後編・太郎の帰還
龍宮の庭から続く水路がさらさらと鳴っていた。うたかたの都の
太郎は螺鈿の小刀を手にとった。鞘から抜くと、短い刃は
「のう、これは何でできておるんじゃ?」
「
石鯛に似た店主は揉み手した。太郎は指先で軽く刃を確かめた。乙彦が寄ってきた。
「太郎さま、それをお望みで?」
「漁仕事によさそうじゃ」
「
店主は慌てた。「いえ、滅相もない。乙彦さまから
「なら、わしが払おう。それならよいだろう」
太郎はにやりとして
「おお、なんぞ気分のいいもんじゃのう」
乙彦はくすくす笑った。「お
ふたりは鯨の
「海にも石屋がいるとは思わなんだ」
「
「あの城も石なのか。よう沈まぬな」
「すべては父上と龍明珠の力です」
珊瑚や貝細工を売る店で、太郎は
「おっ母がよろこぶじゃろうな」
ふいに李の実に似た薄青い蟲がふよふよと来て、太郎の頭のまわりをたゆたった。乙彦の顔がみるみる曇った。泣かんばかりの黒い目。
「太郎さまは帰ってしまわれるおつもりですか」
「そんな顔するな。まだ帰らん」
「この乙彦を置いて、どこにも行かないでくださいまし」
太郎は櫛を台に戻して、乙彦の手をとった。芯から冷たい手。
「どこにも行きゃあせん」
「まことに?」
「ああ」
「ああ、うれしや」
乙彦はぎゅっと腕に擦り寄った。太郎はたまらなくなって、
「こりゃなんなんじゃ?」
「
その海魂を乙彦は手に乗せて、ひどく悲しげにした。
「ごめんなさい」
乙彦が何を謝ったのか、太郎はわからなかった。海魂はひときわ明るく光り、すうっと暗んだ。そして、太郎の肩にふよふよと戻っては、そこにしばし
都の水の空が暮れても大街は火秀珠で明るかった。太い水路を跨ぐ
「何者か。われが龍王が子、乙彦と知っての
青鈍装束はいっせいにかかってきた。太郎は小刀を抜き、鰐鮫の歯で
「乙彦!」
風を感じた。
「太郎さま!」
残りの刺客が太郎に組みついた。腕で頸を絞めあげてくる。太郎は必死に鰐鮫の歯で切りつけた。胸の鼓動が耳もとで響く。
「おのれ!」
乙彦の目が燃えた。ぶわりと鬟がほどけ、いっそう強い風が吹いた。ごぼりと刺客が吐いた。太郎の衣がどす黒くぬめった——血のにおい。とっさに振りほどくと、刺客は力なく転がった。その頸に骨の太刀が斜めに貫通していた。
龍明珠の水で身を清め、衣を着替えても、血のにおいが鼻についてならなかった。あてがわれた小部屋の
「太郎さま、お加減はいかがでしょう」
髪をおろしたままの乙彦が覗いた。太郎は顔を伏せた。
「太郎さま」
伸ばされた白い手に、太郎はびくりとふるえた。乙彦は手をひっこめて、悲しいほど澄んだ目を向けた。
「おぬしはわしを騙したのか?」
双つの黒い目がかすかに潤んだ。太郎は顔を背けた。
「弥八に捕まったおぬしを、わしは哀れに思って助けた。じゃが、おぬしはわしの助けなどなくとも、ああして……」
「いいえ、わたくしは
「殺さねばならなかったのか?」
「太郎さまをお守りするためなら、わたくしは誰であろうとああするでしょう」
「狙われたのはおぬしであろう」
「いいえ、やつらの狙いは太郎さまです」
「なして、わしが」
「おそらく、わたくしの心を弱らせるためでしょう。いつもそうでした。わたくしも姉上も、身近な者がそばづえを受けるのです。あるいは、わたくしの母上は、そのために命を落としたのやもしれぬ」
乙彦の手が袖をつかんだ。童は静かに泣き濡れていた。
「乙彦は、ずっとひとりでした。太郎さま、どうか乙彦をひとりにしないで」
まつ毛の玉の涙。童の
龍宮の夜のしじま、空の波音がいつもより大きくきこえた気がした。
しゅりん、たんたん。しゅりん、たんたん。鮫人の娘らは無心に
「太郎さま。そんなに頑張らずとも
珹珠の声に、数人の娘らが明るく笑った。太郎は頭を掻いた。
「どうも手持ち無沙汰でな」
「乙彦さまは?」
「それが朝議とやらで忙しいようで、ちいとも顔を見せてくれんのじゃ」
さようですか、と珹珠は考えこむふうをした。「もしかしたら譲位の話かもしれませんね」
「乙彦が龍王になるんか?」
「それはわかりかねますが。龍王陛下は乙彦さまを王に据えて、甲姫さまを摂政にしたいとお考えのようです。乙彦さまはまだ
「九十っ?」太郎はつい叫んだ。「どう見ても十二、三ではないか」
珹珠はきょとんとしてから笑いだした。不揃いに鋭い歯。
「龍族は
太郎は愕然とした。百年生きるのが精々のわしなど、乙彦から見れば
太郎は肩を落として
「なんじゃあこりゃあ」
真っ黒い海魂が太郎を掠めた。ケケケッ、とそれは笑った。幼子のような、されども邪悪な声。太郎は背筋が寒くなり、龍宮の庭をあてもなく駈けだした。
空席の玉座の流麗な
「龍王陛下は重いご病気らしい」
「都が滅ぶではないか」
「乙彦さまがいる」
「
「しかし女が龍王など前代未聞」
太郎にきかれていることに気づき、兵らは急に口をつぐんだ。太郎は兵らに面と向かった。
「なして都が滅ぶんじゃ?」
兵らは気まずげに顔を見合わせた。背の高いほうがいった。
「俺らにきいたといわないでくれ。陛下が
「それどころではない」背の低いほうが口を挟んだ。「泡の
ありありと目に浮かんだ。あの
いてもたってもいられず太郎は走った。扉のまえにまた別の
「乙彦に話がある」
「ならん。乙彦さまは朝議の最中ゆえ」
「急ぐのだ」
「なら、用向きを伝えよう。ここで申せ」
太郎はせっかちを起こし怒鳴った。「乙彦! 乙彦でてこい! 浦島の太郎さまがお呼びじゃあ」
「騒々しい。何事か」
女の声にふりむいた。甲姫であった。太郎は迫った。
「龍王さまが重病とはまことか」
兵らがたじろいだ。甲姫の目が
「何を慌ててらっしゃるのです。たとえ龍王が
「じゃが、巫部は甲姫さんを推しとるんじゃろう。乙彦ひとりで龍明珠を支えられるんか?」
「そんなに心細くば
「そういうこっちゃない。わしは乙彦を案じて……」
「まことに乙彦を思うならば振舞いを慎め。なんの力もないそなたが騒いでも乙彦は救われぬ」
声に打たれ、太郎は唇を嚙んだ。悔しいが、そのとおりである。
「乙彦と話がしたい。わしの部屋に来るよういうてくれんか。どんなに
こころなしか甲姫のまなざしが
龍明珠の泉の光、
「まだかのう」
都の水の空はすっかり暗く、されども乙彦は姿を見せなかった。太郎はうとうとと眠けをもよおし、窓辺に突っぷした。
水の
「ああ……!」
太郎は窓を乗り越え、甃の庭へでた。
「太郎さま」
乙彦はそっと手を太郎の両肩に置いた。その冷えびえとした手を太郎はつかんで
「のう、乙彦。ここを出よう。ともに
乙彦は悲しげにほほえんで首を振った。「父亡き今、わたくしは龍宮の王、ここを離れることはできませぬ」
「だが、おぬしの力で龍明珠は……」
「たとえ龍宮が滅ぶとしても、わたくしは
太郎は泣いた。童のように声をあげて泣いた。太郎のつむりを撫でて乙彦はくりかえした。
「太郎さま。よいのです。もうよいのです」
庭じゅうに漂っていた海魂が月の光をたどるかに天へと昇っていった。
やや傾いだ月。龍宮の岸で、甲姫が小舟に乗りこんだ。太郎は乙彦を顧みた。もし、この童が泣いて引きとめたなら、太郎はとどまったであろう。けれども、乙彦はしんとした真顔で何かを差しだした。鮑珠で飾った玉手箱であった。螺鈿細工で望月と鶴が描かれていた。
「これをお持ちください。なれど、あけてはなりません」
「なして?」
「あなたさまがどうしても困って、もうどうしようもなくなったとき、そのときのほかはあけてはなりません。約束してください」
乙彦の目は真摯であった。太郎は受けとった。
「ああ、わかった」
乙彦の慈しい黒い目。忘れまいと太郎は見つめた。胸の皮を剝がれるごとき寂しさを、どう伝えればよいかわからなかった。太郎は背を向けて小舟に乗りこんだ。
「ここからは振向くでないぞ。人の国に戻れなくなる」
そういって甲姫が
月が西に沈みかけ、東の空が白んだころ、
「私が送れるのはここまでだ。あとはおのれで漕げ」
「おぬしも
「わが母は海蛇の
甲姫は海に飛びこんだ。太郎は舟から身を乗りだした。しなやかな黒い海蛇がするすると泳ぎ去っていった。
太郎は海に飛びこんで、小舟を押して浜にあがった。数えるほどの
「もし。わしは浦島村の者なんじゃが、ここはいったいどこの浜じゃろうか?」
「浦島? 知らんな。ここは子安村だが」
「こやす……?」
知らぬ村であった。甲姫は送り届ける浜をまちがえたのだろう。
「ここは
「ああ、神奈河にはちがいないが、浦島村は知らん」
「そうじゃ、観福寺を知っておるか? わしの村はあのそばなんじゃ」
「観福寺はすぐそこの寺だ」
何か話がおかしい。太郎は困り果てた。
「どうしたんだい?」
苫屋から男の女房らしき女が現れた。男はいう。
「観福寺のそばの浦島村の人だというんだが、そんな村あったか?」
「知らないねえ。観福寺はそこしかないしねえ。あんた、村の名をまちがってないかい?」
「いや、たしかにわしの村は浦島というて……」
「母ちゃん腹へったよう」
幼い
「こら、おとなしく待て」
「弥八」
太郎は声をあげた。長じた童の広いでこが弥八にそっくりなのだった。童はけげんな顔をした。
「弥八は俺の
「浦島の太郎と申す。わしの父は九郎、母は
「まさか、曾祖父さんが十二のとき盆の海で溺れた太郎か?」
この童は何をいうておるのか? 太郎はおそるおそる尋ねる。
「のう、いまは
男が答えた。「いや、いまの将軍は
「そんな
たったひと月遊んだつもりであったものを。太郎はへなへなとへたりこんだ。弥八に似た童がしゃがんで、じっと太郎を見つめた。
「あんたのしゃべりかた、曾祖父さんを思いだす。曾祖父さんはあんたの話をしてたよ。銭を払って亀を逃がしてやるような優しい男だったと」
でこの広い童——
「あんたが溺れ死んだもんだと思って、あんたの父親が建てたんだとさ。でも、あんたの母親はあんたがどこかで生きてると死ぬまで信じてたそうだ」
太郎はおのれの肩にふれた。うたかたの都の大街で肩に憩った海魂——あれはもしや、おっ母だったのだろうか。わしはなんたる親不孝を……。
太郎は弥吉親子の漁を手伝って日銭を
世間の者は太郎を物珍しげに見た。魚を売買いする市のざわめきに、ふと誰かがささやく。
「あれが百年前の男だと」
「きっと人ならぬ術で若さを保っておる」
「鬼か
振向けば、目を逸らす顔。市の売子は陰で唾を吐いた。夜道をゆけば石を投げる悪童がいた。
太郎は米を研ぎ、竈に火を
こつこつ貯めた銭で、ようやく漁の道具をそろえた。秋の終りの晴れた朝、海は凪いでいた。甲姫が残していった小舟で太郎はひとり沖にでた。
幾度めかに打った
太郎は一羽の鶴になっていた。鶴は小舟から羽ばたき、潮風に乗り海原を渡っていった。
海原の真中に大きな亀が浮いておった。太郎だった鶴は、迷いなくその亀の甲羅に舞い降りた。亀は首をゆっくりと伸ばし、慈しい黒い目で鶴を見つめ、うんうんとうなずいた。鶴は翼をたたみ、うんうんとうなずきかえし、静かに目を閉じた。鶴を乗せたまま亀は悠々とどこまでも泳いだ。
それから数百年、鶴と亀はいつも睦まじく寄り添い、決して離れなかった。あたりの漁師は鶴亀を見かけると海難を避けるとして尊び、手を合わせた。鶴は千年、亀は万年。そう云い慣わすようになったのは、そのときからだそうな。
海界の鶴亀(うなさかのつるかめ) 御厨 匙 @mikuriya32
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