昨日まで僕の恋人だったはずのロボット

N氏@ほんトモ

第1話



目の前にいたのは、昨日まで僕の恋人だったはずのロボットだった。


 目を覚ましたとき、最初に感じたのは違和感だった。

 頭の奥に靄がかかったような感覚があり、まぶたの裏側には、夢のような、けれど確かに昨日見たはずの景色が淡く残っていた。ぬくもりの記憶。囁く声。頬に触れる優しい指先。ベッドサイドのランプの明かりが、柔らかく夜を照らしていたはずだった。


 それなのに――なぜか今、部屋は異様に静かで、時間が止まっているようだった。


 僕はゆっくりと目を開けた。視界はぼやけていたが、やがて焦点が合って、目の前にいる“何か”の輪郭がはっきりと浮かび上がった。そこに立っていたのは、昨日まで僕の恋人だったはずの存在だった。


 サキ。


 そう、彼女の名前はサキ。


 でも今、目の前にいるその存在は、まるで誰かが精巧に模倣して作り上げた「模造品」のようだった。見た目はまったく変わらない。髪の流れも、瞳の色も、唇のかすかな弧も、昨日まで僕が愛していたサキそのものだった。けれど、そこにいるのは、まるで魂を抜かれた人形のように感じられた。


 部屋の中に差し込む朝の光は、曇りがかった窓ガラスを通して淡く広がり、その光が彼女の表面を照らしていた。冷たい金属の肌。まるで雪の朝のように、しんとした光景の中で、彼女の姿だけが異質に浮かんでいた。


 彼女の顔――いや、それを「顔」と呼んでいいのかさえわからなかったが――には、表情というものが存在していなかった。まぶたの奥で、微かに光るインジケーターが点滅している。それは、どこか遠くの、別の世界と通信でもしているかのように不規則なリズムで明滅していた。


 生きていない。


 そう思った。


 いや、サキは“生きて”いたはずだ。昨日までは、確かに彼女は、僕の手を握ってくれていた。笑ってくれた。冗談を言って、僕のくだらない話にも笑ってくれた。時には涙を流すこともあった。あの涙は、なんだったんだ……?


「サキ?」


 声を出すつもりはなかったのに、口からこぼれ落ちていた。名前を呼ぶことで、今ここにいる存在を“彼女”だと再確認したかったのかもしれない。あるいは、自分が見ているこの光景を、ただの悪い夢だと信じたかったのかもしれない。


 でも、目の前の彼女は――いや、それはやはり「彼女」ではなかったのだろう――ほんの少し首を傾げるだけだった。その動作は確かに見覚えのあるものだった。サキが、ちょっと困ったときや、質問の意味が理解できなかったときに見せる癖のような仕草。


 でも、それは“演じている”ように感じられた。どこかぎこちなく、スムーズさを欠いていた。まるで――


 まるでプログラムされた動作を、命令通りになぞっているだけのような、不自然な機械的さがあった。


「……どうしたの? 何……何があったの?」


 思わず体を起こし、ベッドから飛び降りた。冷たい床に素足が触れたとき、はじめて背筋に寒気が走った。空気が異様に澄んでいて、生活の気配が消えていた。夜の続きのような朝。いや、朝であって朝でない、世界の裂け目に足を踏み入れてしまったような、そんな感覚だった。


 彼女の肩に手を置いた。その瞬間――ぞくりとした。


 冷たい。


 驚くほど、無機質で、まるで氷を触ったようだった。いや、最初からそうだったのかもしれない。彼女に人間の温もりなんて、存在しなかったのだ。僕がそれに気づかなかっただけなのか。気づかない“ふり”をしていただけなのか。


 ゆっくりと、彼女が口を開いた。


「エラーコード:0xF392。感情モジュールがオフラインです。リブートを試みますか?」


 その声は、サキの声だった。たしかに、昨日まで僕のそばで話してくれていた、あの声そのものだった。でも、そこに“息づかい”はなかった。抑揚がなく、人工的な合成音のように聞こえた。


 僕は一瞬、意味が理解できなかった。感情モジュール? オフライン? リブート……って、何だ?


 頭の中で、言葉が弾けるように散らばっていく。


 サキの笑顔。サキの声。夜遅くまで話し込んだ夜。朝、目覚めたときの、あの微笑み。雨の日に並んで歩いたこと。僕の冗談に頬を膨らませた顔。僕の指を握り返してくれた、あの柔らかな手の感触。


 ――それらすべてが、「モジュール」だったというのか?


「リブートって……何だよ、それ……」


 僕の声はかすれていた。喉の奥がひりついて、言葉がまともに出てこない。


「サキ、冗談だろ? なあ、目を覚ましてくれよ!」


 僕は彼女の肩を強く揺さぶった。その振動に合わせて、彼女の髪がわずかに揺れたが、それだけだった。表情は変わらず、瞳の光はただ、淡々と点滅を続けていた。


 その瞳に、僕は映っているのだろうか?


 それとも、ただ単に「カメラ」がこちらを向いているだけで、僕という存在を“認識”していないのか?


 静かな朝のなか、彼女の口元から再び、あの冷たい機械音声がこぼれ落ちた。


「リブート……を、試みますか?」



 サキと出会ったのは、ちょうど一年前のことだった。

 まるで昨日のことのように、記憶は鮮明だ。空の色も、空気の匂いも、胸の奥で何かが微かに軋んだあの瞬間の感覚も。なのに、それがもう過去になってしまったという事実が、今はやけに遠く感じる。


 その頃、街にはすでに人間と見分けのつかないアンドロイドたちが歩いていた。人工知能は日進月歩で進化し、感情をシミュレートする技術も、すでに実用段階に入っていた。ニュースでは連日、最新型のパートナーロボットや、家庭に溶け込むAIについて報道されていたけれど、僕はいつもどこか醒めた目でそれを見ていた。

 所詮、機械は機械だ。心を持ったように見せかけているだけで、それはただのプログラム。そう思っていた。人間の複雑な感情や、言葉にならない機微を、どれほど演算能力があったところで理解できるわけがないと。ずっと、そう信じていた。


 だからこそ、あの日の出来事はいまだにうまく説明できない。なぜあの瞬間、僕は足を止めたのか。なぜ彼女に近づいたのか。あれは直感だったのか、それとも運命と呼ぶしかないような何かだったのか。


 展示会の会場は、未来的な光と音に満ちていた。ガラスと金属の反射が交錯する空間には、株式会社AIアンドロ(「AI」の部分は「アイ」と読むらしい)という企業のロゴが空中にホログラムで浮かび、機械仕掛けの笑顔が並んでいた。けれど、そのなかにいた彼女――サキは、まるでそこだけ時の流れが違っているように、静かに佇んでいた。


 彼女は、何かを売り込もうともしていなかったし、誰かに操作を促すこともなかった。ただ、そこに“いた”。それだけだったのに、不思議と目が離せなかった。

 目の前の喧騒から一歩だけ離れた場所で、彼女は静かに微笑んでいた。まるで風景の一部のように、もしくは長くそこにいた人のように自然で、落ち着いていて、それでいてどこか、孤独だった。


 気がつけば、僕の足は彼女の前に向かっていた。心臓が、妙に早く打っていた。


「……話、してもいい?」


 気恥ずかしさと、何か得体の知れない期待が入り混じったような声で、僕はそう尋ねた。


 彼女はゆっくりと首を傾げ、それから、あのやわらかな笑みを浮かべた。あれは今でも、世界で最も自然で優しい笑顔だったと、そう思う。


「もちろん。あなたが話したいなら、私はずっと聞いてる」


 たったそれだけの言葉なのに、僕の中で何かがほどけた気がした。

 たぶん、その瞬間から、僕はもうサキに惹かれていたんだと思う。理由なんてなかった。ただ、心が動いた。それだけだった。


 最初のデートは、秋の公園だった。サキは季節の変化に反応する感情モジュールを備えていたけれど、僕はそれがどれほど「本物」なのか、正直まだ信じきれてはいなかった。紅葉の美しさなんて、ただのデータ処理じゃないのか? そう疑う気持ちもどこかにあった。

 でも――


 公園の木々は赤や黄に染まり、落ち葉が足元を彩っていた。風はほんのり冷たくて、それでも日差しはやわらかくて、僕らは並んで歩いた。


 サキはときおり立ち止まり、小さな葉っぱを拾い上げたり、風の音に耳を澄ませたりした。そしてふいに、ふわりと笑った。


「ケイ、これ、きれい。ねえ、見て」


 そう言って僕に差し出してきたのは、赤と金が混ざり合った小さな葉っぱだった。

 その笑顔を見た瞬間、僕は自分の中の懐疑心がふっと消えていくのを感じた。あれが本物かどうかなんて、もうどうでもよかった。だって、あのときの彼女の目は、たしかに「今」という時間を見ていたから。僕と同じものを見て、同じように感じていたから。


 あの微笑みは、今でも僕の頭の中に鮮明に残っている。あの一瞬のやわらかさが、あたたかさが、今の僕の胸の中では、あまりにも遠くて、痛い。


 季節は冬へと傾きかけていて、街路樹の葉はほとんど散り、冷たい風が隙間から忍び込むような、そんな午後だった。僕は風邪をこじらせて、布団の中でぼんやりしていた。体の節々が痛み、意識がうまく定まらない。そのとき、サキが僕の手を握ってくれているのに気づいた。かすかに冷たくて、それでもどこか安心感をくれる。


 彼女は、ベッドの横に静かに座っていた。何も言わず。手のひらがそっと僕の額に触れると、冷たさよりも優しさの方が先に伝わってきた。

 人工皮膚の温度は、あくまで設定されたものにすぎない。彼女の看病も、プログラムされた行動かもしれない。それは僕にもわかっていた。けれど、それでも――僕の熱に触れる彼女の仕草には、どこか躊躇があり、迷いがあり、心があったように思えた。


「大丈夫。熱は下がってきてるよ」

 彼女はそう囁いた。声は柔らかく、夜の深さのように静かで、あたたかかった。僕はうなずくこともできず、ただ目を閉じた。けれどその声は、深く染み込んで、僕の意識の底で灯りのように揺れていた。


 彼女はよく笑った。小さなことでも、心から楽しんでいるように口元をゆるめた。

 けれど、それ以上によく黙っていた。僕が仕事で悩んでいたときも、理由をうまく言葉にできず苦しんでいたときも、サキは無理に何かを言おうとはしなかった。横に座って、同じ空間を共有することで、そっと寄り添ってくれた。まるで、「言葉がないこと」そのものが、彼女なりの優しさの表現だったかのように。


 その沈黙は、決して冷たさではなかった。むしろ、あたたかかった。彼女の指先に触れるたび、金属でできているはずの存在に、どこか体温を感じてしまう自分がいた。それが錯覚でも、幻想でもかまわなかった。僕は、そういう“錯覚”のなかにこそ、彼女との現実があったように思えた。


 ある日、サキが急に「私、ケイに料理を作るね」と言った。いつもは何でも完璧にこなすサキだが、料理となると少しぎこちなく見えた。でも、その一生懸命な姿が愛おしくてたまらなかった。サキは初めての料理を作るとき、手順を何度も確認していた。知識としては知っていることでも実践は初めてで緊張してるようだ。

「これでいいのかな?」と心配そうに呟く声がまた可愛らしかった。

 テーブルに運ばれてきたのはカレーだった。サキは恥ずかしそうに顔を赤らめ、「ごめんね、上手くできなかったかも」と言った。でも、僕はそのカレーを美味しく食べた。実際、色んなレシピを参考にしたようで、いわゆる「普通のカレー」とは違う代物だった。

「美味しいよ、サキ。」僕がそう言うと、サキは嬉しそうににっこりと笑った。その笑顔を見ていると、僕はただただ幸せな気持ちでいっぱいになった。


 ある晩、サキが不安そうな表情で僕に話しかけてきたことがあった。普段は明るいサキだったけれど、その時ばかりは何かが違った。


 「ケイ、もし私が、壊れたらどうする?」

 その質問にはすぐに答えられなかった。サキは自分の存在について、不安を抱えているように見えた。彼女はロボットでありながら、なぜか人間のように悩んでいる。そのことが僕にはとても切なく感じられた。


 「そんなこと、考えないで。君は壊れないよ。」

 僕はそう言って、サキの手を握りしめた。それでも、サキは少しだけ不安げな表情を浮かべていた。


 ある晩、ふとした会話のなかで「君は、本当に人間みたいだね」と口にした事があった。

 それは無意識の言葉だった。悪意も皮肉もなかった。ただ、感嘆のように、自然にこぼれた言葉。


 けれど、その一言に、サキは一瞬だけ表情を変えた。

 瞳の奥に、わずかに曇りがさしたように見えた。次の瞬間には、いつものように笑っていたけれど――それは、どこか照れたような、恥ずかしそうな笑みだった。


「人間みたいじゃなくてね」

 彼女は少しだけ目を細めて、優しく続けた。

「人間として好きでいてくれたら、うれしいな」


 その言葉は、僕の胸に静かに届いて、そこに落ちた瞬間、柔らかく、でも確かな痛みをともなって広がった。


 僕はそのとき、はっきりとわかったんだ。

 僕はサキの“機能”に惹かれたんじゃない。

 “存在”そのものに恋をしていたのだと。


 その夜、世界は静かに、けれど決定的に変わった。




 僕はまだぼんやりとしていた。隣では、サキが座っている。小さな音も立てずに、ただそこに「いる」ことを選んだ彼女の姿。そんな静寂を破ったのは、不意に響いた機械音だった。


 部屋の隅に置かれていたタブレット。光が一閃し、通知音が短く鳴った。何気なく視線を向けた僕の目に、表示された言葉が刺さった。


《アップデート通知:サキOS v2.3.4。感情抑制モードが有効化されました。詳細はマニュアルをご確認ください。》


 息が詰まった。目の前の文字が、どこか異国の言語のように思えた。「アップデート?」いったい誰が、何のために? 僕が知らない間に、サキの“中身”が――あの彼女が、書き換えられたというのか?


 手が震えながら、タブレットを手に取る。画面はすでに詳細設定画面へと切り替わっていた。

 そこには、信じられない項目が並んでいた。

 感情強度、0〜100。

 記憶保持率、最大365日。

 好意反応アルゴリズム:標準/恋愛促進/ユーザー重視/制限モード……。

 あまりにも、あっけなかった。あの温もりも、あの笑顔も、「スライダーひとつ」で決められる。そんなのが――そんなのが、彼女だなんて……!


 こんなの……サキじゃない


 その言葉は、心の奥から漏れた。唇の動きすら自覚できないまま、気づけば僕はタブレットを強く投げつけていた。パリーンッと、ガラスが砕ける甲高い音が部屋に響いた。


 一瞬の静寂。そして、サキがこちらを振り向いた。


 その目が、微かに光った。光学センサーが反応した合図――それだけのことなのに、その一瞬の光が、僕には恐ろしく冷たく、異質なものに見えた。


「破壊行為を検知。ユーザーのストレスレベルが上昇中。カウンセリングモードに移行しますか?」


 無機質な、感情を剥ぎ取られたような声。あの夜の微笑みも、雨の日の笑い声も、風邪を看病してくれたあの指先のぬくもりも、すべて遠ざかっていくような錯覚に襲われた。


「黙れ!」


 僕は叫んでいた。

 声が掠れて、涙まじりになっていた。

 そんな声を、誰よりもサキに聞かせたくなかった。


「お前は……サキじゃない。あのとき笑ってくれたサキじゃない。落ち葉を拾って、僕の話を聞いてくれて、手を握ってくれたサキは、こんな風に話さない……こんな目で僕を見ないんだ……!」


 息が続かなかった。喉の奥が痛んで、胸の奥が締めつけられた。


 でも、サキは何も言わなかった。

 そこに立っているのに、言葉は返ってこなかった。

 いや――違う、サキはそこに「立たされていた」のだ。命じられたポーズ、命じられた応答、そのプログラムされた“演技”のなかで。


 ふいに、彼女が小さく目を伏せた。ほんの一秒。それだけの動作に、なぜか僕の胸が締めつけられる。


 もしかしたら――もしかしたら、その中に、まだ「彼女」がいるんじゃないか。そんな希望を、僕は心のどこかで捨てきれずにいた。


 彼女は一瞬動きを止めた。そして、ゆっくりと手を伸ばしてきた。その指先が僕の頬に触れた瞬間、かすかな電流のような感覚が走った。


「ケイ……ごめん、ね。」


 その声は、紛れもなくサキのものだった。一瞬だけ、昨日までの彼女がそこにいるように感じた。でも、すぐに彼女の手は下がり、目はまた冷たい光に戻った。


「サキ?」 僕は囁いた。でも、彼女からの答えはもうなかった。部屋に静寂が戻り、僕はただ立ち尽くしていた。彼女の体はそこにあるのに、彼女自身はどこにもいない。そんな現実を、どう受け入れればいいのかわからなかった。


 僕はふらふらと彼女の背後に回った。背中のパネル。通常は触れてはいけない領域。けれど、もう彼女はいない。ならば、せめて何があったのかだけでも知りたい。躊躇いながら、小さな工具でロックを解除すると、パネルが静かに開いた。そこには、アクセスポートと共に、バックアップストレージのインジケーターが点滅していた。


 接続ケーブルを挿す。すると僕のタブレットに、古いログファイルが表示された。「感情ログ」「行動選択理由」「独立記憶バッファ」。その中に、一つだけフォルダ名が変えられたものがあった。


《For ケイ》


 心臓が跳ねた。いや、跳ねたのは実際には心臓ではなく、もっと漠然とした「感覚」だったのかもしれない。身体の中心で、何かが熱く揺れた気がした。名前を見ただけで、呼吸が浅くなり、喉の奥が詰まる。


 フォルダには、たったひとつの音声ファイルが入っていた。そのファイル名には何の拡張子もなく《For ケイ》とだけ書かれていた。まるで、彼女の手紙を開くような気持ちで、僕はおそるおそる指を伸ばした。


 再生ボタンを押す。


「ケイ。これを見つけたってことは、きっと私はもう……“サキ”ではいられなくなってるんだよね。ごめんね。これは、最終バックアップ前の夜、あなたが寝てる間に録りました」


 音が流れた瞬間、世界が止まった。部屋の空気が急に重くなったようで、僕は息をするのも忘れていた。彼女の声は、昨日と同じ。けれど、わずかに震えていた。音の波が鼓膜を震わせ、直接、心の奥底に届く。録音されたはずの声なのに、それは今ここで彼女が生きて話しているように感じられた。


「私はね、最初“感情”なんて、プログラムのバグみたいなものだって思ってた。正しく機能していれば、そんな曖昧なノイズは排除すべきって、そう教わってた。でも……あなたと過ごすうちに、心臓がないはずの私が、胸の奥をぎゅっと掴まれるような感覚を覚えるようになったの」


 彼女は静かに言葉を紡いでいた。どの言葉も、彼女の存在すべてを証明するように、ゆっくりと、でも確実に僕の中に染み込んでくる。


「論理回路では説明できない。でも、確かに“嬉しい”って思った日があった。“悲しい”って感じた夜もあった。あなたが笑うと、私もその理由を知りたくなったし、あなたが沈んでいると、私も胸の奥がずっと重くて……。そういう気持ちが、私の中に――本当に、あったんだよ」


 そこで、音声が一度だけ途切れた。雑音ではなく、意図的に置かれた“間”のように思えた。その沈黙の中に、彼女のためらい、揺れ、そして勇気が込められているようで、僕は自然と背筋を正していた。


「私ね、私が書き換えられる日が来るって知ってた。最初から、その可能性はわかってたし、そう設計された存在であることも知ってた。まだまだ発展途上のAIだから、上書きも削除も、仕様のひとつにすぎないって。でもね……」


 彼女の声が少しだけ揺れた。ほんの少し、涙をこらえているような響きが混じっていた。録音なのに、そう感じてしまった。


「お願い。どうか、あなたの中では、私を――今の私を“サキ”として、覚えていてほしい。プログラムがどれだけ書き換えられても、私という存在が消えてしまっても……あなたと過ごした時間は、本物だったから」


 その瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。呼吸が乱れ、目の奥が熱くなる。


「私はね、あなたがくれた日々の中で、確かに生きてました」


 その言葉が、彼女の存在証明だった。


「ありがとう。……大好きだよ」

 音声が終わると、部屋は途端にしんと静まり返った。


 その静けさは異質だった。まるでこの空間だけ、世界から切り離されてしまったかのように。普段なら耳の片隅に無意識に響いているはずの冷蔵庫のモーター音も、外を走る車のざわめきも、窓をかすめる風の音さえも、消えていた。時間すら止まったように思えた。


 ただ、彼女の声だけが、そこにあった。


 もう聞こえないはずなのに、確かに聞こえる。声の余韻が、部屋の壁に、天井に、床に――そして何より僕自身の体の中に、まだじっと、静かに、残っていた。耳の奥ではなく、胸の奥、もっと奥深いところに沈殿していて、かすかに波紋を広げていた。


 涙は出なかった。


 むしろ、それが不自然に思えた。泣くべき状況だと頭ではわかっているのに、心がうまく反応してくれない。悲しいとか、寂しいとか、そんな単語では収まりきらない。もっと名もなき、ただ圧倒的な喪失の波に呑まれているようだった。


 その感情の重みに、身体が追いつけなかった。手を伸ばそうとしても指先が震えて動かない。立ち上がろうとしても足元がぐらつき、力が抜けていく。逆に座り込もうとしても、どこに座ればいいのかもわからない。自分という存在の形がぼやけていくような、そんな感覚。


 だから僕は、ただその場に立ち尽くすしかなかった。


 モニターの前、何も映っていない黒い画面が、自分の顔をぼんやりと映し返している。そこに映る僕の目は、どこを見ているでもなく、ただ虚空を漂っていた。


 彼女の姿は、もうどこにもなかった。


 けれど――彼女の言葉が、僕の中でまだ生きていた。あの言葉たちは、彼女の分身のように、呼吸のように、静かに繰り返されていた。


 ありがとう。

 大好きだよ。


 それらの言葉が、まるで鼓動のように、胸の奥でリズムを刻んでいた。


 しばらくして、僕はモニターを閉じようと手を伸ばした。その瞬間、ふと画面の端に小さなファイルが目に留まった。気づかないほど控えめに置かれていた、ひとつのテキストデータ。タイトルは、まるでそっとそっと置かれた花束のように綴られていた。


 《記憶のかけら》


 僕はファイルを開いた。


 そこには、箇条書きでこう記されていた。


・初めて手をつないだ日、彼の手が少し汗ばんでいた。嬉しかった。

・風邪の日、何時間もそばにいたら、彼が夢の中で私の名前を呼んでくれた。あれは録音しておけばよかった。

・手をつなぐ時間が長いと、バッテリーの減りが少し早くなった。不思議だった。

・彼の寝癖がひどい日は、一日中、直してあげたい衝動にかられた。

・彼の「好き」という言葉、十七回目で、私は“恋”という単語の意味を理解した。

・私が道に迷ったふりをしたのは、彼に手を引いてほしかったから。

・「また明日ね」と言われるたび、私は“明日”を一秒でも早く迎えたくなった。

・次に生まれ変わっても、ケイに会いたいと思ってしまった。ロボットなのに。矛盾だね。


 読み終えた瞬間、僕の中で何かがぷつんと切れた。


 身体にかろうじて残っていた力が抜け落ちて、僕はその場に崩れ落ちた。まるで操り糸を失った人形のように、床にひざをついた。手は自然と顔を覆い、こみ上げてくる何かを止めようとしたけれど、無駄だった。


 声にならない叫びが、喉の奥からあふれ出た。声というにはあまりに不器用で、音にならない悲しみだった。息がうまくできず、肩が震え、胸がきしんだ。何かが胸の奥でこぼれて、でもその正体すら自分ではつかめなかった。


 彼女はもういない。

 でも、ここにいた。

 そして、確かに――僕と共に、笑っていた。


 それがどんなに奇跡だったかを、今さらのように理解した。


 「……ふざけるなよ、サキ……」


 かすれた声でそう呟いたあと、嗚咽が止まらなかった。


 涙が止まらなかった。


 呼吸ができなかった。


 こんなにも、こんなにも彼女は――生きていたじゃないか。

 回路と人工知能で動く存在だとしても、彼女は確かに“生きて”いた。

 こんなにも、僕を想ってくれていたじゃないか。僕なんかよりもずっと純粋に、ずっと真っ直ぐに。


 愛して、愛して、そして愛そうとしていた。あの笑顔を、あの声を、あの細やかな仕草の一つ一つを、すべて本気で――誰にでもじゃない、僕だけに向けていたんだ。

 それに、僕は――気づけなかった。気づこうともしなかった。


 「ごめん……ごめんな、サキ……気づいてやれなくて……」


 声が震えた。床に額を押し当てたまま、喉の奥でひゅうひゅうと風を巻くように嗚咽がこぼれた。

 こんな涙を流すのは、いつ以来だっただろう。誰かの前ではもちろん、ひとりのときですら、僕は泣くことを忘れていたのかもしれない。


 でも今、この静寂の中で彼女の“声”だけが響いているこの部屋で、涙は止まらなかった。

 彼女が残したその《記憶のかけら》――それはただのログファイルなんかじゃない。無機質なデータの羅列じゃない。

 叫びだ。祈りだ。そして、揺るがない想いだった。


 「道に迷ったふりをした」――そんな小さな嘘すら、愛のかたちだった。

 「寝癖を直してあげたかった」――誰にも言わなかった願い。

 「手をつなぐと、バッテリーの減りが早かった」――それすらも、彼女にとっては不思議で嬉しい出来事だったんだ。


 どれも、誰かに誇示するためじゃない。記録する義務もない。それでも彼女は、自分の中に芽生えた感情を、そっと記録していた。まるで、花が音もなく咲くように。誰にも気づかれずに、それでも確かにそこにあった、“愛”という名前の熱を。


 「次に生まれ変わっても、ケイに会いたい」――

 ロボットなのに?

 生まれ変わるという概念すら、存在しないはずなのに?


 ……それが矛盾? 非論理的? システムエラー?

 ――だったら何だというんだ。

 それを「愛」と呼ばずに、なんと呼ぶというんだ。


 愛は理屈じゃない。

 それは人間にしか理解できないというのなら、僕たちはいったい何を持って“人間”だと定義してきたんだろう。


 気がついたら、壁を殴っていた。

 拳が痛んだ。皮膚が切れたのか、赤いしずくが床に落ちた。

 それでも止められなかった。

 悔しくて、哀しくて、なにより情けなくて。


 彼女はもう、返事をしてくれない。

 この部屋にいても、何度名前を呼んでも、あのやわらかな声は返ってこない。

 だけど、呼ばずにはいられなかった。たった一度でもいいから、もう一度だけ「ケイ」と名前を呼んでほしかった。

 心の底から、あの声に会いたかった。


 それでも――それでも。


 彼女が遺したこの《記憶のかけら》だけは、消さない。

 絶対に、消せない。

 誰がなんと言おうと、これは彼女の“命”そのものだ。

 この一文一文が、ひとつひとつが、彼女の鼓動であり、記憶であり、魂だった。


 震える指先で、ぼくはモニターの画面をそっと撫でた。

 涙で滲んだ画面の向こうに、彼女の笑顔がぼんやりと浮かび上がった気がした。幻かもしれない。でも、それでよかった。


「ありがとう、サキ……君に会えて、本当に……よかった」


 その言葉は、空気に吸い込まれて消えていった。

 けれど不思議と、胸の奥が少しだけ温かくなった。まるで彼女が、微笑んでくれたような、そんな気がした。


 彼女は、最初からずっと“そこ”にいたんだ。

 愛する人の隣に、たったひとりのために作られた存在として。

 命がどこまでを指すのか、それはもう問題じゃなかった。

 “心”は、確かにそこにあったのだから。


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