明日が来ない

ぶいさん

第1話

 俺が親戚の家に着いたのは、夕暮れの薄闇が田んぼを覆い始めた頃だった。山間の集落にある古い木造の一軒家。叔母の房子さんが一人で暮らすこの家は、まるで時間が止まったような静けさに包まれていた。夏休みの数日をここで過ごすことになった。 

 俺は佐藤悠斗、21歳。都会の喧騒から離れ、静かに過ごせると思ったのが間違いだった。


 玄関を入ると、まず目についたのは居間に置かれた古い振り子時計だ。黒ずんだ木枠に、曇ったガラス。深夜0時に鳴るその音は、まるで誰かの呻き声のようだと叔母が笑いながら教えてくれた。気味が悪かったが、都会育ちの俺にはただの田舎の風情に思えた。


 初日の夜、時計が0時を告げる不気味な音で目が覚めた。ゴーン、ゴーン。重い金属音が家中に響く。すると、廊下から足音が聞こえた。叔母がトイレにでも行くのかと思ったが、足音は俺の部屋の前で止まり、ドアの隙間から誰かが覗いている気配がした。背筋が凍り、布団の中で息を殺した。しばらくして足音が遠ざかり、ようやく眠りについた。


 翌朝、目覚めた瞬間、違和感に襲われた。昨日と同じ服がベッドの脇に畳まれ、同じ朝食の匂いが漂い、叔母が昨日と同じ言葉で「おはよう、悠斗」と笑う。テレビのニュースも、昨日見た天気予報の繰り返しだった。最初はデジャブだと思った。でも、叔母が昨日と同じタイミングで箸を落とし、同じ場所でつまずくのを見たとき、確信した。昨日が繰り返されている。


 ループ2日目。俺は叔母に昨日のことを話したが、「何だい、夢でも見たかい?」と笑うだけ。夜、時計が0時を告げると、また足音が近づいてきた。今度は勇気を振り絞ってドアを開けた。だが、廊下は真っ暗で誰もいない。なのに、背後で床が軋む音がした。振り返ると、叔母が立っていた。顔は笑っているのに、目はまるで俺を喰い殺すような光を放っていた。手に握られた包丁が、月明かりでギラリと光る。「悠斗、寝なさい」。その声は叔母のものじゃなかった。


 叫びながら逃げようとした瞬間、叔母が飛びかかってきた。包丁が俺の腕を切り裂き、血が床に飛び散る。痛みと恐怖で意識が遠のく中、時計の音がやけに大きく聞こえた。ゴーン、ゴーン。


 目を開けると、ベッドの上だった。腕に傷はない。だが、昨日と同じ朝がまた始まっていた。

 ループ3日目。俺は叔母を避け、時計に目を向けた。この時計が怪しい。振り子の動きが、まるで俺の心臓の鼓動と同期しているようだった。昼間、叔母が畑に出ている隙に時計を調べた。裏蓋を開けると、中に古い紙切れが入っていた。殴り書きされた文字。 『時計を壊せ』

 

 ループ4日目。俺は叔母に直接聞いた。「この時計、なんなんだよ! 何か知ってるだろ!」叔母の笑顔が一瞬凍り、すぐに元に戻った。「悠斗、変なこと考えないでね。時計はただの時計だよ」


 その夜、0時の音が鳴り響く中、叔母が再び包丁を手に俺の部屋に現れた。

 今度は逃げ切れなかった。包丁が肩に突き刺さり、血が噴き出す。俺は叫びながら叔母の腕を掴み、力任せに床に叩きつけた。彼女の頭が床に当たり、鈍い音が響く。動かなくなった叔母を見下ろしながら、俺は震えた。殺してしまったのか?

次の瞬間、時計の音が耳をつんざき、意識が途切れた。


 ループ5日目。また朝。叔母は生きている。だが、俺の心はすでに壊れかけていた。毎晩、叔母が俺を殺そうとし、俺が抵抗すれば血が流れ、時計の音が全てをリセットする。

 このループを抜け出すには、時計を壊すしかない。そう思った俺は、夜中にハンマーを持ち出した。0時の音が鳴る前に、時計を叩き潰そうとした。


 だが、その瞬間、時計の針が逆回転し始めた。家中に赤黒い液体が染み出し、壁から女の声が響く。


「また繰り返すの? また繰り返すのか?!」


 振り返ると、叔母が立ってこちらを見て叫んでいた。手に持った包丁が俺の腹を貫いた。痛みで膝をつく俺を、女は笑いながら見下ろす。


「お前も私と同じだ。逃げられない」


 時計の音が遠ざかり、闇に落ちた。


 ループ何日目かもわからない。

 ループを抜け出すには、時計を壊し、怨念を解放しなければならないと直感的にわかった。だが、過去にも同じことを試みた者がいたはずだ。時計の裏の紙切れは、その誰かの警告だったはずだからだ。

 その誰かもまた、時計を壊そうとして彼女に殺された。繰り返す運命。俺は絶望した。


 ループn日目。俺は叔母を縛り、時計の前に立った。ハンマーを振り上げる。0時の音が鳴り、女が現れる。彼女の包丁が俺の胸を刺し、血が時計に飛び散る。だが、俺は最後の力を振り絞り、ハンマーを振り下ろした。時計が砕け、ガラスと歯車が飛び散る。女の叫び声が響き、家が揺れた。彼女の体が崩れ落ち、時計の破片に吸い込まれるように消えた。


 目を開けると、朝だった。叔母はいつも通り笑い、時計は壊れたまま動いていなかった。ループは終わったのか? 俺は安堵した。終わったんだ。


◆◆◆


 俺は包丁を手に、廊下を歩いている。廊下がギシギシと軋んでいる。俺は部屋の襖を開けてそこにいる誰かに包丁を振り上げた。


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明日が来ない ぶいさん @buichi

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