ありあまる富の耐えきれない軽さ

財前創平

ありあまる富の耐えきれない軽さ

西園寺真理子は、大学の図書館で一冊の本に向き合っていた。窓から差し込む春の光が、ページの上を静かに踊っていた。


戦後、彼女の祖父が築いた巨大な財閥。父はその帝国をさらに拡大した。その重さを、真理子はいつも肩に感じていた。


「すみません、ペンを借りてもいいですか」


声に顔を上げると、黒縁の眼鏡をかけた青年が立っていた。彼は着古した紺のジャケットを着ていた。


「どうぞ」彼女はペンを差し出した。


「ありがとうございます」彼は丁寧にお辞儀をした。「高村直樹です。経済学部の」


「真理子。法学部の」彼女は姓を名乗らなかった。ただの学生でいたかった。


それから、図書館で会う日々が続いた。初めは敬語だった彼の言葉も、次第に砕けていった。彼のノートは経済理論で埋め尽くされていた。


「何をそんなに熱心に研究してるの?」ある日、真理子は尋ねた。


「富の不均衡だよ」直樹は少し苦い顔で言った。「世界の富の半分が、わずか1%の人間に集中している現実を。そのうえ、その差はどんどん開いていく」


彼の目には静かな怒りが宿っていた。統計を示し、貧困国の現状を語る姿は、学者というより、戦士のようだった。


「でも、何のために?」


「途上国の開発に関わりたいんだ」彼は言った。「現地で本当に必要な経済支援の形を作りたい」


彼は夢を熱く語り、真理子は聞き入った。彼女自身が見出せずにいた目的が、彼の中には確かにあった。


五月の午後、直樹は図書館で倒れた。病院で医師は休養を勧めたが、彼は首を振った。


「休めない」彼の声は固かった。「授業を休めば奨学金が危うくなる。バイトも休めない」


「でも」


「心配しないで」彼は微笑んだ。「僕の人生だから」


その言葉に、真理子は何かを感じた。彼と自分のあいだにある見えない壁。選択の自由すら奪う貧しさと、選択の意味を見失う豊かさ。


それは、胸に小さな痛みを残した。その痛みは、日が経つごとに静かに広がっていった。


真理子は行動を起こした。大学に匿名で寄付し、経済的困難を抱える学生への緊急支援基金を設立した。彼がその対象になるよう、さりげなく働きかけた。


七月、直樹はその支援を受けることになった。彼は困惑していた。


「なぜ急に僕が?」


「成績優秀だからじゃない?」真理子は知らないふりをした。


彼は疑いの目を向けたが、何も言わなかった。


数日後、彼は興奮した様子で真理子に会いに来た。


「インドネシアへの留学プログラムに通ったんだ」彼の顔は輝いていた。「でも」


「でも?」


「費用が足りない。支援があっても、まだ足りないんだ」


真理子は再び父に電話をかけた。「お父様、お願いがあるの」


八月、直樹は思いがけない知らせを受けた。彼の研究計画が高く評価され、費用全額が賄われることになった。


出発の前日、彼は真理子と会った。河原を歩いていたとき、彼は突然立ち止まった。


「もういい加減にしてくれないか」彼の声は低かった。


「え?」


「君が何をしたか、全部分かってる」彼は真理子をまっすぐ見た。「西園寺財閥の令嬢が、哀れな貧乏学生に慈善事業か?」


真理子は凍りついた。「どうして…」


「支援財団の名前を見て調べた」彼は言った。「西園寺グループの子会社だった。そして君のことも知った」


沈黙が二人の間に広がった。


「なぜ隠してた?」彼は尋ねた。


「見られたくなかった」彼女は小さく言った。「西園寺の娘としてじゃなく、ただの私として」


「じゃあなぜ?」彼の声には怒りがあった。「なぜ勝手に支援する?僕の力を信じてないのか?」


「違う!」彼女は叫んだ。「あなたの夢を、叶えてほしかっただけ」


彼は黙って川面を見つめた。長い沈黙の後、ぽつりと言った。


「僕が戦ってるのは…慈善で解決するような問題じゃない。君みたいな人が無自覚に持つ特権そのものを」


真理子は息を呑んだ。彼の言葉は、彼女の胸を刺した。


「でも…」直樹は困惑したように眉をひそめた。「君は違うのかもしれない。信じたい」


彼は自分の感情に戸惑っているようだった。怒りと信頼、拒絶と希望のあいだで揺れている。


二人の夜は、静かに、長く続いた。


「インドネシアの件は、最後の援助として受け取る」彼は言った。「その後は、自分の力だけで進む」


「頑固ね」彼女は微笑んだ。


「それが僕だ」彼も笑った。「君が君自身であるように」


直樹からは、定期的にLINEを受け取っていた。現地での発見と、農村部の人々との出会いが綴られていた。彼の言葉には活力があふれていた。


十月末、真理子のもとに悲報が届いた。土砂災害で、直樹が行方不明になったという。避難作業中に濁流に飲み込まれたらしい。


真理子は父の力を使い、捜索活動を支援した。しかし結果は変わらなかった。


冬が来て、春が来た。真理子は経済学を学び始めた。彼のノートを繰り返し読み、彼が見ていた世界を理解しようとした。


「真理子」父は彼女を書斎に呼んだ。「君は進路を決めたのか?」


「はい」彼女は答えた。「会社を継ぎます。でも条件があります」


彼女は新しい事業部門の計画書を父に差し出した。その名は「共生経済イニシアチブ」。富の不均衡に挑む国際開発プロジェクトだった。


父は黙って計画書に目を通した。「なぜこれが必要だと思う?」


「富を正しく使うため」真理子は答えた。


数年後、真理子はインドネシアの村に立っていた。彼女のプロジェクトで建てられた地域開発センターの開所式だった。そこでは現地の人々が主体となり、自分たちの未来を設計していた。


センターの入口には小さなプレートがあった。そこには直樹が最後に送った言葉が刻まれていた。「共に歩く道を見つけよう」


真理子はプレートに触れた。冷たい金属の感触の奥に、彼の温もりが今もあるような気がした。


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ありあまる富の耐えきれない軽さ 財前創平 @soheizaizen

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