第2編 紛れ込む悪意(まのて) ④




────父上が声を張り上げて怒るのを見たのは、その日が初めてだった。




温和で心優しい父上は、日頃から声を荒げる事も無く。

むしろか細い声で話すものだから、母上に度々呆れられていた。

善を良しとして清廉な、光のような人だった。


そんな父上が、その瞳孔を開き、歯を剥き出しにして空気を震わせていた。

必死だった。


だがそんな声に一切身動ぎもせず、父上と対峙する黒服の巨漢は冷淡に言葉を返している。


あたしには分かっていた。父上の訴えは実らないと。

どう足掻こうと、既に結末は決まっていると。

あたし達は、術中に完全に嵌められているのだと。


聡明な父上にそれが分からないはずが無い。

それでも父上は足掻かずにはいられなかったのだ。

誰よりも愛した娘を、贄のように捧げる事が許せなかったから。


あたしも同じ気持ちだ。理不尽に家族を奪われるなんて、決して許せない。


だが、このままでは何も解決はしない。

互いに平行線を描き続ければ、先に斃れるのは此方の方。

端から敗北の決まっていた四面楚歌、取れる手は最早、一つしか無い。



「────……」



袖の裾をきゅっと引かれる。

隠しきれない不安に震えた声が、あたしの名前を呼ぶ。


あたしによく似て、あたしより可愛らしい、あたしの大好きな妹。

唯一似ていない祖母譲りのくせ毛が、あたしは大好きだった。


妹は、今にも泣きそうな声であたしを引き留める。聡明な父上に似て、察しの良い妹だった。

でも、今回は、今回だけは、愛する妹の願いでも。




あなたはあたしの、みんなの宝。


あなたの未来は、あたしが護ってみせる。


たとえ、どれほどあなたが悲しむ事になっても。






だからどうか、あたしを忘れて、幸せに────────。






・ ・ ・






「……ん、んぅ……ぅ……?」



けたたましい電子音アラームが、騒がしく起床を促している。

私は聞き馴染んだそれに僅かに苛立ちつつ、どっかりと眠気の腰掛ける瞼を辛うじて開いた。


天井だ。間違いなく私の部屋の。


妙な夢を見たせいか、意識が変な浮遊をしてしまっている。

起きたのに夢のような非現実感が、覚醒しきらない私の思考でくるくると踊っている。


あの夢は、なんだったのだろうか。


知らない場所、知らない声、知らない人。

全くの身に覚えのないもので構成された夢。


考えても答えは出るはずもない。

夢に意味なんてそもそも無いのだから。


なんて薄ら呆けた思考のまま、私は今日も重苦しくのしかかる自分の肉体を起こし────。



「……身体が、軽い……?」



生まれて初めての衝撃だった。

身体のどこも痛くない、苦しくない、気怠くない。

頭も冴えて、見渡せばありふれた自分の部屋すら輝いて見えるように爽やかな感覚。


健康だ。私の肉体は、生まれて初めて健康だった。



「……すごい、すごいっすごい!わっ、わぁっ……!」



自らの身体を見渡して、触れて確かめる。その度に喜びが胸の奥で噴出する。

靄が晴れたような清々しさに、私は寝起きだということも忘れてはしゃいでしまう。

身を急かすような高揚感をどうしようかと、理由もなく身体をぱたぱたと振り回していると。




ふと、手が何かに触れ、掴んだ。


それは手ほどに収まる大きさで、触れた力を張り良く、心地良く弾き返す柔らかさがあった。

指先が思わずに幸福を覚える。そんな感覚だった。




同時に、私は直感的に青ざめた。


さっと引いた血の気が、自分がいったい何をやらかしたのか、確信に近い推察を羅列する。

私は壊れかけのブリキ人形のように、首を軋ませ手元を見た。



「……朝から随分、元気じゃん」



そこには射した朝日に照らされた、夜の化身のような人。

切れ長の瞼を細めて、誂うように微笑んでこちらを見ていた。




その胸元には、私の手。




彼女の双丘、その片割れを私の手はしっかりと握っていた。

心が乱れる。震え出す。後悔と罪悪感が弾けて混ざる。

頭の中は混沌で、視界も一緒に回り出していた。

その奥でほんの僅かだけ、何か別に打ち震えるがあったが、そんなモノは些末だった。



「ごっごぁっ……!?ご、ごごっごごご……ごめんなさいっ!そ、そそっ、そんなつも、つもりは……!」



「ふはっ……!今更おっぱいくらい気にしないって……落ち着きな?」



私は大慌てで、なおかつ佐々木さんに傷一つ負わせないよう細心の注意を払って手を退かす。

なんたる失態、なんたる失礼。とんだセクハラ女である。


脳内会議満場一致で土下座が可決され、私は人生で最も素早く頭を地面……ではなく自身のベッドに押し付けた。



「本当にっ、も、申し訳ありませんっ……!さ、佐々木さんの、そのっ……む、むねっ……を……う、ぅぅうう!」



また彼女に迷惑をかけた事が許せず、更にそれが極めていやらしい接触だったのが、私は恥ずかしくて悶えた。

土下座したままじたばたと藻掻く。



「今更だってば……あたし達はそんなの、もうとっくにでしょ?」



それは、確かに。


私と佐々木さんは、昨晩から就寝に至るまで、幾度も唇を重ねている。


それは佐々木さんの生命活動のため、そして佐々木さん曰くの『お礼』のためであり、世間の交際そういう関係でするものとは理由も違う。


しかし結局はキスをしているわけで、そういう意味では今更ボディタッチなど、佐々木さんにとってはどうもしないのだろう。


しかし、しかしである。



「それとこれとは……や、やっぱり違いますっ……!違うんですっ!」



私はこの状況にそう簡単に適応出来ない。

そもそも人と触れ合うという事自体、かなり慣れていない。


私は彼女に触れた手をまじまじと見る。

感触が文字通り、手に取るように思い起こされる。

柔らかくて、張りがあって、布越しでもわかるきめ細かい肌と、質感の違うひとつの────。



「……えっち」



「んなっ……!?」



私の逸れた思考を見透かしたように、わざとらしく身体をくねらせて、自らの胸を隠す佐々木さん。

その顔は実に愉快そうに薄く微笑み、上目遣いでこちらを捉える金の双眸は計算され尽くしたように可憐さを演出していた。


私はもうしどろもどろ、妙な動きをするくらいしか出来ない。

そんなつもりで触ったわけでは決して無いと釈明しようにも、もう頭は完全に白熱に晒されて言葉すら紡げなかった。



「ふふっ……まぁそんなに元気なら、あたしのもっ……ん〜……っ、ちゃんと効いたみたいじゃない?」



私のベッドから起きて、大きく伸びをする。

射し込む朝日が、佐々木さんの艶髪と肢体を飾り引き立てていた。


私の。ベッドから。



「……ちょ、ちょっ……ちょっと待ってください……!?ももっ、もしかして……あの、あの後って……!?」



初手でかました最低セクハラで意識が回っていなかったが、ベッドと状況にだんだんと意識が向いてきて気付く。


もしかしなくても。


私は。


彼女と。



「あの後って……あんた、耐えきれなくてトんじゃったじゃん、だからあたしも切り上げて……」



「い、い、いい、い……一緒に、ね……眠って……?」



「そりゃベッドは一つしかないし……それが何?」



脳内から、間抜けな爆発音が聞こえた気がした。


思考が纏まらない。

私の頭は最早白熱どころか、融解を果たしているだろう。

もう自分でも、感情の分別が付いていなかった。

恥ずかしいのか、申し訳ないのか、情けないのか。

目下私が可能だった事と言えば、か細い奇声を漏らすくらいで。



「こんくらいフツーでしょ……ほら、学校行く準備しよ」



そんな私の事を知ってか知らずか、佐々木さんはテキパキと動き始める。

早速ベッドや昨日のやり取りの後そのままだった椅子などを片付け、自分の荷物と私の荷物を整える。


が、佐々木さんは私の家や私の事を熟知している。

昨日もそうだったが、どうやって知ったのだろう。

私が眠っている間に確認でもしていたのだろうか。




なんて考えながら、私も準備のためにベッドから起き、ようとして。




眼に飛び込んできたのは、寝間着を今まさに脱ぎ去らんとする佐々木さん。


そのあまりにも無防備に晒されていた白磁の背に、抗う術も無く私は釘付けにされた。



「は、や……え……っ?っな、なに、なに……なにし……どっ、どうして……!?」



「何って……そりゃ着替えだけど」



それは理解している。学校に行くためには制服に着替える必要がある。当然だ。

そのためには寝間着を脱いでしまわねばならない。それもまた必然だった。


だが、その下にのは何故か。それが全く理解できなかった。


そして、それを一切隠そうともしないのも、私の処理能力を大きく上回る異常事態イレギュラーだった。


見てはいけない。見れば間違いなく。煩悩が、いや本能がそう叫ぶ。


何より。何よりまずいのは。




その一糸も纏わぬ佐々木さんが、こちらに向き返ろうとしている事だった。




「っ〜〜〜〜、わ、わたっ……私、そ、そそそっち向いてるのでっ!!」



照れや恥じらい、そう言ったものではなく『危機感』で、私は奪われていた目を取り戻し、そっぽを向く。

間一髪だった。

もう少し遅ければ私はどうなっていたか。さながらアクション映画のワンシーンのような緊迫感を私は感じていた。



「……あんたってホント初心だね……ま、いいけど」



私の中で起きた一大事など露知らず、佐々木さんはいそいそと着替え始めた。

私は壁を一点見詰めて、後ろから聞こえる佐々木さんの息遣いと布擦れの音に耐える。


というか、だ。


もしかしなくても佐々木さんは、昨日からずっと下に何も付けていなかったのだろうか。


上も、下も。お母さんと話していた時も、ご飯を食べていた時も。

私と二人、部屋で話していた時も、霊力供給の時も。

一緒に眠っていた、時も。


悶々とした思考が止まらない。心臓は早鐘を鳴らして、熱くなっている血潮が高速で全身を巡る。

脳内が赤とも桃色ともわからない色で塗れている気がした。

そしてそれが、ひどくいやらしいとも思った。

粘つく卑しい感情が、また首をもたげている。



「……っ、そ、そう言えば……佐々木さんって何処の高校に通ってるんですか?」



私はその醜い何かから目を背けるため、そして少しでも気を紛らわせて正気を保つため、話を振った。




実際、佐々木さんが何者なのかを私は全く知らない。

『霊骸』とか『稀人』とか、そういう話では無い、普通のパーソナルな情報だ。

私は佐々木さんの年齢も住まいも趣味趣向も、一切知らない。

私の方は随分と……否、かなり知られているのに。


そこに不公平を感じたのもある。

文字通りにされたのはこっちだけであるし、なんだか随分手玉に取られている自覚もあったから。




だがそれ以上に。単純に、知りたかった。




学校で親切にしてくれた人達に対しての気持ちとも少し違う。

もっと、衝動的な欲求。それがあった。

何故そう思うかも、その感情が何かも分からないが、本能的か直感的か、何か突き動かされるものがあって。


だからその足掛かりとして、私はこんな質問を投げたのだと思う。

もし遠い場所に通ってるなら、今すぐお母さんを起こして車を出してもらうよう頼まないといけない、という現実的な問題もあったのだが。



「え?……何言ってんの、同じ学校じゃん」



「……えっ!?」



だがそんな常識的な心構えは、佐々木さんの突拍子の無さには無力だった。

予想外の返答に、早鐘打っていた心臓が尚更跳ねた。

思わずめまいがする。



「……あー、でもそっか……あたし今日からだから知らないか」



「今日からって……じゃあ、佐々木さんって転校生だったんですか……!?」



驚愕に驚愕が重なる。もう先ほどまで蠢いていた感情はすっかり抜け落ち、頭の中は困惑一色に染まっていた。


やはり思っていたが、佐々木さんはちょっとだけ、変わった人なのかもしれない。



「そーゆーこと……だからさっさと行くよ、百音も着替えなよ」



「えっあっ……ひゃ、ひゃい……」



着替える。即ち、脱衣。

そう気付いて、また思考が赤熱し始める。

それはつまり、私はこの広いとは言えない部屋で、佐々木さんとふたりきり、裸に近い格好になると言うことで。

しかも私はそれが直視出来ず、背中合わせでする形なわけで。


なんだかそれは、互いを視界に入れて着替えるよりもずっと倒錯的なように思えた。

自分の身体を見られてしまうかもしれない。

そういう恥じらいも重なって、全身悶えるような羞恥心が体温を上げた。




落ち着け、宮本百音。

2人が同室で着替える、なんて学生としては『普通』の事だ。

それこそもっと多人数で着替えることだってあっただろう。

だから落ち着いて、平常心で。

裸だって推定とはいえ、既に佐々木さんに見られている。

恥じる必要なんて無い。


佐々木さんの裸、だって。




はだか。




「はい、着替え」



「っぴぃっ!?……は、ひ、ひゃりがとうございま────」



まろび出た煩悩を刺すように、後ろから着替えを差し出される。

たまらず声が裏返った。聞くに堪えない奇声を上げてしまい、情けなさで少しだけ冷静になれた。




はずだった。




「……!!」



受け取る際に、私は思わず振り向いてしまった。

不意を突かれた衝撃と油断、驚き逃げたダチョウが自らの家族すら忘れるように、私は自らの後ろにあったモノを失念していた。




故に、私は見てしまった。

脳裏が焼けるほどに、鮮烈で美しい、それを。




「……どしたの?着替えなよ」




白。輝かしいほどに滑らかで、きめ細やかな白。

それが日差しが生む陰影を孕んで、艶やかでありながら慎ましく、煽情的でありながら清純たる肉体造形を浮かび上がらせる。


そこに飾られる、黒。

陶器の上に描かれた卓越なる画の如く、精緻な刺繍の施されたブラとショーツ。

随所のレースは気品を、要点に座したシースルーの生地は色香と外連味を演出し、その美貌を引き立てる。




言葉を、紡げなかった。




あまりにも浮き世離れした存在感に、私は圧倒されていた。


ただ美しいだけではない。

目が離せないほどに蠱惑的で、息も忘れるほどに眩かった。

そしてそれが、均整の取れた彫刻のような肉体が、息づく度に微細に揺れて、生命であることを如実に伝える。


それにどうしようもなく高揚して、苦しいくらいに心臓が何かを急かすのだ。

何を急かされているのかもわからない私は、ただ暴れる全身の熱を逃がしもできずに目を回すだけ。


視界が弾けてぐらぐらと溶けている。

その中でも明白に、私は佐々木さんの姿だけを捉えて、見惚れていた。



「……百音?ちょっ……百音っ……あぶなっ…!?」



佐々木さんが接近する。甘い香りがして、跳ねた身体が、肉が震えている。


ひんやりとした体温、流れる夜の色の艶髪。


抱き抱えられていた。

力の込められた腕は、細いのに大木のように頼もしい。


顔が近い。綺麗な唇。幾度も重ねた、熱の源。

覗くのは、満月の双眸。


熱く惚けている。思考も身体も。ふわふわと宙に浮かんでいるよう。


微睡みに近い麻痺、意識が解ける。




彼女は、呆れ困って私を見ていて、何かを語りかけている。




私が意識を手放したのは、それから間もなくの事だった。






・ ・ ・






「……はっ!?」



「……ん、起きた?……おはよ」



目覚めたら、学校だった。


正確には、いわしま高校一階の保健室。

見知った清潔そうな天井が、物言わず広がっている。


聞こえた声の方向へ身体を起こすと、佐々木さんが退屈そうに座っていた。


それは昨晩と同じ構図。霊魔に襲われ、彼女に初めて唇を重ねた直後と酷似する景色。

違うのは、私の部屋か保健室かだけ、私は幾度目かの夢を疑いそうになる。




「具合は平気そ?」



「は、はい……その……私、どうして……?」



意識は混乱の割にハッキリしていたが、起き抜けの一悶着以降の記憶が無い。

身体に目をやれば、私は渡されていた制服に袖を通していて、眼鏡も、ほんの少しのメイクも、下着も全て、完璧に整えられていて。

胃も空腹を訴えては来ず、口腔内は親しんださわやかなミントの気配。


バッチリと通学準備を整えられていた。

私は二度、昨晩のデジャヴを感じて戸惑いと後悔に沈む。



「あの後あんた随分朦朧してたから、休めば良いとも思ったけど……休みたく無さそうだったし、しょーないからやっといた」



「ぜんっ……ま、また私……そんな迷惑を……」



「いーよ、思ったより面白かったし……百音の母上も随分喜んでたから」



そう言って佐々木さんは口元に弧を描く。

愉悦に満ちた表情は、どこか背筋にヒヤリとしたものを感じた。

「お母さんが喜んでいた」とは、どういうことなのだろう。胸中に妙な不安と心配が過ぎる。



「ま、テキトーに休んだら教室行きなよ、あたしは職員室に行かなきゃだから……じゃね」



ひらひらと手を揺らして、佐々木さんはそのままカーテンの向こうに消える。

足音はしなかった。




急に世界が静まったような錯覚がする。

聞こえるのは、遠く僅かな雑踏だけ。

閑寂さが、妙に胸に染み入った。


何処か世間から隔絶されたような保健室の空気は、気持ち緩やかに時を刻んでいるように感じる。

胸奥の切なげな冷えに目を瞑れば、実に心地の良い時間だった。

背中が柔らかな布団の感覚に飢えて思わず寝転びそうになるが、身を包む制服を自覚してぐっと堪える。

時計を見れば、始業時間までそう間がなかった。


遅刻だけはしたくない。

体調不良はやむ無しとはいえ、故意に遅刻なんてするわけには行かない。

お母さんに相応しい『普通』の子なら、尚更の事だ。


閑寂さに置いてかれていた意識も戻り、私は心地良いベッドから逃れるように抜け出す。

乱れたシーツや布団を手短に整えて、窓際に備えられた机に書き置きを残して保健室を出る。


ドア越しだった喧騒は一気に増して、世界の時間も急加速する。朝特有のどことない焦燥感が背を焦がした。


登校した学生で賑わう廊下は、私にとっては茨道のようだった。

衆目も当然のようにこちらに向く。

だがそれは、昨日までと比べると幾らか落ち着いて見えた。



「……もしかして、佐々木さんがのが効いてるのかな……?」



私が人の視線を集めるのは、私自身が常に霊力をだだ漏れにしているからと佐々木さんは言っていた。

幼い頃からの私の罪。それが彼女の手でこうして僅かでも軽減されている事実に、息苦しさがほんの少し和らいだ気がした。


いっそ霊力なんて丸ごと無くなってしまえば、なんて思うのは流石に贅沢というものだろうか。


そんな事を考えて意識が思慮に向かっている内に、私は昨日と打って変わってするりと教室へと辿り着いていた。






・ ・ ・






教室に入ると、もう既にクラスメイトはおおよそが揃っていた。

皆、それぞれ思い思いに始業時間を待っている。


そんなクラスメイトの視線が、私が教室に入った瞬間、ぎらりと此方を捉えた。

思わず小さく悲鳴を上げてしまう。



「ねぇ宮本さんっ!学校来る時に一緒に居た子誰!?めっちゃ美人だったんだけど!」



「あの人とどういう関係!?つかどうしておんぶされてたの!?」



「ひぇっ……あっ……あっぁ、あの……えと……ぅ……」



クラスメイト達に雪崩かマシンガンのように詰め寄られ、説明を求められる。

佐々木さんは既に噂になっているようで、思えば廊下でも話題になっていたように思う。

確かに、あの風貌では当然の事だろうと納得する。


……というかおんぶ、とは。

ここに来て私の知らない情報が現れる。


まさか私は、通学路を佐々木さんに背負われて登校したのか。

ただでさえ多大な労力を要する通学という責務、そして今眼前に迫るコミュニケーションと言う重圧、そこに不意打ちのように妙な所から変な負荷がかけられてしまう。


会話、応対、おんぶ、授業、佐々木さん、宮本さん。


もう何を聞かれているのかも分からないくらいで、私の応対は見るに堪えないものだっただろう。

それでも尚尽きない質問責めにいよいよ三途の川を見ていた時────。



「貴方達!宮本さんが困ってるでしょう、ホームルームも始まるんですから席に戻りなさい」



「ほらほら!百音た……宮本さんが教室入れてないって!お前ら道空けなー」



東郷さんと寺田さんが、見かねて私を助けてくれる。

二人の一喝に我を取り戻したクラスメイト達は、申し訳無さそうに各々の居場所に戻って行った。

軽い謝罪と共に捌ける人の波。さながら海を割いたモーセの見た光景だった。



「っあ……ぁ、そのっ……ふ、ふたりとも……あり、がと……ござい、ます……」



「クラス委員長ですもの、当たり前の事よ」



「ま、まーこんくらい朝飯前っつーか!この前の詫びっつーか……ね!」



か細い声でなんとか感謝を述べると、二人は聞き取り辛かろう私の声にも明るく応えてくれる。


二人とも流石の人徳だ。

私ではクラスメイト達に声掛けなんてまず無理だし、言う事を聞いてもらうなんて天地がひっくり返っても無理だろう。



「えっと……ところでなんだけど……宮本さん?」



私が感嘆と安堵を覚えていると、東郷さんが柔らかい微笑みのまま、ずいと近づく。

その微笑みは見慣れていて安心できるモノのはずなのに、どうしてかそれが威圧感を纏っているように思えた。

迫ったその距離の近さと圧迫感に思わず身を引いてしまったが、それでも東郷さんは尚近い。



「噂……噂なんだけどね?宮本さんが今朝、誰かにおんぶされて登校したって聞いてね?……怒ってるわけじゃないの!宮本さんが身体の弱いことは熟知しているわ!そこは全く問題ないの!……ただ、その……そのおんぶをしていたおん……じ、女性は誰で、宮本さんとはどういう関係なのかって事がほんの少しだけ気になってね?他意は無いの!えぇ全く!ただその方が宮本さんの何なのかって言うのがクラス委員長としても把握しておきたいと言うか……!」



「あ……えと……あの……」



ころころと表情を変えながら、剣幕凄まじい怒涛の早口で私を責め立てる。

敵意は無く、私を慮って優しい口調と態度を崩さぬようにしてくれている。

しかしそれだけでは隠しようも無い、鬼気迫る威圧感を前に、私は呆気にとられていた。



「いいんちょ圧ヤバ……ま、まあしょーみガチ目に気になるけどさ、一旦席座ろっか、も……宮本さん」



「……ハッ!そ、そうね!もう予鈴も鳴るし……後でまた、お話聞かせてね?」



寺田さんの助け舟で私と東郷さんは我に返る。


東郷さんがこうも取り乱しているのは珍しい。よほど佐々木さんが気になるのだろう。


確かにあの美貌と身に纏う気品は、誰でも心惹かれるものなのは想像に難くない。

普段お世話になっているし、東郷さんが気になってるなら、私なりに後で佐々木さんを紹介してみようか。この下手な口と頭が回ればいいのだが。




そうこうしている内にチャイムが鳴る。

席を立っていたクラスメイト達がゆるゆると自席に収まってゆく。

私も寺田さんと東郷さんに導かれて自分の席に座った。



「皆おはよう、ホームルームを始めるぞ」



それから間もなく、担任教師が時間ぴったりにやってくる。

それまでざわめいていた教室も、区切ったようにしんと静まった。しかし浮き足立った空気は変わらずで、何処か皆落ち着かない様子だった。

私もその空気に当てられて、つい背筋が伸びてしまう。



「さて……突然だが、今日からこのクラスに新しい生徒が加わる事となった」



先生の言葉に、クラスの雰囲気が明らかに浮つく。


一ヶ月と少々が過ぎて、すっかり日常として馴染んだクラスに投げられる、転校生と言う名の一石。

それは退屈を嫌い祭事イベントを好む現代の学生にとって、格好の転換点だった。


皆が思い思いに転校生に思いを馳せる。

どんな人なのか、どんな性格なのか。

まだ見ぬ新たな学友を、今か今かと期待して待つ。


かく言う私は、ほぼ確信に近い予測を胸に抱いていた。

今朝告げられた衝撃の事実は、一度気絶したくらいでは忘れられない。




でも、まさか。

同じ学年で、同じクラスだなんて。




逸る教室の空気に当てられた胸騒ぎだけじゃない。

驚きと喜び、そして安堵が混沌となった感情が、心臓から飛び出そうと跳ね回っている。


ついさっき見たはずの顔なのに、ドアの向こうに居るだろう佐々木さんを思うと、その顔が見たくて仕方なくなった。



「では……よし、入っていいぞ」



先生の呼びかけと共に、ドアが滑車に乗って開く。

開いたドアと廊下の隙間から、深夜の寒空のような透き通った夜色をはためかせてやって来た。


その艶髪は午前の溌剌とした日差しを反射して、たおやかな星空のように美しく輝く。

淀み一つないまっさらな白い肌と、胸元緩く腕で捲った長袖シャツの色気、危うげなまでに短いスカートや首元から覗くチョーカーやレッグリングの背徳感。

そして何より、それら全てが単なる添え物であると見た瞬間に理解できるほど、浮き世離れしたその美しい相貌と金の双眸。


静かに騒がしかった教室は、誰が示し合わせたわけでもなく静まり返った。


まるで偉人か有名人を見るような視線の雨、それに物怖じする様子も無く、佐々木さんは澄まし顔で呆けるクラスを見渡した。



「今日からここ、一年A組に編入する佐々木希咲君だ……による突然の転校で色々戸惑っているだろうから、皆サポートしてやるように」



先生の紹介を背に、佐々木さんは黒板に名前を書く。綺麗な字だ。

書道家のような緩急と止め、跳ね、払いがしっかりとした文字。

何処か古風にも感じる字体で、今まで感じていた佐々木さんの印象とはまた違った雰囲気を感じる。


書き終わるのと同時に、彼女はその夜色の髪をふわりと回して再びクラス全体を見下ろす。

甘い爽やかなハーデンベルギアの香りが風に乗って私の元まで届いていた。



「佐々木希咲……あー、よろしく」



「席は一番後ろ、宮本君の隣だ……分からないことがあれば遠慮せずに回りに聞くといい」



先生の案内に従い、クラスメイトの隙間をランウェイのようにすらりと抜ける。

注がれる視線も何処吹く風、堂々とした風格であっという間に私の隣にやって来た。


ここで私は、自分の隣に空席がある事に初めて気付いた。

胸中に膨れ上がる驚き、そして不安。


こんなに、こんなに都合がいい事があっても良いのか。


佐々木さんが同じ学校、同じ学年、同じクラス、そして隣の席。

当惑の中、佐々木さんを見上げていると、不意に視線がぱちりと交わる。


すると佐々木さんはゆったりと微笑んで、座る私に併せるように身を屈めた。

急接近して来た佐々木さんの顔に、私は思わず後ずさる。


しかしそれは逃さないと言わんばかりに、私の頬と触れ合うほどの距離まで顔を寄せて来る。


クラスメイトがどよめいた。

佐々木さんの香りが、息遣いが五感を震わせる。

昨晩を思い出して、急速に身体が熱を発する。



「よろしくね」



「っ……!?」



そう言って、頬に柔らかなものを押し付けて自席に翻る。

跳ねるようなリップ音。跡を残す湿り気。


一瞬の沈黙の後、雪崩のように黄色い歓声が溢れ出した。



「ちょッ……きさッ……!?宮本さんに何をッ……!?」



「オアアアア────ッ!」



美宗みひろんが脳破壊されて倒れた!」



「破壊されるほどの関係性も無いだろ!」



「えっ!?転校生と宮本さんってどういう関係!?」



「一緒に登校してたのってやっぱり……!」



それが唇だと理解が及んだのは、喧騒飛び交う教室を尻目に澄ました顔で席に着いた佐々木さんを見やった後の事だった。


私は、今後の学校生活を危惧しながら、渦中の火元の横顔を見つめるしか出来なかった。






・ ・ ・






時計の短信が六を指し、空が次第に夜を誘う放課後。

学徒達の賑わいも鳴りを潜め、朱く染まった校舎は眠るように静まり返っていた。


夕焼けと暗影のコントラストが、あたかも深い闇へ続く穴のように飾り付ける廊下を、一人の学生が不安げに歩く。

放課後の学校は何故こうも恐ろしいのか、そう恨めしげに考えながら、普段の倍は長く感じる廊下に辟易する。


校内には信頼できる教師や用務員が居る。

そう分かっていても、この冥い回廊が如き雰囲気はあたかも、自分一人だけがこの空間に閉じ込められたのではないか、という錯覚に陥らせて来る。




不意に、妙な音がした。

文化の象徴たる学舎に相応しくない奇妙な音が。




それは羽撃きだった。何か小さい生物の、忙しない羽撃き。

ぱたぱた、そう例えるのが適切な、ともすれば可愛らしい音。


それが、次第に、数を増す。




ぱたぱた、ぱたたぱたた、ぱたぱたぱたぱたぱぱぱぱぱぱぱぱ。




明らかに異常な音。何処からか聞こえてきていたはずの音が、気が付けば前後左右あらゆる所から聞こえてくる。


危険だ。危険しかない。

学生は駆ける。目的など忘れて、出口へ。

羽撃きは止まず、寧ろその勢いは増すばかり。




ばたばたば。ばたばたばたばた。ばばばばばばばば。




爆竹が鳴り響くような空気の破裂音。走れども走れども、その音は止まない。

しかしそれでも、漸く学生は玄関を見る。

ああやった。後は出るだけだ。内履きなど気にしてる暇もない。このまま走って、出て行って、家に帰って、明日は学校を休もう。だから早く。早く。なのに、どうして。




学生の足は駆けている。だがその歩みが進むことは無い。

しゃかりきに藻掻いても、何も報われることは無い。




学生は羽撃きの中気付く。


自身が宙に浮いている事。


羽撃きの正体が『蝙蝠』であった事。


そしてその目的が、自らのであった事を、その首筋に感じる冷たい気配と生暖かい吐息に感じ、そして。






その首筋に突き立てられた牙の鋭さが、学生の感じた最後の感覚だった。






────Information────


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