後編・太郎の帰還

 龍宮の庭から続く水路がさらさらと鳴っていた。うたかたの都の大街だいがいはほの暗く、軒に小ぶりな火秀珠を吊るしておった。うろこある店主が喃々なんなんと口上を述べ、うろこある客がゆったりと行きかう。龍宮の王子である乙彦にちらと目をやる者はあれど、声をかける者はなかった。おそうやまってのことであろう。

 太郎は螺鈿の小刀を手にとった。鞘から抜くと、短い刃は生成きなり色でぎざぎざしていた。

「のう、これは何でできておるんじゃ?」

鰐鮫わにざめの歯です。切れ味がよござんすよ」

 石鯛に似た店主は揉み手した。太郎は指先で軽く刃を確かめた。乙彦が寄ってきた。

「太郎さま、それをお望みで?」

「漁仕事によさそうじゃ」

店主たなぬしよ、これをもらおう。好きな値を申せ」

 店主は慌てた。「いえ、滅相もない。乙彦さまからおあし丶丶丶をいただくなど」

「なら、わしが払おう。それならよいだろう」

 太郎はにやりとして巾着きんちゃくをひらいた。鮫人の鮑珠がぎっしり詰まっている。それがこの都の銭なのだった。目をむく店主の手に鮑珠を盛って、太郎は小刀を懐に収めた。悠然と店をでる。

「おお、なんぞ気分のいいもんじゃのう」

 乙彦はくすくす笑った。「お大尽だいじんさま、次はどちらへ?」

 ふたりは鯨の干肉ほじしを齧りつつ鮫皮の服を素見ひやかし、海葡萄の酢漬けを嚙んでは石屋の龍宮城の置物を眺めた。たつの役瓦といらかの精緻な細工を太郎は撫でた。

「海にも石屋がいるとは思わなんだ」

海底うなぞこの岩を切りだすのです。おかのように木は生えませぬゆえ、重宝するのですよ」

「あの城も石なのか。よう沈まぬな」

「すべては父上と龍明珠の力です」

 珊瑚や貝細工を売る店で、太郎は鼈甲べっこうくしを手にした。亀甲紋様を刻んだみごとな品であった。

「おっ母がよろこぶじゃろうな」

 ふいに李の実に似た薄青い蟲がふよふよと来て、太郎の頭のまわりをたゆたった。乙彦の顔がみるみる曇った。泣かんばかりの黒い目。

「太郎さまは帰ってしまわれるおつもりですか」

「そんな顔するな。まだ帰らん」

「この乙彦を置いて、どこにも行かないでくださいまし」

 太郎は櫛を台に戻して、乙彦の手をとった。芯から冷たい手。

「どこにも行きゃあせん」

「まことに?」

「ああ」

「ああ、うれしや」

 乙彦はぎゅっと腕に擦り寄った。太郎はたまらなくなって、せぐくまっては童に口づけをくれた。薄青い蟲は太郎の肩にとまった。息をするかに蟲の淡い光が明滅する。

「こりゃなんなんじゃ?」

海魂うなだまです。水母くらげあやしで、魂を運ぶものです」

 その海魂を乙彦は手に乗せて、ひどく悲しげにした。

「ごめんなさい」

 乙彦が何を謝ったのか、太郎はわからなかった。海魂はひときわ明るく光り、すうっと暗んだ。そして、太郎の肩にふよふよと戻っては、そこにしばしいこっていた。


 都の水の空が暮れても大街は火秀珠で明るかった。太い水路を跨ぐいしだだみの通りを太郎と乙彦はつれだって歩んだ。青鈍色あおにびいろの装束の者ふたりが道をふさいだ。その者らが抜き放った太刀たちは尖らせた鯨の骨だった。乙彦はさっと太郎をかばうかに腰を落とし腕をひろげた。太郎はふりかえった。後ろにも同じ装束の者が二人。同じく手にした鋭い骨。

「何者か。われが龍王が子、乙彦と知っての狼藉ろうぜきか」

 青鈍装束はいっせいにかかってきた。太郎は小刀を抜き、鰐鮫の歯で刺客しかくの腕をえぐった。怯んだそいつを掬いあげ、もう一人にぶち当てる。転がった太刀を水路に蹴り落とした。

「乙彦!」

 風を感じた。みずらの髪が命を持ったかに逆立ち、乙彦の身が火秀珠めいて明るんだ。乙彦が諸手を振りおろすと、刺客ふたりが干烏賊ほしいかのように吹っ飛んで壁に衝突した。太郎はあっけにとられた。

「太郎さま!」

 残りの刺客が太郎に組みついた。腕で頸を絞めあげてくる。太郎は必死に鰐鮫の歯で切りつけた。胸の鼓動が耳もとで響く。

「おのれ!」

 乙彦の目が燃えた。ぶわりと鬟がほどけ、いっそう強い風が吹いた。ごぼりと刺客が吐いた。太郎の衣がどす黒くぬめった——血のにおい。とっさに振りほどくと、刺客は力なく転がった。その頸に骨の太刀が斜めに貫通していた。


 龍明珠の水で身を清め、衣を着替えても、血のにおいが鼻についてならなかった。あてがわれた小部屋のしょうで太郎は膝をかかえた。背中の刺客がぐにゃりと脱力する心地が幾度も蘇る。屛風びょうぶのむこうで戸のあく音。

「太郎さま、お加減はいかがでしょう」

 髪をおろしたままの乙彦が覗いた。太郎は顔を伏せた。

「太郎さま」

 伸ばされた白い手に、太郎はびくりとふるえた。乙彦は手をひっこめて、悲しいほど澄んだ目を向けた。

「おぬしはわしを騙したのか?」

 双つの黒い目がかすかに潤んだ。太郎は顔を背けた。

「弥八に捕まったおぬしを、わしは哀れに思って助けた。じゃが、おぬしはわしの助けなどなくとも、ああして……」

「いいえ、わたくしはおかでは無力な亀にすぎませぬ。それに、あの童は母を思う一心でわたくしを捕らえたのです。手をかけるなど、ありうべからざること」

「殺さねばならなかったのか?」

「太郎さまをお守りするためなら、わたくしは誰であろうとああするでしょう」

「狙われたのはおぬしであろう」

「いいえ、やつらの狙いは太郎さまです」

「なして、わしが」

「おそらく、わたくしの心を弱らせるためでしょう。いつもそうでした。わたくしも姉上も、身近な者がそばづえを受けるのです。あるいは、わたくしの母上は、そのために命を落としたのやもしれぬ」

 乙彦の手が袖をつかんだ。童は静かに泣き濡れていた。

「乙彦は、ずっとひとりでした。太郎さま、どうか乙彦をひとりにしないで」

 まつ毛の玉の涙。童の悲寥ひりょうがしんしんと胸の琴をふるわせた。太郎は指先で童の涙を掬って、わななく唇にそっと口づけた。潮の味がした。ほそい髪をするすると撫でて、太郎は童を膝に乗せた。鍋釜のように軽く、むくろのように冷えびえとした体。人ではない者。じゃが、わしは……太郎は目を閉じて、口づけをくりかえした。おのれの熱を分かち与えるかに。

 龍宮の夜のしじま、空の波音がいつもより大きくきこえた気がした。


 しゅりん、たんたん。しゅりん、たんたん。鮫人の娘らは無心にはたを織り、ときおり鮑珠の涙をこぼした。転がった鮑珠を太郎はつまんではせっせと石の涙壺なみだつぼに収めた。

「太郎さま。そんなに頑張らずとも真珠しらたまは逃げませんよ」

 珹珠の声に、数人の娘らが明るく笑った。太郎は頭を掻いた。

「どうも手持ち無沙汰でな」

「乙彦さまは?」

「それが朝議とやらで忙しいようで、ちいとも顔を見せてくれんのじゃ」

 さようですか、と珹珠は考えこむふうをした。「もしかしたら譲位の話かもしれませんね」

「乙彦が龍王になるんか?」

「それはわかりかねますが。龍王陛下は乙彦さまを王に据えて、甲姫さまを摂政にしたいとお考えのようです。乙彦さまはまだよわい九十ゆえ……」

「九十っ?」太郎はつい叫んだ。「どう見ても十二、三ではないか」

 珹珠はきょとんとしてから笑いだした。不揃いに鋭い歯。

「龍族は千歳ちとせの長寿をる者も珍しくはないのです。ましてや乙彦さまは神亀族の血も引いてらっしゃいますゆえ、万歳よろずとせをも生きるやもしれませぬ。九十などほんの童」

 太郎は愕然とした。百年生きるのが精々のわしなど、乙彦から見ればえのころのようなものかもしれん。だから、こうして幾日もほったらかされるのだろうか。

 太郎は肩を落として機織殿はたどのをでた。正殿前の泉のうえに海魂があった。一つや二つではない。白、青、藍、紺まで様々な色の海魂がおびただしく漂っている。

「なんじゃあこりゃあ」

 真っ黒い海魂が太郎を掠めた。ケケケッ、とそれは笑った。幼子のような、されども邪悪な声。太郎は背筋が寒くなり、龍宮の庭をあてもなく駈けだした。


 空席の玉座の流麗なたつのうろこ。龍王の姿を見たのは初めの日ばかりであった。つわものらの立ち話を太郎は耳に挟んだ。

「龍王陛下は重いご病気らしい」

「都が滅ぶではないか」

「乙彦さまがいる」

巫部かんなぎべは甲姫さまを推したてまつっておるのでは」

「しかし女が龍王など前代未聞」

 太郎にきかれていることに気づき、兵らは急に口をつぐんだ。太郎は兵らに面と向かった。

「なして都が滅ぶんじゃ?」

 兵らは気まずげに顔を見合わせた。背の高いほうがいった。

「俺らにきいたといわないでくれ。陛下が崩御ほうぎょあそばしたらば龍明珠の守りが失せ、都の水は濁り、疫病がはびこるであろう」

「それどころではない」背の低いほうが口を挟んだ。「泡のつつみがはじけ、都は海の藻屑だ」

 ありありと目に浮かんだ。あのおおきな水沫みなわの結界、それがはじけたらば大津波に襲われ、都は千々ちぢに砕け、人々は溺れ死に、石の城は沈むであろう。そうなったら乙彦は——

 いてもたってもいられず太郎は走った。扉のまえにまた別のつわものふたりがいた。

「乙彦に話がある」

「ならん。乙彦さまは朝議の最中ゆえ」

「急ぐのだ」

「なら、用向きを伝えよう。ここで申せ」

 太郎はせっかちを起こし怒鳴った。「乙彦! 乙彦でてこい! 浦島の太郎さまがお呼びじゃあ」

「騒々しい。何事か」

 女の声にふりむいた。甲姫であった。太郎は迫った。

「龍王さまが重病とはまことか」

 兵らがたじろいだ。甲姫の目が剃刀かみそりのように細くなる。紅唇がとってつけたふうに笑みのかたちをつくった。

「何を慌ててらっしゃるのです。たとえ龍王がたおれても乙彦がある。この都は磐石ばんじゃく

「じゃが、巫部は甲姫さんを推しとるんじゃろう。乙彦ひとりで龍明珠を支えられるんか?」

「そんなに心細くばおかに帰ったらよろしかろう。なんなら私が送ってしんぜよう」

「そういうこっちゃない。わしは乙彦を案じて……」

「まことに乙彦を思うならば振舞いを慎め。なんの力もないそなたが騒いでも乙彦は救われぬ」

 声に打たれ、太郎は唇を嚙んだ。悔しいが、そのとおりである。

「乙彦と話がしたい。わしの部屋に来るよういうてくれんか。どんなにおそくとも待っていると」

 こころなしか甲姫のまなざしがやわらいだ。「承知した。伝えよう」


 龍明珠の泉の光、おびただしく浮遊する海魂。開け放したままの窓から白い海魂がふよふよと入ってきた。太郎は指先で海魂をつんと突いた。海魂はぷよんとはずんで庭へと押し戻された。太郎はため息をついた。

「まだかのう」

 都の水の空はすっかり暗く、されども乙彦は姿を見せなかった。太郎はうとうとと眠けをもよおし、窓辺に突っぷした。

 水の大音声だいおんじょうに太郎は胆を冷やした。風が吹きおろし、都の水の空が渦を巻き、ぽかりと大きな穴があいた。清らかな月天心——

「ああ……!」

 太郎は窓を乗り越え、甃の庭へでた。水沫みなわの結界が霧のように消えていく。風だ、潮風だ。おくれ毛が太郎のひたいをくすぐり、頬や頸がひんやりと湿った。そうだ、海の風になぶられるのはこんなにも心地よいことだったのだ。目の奥からじんとこみあげるもの、わけもわからず涙が滂沱ぼうだと流れる。

「太郎さま」

 乙彦はそっと手を太郎の両肩に置いた。その冷えびえとした手を太郎はつかんで嗚咽おえつした。乙彦の決して熱をおびることのない手。

「のう、乙彦。ここを出よう。ともにおかで暮らそうぞ」

 乙彦は悲しげにほほえんで首を振った。「父亡き今、わたくしは龍宮の王、ここを離れることはできませぬ」

「だが、おぬしの力で龍明珠は……」

「たとえ龍宮が滅ぶとしても、わたくしはおかには参りませぬ。あなたさまが陸を恋しく思うように、わたくしにとってはここが故郷さとなのです」

 太郎は泣いた。童のように声をあげて泣いた。太郎のつむりを撫でて乙彦はくりかえした。

「太郎さま。よいのです。もうよいのです」

 庭じゅうに漂っていた海魂が月の光をたどるかに天へと昇っていった。


 やや傾いだ月。龍宮の岸で、甲姫が小舟に乗りこんだ。太郎は乙彦を顧みた。もし、この童が泣いて引きとめたなら、太郎はとどまったであろう。けれども、乙彦はしんとした真顔で何かを差しだした。鮑珠で飾った玉手箱であった。螺鈿細工で望月と鶴が描かれていた。

「これをお持ちください。なれど、あけてはなりません」

「なして?」

「あなたさまがどうしても困って、もうどうしようもなくなったとき、そのときのほかはあけてはなりません。約束してください」

 乙彦の目は真摯であった。太郎は受けとった。

「ああ、わかった」

 乙彦の慈しい黒い目。忘れまいと太郎は見つめた。胸の皮を剝がれるごとき寂しさを、どう伝えればよいかわからなかった。太郎は背を向けて小舟に乗りこんだ。

「ここからは振向くでないぞ。人の国に戻れなくなる」

 そういって甲姫が舳先へさきに立つと、小舟は岸を離れた。かいをあつかわずとも舟はすいすいと進んでゆく。乙彦を振返りたい思いに駈られつつも太郎はうつむいていた。乙彦は泣いているだろうか、それとも城にもう戻っただろうか。太郎は口を覆って泣き声を殺した。

 月が西に沈みかけ、東の空が白んだころ、おかが見えた。浜まであとわずかというところで、ぴたりと舟が止まった。甲姫がいう。

「私が送れるのはここまでだ。あとはおのれで漕げ」

「おぬしもおかにあがると亀になってしまうのか?」

「わが母は海蛇のうから。わざわざおかにあがりはせぬ。われらは龍宮とともに生き、ともに滅ぶ」

 甲姫は海に飛びこんだ。太郎は舟から身を乗りだした。しなやかな黒い海蛇がするすると泳ぎ去っていった。


 太郎は海に飛びこんで、小舟を押して浜にあがった。数えるほどの苫屋とまや朝餉あさげの煙をたなびかせている。見慣れぬ漁村であった。網を繕っている男がいた。太郎は声をかけた。

「もし。わしは浦島村の者なんじゃが、ここはいったいどこの浜じゃろうか?」

「浦島? 知らんな。ここは子安村だが」

「こやす……?」

 知らぬ村であった。甲姫は送り届ける浜をまちがえたのだろう。

「ここは武蔵国むさしのくに神奈河かながわであろうな?」

「ああ、神奈河にはちがいないが、浦島村は知らん」

「そうじゃ、観福寺を知っておるか? わしの村はあのそばなんじゃ」

「観福寺はすぐそこの寺だ」

 何か話がおかしい。太郎は困り果てた。

「どうしたんだい?」

 苫屋から男の女房らしき女が現れた。男はいう。

「観福寺のそばの浦島村の人だというんだが、そんな村あったか?」

「知らないねえ。観福寺はそこしかないしねえ。あんた、村の名をまちがってないかい?」

「いや、たしかにわしの村は浦島というて……」

「母ちゃん腹へったよう」

 幼い女童めわらべが女にしがみついた。長じた童が女童を抱きあげる。

「こら、おとなしく待て」

「弥八」

 太郎は声をあげた。長じた童の広いでこが弥八にそっくりなのだった。童はけげんな顔をした。

「弥八は俺の曾祖父ひいじいさんだ。あんた誰だ?」

「浦島の太郎と申す。わしの父は九郎、母はたえという。弥八は村の童で十二になるはず……」

「まさか、曾祖父さんが十二のとき盆の海で溺れた太郎か?」

 この童は何をいうておるのか? 太郎はおそるおそる尋ねる。

「のう、いまは源実朝みなもとのさねとも公の世であろう?」

 男が答えた。「いや、いまの将軍は守邦もりくに親王。実朝は八幡宮で襲われて亡くなった。それも百年も前の話だ」

「そんな莫迦ばかな……」

 たったひと月遊んだつもりであったものを。太郎はへなへなとへたりこんだ。弥八に似た童がしゃがんで、じっと太郎を見つめた。

「あんたのしゃべりかた、曾祖父さんを思いだす。曾祖父さんはあんたの話をしてたよ。銭を払って亀を逃がしてやるような優しい男だったと」


 でこの広い童——弥吉やきちは太郎を観福寺に案内した。墓地の片すみ、小ぢんまりした石の墓は苔がむしていた。

「あんたが溺れ死んだもんだと思って、あんたの父親が建てたんだとさ。でも、あんたの母親はあんたがどこかで生きてると死ぬまで信じてたそうだ」

 太郎はおのれの肩にふれた。うたかたの都の大街で肩に憩った海魂——あれはもしや、おっ母だったのだろうか。わしはなんたる親不孝を……。

 太郎は弥吉親子の漁を手伝って日銭を、寺のそばに小屋を借り、父母ちちははの菩提を弔って暮らした。

 世間の者は太郎を物珍しげに見た。魚を売買いする市のざわめきに、ふと誰かがささやく。

「あれが百年前の男だと」

「きっと人ならぬ術で若さを保っておる」

「鬼か物怪もののけのたぐいでは」

 振向けば、目を逸らす顔。市の売子は陰で唾を吐いた。夜道をゆけば石を投げる悪童がいた。

 太郎は米を研ぎ、竈に火をおこした。太郎さまは火のようにぬくいのですね——蘇る乙彦の声。あの慈しい黒い目、白い花がほころぶようなほほえみ、花奢な冷たい手。あの童が最後によこした玉手箱、それだけが思いのよすがであった。太郎はいつも懐に入れていた。炊きあがった飯の湯気、つややかな米の香ばしさ。だが、それがなんだというのか。乙彦がいない。

 こつこつ貯めた銭で、ようやく漁の道具をそろえた。秋の終りの晴れた朝、海は凪いでいた。甲姫が残していった小舟で太郎はひとり沖にでた。

 幾度めかに打った投網とあみに重たいものがかかった。太郎はぐいぐいと引きあげた。数匹の魚とともにあがった妙なかたちの石、どこかで見たような——それがたつの役瓦だと気づいたとき、太郎は叫んでいた。ああ、乙彦、乙彦よう。たとえ傍らにいなくとも、龍宮には乙彦がいるのだと信じていた。だから生きていられた。けれど、もう……涙にむせびながら太郎は、濡れた瓦の欠けらを抱いた。かたり、と懐で鳴るものがあった。懐の玉手箱、太郎はそれを取りだした。あなたさまがどうしても困って、もうどうしようもなくなったとき——ああ、今がそのときだ。何が入っているのかは、どうでもよかった。乙彦、もう一度、おぬしに逢いてえ。望月と鶴の蓋をとった。白いもやが目のまえをつつむ。体がふしぎに熱くなり、おのれの手のかたちがみるみる変じるのを見た——ああ、翼だ。体が風のように軽い。

 太郎は一羽の鶴になっていた。鶴は小舟から羽ばたき、潮風に乗り海原を渡っていった。

 海原の真中に大きな亀が浮いておった。太郎だった鶴は、迷いなくその亀の甲羅に舞い降りた。亀は首をゆっくりと伸ばし、慈しい黒い目で鶴を見つめ、うんうんとうなずいた。鶴は翼をたたみ、うんうんとうなずきかえし、静かに目を閉じた。鶴を乗せたまま亀は悠々とどこまでも泳いだ。

 それから数百年、鶴と亀はいつも睦まじく寄り添い、決して離れなかった。あたりの漁師は鶴亀を見かけると海難を避けるとして尊び、手を合わせた。鶴は千年、亀は万年。そう云い慣わすようになったのは、そのときからだそうな。

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海界の鶴亀(うなさかのつるかめ) 御厨 匙 @mikuriya32

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