第5話 「静かに始まる優しい支配」

4月、新年度が本格的に始まり、私の社会人生活もとうとう動き出した。


最初のうちは、とにかく目まぐるしかった。

朝、少しでも気を抜くとバスに乗り遅れ、通勤電車では広告も見ずにひたすらスケジュールを確認。

職場に着けば、パソコンの立ち上げと同時に、今日やるべきタスクが、容赦なく降ってくる。


覚えることも、考えることも、初めてのことばかり。

「新人だからゆっくりでいいよ」と言われる場面もあったけれど、それでも仕事は待ってくれなかった。


電話応対、メール返信、打ち合わせのメモ取り、資料作成の補助。

その合間には社内のチャットが飛び交い、少しでも反応が遅れると、焦りが心臓を締めつけた。


でも、そんな私のそばには、いつもあの上司がいた。

そして、彼はいつも――とても優しかった。


「大丈夫? 急がなくていいよ。こっちでやっとくから」


「これ、難しかったよね? 気にしないで。こっちでやるから」


「若いし、まだ分からないこともあると思うし、遠慮なく頼って」


優しい声、穏やかな笑顔、かけてくれる言葉のひとつひとつに、咎めるものは何もない。

むしろ、私はたびたび救われた。自分の至らなさに落ち込みそうになっても、彼のその言葉で、少しだけ息ができた。


けれど、ふと気づく。


「あれ? これ、私が本来自分でやるはずだった仕事じゃない?」


彼は私に「やらなくていい」とは言わない。ただ、いつの間にかやってしまうのだ。


「確認だけでいいよ」「一応作っておいたから参考にして」「君の案も見たいけど、こっちのを先に出しておいたよ」


それは、ほんの小さな“助け”の積み重ねだった。


でもそれが積もっていくにつれ、私はだんだんと「やらなくていい人」になっていった。

仕事を引き受けてくれる優しさに、断ることもできず、私はただ「ありがとうございます」と頭を下げるばかりだった。


そんなある日、会議中のちょっとした場面で、同僚がこう言った。


「それって〇〇さん(上司)が進めてたやつですよね?」


……違う、それは私が手をつけていた案件だ。

けれど、最終的に彼が“整えて”提出したから、そう見えても仕方ない。


私は咄嗟に何も言えず、ただ小さく笑ってその場を流した。


その瞬間、胸の奥に冷たい感触が広がった。


私は――ちゃんと“存在している”だろうか?


彼の優しさに、安心していたはずなのに。

気づけば、自分の仕事に“私の名前”が乗らなくなっている気がする。

頼られない、任されない、気づかれない。


誰も責めてなんかいない。

彼も、悪意があるようには見えない。

でも、それでも確かに、何かが静かに、確実にズレ始めている。


私は、会社の中で「できない人」になりつつあるのかもしれない。

そう、じわじわと。


「ありがとう、助かります」


その言葉を今日も口にしながら、私はどこかで、自分が少しずつ“奪われている”ことに気づき始めていた。

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【実話】#社会人14日の崩壊 @ffan

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