海界の鶴亀(うなさかのつるかめ)
御厨 匙
前編・乙彦のいざない
むかし太郎ありけるが
救ひし亀の導きに
龍宮城へ行きたれば
乙姫の
鯛や
ただ珍しく面白く
月日の経つも夢のうち
遊びに飽いてそぞろなり
あゝ乙姫に
帰りの途なる楽しみは
土産に賜る玉手箱
帰りて見れば こは
元居た家も村も無く
路に行き
顔も知らざる者ばかり
心細きに蓋とれば
あけて悔しき玉手箱
立ち昇りたる白煙に
たちまち太郎は
……・❁︎・……・❁︎・……・❁︎・……
わあわあと浜を
「待て待て、弥八。その亀どうするんじゃ」
「決まっておろう。食うんじゃ。おっ母に精をつけさせにゃならん」
弥八は
「よし。その亀、わしがもらおう。おぬしの母には、これでもっと美味いものを
弥八に
「もう捕まるでねえぞ」
太郎は裸足を濡らして、亀をそっと波に押しやった。亀は泳ぎいでて、まもなく白波にまぎれた。弥八の呆れ声。
「妙なやつじゃのう、太郎は」
「おお、よういわれるわい」からからと太郎は笑った。「今ならまだ市が出ておろうぞ。急げ」
わあわあと駈けゆく弥八たち。海の果ての弧を眺めつつ、火の匂いの風に太郎はぶるりと身震いした。
「それで文無しってわけかい」
老いた母の低い声。着物のつぎを繕う顔は燈台の陰になり
「じゃが、亀がの……」
「亀の煮物は滋養があるで。産後の肥立ちにはええ。それを取りあげるとは、まったく。その亀を持ってくるならまだしも、ご親切に逃がしてやるだなんて。おまんまの食いあげでねえか」
「
暗がりで父がつぶやいた。太郎はうなだれた。けれど、たとえ今日をやりなおせたとて、自分はまた同じようにあの亀を助けるだろう。そんな確信があった。
太郎は
潮騒が耳を洗った。知らぬうちに太郎は波打際にいた。望月の光が海原に道のように伸びていた。その道を何かが泳いでくる。太郎は目を凝らした。
亀のかたちがゆらいだ。かと思えば、慈しい黒い目はそのままの、儚げな白い童に変じた。
——太郎さま。わたくしめは夕べに助けていただいた亀にござります。わたくしはここで待っておりまする。どうか逢いに来てくださいまし。
太郎は飛び起きた。同じ夜の真中であった。夢と同じに胸が高鳴っていた。寝静まった
夢のとおりの月の海だった。光の道に太郎は目を凝らした。泳ぎくる亀の影。盆の海はこの世ならざる者が渉る。刹那、習わしのことが頭を掠めた。けれど、太郎は吸い寄せられるかに波のなかへ歩みでて、亀のぬらぬらした甲羅に手をかけていた。
亀は身を
「これ、亀、どこへ行くんじゃあ」
亀はぐいぐいと力強く太郎を足のつかぬほうへ引っぱってゆく。真っ黒な海に月ばかりが照り映えていた。底知れぬ不安にとらわれつつも太郎はなすすべなかった。
太郎が
光の都であった。黄色の
「のう、亀よ、あれがおぬしの
城影のふしぎなゆらめきは、
ようやく諸手が甲羅から離れた。太郎はほうほうのていで都の岸へあがった。あまたの
亀のかたちがゆらいで、白い童となり佇んだ。慈しい黒い目。濃いまつ毛。
「太郎さま。このような手荒を働いたこと、どうかお許しを。わたくしめは東海
「うたかたのみやこ……?」
「
さもあらんといわんばかりに乙彦は笑まった。白い花がほころぶようであった。胸が騒いで太郎は美しい童をじっと見すえた。乙彦は
「さあさ、こちらへ」
岸辺にむるむると波が盛りあがり、巨きな水沫の
「沈む、しずむっ……!」
「ええ、こんど浮かぶのは次の望月です」
乙彦は涼しい顔で告げた。清らかな
太郎の濡れそぼった着物の代わりに、つややかな
「よくお似あいでいらっしゃいます」
朱塗りに金飾の城内は明るかった。火ではない。
「
大広間の火秀珠は大きく、さらに明るく昼のようであった。広い
うろこの肌の
「太郎さま。あなたさまはお客人ゆえ、どうかお立ちください」
「太郎とやら。汝、わが子を救いたること、めでたく思うぞ。ついては褒美にこの城でゆるりと過ごすがよい。
へい、有難き仕合せにごぜえます、と太郎はいった。きひめ? と思った。
「龍王が娘、
白絹の
「あら、案外いい男ね。よかったじゃないの、乙彦」
「姉上」
乙彦が小声で
うろこの下女たちがつぎつぎと漆の御膳を運びこむ。絵皿に鯛の活け造り、
「さあ、お好きなだけお召しあがりください」
「こりゃ、わしのぶんか?」
「ええ、もちろん。お酒もござりますよ」
左どなりで甲姫が漆の盃を手渡し、
「美味いのう」
太郎は大よろこびで魚や貝を口に運んだ。鯛や鮑の身は甘く、雲丹や海鼠腸はこくが深かった。だが、だんだんと箸が鈍った。塩や酢で工夫されてはいるが、生ものばかりである。椀の貝汁は冷たかった。太郎の箸はとうとう止まった。乙彦が気を揉んだふうに覗く。
「お口に合いませんか?」
「どれもこれも美味い。じゃが、その、飯はねえんか?」
乙彦と甲姫が首をかしげた。「めし?」
「炊きたての米さえあったら、もういうことないんじゃが」
「たきたて……?」
「お米を、食べるのですか?」
乙彦と甲姫は顔を見あわせた。太郎は必死に説明した。釜に米と水を入れて、竈の火でぐつぐつと煮るんじゃ。そうすると米がふっくらと柔らかく
「
えっ、と太郎は絶句した。火が、無い。つまり、龍宮にいるかぎり温かい飯はおあずけなのであった。それどころか湯浴みもできなければ、暖もとれぬではないか!
「おぬしらどうやって生きておるんじゃあ⁉︎」
しゅりん、たんたん。しゅりん、たんたん。ずらりと並んだ
「
そのいびつな鮑珠を太郎は指先でぎゅっと挟んでみた。しっかりと硬かった。
「どうなっとるんじゃ?」
娘たちの肌は白かったり黒かったりした。よく目を凝らすと、その頬や腕にうろこが虹のように透けた。太郎は感じいってうなずいた。ようわからんが人ならぬ者にはちがいない。乙彦が声をかける。
「
黒い娘が手を止めてふりかえった。その目玉は褐色で、
「乙彦さま、ご機嫌うるわしゅうござります。こなたが
「ああ、太郎さまだ。珹珠、泣いてごらんにいれなさい。珹珠の
乙彦の無邪気な物云いに、太郎はめんくらった。いくら人ならぬ者とはいえ、泣くのはそれほど
「あ、いや、無理に泣くこたねえ。仕事の邪魔して悪かった」
太郎はきびすを返して
「太郎さま、太郎さま!」
正殿の庭のまなかに一尺はある
「太郎さま。ごめんなさい」
泣きそうな声で童が袖を引いた。潤んだ黒い目。太郎は胸が痛んだ。
「なして謝る?」
「せっかく龍宮にいらしてくださったのに、ちっとも太郎さまをよろこばせることができませぬ。乙彦はどうしたらよいでしょう?」
太郎は童のつむりを撫でた。鮫人の娘たちに劣らぬつややかな髪である。
「わしこそすまねえ。この都は、わしの村とはずいぶんちがったのでな。何もせんでええ。わしはただ……そうじゃな、おぬしと話がしたいんじゃ」
「話を……?」
「おぬしが何を
乙彦ははっと息を呑んだ。黒い目がとろけるかに濡れて涙が頬をつたう。
「おぉい、なして泣くんじゃ? わしゃどうしたらええんじゃ」
太郎はおろおろとしゃがみこんで童の肩を抱いた。童はしゃくりあげて、ぎゅうっとしがみついた。童の大粒の涙がころころと水をはじく絹衣のおもてを
水が
「この大きな火秀珠——
ぽつりと乙彦がいった。太郎は背をさする手を止めた。
「どれくらいだ?」
「
「そうであったか」
太郎の村の女たちにとっても、子を産むのは命がけのことである。とん、と太郎は童の肩を叩いた。
「巫部の者たちは常に冷たくいがみあっています。姉上の母君もまた巫部の女官でした。わたくしと姉上は、あの者たちの覇権を争うための手駒にされました。なれど、姉上はわが手をとっていったのです。私とそなたはたった二人の姉弟、私はそなたを信ずる、そなたも私を信ぜよ、と。それから、わたくしにとって姉上はかけがえのない腹心の友なのです」
とん、と太郎はふたたび童の肩を叩いた。「甲姫さんは裏表のない人に見える」
「ええ、姉上はまっすぐです」
「おぬしもな、乙彦」
「初めて名を呼んでくださいましたね」
「……そうじゃったか?」
ふふ、と童は口を袖で押えた。「まえにも話しましたとおり、龍宮には火を持ちこんではならぬ掟なのです。火秀珠がありますから
「あれは
「火とはどんなものか、昔から知りたかったのです。それで
とん、と太郎はみたび童の肩を叩いた。乙彦は太郎の右手を肩からはずし、諸手でつつんだ。澄んだ黒い目が、太郎を小さく映した。
「お慕いしております、太郎さま」
ぐわっと総身の血が沸きたったかに熱くなった。胸が
「太郎さま……?」
心細げな童を太郎は掻き抱いた。乙彦の背がびくりと硬くなり、それからゆっくりと力が抜けた。芯から冷たい体であった。やはり人とは異なるのか。
「……ああ、太郎さま。太郎さまは火のように
乙彦の声が笑った。童の
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