急所

押田桧凪

第1話

「頭では分かってるんだよね。ねー? ゆらちゃん」


 私が周りよりも喋り始めるのが遅かったのか、けれどそれを個性として尊重しようとしたお母さんの口癖はいつもこうだった。いただきますを発さず、かたくなに口を開こうとしない私に無理やり、パンを押し込んで、スープを飲ませ、「だいじょぶだいじょぶ」と言ってあやす。


 そんなお母さんがあまり好きではなかった。


「うちの子、ちょっと弱いところがあって。はい、頭では分かってると思うんですけど……」


 おもちゃの取り合いをして喧嘩になった日も、おむかえの時にお母さんはかばってくれなかった。だからもう、このイライラを吹き飛ばすには物を投げつけるしかなかった。セラミックのパーツを分解して、せっかく作った剣もどきの『武器』を崩していく。


「あら、すぐ元にもどして、さすがね。おむかえに来たわよー」と打ってかわったような声を出す人に、なるべく弾数が多くなるように計算して、キューブを投げつける。


「い、いたっ!! ちょっと!」


 やり返す方法は、分かっていた。たとえ言葉をうまく使えなくても、それだけは知っていた。この小さな『園』という世界でも勝ち負けや強い・弱いは決まっていて、一度それに従ったら弱いとみなされることは身体で覚えていたから。


 連絡帳に『応急処置はしましたが、おともだちに引っかかれたようです。もし、家に帰って痕になっていたらご連絡ください。それでも、泣かなくてえらかったです☺︎』と報告があった時には『ゆら、ちゃんと謝りましたか?! 本当に申し訳ありません。頭では分かっているとは思いますので今後もよろしくお願いいたします……』みたいに返事するくらいなのだ、お母さんは。たぶん。


 泣けば笑われるから、泣くのを我慢しただけなのに。「だれですか! ゆらちゃんを泣かしたのは!」と先生が問えば、あははとなるのは目に見えている。


 中下ゆら。その名字と相まって『中下泣かした』というダジャレでからかわれる未来をも察して、私は黙っていた方が賢明だと、判断する。年長クラスの男子は、「さよオナラ! あは、オナラ!」と自分で言って自分で笑ってるぐらいなのだから。


 だからお母さん。えらいを、ほめて。ほめられないなら、受けて立って。それから、全力でおもちゃ箱をひっくり返し、散乱したぬいぐるみたちを玉入れの要領で投げ飛ばす。目を狙う。おそらく急所だろうそこに当てれば勝てる。


 来年は、小学一年生だ。うるさい人たちが集まってくるから、もっと騒がしい場所になるんだろうと予感する。それなら、私はもっと強くならなきゃ。みんなを黙らせて、私が強いってことを証明しなきゃ。



 つぎの日、園のそとを探検する日だった。私の家からも近い道を通るルートで、「あ。ここ知ってる」って思った。『■犬注意!』という剥がれて字が読めなくなっている看板があって、玄関の柵からも激しく吠えてくる犬がいるのだ。だけど私は犬とともだちだから、私には吠えない。


 私はみんなをおどかしたくなって(私は顔パスで行けるんだぞ、という自慢も含めて)、「せんせい、つぎこっちにまがったらね。いいことがあるよ」と言って誘導してみる。


「へえーそうなの。じゃあ、ゆらちゃんの言うほうに行ってみよっか」と乗ってくれた。


 やった、と心の中で小さくガッツポーズし、進むと、案の定ギャンギャン柵を揺らしながら、吠える犬が登場する。きゃあ、なんかこわい、ゆらちゃん、あぶないよ。というみんなの声を押しのけて、私は前に立つ。


 ふっ、と手を近づけると一瞬、犬は私と目を合わせて、(やっぱり私って分かってくれたんだ)と思ったら、ガフとすぐに噛まれた。痛かった。


 何が起こったかすぐに分からなくて、手をもっと犬の口に突っ込んだ。そしたら、ああこの子は、この犬は私と同じだと思った。


 いつも吠えているのは何かを分かってほしかったからで、私がきょう、仲間を引き連れたみたいに嬉々とした表情でここに来てしまったばかりに犬を裏切ってしまったのだ。


 だって、いつもは面白くなさそうにお母さんに引っ張られて通り過ぎるだけの「かわいそうな子」で、犬はきっと自分と仲間だと信じて吠えなかったはずなのに、きょうは違った。


「頭では分かってるんだよね。ね、だからもっと噛んでいいよ」

「ど、どうしたのゆらちゃん、はやく離しなさい!!」

「せんせいには、わからないよ!! いま、たたかってるの!」


 どっちが先に離すか、の勝負だった。だから、この手を離すわけにはいかない。みんなもう、後ずさるように私から離れて、見ないようにしてて先生は困った顔をしていた。泣かないよ、私は。みんなよりうんと強くて、こんな風に黙らせられるのだから。


 きょうの連絡帳は『散歩中に大きな犬に腕をかまれました。幸い、大事には至らず、怪我は大したことはないようです☺︎』と書かれたりするのかな。もう、いいや。今度は犬の目を狙お。おそらく犬の急所もそこだろう。

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