プール掃除
写乱
プール掃除
六月。梅雨入り前の束の間、空は高く澄み渡り、初夏の日差しが容赦なく降り注いでいた。その強烈な光は、水を抜かれ、がらんどうになった中学校のプールサイドの白いコンクリートに反射し、目を細めなければ立っていられないほどだ。プールの底には、秋から溜まった雨水と共に流れ込み、あるいはどこからか迷い込んできたのであろう、夥しい数の小さな命が蠢いていた。水が抜かれたことで、彼らの隠れ家は失われ、今はただ、熱せられた青い塗装の上で、最後の抵抗を試みている。
「うわ……なんか、すごいことになってるね、これ」
やや高めの、しかし落ち着いた声で言ったのは、中山愛理だった。肩までの長さの黒髪を一つに束ね、白い肌には早くも汗が滲んでいる。隣に立つ親友、西村瞳も、ポニーテールにした明るい茶色の髪を揺らしながら、目の前の光景に顔をしかめていた。
「うん……ちょっと、想像以上かも。去年はこんなじゃなかったよね?」
瞳の言葉通り、今年のプール底は異常だった。水のなくなった底一面に、銀色の鱗を光らせて弱々しく跳ねる小鮒やメダカ、泥にまみれて蠢くドジョウ。緑色や茶色のカエルが、時折力なく跳ねようとしては、熱い底面に腹を焼かれている。甲羅に閉じこもったタニシは、もはや動く気配もない。そして、数は少ないながらも、赤黒いハサミを虚空に振り上げるザリガニや、岩陰の代わりに排水溝の縁に張り付く小さな沢ガニの姿も見える。さらに、半透明のヤゴが無数に這い回り、名前も知らないような小さな水生昆虫たちが、最後の水分を求めて排水溝の周りに集まっていた。むわりと立ち上る、淀んだ水の匂いと、微かな生臭さ。それは、生命の墓場と化しつつあるプールの、断末魔の匂いだった。
二人とも、この中学の二年生で、水泳部に所属している。夏の本番に向けて、プール開き前の掃除は毎年恒例の部活の仕事だ。今年は他の部員たちの都合がつかず、顧問の教師から「二人で頼む」と、この重労働を任されたのだった。
今日の二人の服装は、学校指定の夏用セーラー服。白い身頃に、空色にも似た鮮やかな青いリボンが胸元で結ばれている。スカートも同じ青色だ。そして足元は、校内での活動を示す、黒い布製の上履き。ただし、今日はプール掃除ということで特別に許可され、白いソックスは履かず、素足に直接それを履いていた。むき出しの足首からふくらはぎにかけてのラインが、セーラー服の清楚さと相まって、妙に生々しく見える。
愛理は、自分の足元の上履きを見下ろした。何度も洗って少し色褪せた黒い布地。つま先は丸みを帯び、甲の部分にはゴムバンドが通っている。そして、重要なのはその靴底だ。体重をかけると、素足の裏に直接伝わる、硬質ゴムの感触。表面には、滑り止めのために、無数の細かく、深いギザギザの凹凸が刻まれている。縦横に走る溝と、規則的に配置された小さな四角い突起。指でなぞれば、ヤスリのようにザラザラとした感触がある。この無機質な凹凸が、間もなく足元で繰り広げられるであろう出来事を、克明に彼女たちの神経に伝えることになるのだ。
(なんか、変な感じ……素足で上履きって)
愛理は、上履きの中でそっと足指を動かしてみる。汗ばんだ足裏が、布地の内側と、ゴムのソールに直接触れる感触。少し蒸れて、熱を持っている。普段はソックス一枚隔てているその感触が、今日は妙にダイレクトで、落ち着かないような、それでいて少しだけ、ゾクゾクするような感覚を伴っていた。
「とりあえず、まだ生きてる子たち、助けてあげなきゃ」瞳が、気を取り直したように言った。彼女は根が真面目で、優しい性格だ。目の前で苦しんでいる生き物たちを、見過ごすことはできないのだろう。
「うん、そうだね」愛理も頷き、プールサイドに用意されていた黄色いプラスチック製のバケツを二つ手に取った。
二人は、プールの縁に設置されたステンレス製の梯子を使って、慎重にプール底へと降りていった。ひんやりとした金属の感触が、素足の裏に心地よい。しかし、底に足を踏み入れた瞬間、ぬるりとした感触と、熱気に顔をしかめた。まだ乾ききっていない底には、泥や藻が薄くこびりつき、歩くたびに足元が少し滑る。そして、足元で、小さな生き物たちが最後の力を振り絞って動いているのが、上履きの薄いソールを通して伝わってくる。
「わっ!」
「きゃっ!」
逃げ惑うカエルや小魚が、二人の足元にぶつかってくる。その度に、二人は小さな悲鳴を上げた。
「こっち、魚がいっぱいいる!」
「こっちにはカエルが……うわ、ヤゴもすごい!」
二人は腰を屈め、バケツに水を少し張り、まだ比較的元気そうな生き物を手で掬い始めた。ぬるりとしたカエルの感触、ピチピチと手のひらで暴れる小魚の感触に、顔をしかめながらも、懸命に作業を続ける。
「これ、どこに逃がせばいいのかな?」愛理が、バケツの中を覗き込みながら言った。中には、十数匹の小魚と数匹のカエルが入っている。
「うーん、裏の用水路とか? でも、あそこも結構汚いし……」瞳が不安そうに答える。
「それに、これ全部助けるの、無理じゃないかな……」
愛理の視線が、改めてプール底全体に向けられる。掬っても掬っても、まるで減ったように見えない夥しい数の生き物たち。既に力尽きて動かなくなっているものも多い。強い日差しが、彼らの体力を容赦なく奪っていく。
「……だよね」瞳も、力なく頷いた。バケツの中の生き物たちと、プール底の現実を見比べ、その表情に諦めの色が浮かぶ。「どうしよう……」
二人の間に、重い沈黙が流れた。助けたい気持ちはある。でも、物理的に不可能だ。そして、このまま放置しておけば、彼らは苦しみながら死んでいくだけだ。それもまた、見ているのは辛い。
「……掃除、しなきゃ」ぽつりと、愛理が呟いた。「先生にも、頼まれてるし」
「……うん」
「このままじゃ、デッキブラシもかけられないし……」
愛理の言葉は、現実的な問題提起だった。しかし、その響きには、どこか別のニュアンスも含まれているように感じられた。彼女は、ゆっくりと足元に視線を落とした。そこには、弱々しく痙攣している一匹の小鮒がいた。銀色の鱗は乾き、口をパクパクとさせている。
(このまま、苦しませておくよりは……)
それは、合理的な判断のようでもあり、残酷な決断への言い訳のようでもあった。愛理は、ごくりと唾を飲み込んだ。心臓が、少しだけ速く打つのを感じる。隣を見ると、瞳も同じように、足元の生き物たちを複雑な表情で見つめていた。
「……ねぇ、瞳」愛理が、囁くような声で言った。「いっそのこと……」
瞳は、愛理の言わんとしていることを察したようだった。その顔から、さっと血の気が引く。
「……踏む、の?」
「……その方が、早く楽にしてあげられる、かも……しれないし」愛理は、自分でも驚くほど冷静な声で答えた。「それに、掃除しないと」
瞳は、言葉を返せなかった。ただ、俯いて、自分の黒い上履きのつま先を見つめている。素足の指が、靴の中で固く握りしめられているのが、布地の上からでも微かにわかった。
「……じゃあ……」愛理は、意を決したように、小鮒の真上に右足を上げた。束ねた黒髪が揺れる。セーラー服のスカートの裾が、ふわりと広がる。
「……愛理ちゃん」瞳が、止めるような、あるいは何かを期待するような、小さな声を上げた。
しかし、愛理の足は止まらなかった。黒い上履きの底が、太陽の光を遮り、小鮒の上に影を落とす。そして、次の瞬間。
ぷちっ。
それは、驚くほど小さな音だった。熟れたミニトマトを潰したような、湿った破裂音。愛理の足裏全体に、硬いものが砕けるような、しかしそれ以上に柔らかく、ぐにゃりとした肉が潰れる抵抗感が、ダイレクトに伝わってきた。薄いゴムのソールを通して、素足の裏に、生命が絶たれる瞬間の感触が、生々しく刻み込まれる。
「……あっ」
愛理の口から、小さな息が漏れた。足を持ち上げると、青いプール底には、銀色の鱗が散らばり、白い身と赤黒い内臓が混じり合った、小さな染みができていた。潰れた小鮒は、もはや魚の形を留めていない。上履きの黒い靴底には、早くもその一部が、べっとりと付着していた。ギザギザの溝のいくつかが、潰れた肉片で埋まっている。
(……やっちゃった)
罪悪感が、胸を締め付ける。しかし、それと同時に、今まで感じたことのないような、奇妙な感覚が全身を駆け巡った。足裏に残る、生々しい感触。目の前の、小さな破壊の跡。それは、不快なはずなのに、どこか心をざわつかせる、背徳的な刺激に満ちていた。
「……大丈夫?」瞳が、心配そうに愛理の顔を覗き込む。
「……うん」愛理は、少しだけ上擦った声で答えた。「思ったより……なんていうか……」
言葉が続かない。どう表現すればいいのか、わからなかった。
その時、愛理の足元で、一匹のアマガエルがぴょん、と跳ねた。緑色の小さな体。愛理は、ほとんど無意識のうちに、再び右足を振り上げていた。今度は、かかとで狙いを定める。
ぐちゃっ!
先ほどの小魚よりも、水分を多く含んだ、生々しい音が響いた。上履きのかかと部分が、カエルの柔らかい体に深くめり込む感触。骨が砕けるような微かな抵抗と、内臓が破裂するような水っぽい感触が、足裏のかかとの一点に集中して伝わる。
「……っ!」
愛理は、思わず息を呑んだ。今度は、先ほどよりも強い刺激が、足裏から脚を伝って、体の奥の方へと響くような感覚があった。緑色の体液と、赤黒いものが混じり合ったものが、上履きの周りに飛び散る。
「愛理ちゃん……?」瞳の声が、震えている。
愛理は、ゆっくりと顔を上げた。その頬は微かに紅潮し、瞳には、戸惑いと、それ以上の強い好奇心、そして、自分でも気づかないうちに芽生え始めていた、倒錯的な興奮の色が浮かんでいた。
「……瞳も、やってみなよ」愛理は、悪魔が囁くような声で言った。「掃除、手伝って」
瞳は、びくりと肩を震わせた。しかし、愛理の熱っぽい視線に射すくめられ、そして、目の前で繰り広げられた光景と、足元で苦しむ生き物たちの現実から、逃れることはできなかった。
(……仕方ない、よね。掃除なんだから……それに、愛理ちゃんも、やってるし……)
瞳は、自分に言い聞かせるように、ゆっくりと頷いた。そして、足元で蠢いていた一匹のドジョウに狙いを定め、震える足で、黒い上履きをそろりと持ち上げた。
「……えいっ」
小さな掛け声と共に、瞳の足が振り下ろされる。
ぷにっ、ぐにゅっ。
瞳の足裏に伝わってきたのは、愛理が感じたような明確な破砕音ではなく、もっと粘り気のある、抵抗の少ない、ぬめりとした感触だった。ドジョウの細長い体が、上履きの底で簡単に押し潰され、泥と混じり合っていく。
「……なんか……変な感じ……」瞳は、顔をしかめながら呟いた。小魚やカエルのような、砕ける「手応え」は少ない。しかし、生きているものが足の下で形を失っていく、その生々しい感触は、間違いなく彼女の足裏に伝わっていた。黒い上履きの底が、潰れたドジョウの粘液と泥でぬるりと滑る。
「ほんとだ。魚とはまた違うね」愛理は、興味深そうに瞳の足元を見つめながら言った。そして、自分も近くにいたドジョウを踏み潰してみる。「あ、本当だ。なんか、ぐにゅぐにゅしてる。気持ち悪いけど……」
愛理の言葉は、そこで途切れた。気持ち悪い。確かにそうなのだ。しかし、その「気持ち悪さ」が、奇妙なことに、嫌悪感だけではなく、何か別の感情を呼び起こしていることに、彼女は気づき始めていた。
(この、足の裏に直接くる感じ……なんか……)
愛理は、試しに、潰したドジョウの残骸の上で、上履きの底をグリグリと擦り付けてみた。ギザギザの凹凸が、潰れた肉と粘液をさらに細かくすり潰していく。ねちゃあ、という湿った音が、足元から聞こえる。その音と感触が、背筋をぞくぞくと這い上がってくるような、妙な快感を引き起こした。
「……ねぇ、瞳」愛理の声が、少し弾んでいた。「この上履きの底、なんかすごくない? このギザギザ」
「え……?」
「ほら、こうやって……」愛理は、まだ弱々しく動いているヤゴを見つけ、その上に上履きのつま先を乗せた。そして、体重をかけながら、ゆっくりとつま先を左右に捻るように動かす。
ミチミチッ……プチプチッ……!
ヤゴの、キチン質でできた硬い外骨格が、上履きのギザギザの突起によって、まるで砕かれるように破壊されていく。細かく、執拗な破砕音が、連続して響く。足裏のつま先部分に、硬い殻が砕け、中の柔らかい組織が潰れていく感触が、克明に伝わってくる。
「うわ……すごい……!」愛理は、思わず声を上げた。それは、先ほどの小魚やカエル、ドジョウとは全く違う、硬質なものを破壊する、明確な「手応え」だった。「ヤゴって、こんな感じなんだ……!」
その興奮した様子を見て、瞳も恐る恐る、近くのヤゴを同じように踏んでみた。
「……本当だ。なんか、プチプチって……」瞳の声にも、驚きと、隠しきれない興奮が混じっていた。
二人の間にあった、最初の戸惑いや罪悪感は、この新しい「発見」によって、急速に薄れ始めていた。目の前にあるのは、もはや「助けられなかった可哀想な生き物」ではなく、「踏み潰すことで様々な感触を楽しめる対象」へと変わりつつあった。
「こっちにザリガニいるよ!」愛理が、排水溝の近くにいた小さなザリガニを見つけて叫んだ。
「危ないよ、ハサミ!」瞳が注意する。
「大丈夫だって!」愛理は笑いながら、躊躇なくザリガニを踏みつけた。今度は、靴底全体で、体重をしっかりとかけて。
メキッ! グシャッ!
硬い甲殻が割れる音と、中身が潰れる鈍い音。ザリガニは、一瞬で原型を留めないほどに破壊された。
「うわー! やっぱり甲殻類は手応えが違うね! 快感!」愛理は、恍惚とした表情で言った。
「快感って……愛理ちゃん……」瞳は呆れたような、それでいて少し羨むような視線を送る。しかし、彼女自身も、足元のヤゴやタニシを踏み潰す手を(足を?)止めることはなかった。
タニシの硬い殻を、かかとで叩き割る。パキッ! という乾いた音と、足裏に響く硬質な衝撃。中の柔らかい身が、ぬるりと飛び出してくる。
沢ガニの小さな甲羅を、つま先で狙って踏み潰す。ミシッ、という軋むような音と共に、細い脚が砕け散る。
「見て見て、瞳! カエル、ジャンプしたところを空中キャッチ!」愛理が、逃げようと跳ねたカエルを、空中で踏みつけるという器用な技(?)を見せる。
「すごい! 私もやってみる!」瞳も真似しようとするが、うまくいかずにカエルを取り逃がす。
「あはは、まだまだだね!」
「むー! 次こそ!」
二人の会話は、もはや掃除をしているとは思えないほど、明るく、弾んでいた。青いリボンのセーラー服が、踏みつける動きに合わせて揺れ、素足に履かれた黒い上履きは、様々な生き物の体液や肉片で、見るも無残に汚れていく。しかし、二人はその汚れを気にするどころか、むしろ楽しんでいるようにさえ見えた。
「ねぇ、このギザギザのところに詰まったやつ、取るの気持ちよくない?」愛理が、上履きの底についた肉片を、プールサイドの縁石で擦り付けながら言った。
「わかる! なんか、達成感あるよね!」瞳も同意し、自分の上履きの汚れを落とそうとする。しかし、完全にきれいにはならない。黒いゴムの溝には、赤や緑や白の、有機的な模様が深く刻み込まれていた。
「あー、なんか、足の裏がムズムズする……」愛理が、突然そう言って、上履きの中で足指を動かした。「汗と、この潰したやつの汁と……なんか、変な感じ……」
「私も……なんか、熱い感じする……」瞳も、頬を赤らめながら言った。
踏み潰すという行為。足裏に伝わる、様々な生命の断末魔の感触。ギザギザのソールが生み出す、独特の刺激。そして、親友と共有する、この背徳的な秘密の遊戯。それらが渾然一体となって、二人の少女の中に、今まで知らなかった種類の興奮を呼び覚ましていた。
それは、性的なものとは少し違うかもしれない。しかし、間違いなく、原始的で、抗いがたい快感だった。支配欲、破壊衝動、そして共有される秘密のスリル。
「もっとやろ!」
「うん!」
二人は、再びプール底へと戻り、まだ息のある生き物を探し始めた。その目は、もはや獲物を探す狩人のように、ギラギラと輝いていた。デッキブラシやホースの水を使うまでもなく、二人の黒い上履きだけで、プール底の「掃除」は、着々と、そして残虐に進んでいく。
ピチッ! ぐにゅ! メキッ! ぶちゃ! プチプチッ! グシャッ!
様々な破壊音が、二人の甲高い笑い声と、興奮した会話に混じり合って、初夏の青空の下に響き渡る。それは、誰にも知られることのない、二人の少女だけの、倒錯した饗宴の始まりだった。
「ねぇ、愛理ちゃん、どっちがたくさん潰せるか競争しない?」瞳が、目を輝かせながら提案した。さっきまでの遠慮がちな様子は、もうどこにもない。
「いいね! 負けないから!」愛理も、挑戦的な笑みを浮かべて応じた。
二人は、プールの端から端までを使い、まるでゲームのように生き物を踏み潰し始めた。
「そっち行ったカエル、私の!」
「あ、ずるい! じゃあ、こっちの小魚の群れはもらった!」
愛理は、持ち前の運動神経の良さを活かし、素早いステップで次々と獲物を仕留めていく。黒い上履きが、軽やかに宙を舞い、正確にターゲットを踏み抜く。つま先で、かかとで、ソール全体で。まるでダンスでも踊っているかのように、流れるような動きで破壊を繰り返す。
「ふふん、今のところ、私の勝ちかな?」
一方、瞳は、愛理ほどの派手さはないものの、着実に数をこなしていた。黒いパンプスのような形状の上履きは、つま先がやや細くなっており、狙いを定めやすい。彼女は、一つ一つの獲物を丁寧に、確実に踏み潰していく。特に、ヒール部分(と言っても数ミリ程度の厚みしかないが)に体重を乗せ、グリグリと回転させながらすり潰すのが得意なようだった。
「まだわかんないよ! 大物狙いで逆転するんだから!」
二人は、互いの戦果を確認し合い、時には相手の獲物を横取りしようとしたり、わざと邪魔をしたりしながら、キャッキャとはしゃいでいる。その姿は、無邪気な子供の遊びのようでもあるが、行われていることの残酷さを考えると、異様な光景だった。
「見て、愛理ちゃん! ザリガニ、ハサミで抵抗してる!」瞳が、少し大きめのザリガニを足で押さえつけながら叫んだ。ザリガニは、必死に小さなハサミを振り上げ、黒い上履きに抵抗しようとしている。
「ほんとだ! 生意気なやつ!」愛理が駆け寄り、瞳とは反対側から、もう片方の足でザリガニの頭部を踏みつけた。「ダブルアタック!」
「えいっ!」
メキメキッ! グシャッ!
二人の体重が同時にかかり、ザリガニの甲殻は、一瞬で粉々に砕け散った。赤黒い体液と、白い身、黄土色の内臓が、二人の上履きの底にべっとりと付着する。
「やったー!」
「ふふ、私たちの連携プレイの前には、ザリガニも無力だね!」
二人はハイタッチを交わし、顔を見合わせて笑った。共犯者としての意識が、二人の間に強い一体感を生み出していた。
上履きのギザギザのソールは、この虐殺遊戯において、重要な役割を果たしていた。平らなソールだったら、滑ってしまってうまく踏めなかったかもしれない。しかし、この深い溝と突起が、ぬめった魚の体や、硬い甲殻、動きの素早いカエルなどを確実に捉え、足裏にその感触をダイレクトに伝えてくるのだ。
「このギザギザ、本当にすごい……」愛理は、改めて自分の上履きの底を見ながら呟いた。「踏むために作られてるみたい」
「うん……なんか、足の裏に吸い付く感じがするよね。潰してる時」瞳も同意する。「プチプチって感触とか、ぐにゅって感触とか、全部わかる」
素足で履いていることも、その感覚を増幅させていた。汗で蒸れた上履きの内側。踏み潰した生き物の体液が、布地を通して微かに染み込んでくるような感覚。そして、ソールを通して直接伝わる、様々な硬さ、柔らかさ、温度、そして破砕の衝撃。それらが、二人の足裏の神経を絶えず刺激し続ける。
「なんか……足の裏だけじゃなくて、体全体が、ぞくぞくする……」愛理が、ぽつりと言った。頬は上気し、呼吸も少し速くなっている。
「わかる……なんか、変な感じ……ふわふわするような……」瞳も、潤んだ瞳で愛理を見つめ返した。
それは、明らかに、ただの「掃除」に対する感情ではなかった。未知の快感への戸惑いと、抗えない興奮。二人は、互いの表情の中に、自分と同じ感情が渦巻いているのを見て取った。
「……もう、ほとんどいなくなっちゃったね」愛理が、プール底を見渡しながら言った。あれほどたくさんいた生き物たちは、今や、赤や黒や緑の、無数の染みと、ミンチ状になった残骸に姿を変えていた。青いプール塗装は、おぞましい模様で埋め尽くされている。
「うん……終わっちゃった……」瞳が、少し残念そうな声で言った。
二人は、プールサイドに上がり、ホースの水を勢いよく流し始めた。大量の水が、プール底の惨劇の跡を洗い流していく。ミンチ状になった肉片や、砕けた殻、鱗などが、水と共に渦を巻きながら、排水溝へと吸い込まれていく。さっきまでの喧騒が嘘のように、プールには水の流れる音だけが響いていた。
二人は、自分の上履きにもホースの水をかけ、こびりついた汚れを洗い流した。しかし、布地に染み付いたシミや、ゴムの溝に入り込んだ細かな肉片までは、完全には落ちない。黒い上履きは、まだらに汚れ、生臭い匂いを放っていた。
素足も、念入りに洗う。足の指の間に入り込んだ粘液や、足首についた鱗などを、ごしごしと擦り落とす。
「……なんか、すごい匂いするね、私たち」愛理が苦笑しながら言った。
「うん……早くシャワー浴びたい……」
掃除を終え、後片付けも済ませると、二人はプールサイドに並んで腰を下ろした。西に傾き始めた太陽が、長く影を伸ばしている。心地よい疲労感と、共有した秘密の重みが、二人の間に漂っていた。
「……今日の掃除、なんか、すごかったね」瞳が、ぽつりと言った。
「……うん」愛理は、短く答えた。言葉には出さなかったが、瞳の言いたいことはわかっていた。「すごかった」だけでは言い表せない、複雑な感情が胸の中に渦巻いていた。
楽しかった。興奮した。気持ちよかった。そして、怖かった。
「……また、来年も、二人でやろっか。プール掃除」愛理が、冗談めかして言った。
瞳は、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに悪戯っぽい笑顔を浮かべて頷いた。
「うん。来年は、もっと上手になってるかもね、私たち」
二人は顔を見合わせ、くすくすと笑い合った。その笑い声には、もう罪悪感の色はなかった。代わりに、秘密を共有する共犯者同士の、どこか甘美で、危険な響きが含まれていた。
黒い上履きの中で、汗ばんだ素足が、まだ微かに疼いている。あの、ギザギザのソールが生き物を捉え、砕き、すり潰した感触。足裏に刻まれた、生々しい記憶。それは、きっと簡単には消えないだろう。
二人の少女の、秘密の儀式は終わった。しかし、それは同時に、彼女たちの心の奥底に、新たな扉を開いてしまったのかもしれない。プール底で始まった倒錯的な遊戯は、この先、どこへ向かっていくのだろうか。今はまだ、誰も知らない。ただ、濡れた黒い上履きだけが、その始まりの日の記憶を、生臭い匂いと共に留めている。
プール底での饗宴が終わり、後片付けも済ませた二人。プールサイドに座り、夕暮れの光を浴びている。しかし、先ほどの興奮の残滓は、まだ二人の体に燻っていた。
愛理は、自分の黒い上履きを改めて見つめた。ホースの水で洗い流したとはいえ、布地の黒はくすみ、つま先やかかとの部分には、落としきれなかった赤黒いシミがまだらに残っている。そして、靴底。ギザギザの溝の奥には、細かな肉片や鱗が、まるで模様のようにこびりついていた。
(これ……普通に洗っても、絶対落ちないだろうな……)
そう思うと、妙に愛おしいような気持ちが湧いてきた。これは、ただの汚れではない。今日の、瞳との特別な「体験」の証なのだ。この汚れを見るたびに、あの足裏の感触、あの興奮を思い出すのだろう。
隣に座る瞳も、同じように自分の上履きを眺めていた。彼女の上履きも、愛理のものと同じように、惨劇の痕跡を色濃く残している。瞳は、そっと上履きを脱ぎ、素足になった。白く華奢な足の裏は、まだ少し赤みを帯び、汗で湿っている。そして、よく見ると、指の間や土踏まずのあたりに、洗い流しきれなかった微かな汚れが残っていた。
「……なんか、まだ足の裏が、じんじんする……」瞳が、小さな声で呟いた。そして、自分の足裏を指でそっとなぞる。「ここに、カエルの……ぐにゃってしたのが……」
「わかる」愛理も頷いた。「私は、かかとでザリガニ潰した時の、メキって感じが、まだ残ってる」
二人は、互いの足裏に刻まれた感触を、言葉で確かめ合う。それは、まるで秘密の合言葉を交わすかのように、親密で、背徳的な響きを持っていた。
「あのさ……愛理ちゃん」瞳が、少し躊躇いがちに切り出した。「一番……気持ちよかったのって、どれだった?」
その直接的な問いに、愛理は一瞬驚いたが、すぐに意地の悪い笑みを浮かべた。
「えー、どれかなぁ……。ヤゴのプチプチ感も捨てがたいし、ザリガニのメキメキ感も……あ、でも、やっぱり一番最初は衝撃的だったかも。小鮒の、あの、ぷちって……」
「わかる! 私も、最初のドジョウの、ぐにゅってしたのが、なんか……忘れられない」
「だよね!」
二人は、互いの「お気に入り」の感触について、興奮気味に語り合った。どの生き物が、どんな音を立てて、どんな風に潰れて、足裏にどんな感触を残したか。それは、傍から聞けばおぞましい内容でしかないが、今の二人にとっては、最高にエキサイティングな話題だった。
「上履きのギザギザもさ、場所によって違うよね」愛理が、自分の上履きの底を指さしながら言った。「つま先の方は細かいギザギザだから、ヤゴみたいな小さいのをプチプチ潰すのにいいし、かかとの方は少し大きめのブロックになってるから、タニシの殻とか割るのに力が入りやすい」
「ほんとだ! 私、あんまり意識してなかった!」瞳も、自分の上履きの底をまじまじと見つめる。「じゃあ、土踏まずのあたりの、この波々になってるところは……?」
「そこは、あれじゃない? 魚とかカエルとか、柔らかいやつを、ぐりぐりーって、すり潰すのに向いてるんじゃない?」愛理は、実際に足元のアスファルトの上で、上履きの土踏まず部分を擦り付けるような動作をしてみせた。
「あー! なるほど!」
二人は、まるで新しいおもちゃの性能を分析するように、自分たちの汚れた上履きの機能について、熱心に語り合った。それは、この靴がもはや単なる「上履き」ではなく、今日の特別な「儀式」のための「道具」へと、彼女たちの中で変貌を遂げたことを示していた。
「ねぇ、愛理ちゃん」瞳が、ふと思いついたように言った。「この上履き、どうする? このままじゃ、お母さんに絶対何か言われるよ」
「うーん……」愛理も腕を組んだ。「捨てるのは、なんか、もったいない気がしない?」
「うん……今日の記念、だもんね」瞳も、名残惜しそうに上履きを撫でる。
「じゃあさ、こっそり持って帰って、隠しておくのはどう?」愛理が提案した。「で、また何か……こういうことする時に、使うの」
「えっ……?」瞳は、目を丸くした。「また、やるの?」
「やりたいでしょ?」愛理は、瞳の目をじっと見つめて、悪戯っぽく笑った。
瞳は、一瞬視線を彷徨わせたが、やがて、こくりと小さく頷いた。その頬は、夕陽のせいだけではなく、興奮で赤く染まっている。
「……やりたい、かも」
その言葉は、もはや疑問形ではなかった。確かな願望として、瞳の口から紡ぎ出された。
「よし、決まりね!」愛理は満足そうに頷いた。「じゃあ、この『秘密兵器』は、私たちの宝物ってことで」
二人は、汚れた黒い上履きを、まるで宝物のようにそっと持ち上げた。生臭い匂いと、おぞましい汚れ。しかし、今の二人にとっては、それはかけがえのない、秘密の絆の象徴だった。
部活の終了時刻が近づいていた。二人は、名残惜しそうにプールに背を向け、校舎へと戻り始めた。並んで歩く二人の間には、以前とは明らかに違う、濃密な空気が流れていた。共有した背徳的な快感と、新たに生まれた共犯関係。それは、二人をより強く結びつけると同時に、危険な領域へと誘う甘い罠でもあった。
校舎の昇降口で、愛理はふと立ち止まり、瞳に向き直った。
「ねぇ、瞳」
「なに?」
「……今日の感触、忘れないでね」愛理は、真剣な表情で、しかし瞳の奥には妖しい光を宿して言った。
瞳は、一瞬息を呑み、そして力強く頷いた。
「うん。忘れない。絶対に」
短い約束を交わし、二人はそれぞれの靴箱へと向かった。脱いだ黒い上履きは、ビニール袋に入れて、鞄の奥底に隠す。誰も見ていないことを確認しながら。
家に帰る道すがら、愛理は今日の出来事を反芻していた。足裏に残る感触、瞳と交わした会話、そして、自分の中に芽生えた未知の感情。それは、少し怖くもあったが、それ以上に、抗いがたい魅力に満ちていた。
(次は……何を、踏んでみようかな……瞳と一緒に……)
そんな考えが、自然と頭に浮かんでくる。プール掃除という、偶然与えられた舞台。そこで目覚めてしまった、倒錯的な衝動。それは、まだ始まったばかりなのかもしれない。青いリボンのセーラー服の下で、少女たちの秘密は、静かに、しかし確実に、その根を深く張り巡らせていく。初夏の夕暮れが、全てを包み込むように、濃い影を落としていた。
家路につく愛理の足取りは、どこかふわふわとしていた。疲れているはずなのに、体は妙に軽く、高揚感が続いている。鞄の奥底に隠した、汚れた上履きの存在が、ずしりとした重みと共に、確かな実感を与えてくれる。あれは、今日の出来事が夢ではなかった証拠だ。
(瞳も、同じ気持ちなのかな……)
今日の瞳の変貌ぶりは、愛理にとっても予想外だった。最初はあんなに怖がっていたのに、途中からは、まるで堰を切ったように、積極的に生き物を踏み潰していた。あの、恍惚としたような表情、弾んだ声。普段のおとなしくて優しい瞳からは、想像もつかない姿だった。
(もしかしたら、瞳の中にも、私と同じようなものが、ずっと前からあったのかもしれない……ただ、気づいていなかっただけで……)
そう考えると、愛理は嬉しくなった。自分だけが「おかしい」わけじゃない。一番の親友である瞳も、この背徳的な快感を共有できる。その事実は、愛理にとって何よりも心強い支えのように感じられた。
(瞳となら、もっと……)
もっと、何をしたいのだろう? 愛理自身にも、まだはっきりとはわかっていなかった。ただ、あの足裏に伝わる生々しい感触、生命を支配し、破壊する全能感、そしてそれを瞳と共有するスリルを、もっと味わいたいという漠然とした、しかし強烈な渇望があるだけだ。
今日の出来事は、二人の関係性を確実に変えただろう。ただの仲の良い水泳部の友達、というだけではない。秘密を共有し、互いの奥底にある暗い部分を認め合った、「共犯者」。その特別な響きが、愛理の心をくすぐる。
(瞳は、今日のことをどう思ってるんだろう……後悔してないかな……)
少しだけ不安がよぎる。しかし、最後に交わした瞳の力強い眼差しと言葉を思い出すと、その不安はすぐに掻き消えた。「忘れない。絶対に」。あれは、本心からの言葉だったはずだ。
家に帰り着き、自分の部屋に入ると、愛理はすぐに鞄からビニール袋に入った上履きを取り出した。袋を開けると、むわりと生臭い匂いが鼻をつく。改めて見ると、その汚れは凄まじい。
(お母さんに見つかったら、大変なことになるな……)
愛理は、クローゼットの奥、普段は使わない古い旅行鞄の中に、その上履きをそっと隠した。これで一安心だ。でも、すぐにまた取り出して眺めたくなる衝動に駆られる。
ベッドに寝転がり、天井を見つめる。目を閉じると、今日の光景が鮮やかに蘇る。青いプール底、蠢く無数の生き物、白いセーラー服、そして、黒い上履きが振り下ろされる瞬間。ぷちっ、ぐちゃっ、メキッ、プチプチッ……あの、耳と足裏に焼き付いた音と感触。
(……気持ち、よかったな……)
素直な感想が、心の底から湧き上がってくる。罪悪感よりも、はるかに強い快感の記憶。愛理は、無意識のうちに、自分の素足の裏を、もう片方の足でそっと擦り合わせていた。あの、ギザギザのソールで何かを踏みしめる感触を、思い出そうとするかのように。
その時、スマートフォンの通知音が鳴った。画面を見ると、メッセージアプリに瞳からの新しいメッセージが届いている。
『愛理ちゃん、今日はお疲れ様!』
普通の、当たり障りのないメッセージ。愛理は、少し迷った後、返信を打ち始めた。
『瞳もお疲れ! なんか、すごかったね、今日w』
すぐに既読がつき、瞳からの返信が来る。
『うんw すごかったwww 足の裏、まだ変な感じするんだけど、愛理ちゃんは?』
『私も! なんか、ぞくぞくする感じ?w』
『わかるー!www』
メッセージのやり取りは、他愛のないものだった。しかし、「w」の多さや、隠された行間に、今日の出来事の興奮と、それを共有する者同士の特別なニュアンスが滲み出ているのを、二人は互いに感じ取っていた。
『あの靴、ちゃんと隠した?』愛理が送る。
『うん! バッチリ! 愛理ちゃんも?』
『もちろん! 私たちの秘密兵器だもんね!』
『うん!www』
このメッセージのやり取りだけで、愛理の心は満たされた。瞳も、今日のことを後悔していない。むしろ、楽しかった記憶として、そして次の期待へと繋がるものとして、捉えている。それがわかっただけで、十分だった。
(次、いつ、あの靴を履けるかな……)
愛理の頭の中では、早くも次なる「舞台」への想像が膨らみ始めていた。学校の帰り道、公園の片隅、雨上がりの道端……日常の風景の中に、足元の小さな命は、いくらでも存在している。
(でも、一人じゃなくて、瞳と一緒にやりたいな……)
あの興奮と快感を、二人で分かち合いたい。互いの存在が、互いの衝動をさらに増幅させる。あの、プール底での一体感を、もう一度味わいたい。
愛理は、瞳とのメッセージのやり取りを終えると、再び目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、黒い上履きで、何か柔らかいものを、ぐちゃりと踏み潰す感触。そして、隣で同じように、興奮した表情で微笑む瞳の姿だった。
水泳部の練習が、明日から本格的に始まる。きれいになったプールで、いつものように泳ぐのだろう。でも、もう、あのプールを以前と同じように見ることはできないかもしれない。あの青い底には、二人の少女だけが知る、濃密で、倒錯した秘密が、深く深く刻み込まれてしまったのだから。
初夏の夜は、まだ浅い。しかし、愛理と瞳の心の中で始まった「夜」は、もう明けることはないのかもしれない。二人の共犯関係は、あの汚れた黒い上履きと共に、静かに、しかし確実に、その闇を深めていくのだろう。
プール掃除 写乱 @syaran_sukiyanen
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