海界の鶴亀(うなさかのつるかめ)

御厨 匙

前編・乙彦のいざない

 むかし太郎ありけるが

 救ひし亀の導きに

 龍宮城へ行きたれば

 えがくにかたき美しさ


 乙姫の眉目みめたぐひなく

 鯛やひらめの舞ひ踊る

 ただ珍しく面白く

 月日の経つも夢のうち


 遊びに飽いてそぞろなり

 あゝ乙姫に暇乞いとまご

 帰りの途なる楽しみは

 土産に賜る玉手箱


 帰りて見れば こは如何いか

 元居た家も村も無く

 路に行きふ人々は

 顔も知らざる者ばかり


 心細きに蓋とれば

 あけて悔しき玉手箱

 立ち昇りたる白煙に

 たちまち太郎はおきななり


 ……・❁︎・……・❁︎・……・❁︎・……


 いちの帰り道、太郎のふところは温かかった。浦で釣ったすずきい値で売れたのだ。これでおっ父の舟をつくろって、おっ母の着物べべうてやって……そうしたら、たちまち消えてしまう銭だった。知らず、太郎はため息をついた。どどうと海が低く轟き、みゃおみゃおと海鳥が鳴き騒いだ。

 漁村ぎょそんにぽつぽつとともる炎。盂蘭盆うらぼんゆうべ、先祖の魂迎たまむかえのためのあかり。苫屋とまやの間口、小枝のたばだいだいの火が咲く。松脂まつやにを焼く香ばしい匂いが潮風に混じる。かなかなかなかな……ひぐらしの声が、暮れなずむ空にしみじみと溶けてゆく。

 わあわあと浜をけくるわらべの一団。太郎の村の知った顔ぶれである。でこの広い弥八やはちが、ひとかかえもある亀を脇挟んでおった。亀は長い頸をいやいやと振って、四つのひれで虚しくくうを掻いた。大きな黒い目が涙のように光る。胸をかれて、太郎は思わず呼び止めた。

「待て待て、弥八。その亀どうするんじゃ」

「決まっておろう。食うんじゃ。おっ母に精をつけさせにゃならん」

 弥八は昂然こうぜんと胸を反らせた。弥八の母親はおととい女の赤子を産んだばかりだった。太郎は考えなしに懐の銭袋を抜いた。

「よし。その亀、わしがもらおう。おぬしの母には、これでもっと美味いものをうてやれ。な?」

 弥八になかば袋を押しつけて、太郎は亀を抱きあげた。亀は黒い目でじっと太郎を見あげた。ふしぎに愛おしくなり、太郎はほほえんだ。

「もう捕まるでねえぞ」

 太郎は裸足を濡らして、亀をそっと波に押しやった。亀は泳ぎいでて、まもなく白波にまぎれた。弥八の呆れ声。

「妙なやつじゃのう、太郎は」

「おお、よういわれるわい」からからと太郎は笑った。「今ならまだ市が出ておろうぞ。急げ」

 わあわあと駈けゆく弥八たち。海の果ての弧を眺めつつ、火の匂いの風に太郎はぶるりと身震いした。


「それで文無しってわけかい」

 老いた母の低い声。着物のつぎを繕う顔は燈台の陰になりうかがえぬが、渋面であろうことは察せられた。太郎は頭を掻いた。

「じゃが、亀がの……」

「亀の煮物は滋養があるで。産後の肥立ちにはええ。それを取りあげるとは、まったく。その亀を持ってくるならまだしも、ご親切に逃がしてやるだなんて。おまんまの食いあげでねえか」

観福寺かんぷくじに甲羅を売りゃあ五、六貫にはなったものを」

 暗がりで父がつぶやいた。太郎はうなだれた。けれど、たとえ今日をやりなおせたとて、自分はまた同じようにあの亀を助けるだろう。そんな確信があった。

 太郎はむしろを敷いて横になった。月の夜だったが、海辺にでる酔狂はいない。盆の夜は海を見てはならぬ。盆の海にはこの世ならざる者が渉る。この漁村ではるべき習わしだった。

 潮騒が耳を洗った。知らぬうちに太郎は波打際にいた。望月の光が海原に道のように伸びていた。その道を何かが泳いでくる。太郎は目を凝らした。まるい甲羅に四つの鰭。太郎の胸は高鳴った。やがて波打際で亀は長い頸を差しのべた。その黒い目のいつくしいこと——

 亀のかたちがゆらいだ。かと思えば、慈しい黒い目はそのままの、儚げな白い童に変じた。鮑珠あわびだまで飾ったみずら白絹しらぎぬ童直衣わらわのうし。太郎は息を呑んで、痺れたかに立ちつくした。

——太郎さま。わたくしめは夕べに助けていただいた亀にござります。わたくしはここで待っておりまする。どうか逢いに来てくださいまし。

 太郎は飛び起きた。同じ夜の真中であった。夢と同じに胸が高鳴っていた。寝静まった父母ちちははを起こさぬよう太郎は足音を忍ばせ、しかし獣のように素早くおもてへ飛びだした。

 夢のとおりの月の海だった。光の道に太郎は目を凝らした。泳ぎくる亀の影。盆の海はこの世ならざる者が渉る。刹那、習わしのことが頭を掠めた。けれど、太郎は吸い寄せられるかに波のなかへ歩みでて、亀のぬらぬらした甲羅に手をかけていた。

 亀は身をひるがえし、沖へと泳ぎでた。ふんどしまで冷たい水が這入はいりこむ。太郎の諸手もろては甲羅にぴたりと貼りついて離れなかった。

「これ、亀、どこへ行くんじゃあ」

 亀はぐいぐいと力強く太郎を足のつかぬほうへ引っぱってゆく。真っ黒な海に月ばかりが照り映えていた。底知れぬ不安にとらわれつつも太郎はなすすべなかった。


 太郎がおかを見失ったころ、ぼうっと海原そのものが明るんだ。波がむるむると盛りあがり、山のように高くなったかと思えば滝のごとく流れ落ちた。幾重いくえもの波に上へ下へと飜弄されながらも太郎は、何が起こったのか見極めようと懸命に顔をあげた。

 光の都であった。黄色の燈火ともしびをほのぼのと宿し、たつ役瓦やくがわらの城影がゆらいでおった。太郎は目をむいた。こんな海の真中に……? この世のものとはとても思われず、されどもその燈影ほかげは暖かで懐かしい気さえするのだった。亀は太郎をとりこにぐんぐんと城へ迫った。

「のう、亀よ、あれがおぬしの故郷さとか?」

 城影のふしぎなゆらめきは、おおきな水沫みなわにつつまれているためであった。亀の口が水沫の膜にふれると、さあっと霧雨となって太郎にそそいだ。しおからい雨だった。

 ようやく諸手が甲羅から離れた。太郎はほうほうのていで都の岸へあがった。あまたのつわものが道をつくるかに両脇にならぶ。見慣れぬつ国のえりと袴。半月めくやいばの矛。

 亀のかたちがゆらいで、白い童となり佇んだ。慈しい黒い目。濃いまつ毛。

「太郎さま。このような手荒を働いたこと、どうかお許しを。わたくしめは東海沈溟ちんめい龍王が子、沖津おきつ綿津見神わたつみのかみ乙彦と申しまする。わが命を救ってくださったお礼に、うたかたの都にご案内つかまつりました」

「うたかたのみやこ……?」

龍宮りゅうぐうのことにござりまするよ」

 さもあらんといわんばかりに乙彦は笑まった。白い花がほころぶようであった。胸が騒いで太郎は美しい童をじっと見すえた。乙彦ははじらうかにまつ毛を伏せた。太郎の袖を引く。

「さあさ、こちらへ」

 つわものどものあいだを抜けて、乙彦と太郎は赤い欄干の橋を渡った。朱塗りの大門が人手もなくいなないいて割れる。

 岸辺にむるむると波が盛りあがり、巨きな水沫のとばりが都の夜空を覆いつつあった。もう何も驚くまいと太郎は思っていたが、都がまるごと海に沈みゆくのに気づいて泡を食った。

「沈む、しずむっ……!」

「ええ、こんど浮かぶのは次の望月です」

 乙彦は涼しい顔で告げた。清らかな月天心つきてんしんが隠れ、暗い水が渦巻きながら都の四方よも八方やもをつつむのを太郎は呆然と見届けた。


 太郎の濡れそぼった着物の代わりに、つややかな絹衣きぬごろもが用意された。魚のようなうろこの下男の手伝いを断り、太郎はおのれで着こんだ。衣は濡れたようにつややかで、しかし乾いてはいるというふしぎな肌ざわりであった。乙彦はほほえんだ。

「よくお似あいでいらっしゃいます」

 朱塗りに金飾の城内は明るかった。火ではない。廊下わたどのかどごとの龍の彫像に、葱坊主ねぎぼうずめいた宝珠が皓々と輝いているのであった。太郎はおそるおそる珠にふれてみた。瞬間、光がふわっと明るむ。珠のおもてはほのかにぬくかった。乙彦はいう。

火秀珠ほのほだまです。龍宮の宝なのですよ」

 大広間の火秀珠は大きく、さらに明るく昼のようであった。広いいしだたみに豪奢な敷物。珊瑚や石牡丹の図の屏風びょうぶ。波の透彫すかしぼりで飾られた窓。格天井ごうてんじょう五色ごしきたつ

 うろこの肌のつわものを侍らせ、たつを彫った玉座に男がいた。珊瑚と鮑珠で飾った五色ごしきかんむり、龍と波の錦繡の袍を着て、螺鈿らでんしゃくを手にしていた。長い蒼い眉とひげ、その厳かな目に射抜かれたかに思った。ああ、これが龍王さまにちがいあるめえ。太郎はおのずと跪いた。乙彦も跪く。

「太郎さま。あなたさまはお客人ゆえ、どうかお立ちください」

「太郎とやら。汝、わが子を救いたること、めでたく思うぞ。ついては褒美にこの城でゆるりと過ごすがよい。召人めしうどとして、そこの乙彦と甲姫きひめをつけよう。なんなりと申しつけよ」

 へい、有難き仕合せにごぜえます、と太郎はいった。きひめ? と思った。

「龍王が娘、沖津狭渡神おきつさわたりのかみ甲姫と申しまする」

 白絹の唐衣からころも女人にょにんが進みでた。銀簪ぎんせんでまとめた高髻こうけいに、きりりとした青いまゆずみ、切長のうるしの瞳、ふくよかな紅唇。臙脂えんじが匂いたつかに美しい。村には化粧けわった女子おなごなどいなかった。太郎はなんだか落ちつかなかった。甲姫は紅唇を左右に引いた。

「あら、案外いい男ね。よかったじゃないの、乙彦」

「姉上」

 乙彦が小声でいさめた。できればこの清廉可憐な童だけ見ていたい、と太郎は思った。


 うろこの下女たちがつぎつぎと漆の御膳を運びこむ。絵皿に鯛の活け造り、さばあじの酢締め、海松貝みるがいや鮑の薄切り。五色ごしきの小鉢に海鞘ほやきもあえ、雲丹うに海鼠腸このわた、甘海苔に海葡萄。漆の腕に貝汁……太郎はあっけにとられた。漁師の子として海辺に育ったからには知らぬものこそないが、ここまで贅をつくした宴席は初めてであった。まるで殿様の食事だ。右どなりで乙彦がほほえむ。

「さあ、お好きなだけお召しあがりください」

「こりゃ、わしのぶんか?」

「ええ、もちろん。お酒もござりますよ」

 左どなりで甲姫が漆の盃を手渡し、酒瓶ちろりで酒をついだ。酒など正月にしか呑まなかった。太郎はくっと呷った。はらわたに染みとおった。

「美味いのう」

 太郎は大よろこびで魚や貝を口に運んだ。鯛や鮑の身は甘く、雲丹や海鼠腸はこくが深かった。だが、だんだんと箸が鈍った。塩や酢で工夫されてはいるが、生ものばかりである。椀の貝汁は冷たかった。太郎の箸はとうとう止まった。乙彦が気を揉んだふうに覗く。

「お口に合いませんか?」

「どれもこれも美味い。じゃが、その、飯はねえんか?」

 乙彦と甲姫が首をかしげた。「めし?」

「炊きたての米さえあったら、もういうことないんじゃが」

「たきたて……?」

「お米を、食べるのですか?」

 乙彦と甲姫は顔を見あわせた。太郎は必死に説明した。釜に米と水を入れて、竈の火でぐつぐつと煮るんじゃ。そうすると米がふっくらと柔らかくあもうなるんじゃよ。姉弟きょうだいはますます困ったようだった。乙彦がいう。

大山咋神おおやまくいのかみさまのお米の酒はござりますが、しかし龍宮には火が無いのです」

 えっ、と太郎は絶句した。火が、無い。つまり、龍宮にいるかぎり温かい飯はおあずけなのであった。それどころか湯浴みもできなければ、暖もとれぬではないか!

「おぬしらどうやって生きておるんじゃあ⁉︎」


 しゅりん、たんたん。しゅりん、たんたん。ずらりと並んだ織機おりきにむかって娘たちが一心におさを使っていた。だれの髪も絹糸のようにつややかで床に溜まるほど長い。その髪を一本一本ぬいては娘たちは梭に巻きつけ布に織込むのである。しかも髪を抜くたび涙をこぼし、その涙はころりと美しい鮑珠となって散らばった。千の珠のかすみのような光沢。太郎はぽかんと口があくのを禁じえなかった。乙彦は一粒を拾いあげてみせる。

機織部はたおりべ鮫人こうじんたちです。すごいでしょう?」

 そのいびつな鮑珠を太郎は指先でぎゅっと挟んでみた。しっかりと硬かった。

「どうなっとるんじゃ?」

 娘たちの肌は白かったり黒かったりした。よく目を凝らすと、その頬や腕にうろこが虹のように透けた。太郎は感じいってうなずいた。ようわからんが人ならぬ者にはちがいない。乙彦が声をかける。

珹珠せいじゅよ」

 黒い娘が手を止めてふりかえった。その目玉は褐色で、黄金色こがねいろに底光りした。

「乙彦さま、ご機嫌うるわしゅうござります。こなたがおかからのお客人ですね」

「ああ、太郎さまだ。珹珠、泣いてごらんにいれなさい。珹珠の真珠しらたまは、ことに美しいのですよ」

 乙彦の無邪気な物云いに、太郎はめんくらった。いくら人ならぬ者とはいえ、泣くのはそれほど容易たやすいことではないはずだ。

「あ、いや、無理に泣くこたねえ。仕事の邪魔して悪かった」

 太郎はきびすを返して機織殿はたどのをでた。何か妙に息苦しい思いがして太郎は広いほうへと駈けた。乙彦はあわてたふうに追ってきた。

「太郎さま、太郎さま!」

 正殿の庭のまなかに一尺はある火秀珠ほのほだまが据わっておった。大きな珠は半ば泉に浸かり、水を黄金こがねのように輝かせていた。その黄金の水は四方よもの水路を伝って垣の外へと流れていくのである。太郎は諸手で黄金の水を掬った。だが、掬いとってみればそれはただの水であった。泉のうえを透きとおったむしがふよふよと漂う。蟲は大きさといい形といいすももの実に似ておった。それは白く淡く光りつつ、いずこともなく流れゆく。風もないのに。ほの明かりする水に覆われた都の空。ああ、そうか、ここは風が吹きようがないのだ。

「太郎さま。ごめんなさい」

 泣きそうな声で童が袖を引いた。潤んだ黒い目。太郎は胸が痛んだ。

「なして謝る?」

「せっかく龍宮にいらしてくださったのに、ちっとも太郎さまをよろこばせることができませぬ。乙彦はどうしたらよいでしょう?」

 太郎は童のつむりを撫でた。鮫人の娘たちに劣らぬつややかな髪である。

「わしこそすまねえ。この都は、わしの村とはずいぶんちがったのでな。何もせんでええ。わしはただ……そうじゃな、おぬしと話がしたいんじゃ」

「話を……?」

「おぬしが何をいておって、何をいとうておるのか。おぬしがどういうことを考えておって、何がしたいのか」

 乙彦ははっと息を呑んだ。黒い目がとろけるかに濡れて涙が頬をつたう。

「おぉい、なして泣くんじゃ? わしゃどうしたらええんじゃ」

 太郎はおろおろとしゃがみこんで童の肩を抱いた。童はしゃくりあげて、ぎゅうっとしがみついた。童の大粒の涙がころころと水をはじく絹衣のおもてをすべっていった。


 水が滾々こんこんと鳴っていた。火秀珠の光の水のなかに生きものの影は見えぬ。水が清すぎるのであろうか。ただ泉のうえを李の実に似た蟲がふよふよと漂った。ときにそれは蹴鞠けまりのようにも童の頬のようにも見えた。

「この大きな火秀珠——龍明珠りゅうめいじゅは、この龍宮よりも古いのです」

 ぽつりと乙彦がいった。太郎は背をさする手を止めた。

「どれくらいだ?」

八千代やちよの昔、初めの龍王と鮫人の娘とのあいだに生まれた大蛟おおみずちの涙だと伝わります。この龍明珠はあらゆる水を清くする。このうたかたの都の命の源なのです。これを操るには、龍王ひとりの力では手に余る。龍王を支える巫女たちが巫部かんなぎべです。わたくしの母は巫部の女官で、神亀族じんきぞくの娘でした。わたくしを産むときに、こと切れたときいています」

「そうであったか」

 太郎の村の女たちにとっても、子を産むのは命がけのことである。とん、と太郎は童の肩を叩いた。

「巫部の者たちは常に冷たくいがみあっています。姉上の母君もまた巫部の女官でした。わたくしと姉上は、あの者たちの覇権を争うための手駒にされました。なれど、姉上はわが手をとっていったのです。私とそなたはたった二人の姉弟、私はそなたを信ずる、そなたも私を信ぜよ、と。それから、わたくしにとって姉上はかけがえのない腹心の友なのです」

 とん、と太郎はふたたび童の肩を叩いた。「甲姫さんは裏表のない人に見える」

「ええ、姉上はまっすぐです」

「おぬしもな、乙彦」

「初めて名を呼んでくださいましたね」

「……そうじゃったか?」

 ふふ、と童は口を袖で押えた。「まえにも話しましたとおり、龍宮には火を持ちこんではならぬ掟なのです。火秀珠がありますからあかりには困りません。寒い時季には都ごと南の暖かい海に参ります。ゆえに、わたくしは火を見たことがなかった。人の国では夏の月夜に火を焚くのでしょう?」

「あれは迎火むかえびといって、先祖の御霊みたまが里帰りの目印にするのだ」

「火とはどんなものか、昔から知りたかったのです。それでおかにあがって眺めておりました。あれは息をする光なのですね。美しかった。なれど、あんまり夢中になっていて、人の童に捕われてしまいました。太郎さまが救ってくださらなかったら、わたくしは今ごろ……」

 とん、と太郎はみたび童の肩を叩いた。乙彦は太郎の右手を肩からはずし、諸手でつつんだ。澄んだ黒い目が、太郎を小さく映した。

「お慕いしております、太郎さま」

 ぐわっと総身の血が沸きたったかに熱くなった。胸がつづみのように跳ねて、太郎は大きく息を吸った。乙彦の思いが痛いほどうれしかった。半面で、このまっすぐな童が壊れもののようでこわくもなった。

「太郎さま……?」

 心細げな童を太郎は掻き抱いた。乙彦の背がびくりと硬くなり、それからゆっくりと力が抜けた。芯から冷たい体であった。やはり人とは異なるのか。

「……ああ、太郎さま。太郎さまは火のようにぬくいのですね」

 乙彦の声が笑った。童の花奢きゃしゃさを感じながら、はっきりとは答えないおのれをずるいと思った。ふよふよと漂う蟲の光。龍明珠の黄金の泉が滾々と鳴りつづけていた。

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