琥珀色の夜
SASAKI J 優
第1話
午後五時。
白夜の街は、沈まぬ太陽に照らされて、不思議な蒼に包まれていた。
ヒルトンの最上階ラウンジ。
磨き抜かれたテーブルの上に、ふたつのカクテルグラスが揺れている。
琥珀のリキュールに、金箔を浮かべた“セレスティアル・ロマンス”。
この日のために用意された、特別なレシピ。
私は先に着いていた。
あの子が来るのを、ずっと待っていた。
「……xxちゃん」
現れた彼女は、まるで別人のようだった。
画面越しで見ていた愛らしい顔は、そのままに。
でも、そこには違う艶が宿っていた。
輪郭を整え、肌を磨き、睫毛の一本にまで覚悟を込めた、戦う女の顔だった。
「姫……ほんとに……来てくれたんだ……!」
x xちゃんは駆け寄り、抱きつくなり、そのまま私の頬にキスを落とした。
リップは高級ブランドの限定色。香りは軽やかなローズとバニラ。
私は悟った。
彼女が今日までの数年間、ファンビジネスという名の狩り場で稼いだ金のすべてを、この日のために費やしたのだと。
「今日、絶対に、あなたにふさわしくなりたかったの」
xxちゃんの声は、震えていた。
「誰かの推し、なんかじゃなくて――
“姫のもの”として、生まれ変わりたかったの」
グラスを交わし、乾杯する。
この一滴でさえ、彼女の努力と覚悟の結晶だった。
「愛してる、xxちゃん」
「わたしも……ずっと、あなたのためだけに、生きてきた」
白夜のヒルトンで、ふたりの時間が動き出す。
それは、永遠の旅の始まりだった。
第二章:贖罪と祝福の晩餐
ラウンジから案内されたのは、プライベートダイニング。
窓の外には白夜の空、遥か遠くの山並みに淡い陽がにじんでいる。
「今日は、わたしが選んだの。あなたに食べてほしくて」
そう言って微笑むx xちゃんの指先は、すでにメニューの先を知っている。
前菜には、真珠貝に詰めたフォアグラのパルフェ。
フランス南西部産のフォアグラを、ジャスミン茶と紹興酒のジュレで軽く閉じ込めたもの。
舌に触れた瞬間、甘やかで深い香りが広がり、軽く目を閉じてしまう。
「それ……中国の宮廷料理をアレンジしてもらったの。
舌に残るの、わたしの国の記憶」
メインは、黒毛和牛フィレ肉のポワレ、タマリンドソース。
東南アジアの酸味をまとったタマリンドに、バルサミコと蜂蜜を加えた濃密なソースが、
ナイフを入れた瞬間に香り立つ赤身と重なり、体の奥をゆるやかに熱くする。
「……これ、反則だわ」
私が漏らすと、xxちゃんは小さく笑う。
その横顔に、複数の国と、幾つもの夜を越えてきた艶が差していた。
口直しは、柚子とベルガモットのソルベ。
その後に続いたのは、トリュフと金粉をあしらったオマール海老のスチーム 蒸篭仕立て。
蒸気の中から立ち上る香りは、まるで聖地の香炉から立つ煙のようだった。
グラスの中には、**ローズリキュールとライチ、ベルモットを合わせた“百夜の吐息”**と名付けられたカクテル。
一口ごとに舌がほどけ、理性がとろけ、気づけば、ふたりの会話も目線も、静かな火を孕みはじめていた。
「……姫。もっと、知って」
xxちゃんが囁く。
その声には、まるで神殿で祈る巫女のような、崇高な熱が宿っていた。
この晩餐は――
食の悦びを超えた、魂の準備儀式だった。
第三章:星と蜜の語らい
スイートルームのドアが閉まる音が、やけに静かに響いた。
絹のような絨毯に足を踏み入れると、すでにソファには、ターンダウンされたクッションと、
窓際に用意されたナイトキャップ――
琥珀色のリキュールが並んでいた。
「この景色……夢みたい」
xxちゃんは、カーテンの隙間から街を見下ろしながら呟いた。
彼女の背中には、豪奢なドレスのリボンが揺れていたが、
その姿さえも、今はどこか無防備で、儚げだった。
「もう、お仕事の顔しなくていいんだよ」
私はそっと後ろから抱きしめる。
彼女の体は、思ったよりも細くて、温かかった。
「……姫の前では、最初からずっと、わたし、素だったよ」
小さな声。
それを包み込むように、私は頬を寄せる。
グラスを持ち、ふたりで窓際のソファに座る。
夜景はまだ明るい。白夜のせいなのか、ふたりの瞳が潤んでいるせいなのか。
「子どものころね、ほんとはアイドルになんてなりたくなかったの」
「うん」
「でも、逃げたら、誰にも会えない気がして……誰にも、好きになってもらえない気がして……」
「それで、あんなに頑張ってきたんだ」
「……でも、今、隣にあなたがいるって思ったら、もう、全部……報われたって思えたの」
私は言葉の代わりに、彼女の手を取った。
指先は少しだけ震えていたけど、それを包んだ掌の温度は、しっかりと伝わってきた。
「今夜はね……ただ隣にいてほしいの」
「うん。ずっと、いるよ」
「おしゃべりして、笑って、甘えて、眠るまで――ね?」
それからふたりは、ソファで丸くなりながら、
名前の呼び方から、子どものころの夢、初恋の話、そして
「本当はずっと、誰かに愛されたかった」という小さな願いまで話し尽くした。
カーテンの隙間から差し込む、街の光が、彼女の睫毛を照らす。
まるで星屑がまぶたに舞い降りたみたいだった。
「おやすみ、xxちゃん」
「おやすみ……姫」
眠りに落ちる直前、
彼女の小さな囁きが聞こえた。
「この夜は、わたしの一生の宝物だよ――」
第四章:朝のバスルーム、裸の語らい
夜の白がゆっくりと薄まり、部屋のカーテン越しに柔らかな朝が差し込んでいた。
まだ夢の輪郭が残る中、xxちゃんの指先が私の頬に触れる。
「……おはよう、姫」
囁きは、まるでバスソルトのように心に溶ける。
そのままふたりは、言葉もなくバスルームへ向かう。
広々としたバスルームには、ガラス張りのシャワーブースと大理石のジャグジー。
香り高いアロマが蒸気とともに立ち上り、どこか異国のスパに迷い込んだようだった。
バスローブを脱ぐ動作すら、xxちゃんは一片の躊躇もなく、自然だった。
それは“隠す必要がない”という信頼の証であり、
むしろ“この一瞬の朝を刻みたい”という、彼女なりの祈りだったのかもしれない。
「姫、こっち来て……」
手招きされたジャグジーの中は、微かなバラの香りと、ラベンダーの泡に包まれていた。
「こうして一緒にお風呂、入るなんて……現実なんだよね?」
「うん、現実。夢じゃないよ」
ふたりの脚が
バスルームの扉を閉めたその瞬間、
空気が変わった。
濡れた髪から一筋の雫が落ちるたび、
ジャグジーで温められた体が、今度はふたりの間にある熱に反応していく。
白いベッドリネンの上。
xxちゃんがバスローブをそっと脱ぐ。
一糸まとわぬその姿は、どこか神聖で、どこか危うくて、
まるで朝の女神が、いま目の前に降りてきたかのようだった。
「こっち、来て……」
指先が私の手を引く。
肌と肌が重なり合った瞬間、世界がふたりだけになる。
「……昨夜は、夢だったみたいで」
「なら、もう一度、夢を見ようか」
ふたりの唇が重なり、
そのまま時間の感覚は、ゆっくりとほどけていった。
最初のキスは、ただの確かめあい。
次のキスは、夜をなぞるように。
三つ目のキスで、ふたりの間に境界は消えた。
指先が髪をなで、肩をなぞり、腰を抱く。
「きれいだよ」
「……言いすぎ」
「ほんとうだよ。ぜんぶ、きれい」
愛撫というにはあまりに優しくて、
抱擁というにはあまりに深い、ふたりだけの交わり。
痛みも、罪も、名声も、役割も、
すべてがこの白いシーツの中では意味を持たなかった。
あったのは、
「あなたに愛されている」という、たったひとつの確信。
――ゆるやかに、ふたりの体が波を描く。
「もっと、わたしのこと……好きになって」
「なってる。今も、もっとずっと」
「わたし、もう他の誰にも、こんなふうに……見せられない」
窓の外では、朝の光が少しずつ部屋を染めていく。
でも、それでもふたりは、ベッドの中の小さな宇宙で、
何度もキスを交わした。
何度も名前を呼び合った。
何度も、抱きしめあった。
「xxちゃん、ずっと、ここにいて」
「……姫が、わたしを望んでくれる限り」
「永遠に、ね」
「永遠なんて、信じてなかった」
「でも、今だけは、信じてもいい?」
「もちろん。永遠に、信じさせてあげる」
ふたりは目を閉じたまま、
もう一度、ゆっくりと重なっていった。
第六章:名残の調べ、永遠の約束
三日三晩。
それは“愛し合う”という行為の輪郭が、単なる身体の交わりを越えて、
魂の深いところまで沈んでいった時間だった。
時間という概念すら曖昧になったスイートルームの中で、
ふたりはただ、互いを求め、与え、繋がり続けていた。
ルームサービスのチャイムが響くたびに、
シャンパンとキャビア、軽く炙られたオマール、ベリーとクリームのプレートが運ばれてくる。
シルバートレイの上で咲く料理たちも、ふたりの逢瀬を静かに祝福していた。
窓の外に移ろう昼と夜。
そのリズムさえ、もはや関係なかった。
xxちゃんは、すっかりすっぴんでも隠そうとしなかった。
私は、眠そうな彼女の髪を梳くことが、世界で一番幸せな時間だと知った。
三日目の朝。
ふたりは静かにベッドに座り、
寄り添ったまま、窓の外の朝焼けを眺めていた。
「姫……そろそろ、行かないと……」
「わかってる。でも……もう少しだけ」
その“もう少し”は、やがて“最後のモーニングディナー”に変わる。
ふたりはゆっくりと身支度を整え、
エレベーターで最上階のレストランへと向かう。
――そして、その空間に流れるのは、生のバンド演奏。
オーダーしていたのは、
ねねちゃんの好きなジャズの名曲。
《Fly Me to the Moon》。
まるで別れを演出するために生まれたかのような、切ないメロディ。
席につくと、ふたりは言葉少なに朝食を味わう。
真珠のように並んだカットフルーツ、
湯気を立てる卵料理、クロワッサンとバター、きらめくミモザ。
でも、その味さえ――
彼女の唇に残るぬくもりには勝てなかった。
「また、会える?」
「もちろん。絶対、また会いに行く」
「それって“好き”ってこと?」
「“好き”じゃ足りない。“ずっと一緒にいたい”ってこと」
ねねちゃんは笑いながら、でも少し目を潤ませて、
テーブルの下でそっと私の手を握った。
ふたりの時間が、ここで終わるのではなく、
新しい始まりのための“間”になることを、
誰よりも信じていたのは、彼女だった。
そして、演奏が終わる頃。
ねねちゃんは一枚のリップのついた封筒を私の手に残し、
最後に、唇に柔らかいキスを落とした。
「忘れないで。わたしは、あなたの“姫”だから」
『午前十時、別れの余韻』
タクシーのドアが開く音がした。
静かすぎる朝のロビー。
グランドピアノも、もう誰も弾いていない。
絨毯の上の足音だけが、記憶を刻む。
彼女のスーツケースは軽やかに転がる。
けれど、私の心は――まだ、あのベッドに残っていた。
「忙しいから」
その言葉に偽りはない。
そう、知っている。
けれど、私はきっと――
永遠に忙しくない“姫”として、
今だけは、世界で最も立ち尽くした存在だった。
ルブタンのヒールがひとつ、またひとつ、距離を作る。
エントランスのガラス扉が開いた瞬間、
朝の光が眩しくて、
私は思わず目を細めた。
まるで「現実」が、そこに広がっているかのようで。
まるで「夢」が、扉の内側に置き去りにされるかのようで。
――彼女が振り返る。
一秒にも満たないその仕草に、
すべてが込められていた。
ありがとう
またね
好きだった
もう行かなきゃ
でも忘れないで
あなたはわたしの姫だった
たしかに、そうだった
タクシーがゆっくりと、朝の街に消えてゆく。
手を振らなかったのは、
泣きたくなかったから。
その瞬間、
私は胸の奥に、
“別れ”という名の王冠を戴いた。
『送信済み:また逢えるよね?』
ロビーの大理石に反射する朝日。
タクシーの赤い尾灯が、角を曲がって消えていった瞬間、
私の手はもうスマホを取り出していた。
「また逢えるよね?」
打ったあと、消そうか迷った。
でも、消したら何も伝わらない。
姫であっても、
愛しさには勝てないときがある。
送信――。
…既読はすぐについた。
でも、返信は来ない。
彼女は今きっと、空港へ向かう道の途中。
次の配信のことを考えてるかもしれない。
スタッフとのやりとり、スケジュール調整、メイクの準備――
私の「また逢えるよね?」が届くには、
世界があまりにも喧しい。
でも、いいの。
送ったことが、大事だった。
私の中の「姫」は、
何も持たず、ただ真っ直ぐに、
“もう一度”を願うことができた。
琥珀色の夜 SASAKI J 優 @teinei016
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