこに顔出して直帰するけど、その前に要件をあるやついる?」
陽介のいる第二グループには、十人ほどいる。全て陽介より年下だった。リーダーにするから若い奴を鍛えてくれ、これが上司から陽介に課された使命だった。
「あ、大原。お前も一緒に行くぞ。打ち合わせのあと接待だから」
誰も返事がないところで、陽介は大原にだけ声をかける。
「え、自分っすか?」
「ここの客先、そのうちお前に引き継ぐから、顔売っておけ」
はあ。と煮え切らない返事とは裏腹に、陽介から言われればすぐにパソコンを閉じていそいそと外出の準備をする。こいつのこういうところが気にいっている。
歩いて駅まで向かう、時間は16時半。打ち合わせというのは名目で、接待が本来の目的だった。
「あれ、田村さん。あれ見てください。懐かしくないですか?」
大原がとぼけたような声を出して指をさす方向には公園があった。何を今になって公園が懐かしいとか言っているんだと思い、曖昧な返事をする。
「自分もよく小学校の時ああやって一人で練習してましたよー」
興味がない陽介に気づいていないのか、一人で公園の方を見ながら笑っている。大原はマイペースだが、なぜか憎めないところがある。うまく使えば営業としてはすごい武器になると陽介は見込んでいる。
「おい、いいからほら、遅れてるぞ」
だらだらと歩く大原を注意しながら、陽介は公園に目を向けた。公園には、様々な遊具で遊んでいる子どもたちがいる。幼児くらいの子どもたちは砂場で遊び、その横には母親たちが談笑している。小学生がゲーム機を持って集まっている。今更こんな光景に懐かしさを感じることはない。
「いやいや、田村さん、あそこ見てくださいよ。一人で黙々と練習しているなんて、いじらしいじゃないですか」
なかなか歩を早めない大原にいらつきながら、再度公園を振り返る。鉄棒のところに、小学四年生くらいだろうか、ぶら下がって一人で淡々と身体を揺らしている。
「足を止めるまでもないって。よくある光景だろ。ほら、行くぞ」
えー、懐かしいじゃないですかぁ。陽介は語尾を伸ばしながら言う大原を引き離すように先へ進んでいく。大原は新入社員の頃から面倒を見ているが不思議なやつだ。飄々としているが、人の懐に入るのがうまい。何より、異常なまでの合理主義的な考えの陽介のことを怖がっていない唯一の後輩だった。それもあって、陽介は大原のことを自分とは違うタイプではあるけれど、大成すると思って目をかけている。
「今日の客、お前みたいなタイプ好きだからうまくやれよ。ちなみに、俺は二次会から先は行かないから。領収書切っていいから最後まで付き合えよ。んで、明日の朝イチで電話してお礼忘れずにな」
飲み会では、陽介の予想通り大原は大いに気に入られた。酒も強い大原は、潰れたり不用意な失態をすることもない。大原の一番気に入っているところは、自分の役割をわかっているところだった。とぼけているようで、今自分が何をすればいいのかをよくわかっている。
「では、私はこれで失礼します。大原をよろしくお願いしますよ、課長!」
「え、田村さんもう帰っちゃうの?寂しいなー」
顔を紅潮させ、にこやかに言う姿を見て、すかさず大原が動く。
「うちの田村は付き合い悪いですが、僕はどこまでもいけます。ここら辺でいい飲み屋知ってるんで、任せてください」
大原はこちらちらと見ながら、敬礼のポーズをしておどけている。取引先の課長は気をよくして、大原と肩を組んだ。それを見て、陽介はひっそりと帰路に着く。
もう大丈夫だ。一人であそこの客任せられる。これ以上自分が行くのは無駄な仕事、あとは大原に任せておけばいい。若い時から可愛がってもらっていたが、リーダーという肩書きがついてから何かと警戒されるように感じていた客先だ。大原のような、まだ擦れていない若手に任せるのが一番だと判断した。
近頃、接待で飲んでも一切酔えない日々が続いている。相手を楽しませながらも必ず次の仕事に繋げた。落とせそうなところにだけ、金を使った。ただの飲み会をしたのはいつだろう。社内での飲み会は、無駄にしか思えず参加していない。行ってもどうせ、会社の愚痴とか、誰かの悪口とか、そんなくだらないことで時間を浪費するだけだ。今日も酩酊の心地よさはない。
通勤時間を短くしたくて、会社の近くに住んでいる陽介だが、朝は早い。静かに仕事できる時間を大事にしたかった。それはどれだけ飲んだ次の日でも同じだった。
公園の前を通った時、澄んだ空気に陽の光がキラキラと煌めき、ひどく綺麗に見えた。普段ならそんなこと気にならないのに、昨日大原が公園のことを言っていたからだろうか。
そんな白い光の中、一人で鉄棒にぶら下がっている少年がいた。少年は鉄棒を練習しているというよりかは、ただぶら下がったり、身体を揺らして跳んだりしているだけだった。
(あれじゃあ逆上がりもできるようにならない。こんな朝早くから一人でやってるのに、時間を無駄にして、親は教えてやらないのか)
そんなふうに思いながら、通り過ぎていたが、景色とともに陽介の意識からもすぐに通り過ぎていく。
「おはようございます。二時まで行きましたよ。なんか最後はおねぇちゃんいる店連れてきましたけど、これ経費で落ちるんすか?」
大原の目は充血している。寝不足だろう。
「うまく使われたな。これは俺がなんとかする。まぁ次回からはいいタイミングで切り上げることも学ぶんだな。今日一本電話入れとけよ」
大原は軽く了解っすというと領収書を残して自分の席に戻って行った。席に戻り大きなあくびを一つすると、早速電話をかけている。
「橋本、ちょっといいか」
「はい?」
急に呼ばれた橋本と呼ばれる入社6年目の社員は、おどおどしながら陽介の前に立った。
「この報告書さ、二日連続で下請けの工場行ってるけどなんで?その割に客先のところには全然行ってないみたいだけど。理由は?」
橋本の目はキョロキョロと動いて定まらない。
「それは、検査があって。製品の検査にメーカーであるうちも立ち会わなければならなくて・・」
「じゃあ、検査で行ったのにこの領収書出してきたのか?」
出されたのは、海鮮定食屋の領収書だった。橋本含め、四人分の昼食代だ。
「いや、一日目は向こうに出してもらったので、次はうちかと・・・」
陽介は村田の不安そうな目をじっと見据える。
「俺は基本的にはお前らの行動を制約しない。ただ、その分無駄なことはするなって言ってるよな?それが金にならない時、または金を使う時はなおさらだ。お遊びじゃないんだ、金もらってやってる仕事なんだ。六年も営業やっててそれじゃあ困るんだよ」
すいませんと肩を大きく落とす橋本を見てはぁと溜息をつく。
「戻っていい。次から気をつけてくれ」
「はい、あのその領収書は・・」
陽介はもう一度大きなため息をつく。
「いいよ、今回はこっちでなんとかするから」
橋本はトボトボと席に戻ると、こそこそと隣の席、前の席の同僚が話しかけているのが見える。そんな光景に目を背けながら、ホワイトボードに外勤の予定を書き込む。
駅に向かいながら、頭の中で打ち合わせの内容を思い浮かべ、ボソボソと口を動かす。公園に通りかかると、騒がしく遠慮のない声がいくつも聞こえてくる。何の気になしに鉄棒を見るが、そこだけ切り取られたように静かだった。
朝の六時半。わかってる。ここで鉄棒のレクチャーなんてしたら完全に不審者だ。けど、もどかしい。毎日毎日無駄な練習を続ける少年を見ていられない。関係ないのは、わかってる。
ちょっと遠くからコツを教えるだけ。今でこそスポーツはしていないが、学生の頃はテニス部の部長までやった。運動にはそれなりの自信があった。自動販売機で缶コーヒーを買って、鉄棒近くのベンチに座る。
こちらを気にする様子はなかった。近くで見ると余計に意味がわからなかった。片手でぶら下がったり、両手で支えて身体を揺らしたらと思ったら鉄棒を握って擦るように感触を確かめている。何やってるんだ。せっかく朝早く起きて練習しているのに。
「おじさん、それおいしいの?」
あまりにも急に話しかけられて、陽介は一瞬どこから声が聞こえてきているのかわからなかった。
「大人ってさ、いっつもコーヒー飲んでるけど俺にはさっぱりおいしさがわからないんだよねー」
さっきまで会話をしていて、トイレにでも行って戻ってそのまままた話し始めたかのような自然さだった。驚きながらも、大人としてうろたえるわけにはいかない。
「おいしいよ、味がっていうより風味なんだろうな。あとはかっこつけるために飲んでるだけの大人もいるよ」
「やっぱり!」
少年は鉄棒にぶら下がりながら嬉しそうな表情を見せた。
「君は、いつも朝ここにいるけどなんの練習をしてるの?」
「え、あー別に練習とかはしてないよ。ただ鉄棒にぶら下がってるだけ」
少年は身体をぶらぶらさせている、
「ぶら下がっているだけ?健康にいいとか、筋トレしてるとか、そういうこと?」
「いや?別に。まだ俺四年生だし。ただぶら下がったりしてるだけ」
それを聞いて陽介は言葉を詰まらせる。
「え?学校行く前にわざわざ朝早く起きて、それだけ?」
少年はムッとするような表情を見せる。
「わざわざって、失礼だねおじさん。学校終わってから来ることもあるけど朝って、静かじゃん?陽が上がってすぐでまだ空気が疲れてないっていうか」
「なんでそんなことしてるの?」
少年はぶらぶらと身体を揺らし続けているる。
「なんでって、うーん、楽しいから?気持ち良いから?」
今初めて考えた、というような顔をしている。その後もうーんと唸りながら頭をぐるぐる回している。
「あ、そろそろ朝ごはんの時間だ!」
突然思い立ったように鉄棒から手を離した。時計も見てないのに、どうしてわかるのだろう。
「またね、おじさん」
ああ。と小さく手を挙げる陽介を少し振り返りながら、大きく手を振って駆けていく。結婚もしていなければ子どもいない陽介にとって、最近の子どもの流行りなどはわからない。もしかしたら、こういう遊びが流行ってるのかもしれない。
ハッとし時計を見る。時間を潰しすぎた。
「田村、ちょっと」
朝、陽介しかいない職場に矢崎がやってきた。矢崎は陽介の上司だ。入社した時からの付き合いで、グループリーダーに引き上げてくれたのも彼だった。
「どういうことですか?」
会議室と書かれた小さな部屋。ちょっとした打ち合わせや、内密な電話をすることに使われるこの部屋で陽介の顔が曇る。
「いやな、まぁ言いにくいんだが要はクレームだよ。パワハラされてるって」
自分のグループの面々を頭に浮かべる。
「橋本ですか?」
先日の領収書の件で詰めた時かもしれない。
「個人名を伝えることはできない」
矢崎は田村、と呼び、座り直して身体を前かがみにする。
「お前のことは評価してるし、確かに俺は若いやつらを鍛えてくれてと言った。けどな、パワハラまがいのことまでしろとは言ってない。それで若いやつが辞められたり、最悪訴えられたりしたらそれこそ無駄な金と時間だ。お前にだって損しかないぞ。評価を焦るのはわかるが、もう少し穏便にやれ」
陽介の性格を熟知している矢崎は、陽介が反論できない言葉を使った。
「・・・わかりました。矢崎さんには、恩もあります。言いたいことは色々ありますが、今後は気をつけます」
声を震わせながら言う陽介に、矢崎は立ち上がって肩を軽く叩いた。同じように立ち上がり失礼しますと言って先に部屋から出ようとした時、最後に。と呼び止められる。
「下請け工場をいじめるのもほどほどにな。下請法もあるし、切られて困るのはこっちもだ。新しく探さなきゃならないし、その間は製作も止まる」
そう言うと、矢崎は先に部屋を出た陽介を追い越していった。
納得できない。部下にきついことを言うのはその必要があるからだ。仲良しこよしで金が稼げるんだったらそれでいいが、現実はそんなに甘くない。しかも、部下が回してくる上にあげられない領収書はいつもうまいこと陽介が処理している。自腹を切る時だってかなりある。それが上司の役目だと思うから。工場にだって、いつも安くしてもらってばかりではない。儲かった時など、リスクをおかして周りにはバレないように少なからずキックバックしている。その度に社長などからは、またお願いしますと頭を下げられる。
重くなった足を引き摺るように事務所に戻ると、大体のメンバーが出勤しており、口々に挨拶をした。その中に橋本もいる。いつもと変わらぬ顔で、パソコンに向かっている。
「田村さん、おざっす。ここなんすけど、一緒に行ってもらってもいいですかね?」
席に着くなり大原は、陽介の手に一枚の紙を渡した。
「なんだ、上司が一緒に行くばっかじゃ担当が不甲斐ないって思われるぞ」
言いながら書類に目を通す。見ると今まで見たことない会社名が書かれている。詳細を確認する前に顔を上げる。
「新しい製作工場です。前客のところ行ったときに紹介してもらって、ここならうちの製品請け負ってもらえるんじゃないかって。似たような工業製品作ってるらしくて。ほら、もう一つくらいあればなって言ってたでしょ」
大原の顔を見る。澄ました顔だが、してやったり、という顔はしない。陽介は奥歯をグッと噛み合わせて頬の緩みを抑えた。
「なるほどな。それで、上司も連れて挨拶行きたいと。いいだろう、行くか」
「あざっす。早い方がいいと思うんで、明日でアポ取りますね」
そそくさと自席に戻り、電話をかける大原と、その周りを見比べる。橋本がちょうど大きなあくびをしたところだった。
朝から出張のときは、残務処理のためいつもよりもさらに早く会社に向かう。晴れ渡り、朝焼けが目に染みる景色とは対照的に昨日のことを思うと心が重くなる。
自分は間違っていない。結果を出してきた自負もある。パワハラ。この言葉が胸に刺さった。入社当時、矢崎に怒鳴られたことや遅くまで残されたこともある。しかし、矢崎には正当性があり考え方が合理的だったため、自分の実力がなく仕方ないと思っていた。
ただ、叱責の際に怒鳴ったところでなんの意味もないことをそこで学んだのだ。その矢崎からパワハラまがいはやめろと言われた。
部下と馴れ合うつもりもない。好かれようとも思っていない。しかし、仕事をスムーズに進めるためには部下を気遣うし、理不尽な要求はしない。付かず離れず、最後には責任を取る。それが上司の仕事だと思っているし、リーダーになってから体現してきたつもりだ。
ため息が音もなく、虚しく空に溶けていく。
「あ、おじさんだ。前よりも早いね」
後ろからかけられた幼い声に振り返る。気づいたら公園の前にいた。少年は今から公園に行くのだろう。
「おはよう。そっちこそいつも早いな。また鉄棒?」
少年はニッと口角を上げる。
「そうだよ。今のブームはね。あ、気になるならおじさんも一緒にやってみる?」
「え?」
突然の提案に情けない声が出る。
「いこ!」
こちらの返答を待たずに走り出す少年の背中を目が追う。陽介は腕時計を見て、少し逡巡した後その背中を追った。
自分は一体何をしているんだろうか。
「ほら、おじさんこっちのでやってみなよ」
指さされたのは、少年が使っている鉄棒よりも数段高いものだった。陽介は腰を上げる。
スーツを着ているので、汚したくないしあまり大きな動きもしたくない。しかし、子供の誘いを無下に断ることもできない。
「わかったわかった」
錆びて黄土色になった鉄の棒をつかむ。
こんなにも細かったっけ。遠い記憶と結びつけながら強く握る。握った両手を左右に滑らせる。幾度ともなく握られて錆もならされているその滑らかな感触に思わず頬が緩む。
「おじさん、どうしたの?こわいの?」
「あぁ、ごめん。怖くなんてないよ」
グッと両手に力を入れる。足が重力に逆らうように地面から離れる。ぶら下がると、思っている以上に身体を支えるのが大変だった。少年のようにぶらぶら揺れることはできない。
揺れている風にからだをくねらせるのが精一杯だった。十秒もしないうちに、足が地面に着く。横では少年がぶらぶらと身体を大きく揺らしている。まるで風の力に抵抗することなく干されている洗濯物のように。
もう一度鉄棒を握る。今度は助走をつけてみる。さっきよりも大きく前後に揺れる。身体は重く、すぐに手を離してしまった。
「おじさん、どう?」
ぶらぶらと揺れるまだ幼さが色濃く残る顔がこちらを向いている。
「そうだなぁ。手も腕も痛いな」
自分の身体を支えていた感触を確かめるように、手を握りは開きを繰り返す。
「慣れれば痛く無くなるよ」
握力を失った手を見ながら、そうかぁ。と息を吐く。
「誘ってくれてありがとう。おじさんはこれから仕事だから、もう行くな」
「大人は大変だね」
まだぶら下がっている。最後にもう一度だけ鉄棒を握り、その場を離れた。
「なかなか好印象だったんじゃないか?設備も揃っていたし、すぐにでも仕事欲しいって感じだったよな」
「田村さんがいてくれたおかげっすよ」
出張先からの帰りの新幹線、横に並んだ大原はポテトチップスを指に挟みながら答える。
「いや、たいしたもんだよお前は。あそこの担当、お前に任せるから。あとは頼んだぞ」
「あぁい」
バリバリと音をさせながら、小さくうなずく。
「じゃあ、今のうちにお礼のメールとプレ的に依頼する製品の詳細作るか」
大原は返事する代わりにパソコンを出した。座席前のテーブルを下げ電源を付ける。口を大きく開けてあくびする大原を見て、軽く小突く。
橋本のことで何か聞いてないか聞こうと思ったが、そんなことを気にするのは時間の無駄だと思い、頭の片隅に追いやった。今はそれどころじゃない。
「は?辞める?」
矢崎とも使った小さな会議室。陽介の声が高く響く。
「お前、何言ってるかわかってんのか?」
「わかってます。ただ、自分はもう田村さんのやり方にはついていけないです。次も決まってます」
目の前の部下は陽介の目をまっすぐ見つめる。
「ちょっと待てよ。お前は今まで俺についてきてくれたじゃないか。なんでいきなり」
「いきなりじゃないです。矢崎さんにも相談してました。田村さんには感謝してますが、自分がどんどん人間味を失くしていくようで嫌なんです。元々人と関わるのが好きで営業やっているのに、人をだますようなことばかりして、合理的に、効率的にって、金のためならって。初めての客との飲み会も遅くまで一人で行かされたり、身体もしんどいんです」
言葉が出ない。特別目をかけて、大原のことは特別可愛がっていたつもりだった。
「新しい製作工場も見つけましたよね。自分の最後の仕事はそれで終わりだと思っています。元々使っていた下請けの工場、もううちとは終わりにしたいって。他の受け先も見つけているみたいです。辞めるって伝えたら教えてくれました」
「なんでそんな・・」
言葉を詰まらせる陽介を前に、大原は少しだけきまり悪そうな顔をしたが、すぐに立ち上がった。
「最後まできっちり仕事はするつもりです」
失礼します。と言うと、そのままドアノブをひねった。
わからない。自分は間違っていたのか。結果を出すことにこだわることの何がいけないんだ。合理的に仕事を進めることの何がいけないんだ。それが仕事だろう。
人間味を失くしていく。大原の言葉が頭の中で反芻される。楽しく誰かと笑い合ったのはいつだったか。仕事に全てを捧げてきた。自分は、人間味を失っていたのか。一人残された部屋は小さな会議室のはずだったが、ひどく広く感じた。外からは楽しそうに話す声が聞こえてくる。陽介は体を小さくしたまま、そこから動けなかった。
茫然と自分の席に戻ると、おずおずと橋本が報告書を出してきた。その顔をまじまじと見る。怯えている。肩は小さく丸まり口は真一文字に閉じられている。そういえば、橋本と、いや、グループのメンバーと仕事以外の話をしたことがあっただろうか。橋本の笑った顔を見たことがあっただろうか。そんな考えが頭の中をめぐった。
自分はここにいる部下たちに一体何をしてきたのだろうか。
少年の右手に視線を送る。
「ああ、ラケット。テニスの」
視線に気づいた少年はニっと笑った。テニスのフォームとは思えない動きで、それをぶんぶんと振り回した。
「テニスやるの?」
「いや、やんないよ。ただラケットを振り回した時の音とか、重さとかが面白くてもってきたんだ。さっ、やろっと」
ラケットが空を切る音を聞くのは久しぶりだ。しかし、まるで踊っているかのような少年の姿を見て思わず口元がほころぶ。
「おじさんにもやらしてくれないかな、それ」
動きを止めた少年の肩は、細かく上下に動ている。
「え、いいよ。本気で振ってみて、思いっきり音だしてみてよ」
陽介はグリップを握ると大きく振りかぶって、力いっぱい振った。少年は、おお!と声を上げた。そのまま陽介はめちゃくちゃにラケットを振った。片手で、両手で、上に、下に、右に、左に。フォームなんてない、踊りでもない。
「おじさんすげー!こんなでかい音なるんだー!俺もやる!俺もやる!」
少年の声を聞き、陽介は動きを止めて空を仰いだ。息が切れている。はぁはぁと、声を出しているつもりがないのに喉が震える。
じんわりと濡れている額を拭うと、少年にラケットを返す。
「俺よりでかい音だせるか?」
少年は嬉しそうにラケットを受け取ると、先ほどよりも力強くラケットを振り回した。
「そうそう、もっと強く。ほら、まだまだいけるぞ。こっからだ!」
朝の空気に、ブンブンという音だけが溶け込んでいく。
朝陽の少年 みつぼし @mitsuboshi-t
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