第3編 迫り来る困難(せんたく) ①
佐々木さんの転校から一週間が経った。
穏やかな気温は緩やかに上昇し、少し湿り始めた空気の匂いが、既に初夏の気配を漂わせている。
気合を入れて着込んでいたブレザーやベストも、僅か一ヶ月ほどで長い休息時間に入るなど思いもしなかっただろう。
ハンガーに掛け手持ちしていた二つを見やり、その胸中を慮った。
だが、私は知っている。
浮かぶこの熱が、滲む汗が、初夏のせいだけでは無い事を。
学校生活への膨れ上がる緊張感。
その原因が、私のすぐ近くに有る事を。
目前に迫っているであろうそれの足音が、何処からとも無く聞こえる気がした。
落ち着け。負けるな、宮本百音。
お前は変わるんだ。
己を変えるきっかけは既に遍いていて、むしろ転がり込んですら来ている現状に慌ててはならない。
これはチャンスだ、千載一遇の劇的なチャンスなんだ。
このきっかけを逃すのは、間違いなく今後の学校生活、ひいては人生にすら関わる。
情け無い自分を脱ぎ棄て、『普通』の人になるために。
今こそ、今度こそ、この波に────。
そんな思案に耽る私の思考に、突如としてけたたましい
思わず身体が飛び跳ねて、手に持っていたブレザーとベストを落としてしまった。
この一週間で随分と聞き慣れたはずなのに、何時まで経っても驚かされてしまう。
「百音ー!希咲ちゃん来たよ〜!」
「ぅわわ……!い、いま行くからちょっと待って……!」
チャイムの主は佐々木さん。お母さんは当然のように迎え入れている。
私は落とした衣類を慌ててクローゼットに戻して、部屋を飛び出す。
リビングに着くと、佐々木さんはお母さんとソファに座って、ゆったりと冷茶を傾けていた。
初めて出会った時の態度が嘘のように、お母さんは佐々木さんを気に入って会話に花を咲かせている。
佐々木さんも満更じゃないようで、「茜音さん」なんて名前で呼び合って談笑に勤しんでいた。
思わず、眉間がきゅっとなる。
二人が仲良くしている、そこに別に文句は無い。
むしろ嬉しく思っている。
大好きな人と命の恩人が仲睦まじくて嫌な思いはしないだろう。
私自身もそう望んでいた事だ。
ただ少しだけ、少しだけ。
随分とすぐに距離が縮まったんだな、と思うだけで。
そこが何か、言い得ぬ小さい不快感を齎すだけで。
自身でも、よくわからない感情がそこにはあった。
どうにも分からないが、何かが面白くない。
私はその感情がわからないなりに怖くなって、胸中で念入りに噛み潰した。
そうしていると、私に気付いた佐々木さんが上品に微笑んでくる。
芸術家が創り上げた彫刻か絵画かのように整った顔立ちは、僅かに微笑むだけでも目を奪う。
この顔面にも一向に慣れる気配はない。
「おはよ、今日は調子どう?」
「ぉっ……おはよう、ございますっ……その、はい、大丈夫です」
「ん、なら良し……茜音さん、お茶ありがとうございました、百音……さんも来たんで行きますね」
「はいはい、お粗末様〜!百音の事、お願いするね!……百音も危ないから、希咲ちゃんとひっついてなさいよ〜?……腕なんて組んじゃったりしてね!ひゅう!」
「っな、だ……だから!佐々木さんとはそんなつもりじゃなくて……!」
もう完全に身内のような扱いだ。お母さんが絆されやすいのか、それとも佐々木さんの人柄の良さが為せる技なのだろうか。
それにお母さんの勘違いも、是正する間もなく完全に定着してしまったようで、度々こうして茶化してるのか応援してるのかよく分からない援護を飛ばしてくる。どうしろと。
佐々木さんも涼しい顔しているが、内心きっと呆れているだろう。
ハイテンションなお母さんに見送られ、そそくさと私達は玄関に向かう。
すっかり履き慣れたローファーに足を通すと、佐々木さんが妙な視線を向けて来た。
妖しげな微笑みを浮かべて、不意に肩を上げて脇を開ける。
「……する?腕組み」
「やっ……!?や……そ、そんな……しませんよっ……!」
揶揄われて焦る私を見て、楽しそうに佐々木さんが笑う。
これもこの一週間で何度も繰り返してるやり取り。
でもやはりというか当然というか、私は全然慣れる気配もない。
実際、ただでさえ佐々木さんはそのまま居ても心臓に悪い。
慣れようとして慣れるような容易いものでは決して無いのだろう。
それこそ、一生彼女にはこうして揶揄われるんじゃないかとすら、私は思っていた。
「ふふ……じゃ、行こっか」
「っあ……は、はいっ!……お母さん、いってきます!」
・ ・ ・
外に出れば、もうすっかりじりつくようになった日差しが、これでもかと熱を直射している。
これでまだ夏は先なのだから恐ろしい。
時折吹く風が涼しいのが、私には救いだった。
歩き慣れた通学路を、佐々木さんと一緒に進む。
誰かと登校するという人生初めての経験は、それ自体は些細な違いのはずなのに、感じるものはまるで違っていた。
自分以外の足音がこんなに近くに居る。
赤の他人じゃない『誰か』の背中は、こんなにも心を力強く引っ張ってくれる。
時折の他愛ない言葉のやりとりが、こんなに心地良く胸を躍らせる。
全て、この一週間で知った事だった。
気が付けば緊張は落ち着いて、柔らかな温かみのある感情が揺れている。
あるいはこれも、佐々木さんと一緒に居るから、なのだろうか。
「今日は疲れてないじゃん」
「……えっ?」
「もう天覧坂だよ……何、まだ眠いの?」
佐々木さんに言われて気付く。
辺りを見れば、一刀通りを越え、葉桜生い茂る天覧坂中腹を私は歩いていた。
驚愕する。一週間前は一刀通りに着いた時点で、ヘトヘトになって休んでいたのに。
これも、佐々木さんのお陰だろうか。
佐々木さんは、『稀人』である私の極端な過剰霊力を毎日吸収してくれている。
私が昔から虚弱体質なのは、この過剰霊力が肉体を過度に活性化させているせいで起こった事だという。
肉体機能が過剰霊力で必要以上に活性化した結果、肉体各所でバランスが崩れてしまい、結果私は「身体が強すぎて虚弱体質」というちぐはぐの体質を持っていたんだと、佐々木さんは説明してくれていた。
だから過剰霊力を体外に排出すれば、私の身体は適切なバランスを徐々に取り戻せるのだと言う。
これも、佐々木さんの言う『お礼』の一側面だった。
しかしそれが、僅か一週間程度で効果を実感できるとは。
自らの掌を見てみれば、心做しか見覚えのある自分の掌より、色味がよく見えた。
……また、恩を貰ってばかりになっている。
血色の良くなっている掌を握ると、じくじくと胸中が膿むように苦しくなる。
自分の不甲斐なさと、こんなにも優しく接してくれて、色んなものを与えてくれている佐々木さんの眩しさが、自分の影に突き刺さるような気がした。
「ご、ごめんなさい……なんでも、ないでっ……!?」
「おっと」
せめて、これ以上迷惑をかけないように。
そう思った矢先、私は路傍の石に蹴躓いて倒れそうになる。
あわやアスファルトに五体を叩きつけそうになったのを、佐々木さんが受け止めてくれた。
佐々木さんの胸元に顔を埋める形で支えられる。
ふわりと香る、もはや嗅ぎ慣れ始めている
伝わる低めの体温と柔らかさに、瞬間私の頭は弾けるように熱くなった。
それが恥じらいなのか、はたまた別の何かなのかは、今の私には判別できない。
「大丈夫そ?……全く世話焼けるなぁ」
「あ、ぅあ……っ!?す、すみませ……!」
飛び退くように佐々木さんから離れた。
何をやっている。
言った側からこの調子では、私は何時まで経っても佐々木さんに恩返し出来ないではないか。
自己嫌悪が膨れ上がり、涙腺がツンとし始めてしまう。
実際の所、私は佐々木さんにまともに恩返しが出来ていない。
登下校、学校生活、体質問題……この一週間で幾つものフォローと気遣いを貰っているが、私が返礼できているのは精々『霊力供給』くらいで、それだって私は彼女に身を委ねているだけだ。
それ以外は何をするにしても佐々木さんはひとりでこなしてしまうので、私が手伝ったりする前に事が終わってしまう。
物品で恩を返そうにも「そういうのはいい」と断られてしまうから、そうなると自分に返せるものなんて皆目見当も付かなくて。
無力感に打ちひしがれるのには、十分だった。
私ってこんなのばっかりだな、と自虐的な気持ちに俯いていると、不意に視界の端から腕が伸びる。
「ほら、行くよ」
「ふぇっ……あ、わ……!?」
そのまま胴の前で添えられていた私の手を取り、繋ぐ。
ぐんと細腕からは想像できない力強さで、佐々木さんは私の手を引いて歩みを進めた。
その足取りは力強く、淀む私を押し流す清流のよう。
しかして決して早過ぎず、その速度はむしろ緩やかで。
此方を慮っている事がしみじみとわかった。
嬉しい。
苦しい。
温かい。
胸にこみ上げる色んな感情を置き去って、まごつく私を引っ張って、佐々木さんは前に進む。
格好良いな、なんて月並みな事を思いながら。
掌の温もりがふわふわと心を温めるのを噛み締めて、私は佐々木さんの後を追った。
・ ・ ・
「はよーす」
抑揚も感情も欠片もない挨拶が通る。
それだけで、先ほどまで緩やかだった教室の空気がにわかに色めき立った。
「佐々木さんおはよー!朝から仲いーね!」
「お、今日もエスコートしてんの?」
「んー、まあそんなカンジ」
佐々木さんは衝撃的な転校デビューでクラスの注目の的になって以降、凄まじい勢いでクラスに馴染んでいる。
見目麗しく、親しみやすく社交的な佐々木さんは、瞬く間に男女を問わない人気を得ていた。
人の波が佐々木さんに押し寄せる。
新しいクラスメイトをいち早く知り、新たな友人として積極的に迎えようとする。
そこは美徳だし私も尊敬する部分ではあるが、それはそれとしてかなりグイグイ来る。
入学式から暫くの間あった、高校からの編入組に対しての歓迎ムードは、今も記憶に新しい。
そこで見事高校デビューに失敗した、私個人の苦い思い出も含めて。
そんなクラスのムーヴメントでいつも中心的な立ち位置に居るはずの寺田さんなのだが、何故か今回は自席でこちらを難しい顔で見つめていた。
具合でも悪いのだろうか。心配だ。
「おはようございます、宮本さん」
「ひゃあ……っ!?と、東郷さんっ……お、おはようございます」
佐々木さんの方に気を取られていると、不意に横から声をかけられる。
振り向けば、東郷さんが今日もパリッと制服を着こなして柔和に微笑んでくれていた。
失礼にも飛び跳ねて驚いた事を詫びる思いも込め、しっかりと頭を下げ挨拶を返した。
「今日はいつもより顔色が良さそうね、安心したわ」
「あ、はい……その、ありがとうございます……気を、遣ってもらって」
「貴女のクラスメイトですもの……当然よ」
そう言って東郷さんはハンカチで、気持ち汗ばんでいた私の顔を拭ってくれる。
普段より近い距離に私はまた飛び跳ねそうになるが、流石に失礼と思いぐっと堪えた。
ハンカチからは優しい香り。東郷さんの印象そのままの匂いだなんて思いながら、なされるがまま顔を拭かれた。
「すっ、すみません……あ、汗まで、拭いてもらって……」
「気にしないで、放っておけないだけだから……ね?」
なんて優しい人なんだろう。何度目かにそう思う。
誰に対しても整然として丁寧なのに、親身で心優しい人柄。
我の強い生徒が多いこのクラスで、委員長として親しまれているのも必然だろうと思った。
「何か体調が良くなった理由ってあるの?」
「あ、はいっ……えっと、その……佐々木さんの、おかげで……っ!」
そこまで言って気付く。
不味い。
思わず口を滑らせてしまった。
私の体調が良い理由……口外できるわけがない。
後悔と焦燥が膨れ上がる。汗を拭いてもらったばかりなのに、じわりじわりと滲み出る。
「ッ……そ、それで?いったい何を……」
当然、東郷さんは何をしたのか聞いてくる。
当たり前だ。その当たり前が何より問題なのだ。
後悔を燃料に、焦燥を車輪に頭を回す。
なんとか誤魔化さないと、言い訳を見つけないと。
東郷さんの笑顔が曇る。
いけない。ここで止めるなんて不誠実で不自然だ。なんとか言葉を紡がねば。
しかし私は義務教育期間を引きこもりで潰した、コミュニケーション能力成育放棄人間。
出る言葉の一つもないまま、気まずい沈黙に潰されそうになる。その間際、横からするりと金の双眸が声を透す。
「何の話?」
「ぁ、さ、佐々木さん……その……」
「……宮本さんに『体調が良いのは佐々木さんのおかげ』と聞いてね、どんな事をしたのか聞いてたの」
「あー……」
ちらりと。助け舟を出してくれた佐々木さんが私を見る。何か言いたげな瞳で。
胸がぎゅっと苦しくなる。謝罪の意を精一杯伝えようと、涙を堪えて視線を返した。
佐々木さんが一息、小さく吐く。
「別に……何かした覚え無いけど」
「……そうなの?でも宮本さんは」
「百音は何かと大袈裟だから……単に世話焼いただけ」
「…………そう」
知らぬ存ぜぬを通す佐々木さん。
しかしそれで納得する東郷さんではないようで、訝しむ様子を隠そうともしない。
二人の間には、産毛がざわつくような微妙な空気が流れている。
胸が苦しい。
それもこれも、私が余計な事を話さなければ起きなかった。そう思うと後悔が止まない。
私のせいで二人が険悪に……否、東郷さんが悲しむ事はあってはならない。
何故なら────東郷さんは恐らく、佐々木さんと仲良くなりたいと思っているのだから。
思い返せば一週間、東郷さんは目に見えて私に声を掛ける事が増えた。
それは恐らく、私と佐々木さんが登校時を始め、多くの時間で共に居る事が関わっている。
私が最も、佐々木さんに近しい人間だから。
会話の内容も「二人で何をしているのか」とか「佐々木さんの何処が良いのか、何をしてくれたのか」とか「それなら私にだって出来る」とか。
間違い無く、東郷さんは佐々木さんに気がある。
だからまずは、自身と面識があって佐々木さんと過ごしている時間の長い私から情報を得ようとしているのだ。
そして同時に、私の立ち位置を譲って欲しいのだろう。
「私にだって出来る」とは「同じ事をしてあげるからそこを譲って」の意味合いに違いない。
ポジションを譲るのは佐々木さんの都合もあるし、そもそもいろんな事情が絡まってる事から何とも言えないが、仲を取り持つのは私としても望む所だった。
だから、こんな私のやらかしで二人が仲良くなれないのは、絶対に駄目だ。
……確かに、少し心穏やかではない部分はある。
お母さんと佐々木さんが仲良くしていた時と同様の妙な気分の悪さが、どこか胸の奥でざわざわと蠢いている。
だがそれは間違いなく良くない感情だ。そんなものを人に抱いて良いはずがない。
私は再度、その感情を念入りに噛み潰した。
そして、勇気を絞り出して。
「っあ、あの……!東郷さんっ……!さ、佐々木さんは」
繋ぎ止める言葉を探して、しかし。
「いいの、宮本さん……私、ちょっとプライベートな所に突っ込み過ぎたみたいね……変な空気にしてごめんなさい」
絞り出した勇気は、意味を成さずに霧散した。
東郷さんはさっきまでの不服さを微塵も感じさせない様子で謝罪する。
「佐々木さんも変に探ってごめんなさい、委員長としてクラスメイトの事は細かく把握しておきたくて、つい」
「ん……いーよ、気にしてない」
佐々木さんは変わらず涼しげな顔つきを変えない。
東郷さんの柔和な表情も相まって、旗から見れば二人の間の空気は落ち着いたように見える。
でも。
「皆おはよう、席に着いてくれ!……すまないが、今日は少しホームルームを早めたい」
何かを言わなければ、何かをしなければ。
そんな思いは、機械的な予鈴と同時にやって来た先生に遮られてしまった。
教室全体も先生の呼びかけに素直に従い、ぞろぞろと自席に整ってゆく。
私は、何事も無かったように席に戻る東郷さんの背を、引いてく血の気を感じながら見送る事しか出来なかった。
・ ・ ・
短針が直下を指す放課後。
いわしま高校に二つ佇む荘厳な武道場にも、朱色に染まった夕日は等しく差し込んでいる。
双方共に既に活気は止み、汗ばむ身体を制服に包んだ生徒達が、疎らに家路を辿っていた。
ただ一人を除いて。
「キエエエエァァァァ────────ッ!」
耳を劈くような猿叫が道場に反響する。
硬い樫の木をユスの木刀が打ち据える。
しかしその音すら、彼女の叫声の前には容易く掻き消えてしまっていた。
「チェアアアア────────ィッ!」
幾度も打たれた立木は、緩やかな弧を描くようにその身を削られてゆく。
彼女がどれほどにその木を打ち続けたのかを、痩せ細った立木が如実に語る。
「シェアェェェェ────────ッ!」
それでも尚、彼女はその木刀を打ち続ける。
端から見れば狂乱の最中にあるようにすら見える光景。
最早立木はその体を辛うじて為しているのみで、あまりにも頼りない。
荒れ狂うように叫び、振り下ろし続ける。
激情に身を任すような動作の中で、しかし渦中にある東郷重嶺は冷静に思考を重ねていた。
「(……宮本さん、何かを隠していた)」
ユスの木刀が風を切る。
「(それは別に問題ではない、寧ろ秘密を抱える宮本さんはそれはそれで蠱惑的、大変結構……!)」
立木が悲鳴のように鳴る。
「(しかし……その秘密を隠すのに、あろう事が宮本さんは
猿叫が武道場を貫き響く。
「(つまり……
眼光が仄暗い炎を秘める。
「(あの時の……涙目で
立木が血飛沫のように木片を散らした。
「(宮本さんは脅されている……!でなければ、あんな怯えた顔をする訳が無い!)」
破裂音と共に、立木はその役目を放棄する。
「(その後に私に声を掛けたのも、きっと助けを求めての事……!おのれ佐々木希咲……おのれ泥棒猫!
立木だったものに、それでも打ち据える手は止まらない。
「(あの時宮本さんが口を滑らせたのは恐らくは不可抗力……あの場であれ以上探るのは得策では無かった……歯痒いこと極まり無いが、今日はあれ以上詰めるのは焦燥)」
ユスの木刀が幾重もの軌跡を重ねる。
「(必要なのは証拠と現場だ……そこを押さえて、
僅かに残ったか細い立木に、渾身の一振りが叩き付けられた。
「
宣誓と共に、振るわれたユスの木刀は立木の存在を完全に粉砕した。
弾ける樫木の断末魔が武道場に侘しく響く。
その後を追うのは、籠もる熱を諌めるような静寂だった。
「フゥーッ……フゥーッ……」
肉体が焼けるような熱を吐き出す為に、深く息を整える。
零れる汗が床に弾み、纏う道着が色を深める。
全身を痺れるような疲労感が、重く気怠く伸し掛かっていた。
限界だと音を上げる肉体を宥める為に暫し息を整えていると、武道場の戸が開いた。
「……東郷君、まだ帰ってなかったのか」
「……本田先生」
現れたのは重嶺のクラス、一年A組担任教師の本田だった。
三十路だとは微塵も感じさせない若々しく精悍な顔が、困ったような呆れたような顔で東郷を見る。
「鍛錬に熱心なのは結構だが……やり過ぎは褒められたものでは無いぞ……時間も時間だしな」
「……申し訳ありません、先生……失念しておりました」
「いいさ、生徒のブレーキ役も教師の務めだ」
深々と頭を下げようとする重嶺を制止し、本田は穏やかに微笑む。
その後ろで、時計は既に七時を報せている。
窓の外はすっかり陽も隠れ、落ちた
かつて立木だったものをテキパキと拾いながら、本田は軽く顎を用いて重嶺に更衣室に向かうよう催促する。
「片付けはしておく、東郷君は帰り支度を整えなさい……ご家族も心配していたぞ」
「ありがとうございます……が、しかし……先生のお手を煩わせる訳には」
「平気だ……それより俺としては、君が早急に下校してくれる方が助かるんだがな、東郷君」
わざとらしく眉をハの字に下げる。
精悍だった顔付きにあどけない表情が混じった。
この人柄と愛嬌ある振る舞いが、親しみやすくて生徒にも人気の理由だと重嶺は分析していた。
「……分かりました……申し訳ありませんが、後をお願いします」
そうして重嶺は女子更衣室へと向かう。
汗塗れの道着を手早く脱いで畳むと、スポーツバッグにテキパキと物を片付ける。
汗に濡れて身体に張り付く下着が煩わしい。
肌が荒れないようにタオルで全身を大まかに拭き取り、香り付きの制汗剤を首元や手首に塗る。
制服も着崩す事はせずしっかりと着る。
正直もうフルセットで制服を着るには暑い季節だが、衣替えの時期は先なので耐えねばならない。
単純に薄着が不安、という部分もあるのだが。
そうして更衣室から戻ると、すでに片付けは粗方済んでいた。
本田が倉庫から掃除機やら箒やらを取り出して、細かい木片の掃除に移ろうとしている。
「諸々お任せして申し訳ありません……お言葉に甘えて、今日はお先に失礼します」
「ああ、また明日……最近は物騒だ、夜道には気を付けるように」
「はい……ありがとうございます」
深く礼を重ね、重嶺は武道場を後にする。
外はすっかり暗さに呑まれ、足元を埋め込まれた路灯が暗がりに道を描いていた。
幻想的にも思える光景は、この時間まで学校に居残った者の特権だろうか、などと思いつつ校門に向かう。
通学路に出るとそこには、見慣れた気品ある黒いセダンが慎ましく停まっていた。
運転席には老齢の美丈夫、彼は重嶺を認めると、後部ドアを開いて彼女を迎え入れた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「待たせて悪いわね」
優雅な所作を崩さずに、重嶺は座席に乗り込む。
運転手は彼女がしっかりとシートベルトを着けたことを確認すると、慣れた手つきでシフトレバーとクラッチペダルを操る。
技術を証明するように一切の淀み無くクラッチは繋がって、車両は緩やかに夜の道へ発進した。
夜に灯る明かりに照らされる重嶺をバックミラー越しに見ながら、運転手は諭す。
「私よりも御当主様が心配しておりましたよ、お嬢様」
「……そういえば、連絡を忘れていたわ」
スマホを確認すると、メッセージアプリがいくつもの通知を遺していた。
適当にそれらを一掃して、夜景に目を配りながら重嶺は明日を思案していた。
「(今日は警戒をさせないためにも引いた……だが、明日からは
「(一週間の間、佐々木希咲が宮本さんと二人で何処かに行く時間が必ずあった……先ずはそこを押さえてやろう……少なくとも、何も無いはずは無い)」
「(見ていろ佐々木希咲……
────Information────
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